隧道レポート 金沢市御所町の廃隧道 後編

所在地 石川県金沢市
探索日 2018.11.13
公開日 2019.03.30

隧道西口へ


2018/11/13 9:25 

非常に丸っこい断面形に特徴がある出口直前、壁に違和感を感じた。

最初は、素掘り隧道では珍しくもない地層の模様が見えているのだと思ったが、その地層には、まるで粉を吹いたように、白いものが点々とあることに気付いた。
白い石がたくさん含まれている地層? 変だな……?

間近に寄って、その白いものを観察した私は、驚いた!




この白いつぶつぶ、ぜんぶ、だ。

こんなにたくさんの貝が、なぜ岩の中にいるのかという疑問は、少年時代いらい約30年忘れられていたある二文字を思い出させた。
こいつは、化石だ!

化石の定義は、「地質時代の生物の遺骸・遺跡が水成岩などの岩石の中に残されたもの」だそうで、生物の遺骸が長年地中に置かれることで成分の変化をきたし、石(鉱物)に置き換えられたようなものをイメージしがちだが、必ずしも石化している必要はなく、地質時代の貝殻が貝殻の成分のまま石中に閉じ込められているようなものも化石だそうだ。

この隧道の壁面に大量に露出しているものは、ただ白くなっただけの普通の貝殻に見えるが、これも化石と呼んで良いようだ。
本来の貝殻の多くは色つきなのであって、漏れなく純白であることは、長い時間の経過を伺わせる変化といえる。
そしてその“長い時間”というのは、私がふだんの道路探索の中で「古い」と表現している100年前などではなく、1000年前でもなく……、この隧道に露出している貝殻たちは、800000年前から1700000年前(80万〜170万)に、日本海の浅い海底に生息していた生き物たちなのだという。


巻き貝もあれば、二枚貝もある! もの凄い大量だ!
壁に白い層となって見える白いつぶつぶが全て貝殻の化石であり、隧道の壁面に露出しているだけでも1万個はあると思われた。

そして、化石発見といえば、私の中では世に轟く大ニュースの代名詞だ!
テレビで連日報道され、発見した小学生にはマスコミが大殺到、発見された化石は「ヨッキ貝」(あるいはゴショヨッキ貝とか)と名付けられ、巨大なモニュメントが駅前に設置されて町おこしに一役も二役も買う。

……というふうにはならないだろう。この貝殻化石は、さほど貴重なものとは見なされていないのだろう。そもそも、隧道の壁にこんなに大々的に露出していて「発見」も何もあったものではないし、真に貴重なら容易く立ち入ることも許されなかっただろう。

そうは言っても、素掘り隧道で化石を発見したというのは珍しい体験だ。
帰宅後に調べたところ、この貝殻化石層は、ここから約5km南の金沢市大桑(おおくわ)町にその代表的な露頭がある大桑層(おんまそう)という地層であるように思われた。
大桑層は新生代第四紀前期の地層で、極めて高密度の貝殻化石を産出することに特徴があるそうだ。
隧道を掘ったために、本来の露頭ではない場所に、こうして露出したのだろう。




貝殻化石に囲まれて撮影した動画。

「磯の香りさえする気がする」は、さすがに妄言だろう(笑)。

ちなみに現在のこの場所は、海岸から約9km離れている。



隧道が作られた時期がいつであるかなんてことを考えるのが馬鹿らしいと思えるほど、飛び抜けて古いものを隧道内で見てしまったが、私の興味はすぐさま隧道のストーリーへ戻ってきた。
そもそも、隧道が穿たれている地面なんてどこだって古いに決まってる。たまたま化石を見たから、そのことに気付かされた。

入洞時点から120m先に見えていた出口が、いよいよ目の前に迫った。
初めから見通せていたにもかかわらず、中に入らなければ気付けない印象的な場面をたくさん見せてくれた隧道だった。
最後は、たくさんの化石に囲まれて、土っぽい質感の坑口から外へ通じる。

なお、この西口付近は比較的脆そうだが、それでも大きな崩れは見られない。
両側の側壁の低い位置に、いくつもの四角い窪みがあるのは、かつて木枠の巻き立てを施工していた跡ではないかと想像した。支保工のように天井を支えて落盤を防ぐというよりは、細かな落石から通行人を守るための庇を架けていたのだと思う。昔はそういう隧道が多くあった。だが、庇があれば断面は小さくなり、とても軽トラなど通れる余地はなかっただろうから、やがて撤去されるのも必然だったろう。



9:28 《現在地》

7分ぶりに地上へ。

短いようで長い、長いようで短い、濃密な探索だった。

出たところ(西口)は、東口のような激藪ではなく、いくらか倒木はあるが、簡単に出入りできそうだった。
植林されたスギ林が目隠し程度にあるものの、その森は薄く、隙間から明るいカラフルな屋根が見えた。
ここがニュータウンの一角であるという事実を思い出させられたが、ニュータウンは目だけでなく耳からも入ってきた。
まさに井戸端会議だと思う。熊避けになりそうな女性たちの大きな声が、光の向こうから絶え間なく聞こえていた。



振り返れば、太古を穿つ静寂の暗部。 私にとっての、癒しの空間。

内壁に見える白い線は貝殻化石層で、20mくらい先で天井に消える。
それにしても、この隧道を軽トラで通り抜けたというのは、剛毅であると思う。
入口だけは少し広いが、漏斗の口のようになっていて、入口から数メートルで激狭になる。
最狭部分は目測で高さ2m、幅1.8mほどであり、これが洞内の大部分のサイズでもある。
そのうえ、既に述べたとおり、内部には微妙な波打つようなカーブがいくつも連なっていた。
壁に車体を触れさせずに通り抜けるのは、現代の大きな軽トラでは、ほとんど不可能だと思う。



西口全景。

隧道全体が坂道で、こちらからは坑口を見上げる形になっている。その視覚的な印象も含め、そこそこ大きな口を開けているように見えるが、前述の通り、中に入るともの凄く狭いのである。

例によって坑口は崩土のため少し嵩上げされ、自然の堤防のようになっていた。
そのため、雨の多い時期には洞内が水没し、その最大の水深は40cm(+泥底)くらいありそうだったが、今回は完全に水切れしていてラッキーだった。

何かしら隧道の素性を伝えるものが残っていないか、坑口前をくまなく探してみたが、特に見つからなかった。
坑口前の路上に赤い樹脂製の標柱が1本だけ立っていて、何らかの用地界であることを示しているようだったが、弱い。




坑口を背に10mほど前進すると、スギ林の先が開けた。
そこには案の定、明るい街並みが広がっていた。
相変わらず間近から聞こえてくる、姿の見えない明るい話し声が怖かった。

道はこの先へ続いていたが、私は一旦引き返して東口前に残した自転車を回収することにした。
隧道を引き返すのではなく、目の前にあるニュータウンの街路から戻っても距離はほとんど変わらなかったのだが、ここから数歩前に出れば、声の主たちの前へ躍り出る予感がした。
この4日間の探索中、都会を離れて、思いがままに汚れを纏い続けてきた私は、完全に怖じ気づいていた。

一旦撤収。この先は、自転車を回収してから、改めて。




隧道東口から続く道の先には…


9:36 《現在地》

もう一度隧道を潜り、東口へ戻ってきた。自転車回収完了。

今回の目標であった隧道の探索はこれで終わりだが、まだ現地にやり残しがあると感じる。
私が、隧道探索の際に強く心がけているのは、ピンポイントに隧道を見るのではなく、その利用や建設と深く関わっていた可能性が高い隧道前後の道や土地も見ようということだ。隧道の素性を知る手掛かりは、この範囲に散らばっていることが多いし、いろいろな推察をするうえでも絶対に役に立つ。

しかし今回は最初にニュータウンを通って隧道へ近づいたため、ピンポイントにしか見られていなかった。
なのでその“不足分”を、これから取り返したいと思う。
まずはいま目の前にある、隧道東口前から伸びる砂利道がターゲットだ。



ところで、ぶるにゃん氏が掲示板にアップロードしてくれた、昭和45年発行(=昭和43年修正版)の地形図(右図)には、ニュータウンに侵される前の“隧道前後の道や土地”が描かれている。
私もこれを持って探索に臨んでいた。

この地図を見ると、隧道東口から始まる道は、柳橋川の上流にあたる谷戸状の谷底を目指していた。そこに集落はないが、「水田」の記号が多数描かれていた。

この水田がある谷へと至る道は、隧道の他にも山越えの頼りなさそうな道が描かれていたが、下流へと通じる道はなく、おそらく隧道こそがメインルートだった。
もっといえば、集落から遠く離れたこの水田の耕作のために、隧道は建設された可能性が高いと思われたし、それ以外の理由は特段思い当たらないような地図風景であった。

いま、この水田地帯がどうなっているのかは、目の前の道を行けば見ることができるだろう。
前進開始だ!



どこかの高原と言われても信じられそうな、緑が綺麗な道だ。
しかし、首を右に振れば、そこにはたくさんの屋根が並ぶ造成された高台が広がっている。
ここはニュータウンの縁に沿って伸びている道だ。

また、前掲した旧地形図では破線で描かれていたが、現在は車道である。
軽トラが通れたという話しの通りであれば、昔からここは車道であったのだと思う。




9:38 《現在地》

気持ちのよい砂利道を緩やかに300mほど下ると、コンクリート製の無名の橋で小さな沢を渡った。
この沢が、旧地形図にたくさんの水田が描かれていた谷戸だが、もはや耕作がされていないどころか、水田自体が跡形もなくなっていた。

チェンジ後の画像は、橋の上から沢の上流を眺めたものだが、沢は堰き止められ、ニュータウンの調整池と化していたのである。
見る影もないとは、まさにこのことである。


なお、橋の先で道は二手に分かれていた。
しかし、どちらの道も廃道のように見えた。

古い地形図にも描かれていたのは右の道だが、尾根まで上っているようで、昔からの山仕事の道だろう。
左の道は古い地形図にはなく、柳橋川の本流沿いへ下っているようだが、きっと荒れ果てているだろう。柳橋川の本流沿いにもかつてたくさんの水田があったようで、古い地形図にも描かれているのだが、その荒廃した現状は、約1時間前に夕日寺隧道の探索で目にしたばかりだった。わざわざもう一度見に行く必要はないと思う。

私はここで、隧道東側の探索を切り上げることにした。
往時の隧道は、谷戸に閉ざされた水田地帯へ金沢市街から最短でアクセスする便道だったと思われるが、目的地は既に鬼籍に入っていた。
隧道はそれ自体がニュータウンの建設によって端に追いやられたばかりでなく、隧道の受益地もニュータウンの建設によって破壊されていた。




隧道西口から御所町への旧道風景


最後に私が向かったのは、隧道の東側、金腐(かなくさり)川沿いの低地にある旧来の(ニュータウンではない)御所町へ下る道だ。
柳橋川の谷へ通じていた西側は隧道の裏口であり、金沢市街へ向いているこの東側こそ表口なのである。
普通の探索の流れとは逆になってしまったと思うが、裏門から入って表門より出ようというわけだ。

ここでも先ほどと同じように古い地形図を比較してみると、隧道東口から御所町へ下る約700mの道は、最新の地理院地図にもほぼ同じ位置に描かれている。
しかし、その中ほどを地域高規格道路である金沢東部環状道路(国道159号)が横断しており、だいぶ地図風景は変化していた。

私がここで期待したのは、沿道のどこかに隧道の建設を伝える開通記念碑のようなものがないかということだった。

次の写真は、右図の「現在地」の位置で撮影したものだ。




この広い真っ平らな道。
これが、隧道の代わりになったニュータウン内の街路だ。
右に見えるコンクリートブロック擁壁の数十メートル奥の地中を、この道と平行するように隧道が通っている。

この平坦な住宅地の頭上に尾根や峠があったというのは、なかなか実感を得にくい大きな地形の変化だが、隧道が同じ位置に残っていたことで、初めて訪れる私でもそのことがよく分かった。



9:47 《現在地》

ここが隧道東口の入口だ。
先ほどは明るい声を恐れて引き返したスギ林が、目の前にある。
あの声は幻ではなかったはずだが、いま私の周りに人影はなく、静まりかえっていた。

ここからは辛うじて見えないが、隧道はすぐそこにある。30mも離れていない。
轍こそ失われているが、道は確かにあり、特に塞がれている様子もなく、行こうと思えば誰でも簡単に訪れられる状況だ。
その割に、この隧道は今までほとんど知名度を持っていなかったように思う。ぶるにゃん氏に発見されるまで、オブローダーの目を逃れてきた可能性がある。

ここは、隧道がいかにも“残っていなさそう”なんだよな。
古地図に隧道を見つけたとしても、ニュータウンに埋立てられたから現存はしないだろうと判断しても不思議はない。



ここからニュータウンを外れて御所町へ下る旧道が伸びている。
もとは隧道から続いていた道だ。というか、隧道とだけ繋がっていた道だと言ってもいい。
この道を見れば、かつて隧道を通った車がどんなものであったのかも分かるかもしれない。

……そして案の定、細かった。
一応、舗装はされているけれど、轍以外の部分に雑草が生えているような、くたびれきった道だった。




おおお〜! 良いカンジ!

この道、よく残っていたな。
塞がれず、壊されず、荒らされず、よく残っていた。
峠道というほどでもない短い坂道だが、地形に沿った自然なカーブの連続が楽しい。星稜高校の野球場を眼下に臨みつつ、遠くは金沢平野に開けた、まるでジオラマみたいなすばらしい見晴らしにも恵まれていた。街と山の狭間にある道という感じがした。

そして、道の造りだが、まさに軽トラスペックだった。
舗装をはみ出しても良いなら普通乗用車も通れるだろうが、そんな需要もあるまい。
隧道と向き合っていた道という感じが凄くする。 好き!



野球場と同じ高さまで下ると、それから先は道が良くなり、現代的な景色となった。そしてこの一連の坂道をほぼ下りきった辺りに、東部環状道路の大きな築堤が横たわっており、真新しいボックスカルバートで潜り抜けるようになっていた。

ところで、右手に見える茶色っぽい水田だが、稲田ではなかった。大量の蓮の枯れた茎が植えられており、蓮畑、いや蓮根(れんこん)畑であった。
探索時知らなかったが、金沢はレンコンの特産地で、ブランドである加賀野菜の一種にも数えられているそうだ。

隧道を間に表裏の関係となっている金腐川と柳橋川の両谷だが、開発の進み具合にも表裏といえるような格差があることを実感した。
多くの集落が点在していて金沢の市街地と繋がっている前者と、集落は置かれず専ら農地として利用され、その利用もいまはほとんどなくなっている後者は、低い尾根を隔ててわずか1kmほどの距離であるのに、劇的な違いがあった。
隧道が大規模な改良を受けないままに使命を終えたのも、その利用度がさほど大きくなかったことを示しているのだろう。



9:52 《現在地》

東部環状道路を潜ると、古い地形図にも描かれている御所町の旧来の街並みに入った。
御所という地名であるが故に、由来譚にはいろいろな説があるようだが、今日の街並みは落ち着いていて、住居と蓮田が仲良く隣り合う、イメージとしては市街と集落の間くらいの風景だった。

旧金沢城からは約一里離れた位置にあり、地形的には山の辺にあたっているここは、ニュータウン開発が始まるまで、金沢都市圏の外郭線にあったのだろう。
これが、役目を終えた廃隧道が眠り続けることの辛うじて許される場所で、もしこれ以上都心に近かったら残っていなかった気がする。




9:54 《現在地》

隧道から続く道は集落の中でも車1台分の狭い街路として存続しており、最後にはこの写真の場所――御所町のメインストリートに出た。
残念ながら、この間の沿道に期待したような記念碑などは見当たらず、周辺の街路も一巡したが、発見は得られなかった。

写真の正面にひときわ存在感を放っているのは、今回の探索のきっかけとなったぶるにゃん氏の書き込みの中で、隧道への目印として最初に名前の挙がっていた星稜の校舎である。
この風景を前に、私は一連の探索の終わりを実感したのだった。

これ以上捜索の範囲を広げても、ローカルな存在でしかない隧道の手掛かりを得るのは難しいだろう。
なんとなくだが、『金沢市史』のような大局的な文献には情報が期待できない予感もあった。(この予感は的中した)
手っ取り早く情報を得るならば、ここにいる間に何かをすべきだ。

そこで私は最後に、見つからなかった古碑に代わりうる口碑を求めて、近くの蓮田で作業をしていた男性に声をかけてみた。
古老と呼ぶにはさすがに若い、50歳代くらいの男性だった。
多くの方に聞き取りをしたい気持ちはあったが、一方でスケジュールの都合もあって、結局この一人の証言を手土産に現地を後にしたのだった。




地元住人の証言と難航中の机上調査


まずは現地で聞き取りをした、50歳代くらいの御所町住人の証言を紹介する。

  1. トンネルは古いもので、私が生まれた頃にはもうあった。
  2. 小学校1〜2年生の頃には、よくトンネルへ遊びに行っていた。当時はいまのように荒れておらず、まだ使われていた。
  3. 遊びに行くと、トンネル内にたくさんある貝をよく採っていた。貝塚だという人も、化石だという人もいた。
  4. (内壁に顔の壁画がなかったかと聞くと……) それは知らない。
  5. (トンネルの名称を質問すると……) 名称は特になく、私たちは単に「トンネル」と呼んでいた。
  6. トンネルがあまり使われなくなったのは「山側環状」の計画が決定した頃で、ニュータウン工事が始まって誰も通らなくなったと思う。

いかがだろう。おそらくは、どれも得心のいく内容だと思う。
私にとっても、探索中に考えていたストーリーと相反する内容はなく、悪くいえば意外性に乏しい。
そして、資料的なものに裏打ちされたような具体性のある数字や単語がないために、これをもとに何か調べるというのは少し難しいようにも感じた。

これらの証言の中で唯一解説を要すると思うのは、6番目の証言に出てくる、“「山側環状」の計画が決定した頃”というのがいつなのかということだろう。
予備知識がなければ分からないことだろうし、私も分からなかったので証言者に聞き返してみたが、本人も具体的な時期については自信がない様子で、とにかく、ニュータウン工事が始まってから通行されなくなったことを言いたかったようだった。

“「山側環状」の計画が決定した頃”がいつなのかは、帰宅後に調べてみた。
しかし、「金沢外環状道路の計画の変遷(pdf)」によると、なかなか一筋縄ではいかない。
というのもこの道路、大都市における大規模環状道路の例の漏れず、すんなり計画・建設されたものではないようなのだ。昭和45年、昭和49年、昭和61年、平成8年といった複数の時期に、それぞれ「決定された」と表現できる展開を迎えていた。証言者の言いたい時期がどれなのか、いまからでは判断しかねる。

そもそも、現在の「山側環状」は隧道を破壊するような位置を通っていないので、この道路の計画が決定されたことと、隧道があまり使われなくなったという出来事の相関が、いまいち不明である。
もしかしたら、過去の計画では隧道に大きく影響する位置を通ることが想定されていたのかも知れないが、より可能性が高いと思われるのは、山側環状の計画決定を受けて、現在の位置にニュータウンが計画された。そして、ニュータウンの建設によって隧道は使われなくなった――という解釈であろう。
ニュータウン整備の経緯も確認は取れていないので断言はできないものの、この証言はそういうことなのだろうと私は判断している。




現地探索(聞き取り含む)で解明できなかった、この隧道に関する主な疑問点は以下の通りだ。

  1. 隧道の正式名
  2. 隧道の完成年
  3. 隧道が建設された経緯
  4. ぶるにゃん氏の書き込みにあった、「福光を見下ろせる場所」との関連性

ようするに、明確に分かってることは、ここに手掘りの特徴を持つ隧道が現存しているという一事だけで、その他多くの事柄は不明確だ。

多くの疑問を一挙に解決してくれるような優秀な文献を探しているが、今のところ見つかっていない。
真っ先にあたった『金沢市史』は非常に冊数が多く、一部にしか目を通すことはできていないが、余り期待はできなさそうだという印象を持っている。
隧道がある御所町は、古くからの金沢市内ではなく、昭和11(1936)年に編入された旧小坂村に属していたためか、情報量が限られている印象がある。(大都市近傍にあって早い時期に編入された自治体は、得てして単独の市町村史が刊行されていないため、文献調査に苦しめられることが多いが、旧小坂村もそのパターンだ)

それではと、旧小坂村が河北郡に所属していた関係から、大正7(1918)年に刊行された『石川県河北郡誌』にも目を通したが、こちらも成果は得られなかった。
そもそも、大正時代から隧道があったかは分からないし、記述がないからといって隧道がなかったとはいえないのが難しいところだ。
そんなわけで、東京での文献調査は、今のところ手詰まりとなっている。



発見者であると同時に重要な証言者でもあるぶるにゃん氏の情報も、改めて検討してみた。
まずは前編冒頭に掲載した彼の最初の書き込みの前半部分を再掲しよう。

御所隧道? (2014/10/27 04:10:34)

HPいつも楽しく拝見させていただいております。
私が父から聞いた情報なのですが、金沢市御所町の星稜高校・中学の横を入って行くと加茂神社がありますが、そこから山の方へ向かった農道のつきあたりに古いトンネルがあるというのです。

そのトンネルは軽自動車が一台やっと通れるほどの大きさで結構長く、通り抜けた先は福光が見下ろせる場所なのだそうです。
父は御所町で生まれ育った弟から聞いて、実際に一緒に小型トラックで通ってみてきたと言っています。
その父の弟である叔父が調べたところによると、加賀藩が秘密裏に掘った近道だとわかったらしいです。

下線を付した2箇所の証言は、探索後にも謎として残った。
本編で見たとおり、隧道を抜けた先は柳橋川上流の谷底にある休耕地であり、基本的に道はそこで行き止まりである。少なくとも、車に乗ったまま福光を見下ろせる場所まで行くことはできないように思う。
加賀藩が秘密裏に開削した近道であるという話も伝説めいていて魅力的ではあるが、もしそうであれば『金沢市史』などに記録があって然るべきだし、にわかに信じることは難しい。

そして、これら証言中の疑問点については、ぶるにゃん氏本人が当の掲示板で真っ先に検討を行っているので、こちらも引用しよう。

Re: 行ってきました。 (2018/7/3 22:15:18)

ちなみに私が調べて判明した事、とまではいきませんが、私の仮説を述べさせていただきます。

>通り抜けた先は福光が見下ろせる場所なのだそうです。
通り抜けた先から、現在山王坂遊歩道として整備されている旧二俣越の道筋を通り福光に至るという意味だったのではないかと。

>その父の弟である叔父が調べたところによると、加賀藩が秘密裏に掘った近道だとわかったらしいです。
これも二俣越を指していて、隧道の事ではないと思います。
昭和45年版の地図には描かれていますが、昭和30年版には描かれていませんでした。比較的新しいものかもしれません。

地元の市議の小阪さんのブログに、この隧道に関して情報を求める書き込みがありました。それによると「マンポ」と呼ばれる素掘りの小規模トンネルであり、化石が採れるとのことです。

ここで初めて名前が登場した「二俣越」について、少し補足説明をしたい。

『歴史の道調査報告書 第3集 加賀の道 1』(1996年、石川県教育委員会)によると、二俣越とは右概要図の通り、加賀と越中を結ぶ山越え約4里の道で、「(北国街道に対する)脇道ではあったが、砺波地方から金沢へ行くのに四里程の距離と、比較的近かったため、古くからよく利用されて来た道である。すなわち、越中小矢部川の川上にあたる福光・城端・井波などからこの道を通って多くの米や織物・生糸・農産物等の諸荷物が金沢に運ばれた」というふうに、物資輸送の便道として活用されてきたそうだ。現在の地図に照らし合わせると、主要地方道金沢井波線がこれを継承している。

この道はあくまでも脇道であり、藩の公的な通行は公道である北国街道によるべきであったはずだが、「安政三年(一八五六)一三代藩主前田斉泰は、総勢一八三〇人程のお供と共に参勤交代で江戸から金沢へ帰国の際、高岡から城端へ廻り、二俣越を通って金沢に帰っている。」というふうに、加賀藩主も(秘密裏に?)通行していることから、これを「秘密裏に掘った近道」だとする説があるのも不思議はないように思う。

そしてこの二俣越の金沢寄りには、三ノ坂越と呼ばれる有力な間道があったそうだ。
もう一方は、大樋村より御所村・長屋村・夕日寺村・伝燈寺村・牧村・小二又村・二俣村・荒山村を通り、越中小又村へ出る道で、この道も同じく牛馬が往来していた。(中略)大樋村より小二又村を通り二俣村へ出る道を三ノ坂越と呼んでいる。三ノ坂と名付けられたのは、この坂道に山王社があったためで、もとは山王坂と言われていたが、後に三ノ坂と呼ばれるようになった。」という道であり、これがちょうど御所地区を通っているのだ。

ようするにぶるにゃん氏は、「(隧道を)通り抜けた先から、現在山王坂遊歩道として整備されている旧二俣越の道筋を通り福光に至」ったのではないかと、父君とその弟君の昔の旅程を推測されたわけである。

右の画像は、この探索の直前に行った夕日寺隧道探索の中で撮影した、山王坂遊歩道の風景である。
この場所(位置はここ)は「大休場(おおやすんば)」と呼ばれていて、嘉永の年号が刻まれた古碑があり、解説板にはこのように書かれていた。

加賀藩主・前田斎泰が安政3(1856)年に、二俣の料紙(和紙)製造を見るためにここを通った時、海を一望でき、ながめが良かったので、ここで休息したそうです。それ以降この名がついたようです。明治の初め頃まで、茶屋が建っていたそうです。

上記の内容からも、三ノ坂越(山王坂)の道が明治期まで盛んに利用されていたことが伺える。この道をずっと東へと辿っていけば二俣に達し、さらに進めば福光を見下ろせる峠に達すると思われる。


もう一つぶるにゃん氏が書かれている、「地元の市議の小坂さんのブログ」についても確認した。
これは、小阪栄進氏のブログ「えいしんにっき」の平成19(2007)年1月3日のエントリ「小坂小学校」になされたsoranohi氏のコメントにある次の一文「もし、御所町のマンポについてご存知の方、マンポの情報をお知らせ下さい。星稜高校の野球部のグラウンド近くですが、貝殻の化石をよく採りに行きました。」を指しているようだ。

「マンポ」(まんぽ)というのは、穴や隧道を指す古い表現の一つで、「ねじりまんぽ」などの用例がある。「まんぼ」ともいい、鉱山用語で坑道を意味する「間歩(まぶ)」などとも関連ある語だ。
貝殻の化石を良く堀に行ったという証言の内容は、私が現地で聞いたものと一致しており、あの隧道は、この地区の一定の年齢にある住人にとっては、少年時代定番の遊び場だった可能性が高い。こうなると、【顔面壁画】も当時のワル少年たちの遊びによるものである可能性が高まったように思うが、断定には至らない。




直接的な情報がきわめて乏しいなかで頼りにすべきは、航空写真と地形図だ。
ここからは間接的に隧道建設の時期や経緯の推測を試みたい。

(イ)
平成19(2007)年
(ロ)
昭和58(1983)年
(ハ)
昭和50(1975)年
(ニ)
昭和37(1962)年
(ホ)
昭和21(1946)年

まずは歴代航空写真によって、平成19(2007)年から昭和21(1946)年まで約60年間の変化を見てみた。

いまから四半世紀前の昭和58(1983)年版では、ニュータウンの造成がほぼ完了している状況だ。【隧道東側の道】がとても鮮明で、そこにある【調整池】の工事のために多くの車が出入りしていたのではないだろうか。隧道は既に廃止されていたと思う。

昭和50(1975)年版は、ニュータウン造成工事の開始直後のように見える。私が聞いた証言と照らしても、この頃が隧道現役の最後の時期だったと思う。

昭和37(1962)年版は、隧道前後の道がともに鮮明に見えるうえ、現在は調整池やニュータウンに埋立てられてしまった柳橋川支流の谷間の奥まで、びっしり水田が連なっている様子が見える。そして、隧道はこれらの耕地に行く近道として建設されたものではないかと考える根拠が、この航空写真である。
この頃が、隧道活躍の全盛期であったと思うのだ。

昭和21(1946)年版でも、谷間にある水田の広がりは変わらないように見えるが、注目すべきは、隧道位置の直上山腹に見える鮮明なラインだ。
これは、旧道ではないかと思われる。今回探索はしていないが、この位置に旧道が存在したことは、次の旧地形図調査でも支持された。
もしこれが本当に旧道で、これほど鮮明に見えているのだとしたら……、当時まだ隧道は開通していなかったことを示唆しているのではないか。私はそう考える。



@
地理院地図(現在)
A
平成12(2000)年
B
昭和43(1968)年
C
昭和5(1930)年

続いて歴代地形図の比較だ。

隧道は、昭和43(1968)年版で始めて登場し、平成12(2000)年版で表記が消えていた。
ここには掲載しなかったが、昭和28(1953)年版にも描かれていなかったので、これら地形図の表記を全面的に容れるならば、隧道の現役期間は、昭和28年より後に始まり、平成12年より前に終了したということになろう。

ここでも注目したいのは、着色で強調した柳橋川沿いの水田記号の消長である。

旧小坂村時代を描いている昭和5(1930)年版に隧道は描かれていないが、柳橋川とその支流の細長い谷底全体に延々と水田が連なっていて、後に隧道が現われる位置には徒歩道の峠道が描かれている。この旧道こそ、昭和21年の航空写真に鮮明に見えていた道だと思うのだ。
またこの地図には、先ほど二俣越の話の中で紹介した三ノ坂越の道が実線で描かれており、この頃までは多く利用されていたのだと思う。

昭和43(1968)年版で、はじめて隧道が現われる。
しかし、このときに既に谷底の水田は大幅に減少している。
高度経済成長といわれたこの時期、不便な山間地の耕作は早くも衰退に転じていたものと考えられる。
この大きな時代の流れは、車体を擦るような小さな隧道が与える利便程度では、到底抗いきれなかったのではなかろうか。

ここにもう一つ、おそらく御所隧道(仮称)と同じような衰退をたどった隧道の姿が見て取れる。
夕日寺隧道(仮称)である。
夕日寺隧道も昭和28(1953)年板になく、この地図で始めて登場している。こちらは現在の地理院地図にも描かれているのだが、実態は廃隧道なのだ。
御所隧道と夕日寺隧道は、立地に大きな共通がある。
どちらも、金腐川沿いの集落から、尾根の反対側にある柳橋川沿い耕地へと通じる隧道だ。それ以外のどこにも通じていない。福光へも通じてはいなかったと思う。
そして、地形図を見る限り、それぞれの目的地にあった耕地は年を追うごとに減少し続け、現在は皆無になっている。
結果、隧道は廃止された。


地形図と航空写真から導き出された御所隧道の正体は――

農道 または、林道。


超地味。 ごめんね(笑)。

ちなみに、夕日寺隧道は林道であったことが確かめられている。
農道や林道だとしたら、管理者である金沢市(あるいは石川県)が持っている農道台帳や林道台帳に記載があるかもしれないが、未確認である。

また、先ほどから繰返し述べている「水田」の記号がある土地で栽培されていた作物は、米ではないかもしれない。
『石川県河北郡誌』(大正7年)によると、旧小坂村で米より圧倒的に多く生産されていたのは、レンコンだった。
この特産品の増産のために深い谷の奥まで開拓されていたのかもしれない。ただし、レンコンは深い山中よりも有機物が多い都市近郊の水質に合うという話もあるから、広大な金沢平野をレンコン畑として利用した代わりに、米をこのような山間地で栽培していたとも考えられようか。

以上、私の推論をまとめると――

御所隧道(正式名は明らかにならず)は、昭和20年代か30年代に、農道として整備された。
廃止は昭和50年代で、ニュータウンの建設が直接の原因だが、耕地の減少によって、それ以前から利用は減少していたと考えられる。


ぶるにゃんさん、ありがとうございました!

完結。


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