実は大正生まれの由緒ある県道だった。
帰宅後の毎度お馴染み机上調査であるが、今回も「角川日本地名大辞典」が大活躍した。「福井県」版(平成元年)に「ウツロギ峠」が登録されている。
無駄な部分が全く無いので、全文を転載したい。
ウロロギ峠ともいう。敦賀市五幡から同市田尻に至る峠。標高約170m。峠名の由来は不明。敦賀湾東岸と木ノ芽道を結ぶ道が通る。古くは五幡で産した塩と今庄の酒が相互に運ばれた。JR北陸本線の開通後は五幡から新保駅へ向かう道として利用され、大正期には県道五幡新保停車場線として整備された。北陸トンネル開通後は五幡の住民が田尻側の田畑の耕作に利用するだけである。県道を改修し、国道8号の渋滞を緩和するバイパスとする計画が進行中である。
短い文章だが、知りたい事ばかりが的確に書かれていて恐れ入る。
内容順に補足説明を試みたい。
まず、峠名の由来について本書は不明としているが、wikipediaの「ウツロギ峠」の請うの説明文には、「峠附近にかつて杉の大木があり、大きな洞が開いており、その様を「空ろ木」と呼んだことからその名がついたという伝承がある
」とあった。別名として挙げているウロロギ峠となると、皆目見当が付かない。強いていえば、北陸地方でオロロと呼ぶアブの一種と関わりあるか。
峠道の利用実態の変遷について、「古くは五幡で産した塩と今庄の酒が相互に運ばれた
」とあるが、同書の「五幡」の説明文によると、当地では敦賀郡内で最後となる明治40(1907)年まで製塩が行われていたという。
そして、次の記述「大正期には県道五幡新保停車場線として整備された
」には、特に興奮を覚えた。
県の資料では、この県道の認定は昭和35(1960)年となっていたが、これはあくまで現行道路法下における県道認定だったのだ。(こちらの記述によると、福井県における現行道路法下の第一次県道認定時に、本県道は認定を受けている)
しかも、大正時代に県道として認定された路線名が、現在まで1文字も変わっていない。これもなかなか珍しいことであり、しぶとい!
(大正時代の県道認定についての他の記録を探してみたが、はっきり路線名の出ているものは、見つからなかった。
だが、大正4(1915)年と5年と7年にそれぞれ敦賀郡が発行している「要覧」を見較べると、4年と5年の郡内の県道総延長は変わらないが、7年には一気に150町(約16km)増えており、かつ新保駅の開設が大正5(1916)年であることに照らせば、この時期に認定された可能性がある。ただし、大正8年に旧道路法が制定されたため、それまでの県道の認定は一旦白紙に戻されたはずである。)
右図は、昭和26(1951)年と明治42(1909)年の古地形図の比較であるが、本書の記述によれば、昭和26年当時には既に県道五幡新保停車場線として認定されていたとのことである。ただし地形図では里道(連路)として表現されている。
関係する路線である現在の国道8号や国道476号についても、当時の路線名を記述した(明治42年版も同じ)。
明治42年当時も北陸本線は通じていたが、新保駅はまだなく、ウツロギ峠の道は「小径」としてか細く描かれているのみだ(峠名の注記も無い)。
今回探索した五幡集落から峠までの狭い道も、鋪装を除けば、大正時代に県道として整備された当時の道路風景をかなり残している可能性がある。
さらに調べてみると、明治や大正どころでは無く、一気に12世紀以上飛んだ大昔。古代から平安時代の初期にかけて、官道としての「北陸道」(五畿七道のひとつ)が、このウツロギ峠付近(或いはウツロギ峠そのもの)を通行していた可能性が高いらしいことが分かった。(参考サイト:「街道の風景」)
大化の改新を契機に定められた最初期の「北陸道」は、田尻から五幡を通り、中山峠付近(帰山(かえるやま)や五幡の坂などと呼ばれた)で木ノ芽山地を越えて今庄方面へ通じていたという。
それが平安初期の天長7(830)年までに木ノ芽峠を越える新道が開削され、新たな官道になったという。
この事実を裏付けるように、「いつはた」の地名は北陸道の歌枕として好まれ、奈良時代以降、多くの和歌に詠まれて残っている。(例1、例2)
こうなると、ウツロギ峠などという変わった名前にも“万葉の浪漫”を探したくなるのが人情だ。事実、そういう需要もあって、今だ峠道の方々にある地蔵の手向けが絶えないのではないかと思ったりもするが、今回の調査ではこの峠の名を明治以前の記録から見出すことは出来なかった。せいぜい大正時代からである。
いやはや、小さな峠と侮るなかれである。
こんな弱小県道が、今日の国道8号の偉大なるご先祖様「北陸道」だった可能性が、あるってんだからな。
でも、国道8号の渋滞を緩和するバイパスとして“復活”させる計画の方は、なかなか、なかなかなようで……ヘェ。