まずは現地で聞き取りをした、50歳代くらいの御所町住人の証言を紹介する。
- トンネルは古いもので、私が生まれた頃にはもうあった。
- 小学校1〜2年生の頃には、よくトンネルへ遊びに行っていた。当時はいまのように荒れておらず、まだ使われていた。
- 遊びに行くと、トンネル内にたくさんある貝をよく採っていた。貝塚だという人も、化石だという人もいた。
- (内壁に顔の壁画がなかったかと聞くと……) それは知らない。
- (トンネルの名称を質問すると……) 名称は特になく、私たちは単に「トンネル」と呼んでいた。
- トンネルがあまり使われなくなったのは「山側環状」の計画が決定した頃で、ニュータウン工事が始まって誰も通らなくなったと思う。
いかがだろう。おそらくは、どれも得心のいく内容だと思う。
私にとっても、探索中に考えていたストーリーと相反する内容はなく、悪くいえば意外性に乏しい。
そして、資料的なものに裏打ちされたような具体性のある数字や単語がないために、これをもとに何か調べるというのは少し難しいようにも感じた。
これらの証言の中で唯一解説を要すると思うのは、6番目の証言に出てくる、“「山側環状」の計画が決定した頃”というのがいつなのかということだろう。
予備知識がなければ分からないことだろうし、私も分からなかったので証言者に聞き返してみたが、本人も具体的な時期については自信がない様子で、とにかく、ニュータウン工事が始まってから通行されなくなったことを言いたかったようだった。
“「山側環状」の計画が決定した頃”がいつなのかは、帰宅後に調べてみた。
しかし、「金沢外環状道路の計画の変遷(pdf)」によると、なかなか一筋縄ではいかない。
というのもこの道路、大都市における大規模環状道路の例の漏れず、すんなり計画・建設されたものではないようなのだ。昭和45年、昭和49年、昭和61年、平成8年といった複数の時期に、それぞれ「決定された」と表現できる展開を迎えていた。証言者の言いたい時期がどれなのか、いまからでは判断しかねる。
そもそも、現在の「山側環状」は隧道を破壊するような位置を通っていないので、この道路の計画が決定されたことと、隧道があまり使われなくなったという出来事の相関が、いまいち不明である。
もしかしたら、過去の計画では隧道に大きく影響する位置を通ることが想定されていたのかも知れないが、より可能性が高いと思われるのは、山側環状の計画決定を受けて、現在の位置にニュータウンが計画された。そして、ニュータウンの建設によって隧道は使われなくなった――という解釈であろう。
ニュータウン整備の経緯も確認は取れていないので断言はできないものの、この証言はそういうことなのだろうと私は判断している。
現地探索(聞き取り含む)で解明できなかった、この隧道に関する主な疑問点は以下の通りだ。
- 隧道の正式名
- 隧道の完成年
- 隧道が建設された経緯
- ぶるにゃん氏の書き込みにあった、「福光を見下ろせる場所」との関連性
ようするに、明確に分かってることは、ここに手掘りの特徴を持つ隧道が現存しているという一事だけで、その他多くの事柄は不明確だ。
多くの疑問を一挙に解決してくれるような優秀な文献を探しているが、今のところ見つかっていない。
真っ先にあたった『金沢市史』は非常に冊数が多く、一部にしか目を通すことはできていないが、余り期待はできなさそうだという印象を持っている。
隧道がある御所町は、古くからの金沢市内ではなく、昭和11(1936)年に編入された旧小坂村に属していたためか、情報量が限られている印象がある。(大都市近傍にあって早い時期に編入された自治体は、得てして単独の市町村史が刊行されていないため、文献調査に苦しめられることが多いが、旧小坂村もそのパターンだ)
それではと、旧小坂村が河北郡に所属していた関係から、大正7(1918)年に刊行された『石川県河北郡誌』にも目を通したが、こちらも成果は得られなかった。
そもそも、大正時代から隧道があったかは分からないし、記述がないからといって隧道がなかったとはいえないのが難しいところだ。
そんなわけで、東京での文献調査は、今のところ手詰まりとなっている。
発見者であると同時に重要な証言者でもあるぶるにゃん氏の情報も、改めて検討してみた。
まずは前編冒頭に掲載した彼の最初の書き込みの前半部分を再掲しよう。
HPいつも楽しく拝見させていただいております。
私が父から聞いた情報なのですが、金沢市御所町の星稜高校・中学の横を入って行くと加茂神社がありますが、そこから山の方へ向かった農道のつきあたりに古いトンネルがあるというのです。
そのトンネルは軽自動車が一台やっと通れるほどの大きさで結構長く、通り抜けた先は福光が見下ろせる場所なのだそうです。
父は御所町で生まれ育った弟から聞いて、実際に一緒に小型トラックで通ってみてきたと言っています。
その父の弟である叔父が調べたところによると、加賀藩が秘密裏に掘った近道だとわかったらしいです。
下線を付した2箇所の証言は、探索後にも謎として残った。
本編で見たとおり、隧道を抜けた先は柳橋川上流の谷底にある休耕地であり、基本的に道はそこで行き止まりである。少なくとも、車に乗ったまま福光を見下ろせる場所まで行くことはできないように思う。
加賀藩が秘密裏に開削した近道であるという話も伝説めいていて魅力的ではあるが、もしそうであれば『金沢市史』などに記録があって然るべきだし、にわかに信じることは難しい。
そして、これら証言中の疑問点については、ぶるにゃん氏本人が当の掲示板で真っ先に検討を行っているので、こちらも引用しよう。
ちなみに私が調べて判明した事、とまではいきませんが、私の仮説を述べさせていただきます。
>通り抜けた先は福光が見下ろせる場所なのだそうです。
通り抜けた先から、現在山王坂遊歩道として整備されている旧二俣越の道筋を通り福光に至るという意味だったのではないかと。
>その父の弟である叔父が調べたところによると、加賀藩が秘密裏に掘った近道だとわかったらしいです。
これも二俣越を指していて、隧道の事ではないと思います。
昭和45年版の地図には描かれていますが、昭和30年版には描かれていませんでした。比較的新しいものかもしれません。
地元の市議の小阪さんのブログに、この隧道に関して情報を求める書き込みがありました。それによると「マンポ」と呼ばれる素掘りの小規模トンネルであり、化石が採れるとのことです。
ここで初めて名前が登場した「二俣越」について、少し補足説明をしたい。
『歴史の道調査報告書 第3集 加賀の道 1』(1996年、石川県教育委員会)によると、二俣越とは右概要図の通り、加賀と越中を結ぶ山越え約4里の道で、「(北国街道に対する)脇道ではあったが、砺波地方から金沢へ行くのに四里程の距離と、比較的近かったため、古くからよく利用されて来た道である。すなわち、越中小矢部川の川上にあたる福光・城端・井波などからこの道を通って多くの米や織物・生糸・農産物等の諸荷物が金沢に運ばれた
」というふうに、物資輸送の便道として活用されてきたそうだ。現在の地図に照らし合わせると、主要地方道金沢井波線がこれを継承している。
この道はあくまでも脇道であり、藩の公的な通行は公道である北国街道によるべきであったはずだが、「安政三年(一八五六)一三代藩主前田斉泰は、総勢一八三〇人程のお供と共に参勤交代で江戸から金沢へ帰国の際、高岡から城端へ廻り、二俣越を通って金沢に帰っている。
」というふうに、加賀藩主も(秘密裏に?)通行していることから、これを「秘密裏に掘った近道」だとする説があるのも不思議はないように思う。
そしてこの二俣越の金沢寄りには、三ノ坂越と呼ばれる有力な間道があったそうだ。
「もう一方は、大樋村より御所村・長屋村・夕日寺村・伝燈寺村・牧村・小二又村・二俣村・荒山村を通り、越中小又村へ出る道で、この道も同じく牛馬が往来していた。(中略)大樋村より小二又村を通り二俣村へ出る道を三ノ坂越と呼んでいる。三ノ坂と名付けられたのは、この坂道に山王社があったためで、もとは山王坂と言われていたが、後に三ノ坂と呼ばれるようになった。
」という道であり、これがちょうど御所地区を通っているのだ。
ようするにぶるにゃん氏は、「(隧道を)通り抜けた先から、現在山王坂遊歩道として整備されている旧二俣越の道筋を通り福光に至」ったのではないかと、父君とその弟君の昔の旅程を推測されたわけである。
右の画像は、この探索の直前に行った夕日寺隧道探索の中で撮影した、山王坂遊歩道の風景である。
この場所(位置はここ)は「大休場(おおやすんば)」と呼ばれていて、嘉永の年号が刻まれた古碑があり、解説板にはこのように書かれていた。
「加賀藩主・前田斎泰が安政3(1856)年に、二俣の料紙(和紙)製造を見るためにここを通った時、海を一望でき、ながめが良かったので、ここで休息したそうです。それ以降この名がついたようです。明治の初め頃まで、茶屋が建っていたそうです。
」
上記の内容からも、三ノ坂越(山王坂)の道が明治期まで盛んに利用されていたことが伺える。この道をずっと東へと辿っていけば二俣に達し、さらに進めば福光を見下ろせる峠に達すると思われる。
もう一つぶるにゃん氏が書かれている、「地元の市議の小坂さんのブログ」についても確認した。
これは、小阪栄進氏のブログ「えいしんにっき」の平成19(2007)年1月3日のエントリ「小坂小学校」になされたsoranohi氏のコメントにある次の一文「もし、御所町のマンポについてご存知の方、マンポの情報をお知らせ下さい。星稜高校の野球部のグラウンド近くですが、貝殻の化石をよく採りに行きました。
」を指しているようだ。
「マンポ」(まんぽ)というのは、穴や隧道を指す古い表現の一つで、「ねじりまんぽ」などの用例がある。「まんぼ」ともいい、鉱山用語で坑道を意味する「間歩(まぶ)」などとも関連ある語だ。
貝殻の化石を良く堀に行ったという証言の内容は、私が現地で聞いたものと一致しており、あの隧道は、この地区の一定の年齢にある住人にとっては、少年時代定番の遊び場だった可能性が高い。こうなると、【顔面壁画】も当時のワル少年たちの遊びによるものである可能性が高まったように思うが、断定には至らない。
直接的な情報がきわめて乏しいなかで頼りにすべきは、航空写真と地形図だ。
ここからは間接的に隧道建設の時期や経緯の推測を試みたい。
(イ) 平成19(2007)年 | |
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(ロ) 昭和58(1983)年 | |
(ハ) 昭和50(1975)年 | |
(ニ) 昭和37(1962)年 | |
(ホ) 昭和21(1946)年 |
まずは歴代航空写真によって、平成19(2007)年から昭和21(1946)年まで約60年間の変化を見てみた。
いまから四半世紀前の昭和58(1983)年版では、ニュータウンの造成がほぼ完了している状況だ。【隧道東側の道】がとても鮮明で、そこにある【調整池】の工事のために多くの車が出入りしていたのではないだろうか。隧道は既に廃止されていたと思う。
昭和50(1975)年版は、ニュータウン造成工事の開始直後のように見える。私が聞いた証言と照らしても、この頃が隧道現役の最後の時期だったと思う。
昭和37(1962)年版は、隧道前後の道がともに鮮明に見えるうえ、現在は調整池やニュータウンに埋立てられてしまった柳橋川支流の谷間の奥まで、びっしり水田が連なっている様子が見える。そして、隧道はこれらの耕地に行く近道として建設されたものではないかと考える根拠が、この航空写真である。
この頃が、隧道活躍の全盛期であったと思うのだ。
昭和21(1946)年版でも、谷間にある水田の広がりは変わらないように見えるが、注目すべきは、隧道位置の直上山腹に見える鮮明なラインだ。
これは、旧道ではないかと思われる。今回探索はしていないが、この位置に旧道が存在したことは、次の旧地形図調査でも支持された。
もしこれが本当に旧道で、これほど鮮明に見えているのだとしたら……、当時まだ隧道は開通していなかったことを示唆しているのではないか。私はそう考える。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 平成12(2000)年 | |
B 昭和43(1968)年 | |
C 昭和5(1930)年 |
続いて歴代地形図の比較だ。
隧道は、昭和43(1968)年版で始めて登場し、平成12(2000)年版で表記が消えていた。
ここには掲載しなかったが、昭和28(1953)年版にも描かれていなかったので、これら地形図の表記を全面的に容れるならば、隧道の現役期間は、昭和28年より後に始まり、平成12年より前に終了したということになろう。
ここでも注目したいのは、着色で強調した柳橋川沿いの水田記号の消長である。
旧小坂村時代を描いている昭和5(1930)年版に隧道は描かれていないが、柳橋川とその支流の細長い谷底全体に延々と水田が連なっていて、後に隧道が現われる位置には徒歩道の峠道が描かれている。この旧道こそ、昭和21年の航空写真に鮮明に見えていた道だと思うのだ。
またこの地図には、先ほど二俣越の話の中で紹介した三ノ坂越の道が実線で描かれており、この頃までは多く利用されていたのだと思う。
昭和43(1968)年版で、はじめて隧道が現われる。
しかし、このときに既に谷底の水田は大幅に減少している。
高度経済成長といわれたこの時期、不便な山間地の耕作は早くも衰退に転じていたものと考えられる。
この大きな時代の流れは、車体を擦るような小さな隧道が与える利便程度では、到底抗いきれなかったのではなかろうか。
ここにもう一つ、おそらく御所隧道(仮称)と同じような衰退をたどった隧道の姿が見て取れる。
夕日寺隧道(仮称)である。
夕日寺隧道も昭和28(1953)年板になく、この地図で始めて登場している。こちらは現在の地理院地図にも描かれているのだが、実態は廃隧道なのだ。
御所隧道と夕日寺隧道は、立地に大きな共通がある。
どちらも、金腐川沿いの集落から、尾根の反対側にある柳橋川沿い耕地へと通じる隧道だ。それ以外のどこにも通じていない。福光へも通じてはいなかったと思う。
そして、地形図を見る限り、それぞれの目的地にあった耕地は年を追うごとに減少し続け、現在は皆無になっている。
結果、隧道は廃止された。
地形図と航空写真から導き出された御所隧道の正体は――
農道 または、林道。
超地味。 ごめんね(笑)。
ちなみに、夕日寺隧道は林道であったことが確かめられている。
農道や林道だとしたら、管理者である金沢市(あるいは石川県)が持っている農道台帳や林道台帳に記載があるかもしれないが、未確認である。
また、先ほどから繰返し述べている「水田」の記号がある土地で栽培されていた作物は、米ではないかもしれない。
『石川県河北郡誌』(大正7年)によると、旧小坂村で米より圧倒的に多く生産されていたのは、レンコンだった。
この特産品の増産のために深い谷の奥まで開拓されていたのかもしれない。ただし、レンコンは深い山中よりも有機物が多い都市近郊の水質に合うという話もあるから、広大な金沢平野をレンコン畑として利用した代わりに、米をこのような山間地で栽培していたとも考えられようか。
以上、私の推論をまとめると――
廃止は昭和50年代で、ニュータウンの建設が直接の原因だが、耕地の減少によって、それ以前から利用は減少していたと考えられる。
ぶるにゃんさん、ありがとうございました!