二齢の蚕を背に木籠のトンネルをくぐる。昭和46年6月8日
七曲隧道内で撮影された写真。
思いのほか大きな隧道だったことが分かる。
少なくとも、大人の背丈と同程度だった東隧道とは比較にならない。
昭和初期からこの大きさだったとしたら素晴らしい先見の明だと思うが、この点は明らかではない。
また、後ろに外が見えているのは坑門ではなく、沢山あったといわれる明り窓の1つだろう。
明り窓というには些か大きいが、崖の地上すれすれの位置に掘られていたことが分かる。
木のつっかえ棒が噛まされているのが、おっかない。
ちなみに横穴は建設中のズリ捨てや完成後の明り窓という目的もあったろうが、地上との距離をこれで測りながら、カーブした隧道を掘るという工夫であったろう。
撮影 片桐恒平
いずれも昭和54〜55年頃に撮影された木籠集落の風景。
左上は諏訪神社で、中上は木籠橋(水没した県道が芋川を渡っていた橋)だろうか。
七曲隧道の写真が3枚も撮られている。
木籠集落にとって、大きな存在だったことが伺える。
昭和55年5月4日
大きなサングラスを着けた早苗姿の若い女性が、やはり横穴の前でフレームに収まっている。
横穴から光が射し込む構図は、今日のオブローダーにも大いに好まれているが、やはり美しい。
ところでこの横穴は、2枚上の写真と同じ横穴だろうか。
つっかえ棒は見えないが、横穴部分の下部にコンクリートのようなものが見えているのは共通している。
背景に出口の光は見えないが、隧道全体がカーブしていたためだろう。
地図読みから推定される全長は、東隧道と同じ130m程度である。
また路面は未舗装のようだが、車の轍が見て取れる。
通行量はそれなりにあった様子だ。
昭和55年5月4日
そしてこれが、おそらくは東口の坑門。
写っている人物と比較すると、やはり東隧道に較べて車道足る大きさを持っていることが分かる。
最初こそ東隧道程度の人道隧道だったかも知れないが、木籠集落の一部は隧道の向こう側にも広がっているので、彼らの便利のために拡幅が行われたのかも知れない。
なお、坑口部のみコンクリートによる巻き立てが行われていたようだが、坑門と呼べるようなものは存在しない。
ほとんど素堀と変わらぬ風情だ。
これが昭和55年当時の姿だが、今日もこのまま残っていれば、お宝だったろうなぁ…。
谷底にあった梶木小学校。昭和45年11月12日。
幻となった隧道の写真は以上だが、最後に梶木小学校について。
上の写真は、東隧道の東口付近から、学校のある東川の谷底を撮影したものと思われる。【現在の風景】
下の写真は、前述した「学校橋」と木造校舎の姿である。
東隧道がいかに通学目的を重視して掘られたかは、そこから通じる学校橋と校舎の位置関係を見ても明らかだ。
解説文を以下に転載する。
校名は梶金と木籠集落の頭を取ってつけたものである。明治34年(1901)に学校を建てることになったとき、建築費を出すならば梶金集落に建ててもよいと木籠集落から提案された。でも梶金集落にはそれだけの余裕がなかったので、協議して2つの集落の中央に建てることにした。その場所が谷底(木籠)だった。
昭和45年に梶木小学校は5学級、44人の児童が在校した。同校には山古志中学校の分校もあって、3学級、38人が同じ校舎で学んでいた。梶木小学校は小松倉の芹坪小学校と統合されて、昭和52年3月末日に廃校になった。
前回述べた解説と大きく矛盾する内容はないが、校舎が2つの集落の中間に建てられた経緯については、私が考えた「平等」というニュアンスはなく、単純に建設費の問題からとなっている。なるほど、その方がリアルだな…。
学校から帰る小学4年生。帽子のないのが浩司君。昭和45年11月12日。
最後に掲載するこの写真。
キャプションからはそれと判明しないが、子供たちが乗っかっている弧状の物体。
もしかしたら、東隧道のどちらかの坑口のコルゲートパイプではないだろうか。
写真が白黒なのでえらい昔のように錯覚するが、国産初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられた今から40年ほど前の景色だ。
フレームの中の腕白たちも、いまごろ元気に働いているはず。
親や地域が子供を育てる愛の形には、色々ある。
そしてこの雪深い山村には、通学路の整備という愛に育まれた命が確かにあった。