隧道レポート 島根県道44号西郷都万郡線 福浦隧道群 前編

所在地 島根県隠岐の島町
探索日 2014.05.22
公開日 2023.09.29


強くてニューゲーム、始めましょう!

このレポートは、道路レポート「国道485号 五箇トンネル旧道(以後、「前作」と呼称)の完結直後に執筆している。
そこで得た経験値……ならぬ情報を、皆さまが引き継いだ状態(=強くてニューゲーム)で読まれている前提で本編を書いた。とはいえここから読み始めたとしても十分クリア出来る難易度なのでご安心ください。

ということで早速始める。
「前作」(特に机上調査編)を読まれた方なら、今回のターゲットである「福浦隧道」という名前には覚えがあるはず。それだけでなく、 明治31(1898)年に、西郷港と福浦港を結ぶ幹線道路「北方道」が開通した際に、“2代目の福浦隧道”が建設されたという話も、ご存知であるはずだ。

明治31年で2代目ということは、もっと古い初代の隧道があるのだと思った方は多いだろう。
まさしくその通りで、初代・福浦隧道こそ、おそらく隠岐最初の隧道である。
すなわちそれは、初代・中山隧道(明治29年竣工)よりも古いものだと考えられている。

右の地図を見て欲しい。
福浦隧道は、島後の西海岸にある。地名としては、隠岐の島町大字南方(みなみかた)だ。
ここに作られたトンネルは3世代があり、現在は昭和63(1988)年開通の新福浦トンネルが、島根県道44号である主要地方道西郷都万郡線として頑張っている。


右図は新旧地形図の比較だ。
最新の地理院地図と、大正元年版を重ねている。

どちらの版にも、「赤い矢印」の位置にトンネルが描かれているのが見えるだろう。
これが、2代目の福浦隧道だ。
隧道は、Y字型の入り組んだ内湾を持つ重須(おもす)港(重栖湾)内に突出する切り立った半島の先端付近にあり、伝統的な北方道の終点であった福浦港の門戸にあたる位置だ。

今日の重栖港(福浦港)は、島根県が管理する一漁港に過ぎないが、周囲を山に囲まれた波風穏やかなこの湾は、近世まで北前船の風待港として多数の帆船が出入りした、隠岐の玄関口たる要津であったという。

なお、初代隧道が描かれている地形図は存在しない。
当地を描いた地形図に、大正元年版より古いものがないからだ。


次に、トンネルデータ関係の“いつもの”資料も見ておこう。(↓)

資料名(データ年)隧道名路線名竣功年全長高さ
道路トンネル大鑑
(1967年)
第一福浦(一)五箇都万西郷線明治26(1893)年119.7m2.1m2.7m
第二福浦9.0m2.1m2.7m
平成16年度道路施設現況調査
(2004年)
新福浦(主)西郷都万五箇線昭和63(1988)年646m7.5m4.5m
福浦村道明治31(1898)年122m4.0m3.8m
福浦第二11m3.7m3.1m

これまた少し難解な感じになっているが、『大鑑』にある「第一福浦」「第二福浦」が、それぞれ『現況調査』の「福浦」「福浦第二」に対応している。
これらは同一の隧道であるのだが、竣工年だけでなく、幅や高さも違っている。
結論から言うと、中山隧道の時と同様に『大鑑』の竣工年の根拠が不明で、おそらく正しいのは明治31(1898)年竣工だ。そして、幅や高さは、後年の拡幅の影響で変化している。

また、これらのデータから分かるとおり、福浦隧道は長短2本がセットである。2本まとめて2代目・福浦隧道である。
そしてこれらの資料にも、初代隧道は記録されていない。

新旧地形図にも、新旧トンネルリストにも、書かれたことがない初代隧道だが、それが存在することは探索前の時点でちゃんと把握していた。
なぜならそれは、初代・中山隧道のように、山の中に隠された、忘れ去られた存在ではなかったから。
例えば、探索の随分前から愛用している『日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選 改訂版』(土木学会/平成17年発行)には、簡単なデータだけではあるが、初代隧道について次のようなことが記されていた(一部抜粋)。

資料名(発行年)隧道名竣功年備考
日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選 改訂版
(2005年)
初代/福浦隧道明治初期選奨土木遺産

竣工年は、「明治初期」!!! ドンドン!

具体的に「何年」ということは書かれていないが、明治初期と言われれば、まず一桁年代ということだろう。
そうでなくても、明治20年代以降に完成した初代・中山隧道よりも古いことは、ほぼほぼ間違いないかと思われる。
これぞ、栄えある隠岐の最古の隧道であるとの認識をしたうえで、私は現地へ赴いている。時系列順的には、中山隧道を探索した後(同じ日)だ。

もう予習はこのくらいにして、楽しい楽しい、現地の景色を見てもらおう。

下手したら、日本の離島で最古の隧道かも知れない、隠岐最古の隧道は、

とーっても楽しい姿をしていた!



 古き港へ通ずる磯の道


2014/5/22 10:51 《現在地》

ここは重栖川下流に広がる島後最大の沖積平野だ。
重栖川は、中山峠周辺に源流があり、旧五箇村の中心部(写真左奥)を潤したあと、
広い田園地帯を慈しみながら、最後は深い入江の重栖湾へ注いでいる。
これは明治の北方道の中山峠以北の経路と完全に合致している。

800年の歴史を有する隠岐牛突きの選手らであろうか。
焦げ茶色の見事な体躯の牛たちが黙々と草を食む姿が見える。




10:55 《現在地》

これが重栖川の河口。といっても、見た目では海との境目がよく分からない。そのくらい湾奥の海は狭い。
ここは漁港施設があり、漁船も停泊しているから、もう海かも。
これから向かう福浦隧道がある場所は、対岸に雄々しく聳える稜線が海へ落ち込む先端だ。
現在の新福浦トンネルは、写真中央に小さく灰色の法面が見える辺りにあって、
半島の先端まで行かなくて良くなったために、道のりは1.3kmくらい短縮された。




11:06 《現在地》

探索をスタート。
土地が有り余っている感じがするこのゆったり分岐が、現県道と旧県道の分岐地点だ。
左端に小さくヘキサが見えるが、左の広い道が現道で、右の狭くはないが広くもない道が旧道である。

チェンジ後の画像は、分岐地点に置かれていた案内標識。
この上段に堂々と案内されておられるものが、我が目的地であるぞ。
「土木遺産福浦トンネル(Fukuura ancient Tnnel)」の文字も誇らしげで、誕生の経緯としては兄弟格にある今朝の中山隧道旧道が廃道状態だったのとは、扱いがだいぶ違う。




なんとも長閑な海沿いの旧道風景。
海面との近さも半端ない。ガードレールすらないし。
こういう海と親密な道路風景は、干満の差が小さい日本海側の、それも波の影響を受けにくい内湾ならではといえる。
河口では泥の色に濁っていた水も、ここまで来ると本来の海の青さを取り戻しつつある。

観光地の案内がされているとはいえ、なんでもない5月平日の離島。当然のように、車通りはごくごく少ない。のんびり海沿いポタリングは最高ですね!




11:12 《現在地》

ほのぼのしながら進んでいくと、突如目の前に巨大な観光バスが現れて、びっくり。しかも2台連なってる!
ここの路傍には見慣れないオリジナルデザインの警戒標識“風”のものが立っていて、なんでもこの先の旧道は車で通り抜け出来ないらしい。そんなことすら調べてこなかったが、まあ自転車なら大丈夫だろ、たぶん。

バスはほぼ無人で、お客さんはどこかを観光中の様子。
ここで道も分かれていて、旧県道は直進だが、右の道の先の小さなふ頭からは、島後の観光名所としておそらくトップ3に入る「ローソク岩」を海上から遊覧する観光船が発着している。このバスのお客達は、そっちに行っているのかな?? (なんとなく、道路関係の土木遺産の集客力をナメている私の態度がいじらしい。ローカルアイドルの“推し”があまり有名になると悔しいような心境だ。笑)




バスを躱して進むと、道に少しの起伏が出てきた。
ここまでは長閑な海の印象に強く引きづられて感じなかったが、実は既に相当険しい海縁の崖に入り込んでいる。見上げる落石防止ネットのカテナリーが凄く高かった。地形からして、岬の突端、すなわち隧道の在処も近いだろう。

そんな険しい道いっぱいに広がって、小さな子供がわんさかと歩いてきた。混ざってる大人はみんな保母さんらしい服装だ。そういえばさっきのバスのバスステッカーに「下西保育園」と書かれていた。
ローソク岩、破れたり。
そうか、そうか、そういうことね……。なるほどな……。
これが、隠岐流のオブローダー英才教育というわけだ。この歳から(私もまだ見ていない)明治の隧道に触れさせるとか、将来が楽しみすぎるぜ。さすがは、八丈島に大坂隧道をもたらした阿坂多一郎島司の故郷である。




四方より集中的に浴びせられる間延びした「コーンーニーチーワー」乱舞の中を、ロー○ン譲りのコンニチワいらっしゃいませの連打で無事に切り抜けた私。その先には、静寂が待っていた。海の際際なのに、波の音も聞こえない。

海先を見ると、この静かな内湾のたった一つの小さな出口が見通せた。
あの狭口が、隠岐という島国の扉であった時代も確かにあって、さらに遡れば、彼方の大陸から我らが列島へと渡る足掛かりともなっていたそうだから、こんな静けさも、長い人の歴史の中ではかりそめかもしれない。

これからまみえる隧道たちは、この島の道路の中でも特に長く我々の往来を見てきたものであるだけに、私のねっとりした問いかけに何を語ってくれるのか、とても楽しみである。
隠岐最古の隧道は、この先にある。




見えてきた。陸の突端!

トンネルの入口も!

福浦隧道、到着である!!



11:16 《現在地》

旧道の行く手にぽっかり開いた黒い穴が、2代目の福浦隧道だ。
明治31(1898)年竣工の隧道で、同年に全通した里道・北方道の一部であった。
完成から90年後の昭和63(1988)年に新福浦トンネルが完成したことで旧道となったが、
土木学会が選奨土木遺産に指定するなど再評価がなされ、いまは観光地として頑張っている。

ここから見て、いかにも道らしい道であるのは旧道だけだが、
より古い旧旧道が右へ分岐している。その先に旧旧隧道=初代隧道があるらしい。
案内板に、そう書いてある。先に案内板を見たい人はこちらからどうぞ。
私は探索後に見るぞー。自転車を一度ここに置いていくので、取りに戻ってくるからね。



うふふのふ。

現役で頑張る明治隧道は尊い。なかなか個性的なシルエット。

何やら横窓があるっぽい。外の光が漏れている。

内部探索、楽しみではあるが、今回の主役はこいつじゃない。



先に、ブツ切り橋で始まる、旧旧道へイクゼ!

ってか、これが道?! 私にはただの地磯に見えるが…(笑)。



う〜〜ん、見た感じは地磯そのもの。

波蝕棚という地形だと思うが、海面から1mくらいの高さに幅10mほどの平坦な棚が広がっている。確かにそこは、険しい岬の切岸を巻いて通れる“天然のみち”だな。
波で上がった海水か、雨水か、どちらか分からないが、窪んだところに水が溜まっている。おそらく後者かな。たいへん穏やかな内湾に面しているので、棚まで波が上がるのは稀だろう。

正面の海上にぽっこりと見える山は、対岸陸地ではなく、湾内に浮かぶ弁天島という小島だ。
穏やかな湾内に浮かぶ背の高い小島は、天然の二重防波堤となって、一番奥に控える福浦港をより完全なる風待ち港たらしめていたのだ。天然の良港とは、こういうものをいうのだろう。
こういう凝った巡り合わせがなければ、この静かな地磯に明治隧道が誕生することもなかっただろう。




振り返ると、幼子どもが立ち去ったばかりの険しい旧道が一望出来た。
長城のような護岸の石壁が頼もしく見える。


(←)
足元の棚には、自然地形ゆえの微妙な起伏が沢山ある。
ほとんどはごく浅いものだが、驚くほど深いものがいくつかあった。
例えば画像に“赤く着色した穴”や、その右隣の穴などだ。

また、最初私は地磯を適当に歩いていたが、よく見ると、その最も山側に寄った“点線の位置”に、道形を切った名残があることに気付いた。

これは、天然の道となった磯を通ることには満足せず、少しでも安全な道を求め工作した跡であろう。
棚まで波が上がるような荒れた海を想像すると、決して安心出来る道ではなさそうだが……(気休めレベル……)。



これが、“赤く着色した穴”だ。

メッチャ正方形。
どう見ても、人工的な穴だ。

道のように使われている棚にぽっかり口を開けていて、夜だと凶悪な落とし穴になりそうだが、こいつの正体は、製塩の遺跡らしい。
さっきあった案内板に書かれていたぞ。




2代目福浦隧道の長さが約120m。
それが貫く岬を回む道の長さも、それを基準とした程度のものだ。
未だ初代隧道を見ないまま、回り込みは終盤となり、湾奥に控える福浦のカラフルな家並みも見えだした。

チェンジ後の画像は、棚から見下ろした海面の様子。
穏やかだが非常に深く、底の気配が全く感じられない。棚の上と同じくらい、海面下の崖も切り立っているのだろうか。





キターーーー!




かつて私が夏休みの自由工作で発泡スチロールに
カッターで掘ったトンネルみたいだ!


地形はすごく険しいんだけど、和むぞ、この隧道…。




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