隧道レポート 島根県道44号西郷都万郡線 福浦隧道群 中編

所在地 島根県隠岐の島町
探索日 2014.05.22
公開日 2023.09.30

 かわいい かわいい “こまトンネル”


2014/5/22 11:20 《現在地》

メチャカワな隧道が、あらわれた!

これが、現地の案内板や、土木学会の資料に、「明治初期完成」と記録されている、初代の福浦隧道だ。

外観は、目に入れてもいたくない可愛さだ。そして綺麗だ。おそらく頬ずりしても、顔がよごれることはないだろう。土気が全くない。天然のコンクリートみたいな白くて均質な岩盤に、あらゆる個性を取っ払ったことが逆に個性となった、正方形のように見える極小断面の坑道が貫通している。

この四角四面の極小の断面は、隧道に関して何の手本も与えられなかった人々が、素朴な発想を原点に人の通る穴を掘ったら、こういうものが出来そうだなという想像も働くが、実際どのような技術的下地を持って作られたものであるかは、記録がなく分かっていないらしい。個人的には、こういう明治以前の四角い人道隧道のルーツは、わが国に古くから伝わる坑道掘りの技法にあったように思う。

四角い人道隧道で思い出すのは、伊豆半島の南の方に残る青市隧道(仮)一条隧道(仮)だ。やはり明治の隧道だった(20年代以降)が、発泡スチロールじみた凝灰岩(堆積した火山灰が固まった岩石)の地質も共通している。伊豆も隠岐も、火山によって形作られた大地である。

『島根県の近代化遺産』(平成14年発行)によると、この隧道の実測サイズは、長さ7.5m、幅1.3m、高さ1.6mであるという。
実際、身長172cmの私が通るときには、少しだけ前屈みになる必要があった。幅も大人が手を広げた長さ(1尋)にはやや足りないが、すれ違うことは出来る。

完全に車両の利用を考慮しない人道専用のサイズだが、明治31年に早くも隣に2代目隧道が掘られているので、この初代は長くても30年内しか利用されていないはずだ。また、旧道となった後は積極的に利用される理由が見当らないので、完成当時の利用実態や技術手法に応じた形態を今日に留めていると考えられる。そうした点も土木遺産として高く評価されたポイントなのだろう。

なお、この初代隧道を地元の人は、「細トンネル」と通称したそうだ。
入口にあった解説板にも、『細トンネル(Narrow tunnel)』と表記されていたが、『島根県の近代化遺産』によると、その読みは「こまトンネル」とのことである。

おそらく、2代目のトンネル(こちらはまどトンネル」と呼ばれていた)が出来てから「こまトンネル」と呼ばれるようになったのだろうが、姿だけでなく名前までかわいい。




11:21 《現在地》

おおおーっ!

風光明媚!



オブ楽しい!

(オブ楽しい=オブローダー的に楽しい)

前方に、まだ穴がありますねぇ…。

いくつも、見える………。



足場は、ご覧の通り良くはないが、今日の天候・海況ならば、むしろ楽しい散歩道だ。

ここは本当に、天候・海況次第では容易く生死を意識する道になるだろうな。

いくら波穏やかな内湾とはいえ、日本海特有の冬の季節風の強烈さは、状況を一変させることだろう。
現に、隧道内部の壁や周辺の岩場の壁には、全く人工的な削り痕が残ってない。
これは、道や隧道を形作る岩場全体に、波や風の風化作用が強く及んでいることを意味している。
同じ明治生まれである初代中山隧道の内部には、削り痕がとても良く残っていたのだが…。



坑口を振り返る。

波蝕棚が途絶えている岬の突端部分だけを、最小限度に掘り抜いている。
そのため坑口前は直角カーブだ。背後には湾の開口部が見えており、
湾内とは言え、北西方向からの風と波が正面からぶつかってくる環境にある。
海面との落差は約3mだが、ほとんど波打ち際が波蝕で激しくオーバハングしているので、
万が一墜落したら陸へ戻るのは至難だろう。



青い海の向こう、深緑を背にした湾奥に、人工の色を見せる家並みが固まっている。福浦の集落だ。
その面前の浜が、明治期までは西郷と並ぶ隠岐の玄関口として栄えた福浦港の遺地である。
また、その後も長らく、竹島周辺海域への出漁根拠地として栄えた漁村であった。

初代隧道は、港が交易港として繁栄していた頃のもので、2代目隧道は、その衰微に抵抗して作られた。
しかし結局交易港としての賑わいは戻らず、旧五箇村の外れにある小漁村となっていった。

福浦はまた、比較的近年の昭和50年代まで、西海岸をめぐる車道の終点だった。
隣接する旧都万村へ車道が通じたのは、離島振興法による大規模な公共投資の結果である。
そうしてようやく福浦は長い袋小路の冬を脱して、昭和63年の3代目・新福浦トンネルの整備に繋がる。
現在も決して賑わいの大きな集落ではないものの、遊覧船の就航があり、観光が盛んである。



一人分の幅だけの岩場の彫り道。

波飛沫に顔伏せ歩く嵐の日、あるいは岩場も氷る厳冬の日、足には薄い草履のみ。

それでも通らねばならないならば、これだけが命の頼りであろう。



11:22 《現在地》

ここは、1本目と2本目の隧道の中間地点だ。小さな波蝕棚が出来ている。

道は右奥に見える2本目の“細トンネル”へ通じているが、ここで左を向くと……



数メートル高い位置に、別の穴が開いている。

そこは奥州の松島を彷彿とさせる凝灰岩の大岩壁で、しかも相当オーバーハングしている。



この黒い穴は、2代目隧道の横坑になっている。

奥行きはほとんどなく、入るとすぐに旧道の路面がある。(後で探索した)

横坑が設けられた経緯についても記録はないようだが、四角い形状からして、意図して設けられたものであるのは間違いないだろう。
工事中のズリ出しや、明り採り、換気、測量補助、切羽数の増加など、横坑には様々なメリットがあり、設置可能な地形では積極的に利用されてきた技法であった。

2代目隧道の工事にあたったのは、(おそらく)隧道工事の名手としてわざわざ広島県から招聘された高井甚三郎なる人物だったことが記録されており、それだけ高度な技術を持っていたのだろう。彼が関わった隧道としては、他に初代・中山隧道もあるが、残念ながら2つの他は知られていない。

なお、激しくオーバーハングした凝灰岩の崖の中には、様々な大きさの色が異なる岩石が混じっているが、入口にあった案内板によると、これらは火山弾だという。
ここに巨大な凝灰岩の層を作り出したのは、約550万年前に島後を海底より浮上させた巨大な噴火活動であり、降灰や火砕流が元になっている。そこに火山弾が混じっているのは、それだけ火口から近い位置であったことを示しているのだろう。現在の火の気の消えた緑の隠岐からは想像の難しい、激烈なる火山風景である。




夜道に注意の溝があった。

橋を設けるまでもない、地磯の細い切れ目に海水が打ち寄せていた。幅40cmくらいだが、底は見えない。長い隠岐の歴史の中では、ここに落ちた人も幾人かはいるだろう。きっと。



可愛い2本目のコマちゃん!

やっぱり、このかたちなんだねぇ。




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