隧道レポート 旧山古志村の東隧道 後編

所在地 新潟県長岡市
探索日 2011.5.16
公開日 2011.5.26

東隧道の東側坑口を探しに行く


2011/5/16 13:17 

約10分、往復200mほどの隧道探索は、閉塞壁の裏側に心を残しつつもとりあえず終了。
春のオーラに満ちた地上に戻った私は、近くの民家でぜんまいを揉んでいる(山古志ではぜんまい揉みが流行ってる?!)ご婦人に、さっそく取材する。
ここで聞きたかったことは、ひとつだけ。

「この隧道は、いつ崩れてしまったんですか?」

そして得た、明確すぎる答え。
この地での廃道探索を志した時点で、いつかは言われると思った答え。

「地震で崩れたままなのよ」。

名前や時期を付けずただ“地震”というところに、山古志の人々が7年経った今もまだ震後を生きているという感を持った。
それはさておき、あの閉塞壁は地震の被害だったことが判明。

そうか、そうですか… 崩れるんだね、やっぱ…。
…自説(地震時に隧道は意外に安全では?)も、考え直すときが来ているのかも知れないな…。



ご婦人には、隧道の反対側の坑口がどこにあったのかも聞いてみたのだが、“山の反対側だ”ということだけで明確な位置は分からなかった。

右の地図を見て欲しい。
現在、梶金集落から東川に向かって、山古志村道28号線が峠を越えて通じている。
この道は前日の探索でも通行しているのだが、意識して探していたわけではないとはいえ、隧道らしいものは見ていない。

ということは、沿道ではない場所に隧道の出口があるのだろうか?




梶金集落のすぐ裏手、20mほど高い所にある鞍部。
そこを村道28号線が抜けている。
道は新しそうだが、地形的に見れば古くからの通路であったろう。

そして切り通しを抜けると、景色は一変する。




峠の海抜は約240mだが、その東側には東(あずま)川の谷が深く切れ込んでいる。
谷底の海抜が約140mなので、おおよそ100mの比高があることになる。

そして村道28号線は、豪快な九十九折りで斜面を駆け下り、
東川を東川橋で渡って対岸木籠(こごも)地区へ向かっている。

この右手に落ち込む急斜面のどこかに、東隧道のまだ見ぬ東口はあるのだ。




昨日は通行量がほとんど無いことを良いことに好き放題ぶっ飛ばしたダウンヒルだが、今日は脇目をキョロキョロさせながら、じっくりと下っていく。

そして、峠の頂上から300mほど下っていった2度目の切り返しカーブ付近が疑わしいと思っていたのだが、まさにいまその場所に到着した。

《現在地》

カーブの外側に広がる枯れ草の斜面に、普通の人が向ける必要のないトレジャーハンターの視線を向ける。
目で射抜く。
山菜採りだってここまで真剣じゃないだろう。 タブン。





どんぴしゃ!
キタコレ穴。

しかし、なかなか奇抜な所に口を開けてやがるぜ。

これではご婦人も、場所を説明しづらいわけだ。
なんという特徴もない、ただの山腹にぽっかりと口を開けているのだから。

車の通る廃隧道ならば車道の廃道を辿っていけば着ける訳だが、人道隧道ではそうはいかない。
ほんと今回は春先という季節に助けられてスンナリ見つかったが、草が茂り出せば、どうやっても村道からは見えなくなるだろう。




なんか、見るからに崩れていそうな雰囲気だ…。

先ほどの西口と同じようにコルゲートパイプが坑門代わりになっているが、側面を担当するコンクリートの壁は、明らかに傾いている。
そこまで見に行かずとも、崩れた土圧で内側に押し倒されている様子が、手に取るように分かる。

そもそも、既に閉塞は確定しているわけだから、こうして坑口の位置が特定出来たことで成果は十分であり、これ以上の接近に意味があるのかどうかという。
そういう問題がある。

もちろん、簡単に辿り着けるのならば四の五のいわずに見に行くわけだが、手前にはかなり大きなガリーのような崩壊地が見えており、藪の浅い今でさえ、接近には苦労しそうなのだ。

…どーしよーかな。




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発見した東口へ近付く!


13:28

なんてな。

ここでコストパフォーマンスを考えて引くようになっちゃ、俺も終わりってもんで。
そこに1mでも未知の隧道と新たな眺めがあるならば、万難を蹴ってでも近付くのである!

というわけだから、まずは安全な路上から保証なき路外への逸脱をする。
さすれば、路外にもまたアスファルトが敷かれているという、意外な光景に遭遇!
これはいったいなんだ?

明らかに車道の路面だが、現道とは微妙に高さがずれており、線形改良による旧道?
しかし、こんなカーブの突端部にあるなんて不自然。




道が、ブツ切り!

この状況を見てはじめて、この場所で何が起きたのかということに考えが至った。 …恐ろしいことが起きていた。

地震が起きるまでは、この路面が村道28号線だったのだろう。
それが、カーブの外側部分の推定30m以上が谷に落ち、完全に道の体を失っている。

もしかしたら、目の前の谷全体が地震で大きく姿を変えているのかも知れない。
東隧道の東口に続く道がまったく見あたらない不自然さは、そんな“大変動”を想定しないと説明しがたい。
隧道が廃止されたのはわずか7年前であり、歩道とはいえ道形が消えるにはあまりにも短い時間だ。




現在接近中!

枯れススキの斜面には、やはり道らしいものは何も無い。
そしてちょうど隧道がある高さを境にして上は灌木帯になっており、下は一面の枯れススキだ。
この違いは地震による崩壊斜面と、本来の山腹の違いなのだろうか。

いずれにせよ、ここは見た目よりも危険な斜面だ。
というのも、枯れススキの斜面は氷の上のようにツルツルだった。
乾いた枯れススキが、こんなにグリップが無いものだとは!
私は何度となく足を取られ、必死に手を付いて踏ん張る羽目になった。



更にこれがある。

遠目に見た時にも、最大の難所になりそうだと思ったガリーだ。

ここばかりはススキさえも生えず、乾いた土がすり鉢状の崩壊斜面を形成していた。
写真だと簡単に横断できそうだが、実際には背丈よりも深いものであり、入り込むと対岸によじ登れる保証がない!

結局、これまで枯れススキに足を取られながらも死守してきた水平移動を諦め、いったんいくらか平らな場所まで下ってから、対岸をよじ登る事にした。
汗が出る。




よじ登り中!

このすぐ真上に、隧道がさっきまで見えていた。

しかし、今はまったく見えない。

見えないが、さっきまで見えていた位置を信じて、よじ登る。

ガリーの周辺以外は枯れススキが密に斜面を覆っているので、とてもよじ登る事は出来ない。
この滑りやすさは、圧雪の上に匹敵する。


汗が出る!






そして、 辿り着く!!





東隧道 東口。


もう、まるっきり人のオーラを感じない。

ただの原野に取り残された、前世代の遺跡のよう。

姿だけはそれなりに今風なのが、余計に異様な感じではないだろうか。


さ、さあ! 入洞だ!




13:32 《現在地》 

うげぇ…。

こいつは、初っぱなからきつい姿だな…。

今にも両側からぺちゃんこに潰されそうだが、
コルゲートパイプが独り頑張り続けている。

…もう通る人なんて無いのに…ね。


それでは、“黒い部分”へ行ってみよう。

そこからが本当の地中。 隧道内部だ。





…死んでます。

これ以上はどうやっても進めない。

おそらくは、この茶色い土砂の裏側が【水没閉塞壁】なのだろう。
この土砂の色と同じだった。

それにしても、こうして見える限りにおいては、あれだけ裏側に溜まっていた水がこちら側に漏れ出してきている様子はない。
それでも水位が一定に保たれているということは、少しずつ地中に逃れているということなんだろう。
地下独特の冷気は、ここにもふんわりと漂っていた。

この隧道の落盤は地震によって引き起こされたとのことだが、とにかくこの東口一帯の地盤はズタズタに破壊されたようだ。




完全にダメになってしまった隧道から、外へ戻る。

昭和10年に生まれ、それから約70年間…7年前の地震前までは通ることが出来たという隧道なのだが、ご覧のように現状は酷い。

おそらく車社会になった最近では、通れるとは言っても、実際にはあまり使われていなかったことだろう。
それに後述するように、この隧道の最大の利用者は居なくなって久しかった。
でもコルゲートパイプなどは、そんなに古い補修ではない。
最後まで、ちゃんと愛されていたのだと思う。

なお、地震によって村道28号線も完全に崩壊した(地形図は同線を未だ「工事中」として描いているうえに、東川を渡る橋は描かれていない)が、あちらは現在立派に復旧されている。
しかしこの東隧道の命運は、完全に尽きたようである。




東口の前には、畳1枚分くらいの平場しかない。
その周囲は全て枯れススキの斜面であり、いったい隧道を抜けた道はどこへ向かっていたのか、痕跡がまったく見られない。

だが、わざわざ隧道で山を越えたのだから、それが進みたい方向はひとつしかないだろう。

崩壊した谷底へ向けて、道は伸びていたのだ。
そして、突き当たるのは東川である。
川を渡り、対岸にある木籠地区へ向かっていたのだと思う。
村道28号線と同じである。





村道28号線に戻り、東川の谷底へ向けて少し下ったところから、隧道を振り返って撮影。

写真中央付近に小さく坑門が見えているが、ちょうど峠の鞍部直下に掘られていることが分かる。

洞内がこちらへむけ、一方的な急な下り坂になっていたのも、この地形を見ると納得できる気がする。
多少隧道の長さが増すことになっても、東口の高度を出来るだけ下げないと急な山腹に飛び出る事になってしまい、外の道路作設が難しくなるだけでなく、何より雪崩の危険を避けたかったのだろう。

昔の道は、どんな奇妙な形であっても突き詰めれば意味がある。
そう信じている。




《現在地》 

そしてこれが、東川を渡る橋の様子だ。
橋の名前は東川橋で、平成21年の竣工となっている。

東川は橋の下で流れをほとんど失っており、まるで水の少ないダム湖のような状態になっている。
実はこれが中越地震で山古志一帯に大きな被害を出した、天然ダムの姿だった。

大量の土砂崩れによって堰き止められた川は、結局時間とともに元に戻るということもなく、或いは敢えてそのまま安定させる治水工事が施されたので、村内随所の河床地形が一変してしまった。
ここにあった旧橋は橋台さえも残さず埋没してしまったようだ。
当然、東隧道に連なる道が川を渡っていた地点も、痕跡がまるで無くなっていて特定が出来ない。

地震は、オブローディングの成果品までも、根こそぎ奪ってしまったようだ。