現地情報を頼りに捜索した東隧道は、変り種の隧道であった。
その最大の特徴は、高さ1.8m幅1.8mという大人2人が並んで通行するのがやっとという狭さと洞内の急勾配であり、いずれも「車道ではない」ことに集約されている。
「車道ではない」こと自体が隧道としてはかなり珍しいのであり、そもそも「なぜ車道にしなかったのか」という疑問を与える。
だがこの疑問には、隧道の場所を教えてくれた小松倉集落の古老が答えてくれた。
そしてその答えこそ、隧道の存在意義そのものだった。
右の地図を見て貰いたいが、この隧道は梶金と木籠という二つの集落を結ぶ比高100mほどの峠に掘られている。
正直現在の地図を見る限りだと、南の川沿いに幹線道路があるので、わざわざ峠に隧道を掘る理由が見えてこない。
仮に道がこれ1本しかないとしても、車道ではない134mばかりの隧道に、峠越えに対するどれだけの有利があるのかと疑いたくなる。
だが、この隧道も有名な「中山隧道」と同じで、村民自らが手堀りで建設した隧道なのである。
そこには日々の生活をしていく上でどうしても隧道を掘りたくなるような、現在の地図からは読み取れない何らかの存在意義があったと見るべき。
乱暴な表現だが、地元を真に理解しない政治家が票集めのために“上から授けた”道や隧道とは根本的に違うはず。
古老が教えてくれた“建設理由=存在意義”は、まもなくお伝えする。
だがその前にもうひとつ、古老にとっては当たり前すぎるせいで口にしなかったと思える、この土地ならではの重要な意義があると考える。
要するに、この隧道には2つの存在意義があったと思う。
それを先に述べる。
「 これは、“雪中隧道”であったに違いない。 」
トンネルをその建設の目的から分類したとき、“雪中隧道”という1つのジャンルが存在する。
当サイトで採り上げたものの中だと、富山県旧利賀(とが)村の栃折峠に掘られている栃折隧道がまさにそれだった。
栃折隧道は昭和34年というかなり後の時期に、既に自動車の通る峠に掘られた人道専用の隧道である。
目的は、冬期の積雪時に峠の車両交通が完全に不通になるので、徒歩による村外への買い出しや郵便配達の為に利用されていた。
これが典型的な雪中隧道であり、原則的に車両交通が困難な冬期間に徒歩で利用するものである。
そのためサイズは人道用がほとんどで、別に車道があっても建設されることがある。
今回の東隧道の条件は、利賀村に匹敵する山古志村の積雪条件を考えると、雪中隧道の条件にばっちり符合する。
なお、中山隧道の建設でも雪中隧道的な効果が大いに期待されたが、高い峠越えを回避したいという目的も強く、かつ当初から車両交通が目論まれていたので、純粋な雪中隧道ではないと思う。
さて、東隧道の豪雪地における一般的といえる存在意義を述べたが、
古老の語る“もうひとつの理由”については、これまで私の興味の外にあったことであり、全然予想していなかった。
そ れ は、
「 東隧道は、通学路として村の大人たちが掘った。 」
というものだった。
隧道とセットで、学校があったのだ。
もちろん、現在は跡形も無い。
確かにかつて梶金と木籠集落の中間付近にポツンと学校があったことが、歴代の地形図でも確認できた。
おそらく学校の名前は、東竹沢小学校。←梶木小学校であったことが判明しました。詳しくは「七曲隧道編」にて。
隧道は描かれていないが、位置的には【ここ】である。
まず、隧道が建設される直前の昭和6年の地形図。
当時は現在の国道や県道が通っている川沿いの道が存在せず、梶金と木籠を結ぶ峠越えが、村内の主要ルートであったことが分かる。
梶金には役場の記号が描かれており、ここが東竹沢村の役場所在地だった。
なお、右下の隅に「倉」の文字が見えるが、そこに中山隧道を掘った人々が住む小松倉集落がある。
東隧道も最初から雪中隧道という、ある種の“日陰者”を目指していたのではなく、村の幹線道路のバイパス的な役割を担っていたのかも知れない。
しかしそれにしては、サイズが小さすぎた。
次いで昭和41年の地形図であるが、川沿いの自動車道が開通したことで、東隧道のある峠越えのルートは表記されなくなった。
各集落に描かれている民家の数も目立って減っている気がするが、相変わらず学校は同じ場所に存在し続けていた。
なお、ここで表示しなかった昭和20年代の地形図にも、東隧道が描かれたことはない。
さて、一気に飛んで現在の地形図を見てみる。
本来ならば震災直前の地形図を間に入れたいところだが未入手なので、文章で補足する。
まず、この図にも相変わらず東隧道は描かれていない。
そして東竹沢小学校も移転してしまい、既に無い。
また、村道28号線が「建設中の道路」の記号で描かれている。
東竹沢小学校については、正確な年は分からないものの、昭和50年代に芋川と前沢川の合流地点(図中の赤矢印地点)に移転したようだ。
だが平成16年の地震では、すぐ近くの芋川が閉塞して天然ダムが出来たので、学校も被災した。
そして復旧工事の過程で学校も解体され、現在の長岡市立山古志小学校に統合されたようである(一部推測あり)。
村道28号線が「建設中」になっているのも、震災の被害を受けて一時不通になっていたものが、最近(平成21年)になってようやく復旧したためである。
ちょっと隧道そのものの話からは脱線するが、今まで「山行が」で触れたことのないファクターとして私も興味を持った、“小学校と集落(と手堀隧道)の位置関係”について、ちょっとだけ考えたい。
左図は明治21年から昭和31年まで存続した古志郡東竹沢村の昭和6年当時の姿だ。
後の山古志村を構成する4つの村のひとつであり、中山隧道をはじめとする最も多くの手堀隧道と関わったのが、この旧東竹沢村の人々だった。
当時の村内には、いずれも尋常小学校と思われる「学校」の記号が3つ描かれている。
そしてその位置は例外なく集落内ではなく、通うのに不便そうな山中にあるのだ。 なぜだ?
それは、それぞれの学区(通学圏)内の主要集落にとって、出来るだけ平等な位置だということに気がついた。
梶金と木籠の子供たちが通った学校は、村役場のある梶金の集落内ではなく、敢えて2つの集落の中間の東川の畔に設けられた。
小松倉から分家に出た人が拓いたという芋川集落の子供たちが小松倉の学校に通うのは些か不便だった(昭和中頃に分校が出来た)が、それでも小松倉集落外れの芋川寄りの場所に学校があった。
村の北部の大久保集落の子供たちは、隣り合う太田村の池谷や楢の木の集落と均等な位置にある村境の学校に通った。
そしてこれが、東竹沢村時代(昭和31年以前)に建設された主な手堀隧道の位置だ。
人口数百人程度の村が、各集落内で賛否を分かちながらも人々が手を携え、ほぼ独力でこれだけの隧道を建設しえたバイタリティには脱帽する。
全長922mという中山隧道は、昭和8年から24年まで16年の歳月をかけて人口数十人の小松倉集落が、ほぼ単独で完成させた。
芋川集落の人々もこれに刺激され、全長444mの芋川隧道を昭和25年から32年までかかって完成させた。
そしてこれらの長大な手堀隧道は、広瀬村を経て上越線の駅がある小出町へと出る、山間の集落にとっては買い出しと外貨獲得のための生命線であった。
対して今回紹介した東隧道や芋川集落から小松川集落へ通じる道に掘られた2本の小さな隧道などは、古老に因れば、いずれも子供たちの安全な通学のために関係する集落の大人たちが建設したものだという。
もちろん実際には大人も利用したのであろうが、集落と学校と手堀隧道の位置には関連性が見て取れるのは確かで、古老の証言には十分信憑性がある。
大人が村外へ出て生活の糧を得るための長い隧道と、子供たちが村中で健やかに育つための短い隧道。
こんな対比が見て取れて、面白い。
中山隧道は全体が素堀であった(現在も大半は素堀のまま)が、東隧道は当初からコンクリートの全面巻き立てを施してあった。
長さから来る工事費の違いはもちろんあるだろうが、子供たちが通う道だからこそ少しでも安全で、心理的にも安心出来るコンクリートの巻き立てを施したものだろうかと思う。
地質的には両者に違いはほとんど感じられない。(いずれも巻き立て無しで自立しうる)
東隧道については、磯部定治氏の「手堀隧道物語(とき選書1999年発行)」にも興味深い記述が見られる。
以下に引用して紹介しよう
東竹沢村の梶金と木籠の間に、隧道を掘る作業が始まっていた。小松倉(中山隧道のこと)と同じ頃か一年早くかに着手し、昭和十年には内部のコンクリート巻き立てまで完了した。隧道が130mと比較的短かったのが幸いであった。
梶金と木籠の子供たちが通っていた小学校が、梶金側からは峠を越えて通学しなければならない位置にあった。その通学安全を主な目的とした隧道であった。
ついでながらそのコンクリートの巻き立てには、川砂利を小千谷からすべて人力で運び上げるのが、あまりにも大変であったため、砂利も砂も山砂利・山砂を洗って用いている。
またこの隧道は実に真っすぐである。どうしてこんなに真っすぐ掘ることが出来たかについて、地元の古老は合理的な方法を説明してくれた。それは隧道の入り口に、断面のほぼ中央に位置するように台を置き、そこに鏡を乗せ太陽光の反射光が隧道の中に射し込むように、鏡の向きを調整し、反射光が常に隧道の掘り口断面の中央に当るように掘り進んだのである。
この隧道が小松倉の人たちの大きな刺激となり励みにもなった。
これを読む限り、手堀隧道としては東隧道が中山隧道より一歩前を行っていたようだ。
中山隧道は観光地になり近代土木遺産にも指定されているが、東隧道にもその資格があるかもしれない。
現状では、↓こんな何も無い斜面↓になっている東隧道の東口がある谷だが…
昭和51年に撮影された↓【空中写真】↓だと、全然様子が異なっている。
昭和51年当時は、村道28号線(図中の黄線)の工事が途中まで進んでいた。
そして東隧道の東口付近には、隧道につながる細い道(赤い線)と、谷を埋めるたくさんの棚田が写っている。
やはり、昔はこんな荒れ地ではなかったのだ。
棚田を見下ろしながら東川に下って短い橋を渡ると、正面に小学校があった。
近くにはプールや体育館も見える。
しかし、隧道の崩れかけた東口と復旧された村道28号線以外、小学校も棚田も旧道もみな地震による土砂崩れや天然ダム湖で、跡形も無く消滅してしまった。
本編の冒頭で見た梶金集落内は、もう震災の被害から立派に立ち直っているように見えた。
しかし、東隧道のように震災当時、既に存在意義(雪中隧道+通学路)の大半を失っていたものの復旧までは、さすがに望めなかった。
役目を終えた道の末路は、そこに至る緩急の差こそあれ、基本的には廃道化しかない。
観光資源や文化資源として掬い上げられない限りは…。
なお、子供の通学目的で村の大人たちが掘ったといわれる隧道は、各地に存在する模様。
山行がで以前採り上げたものでは、静岡県南伊豆町の青市隧道(仮)があった。
他に、横須賀市で最も狭い現役隧道といわれる浦郷地区の平六隧道も、そのような経緯が伝わっているもののひとつだ。
大人に較べて子供の脚力は小さく、しかも通学は義務教育といわれるだけあって通勤以上に逃れがたい「移動」である。
このことを念頭に置けば、通学用だからこそ小さな峠にも隧道を掘る(掘ってあげる)という親心が容易に理解され、各地にこういう隧道が生まれるのも不思議はないと考えられる。