探索後、本レポートを執筆するにあたって、追加の机上調査を行った。
が、やはり今回探索した隧道に直接の言及を行っている文献は、『川辺村誌』以外に見つからなかった。
とはいえ、本編冒頭で引用した文章には、まだ紹介していない続きがある。
もちろん私はその部分も読んでから探索していたが、隧道を含む旧道が整備された経過についての記述なので、皆さまにもここで紹介する。
前編で引用済の部分も再度引用し(文字色を薄くした)、その後に新規の内容が続く。
大字山浦 大久保間
西浦部落より下の平耕作地中央(現在学校の真中)を通り通称風速より千曲川に添って袴腰下より牛喰を通り大久保より鴇久保への道路に接続した。中川原の堤防のあった時代は千曲川の本流がこの道沿を流るる為少しの増水にも交通不能となった。更に袴腰下には千曲川へ突出した岩山がありそれは隧道で越した。其東口は低く梯子で登り降りした位で危険があった。一方千曲川増水の場合は袴腰の南を越えて通った。何れも幅員は二、三尺位で通行には不便で牛馬の通行は全く不能であった。
明治36年10月21日当時の郡会に於て上ノ平部落地籍より分岐し同村大字大久保に至り郡補助道芦田小諸線に接続する区間を郡補助道に認定された。(1)
大正3年3月には大久保にて小諸線より分岐し山浦を経て中津村御馬寄より相浜に至る区間を川辺線として郡二等補助線に郡会で認定された事もあった。(2)
明治43年6月西浦、大久保間859間、工費5467円35銭を要し県及郡補助を得て幅員9尺に改修したが(3)
袴腰下は毎年崩壊多く其道形さえも保たない個所多く、交通に支障を来し其後数度に亘り部分的に改修し、又砂防工事等に依り道路の保持に当てた事等もあった。(4)
昭和26年には西浦中央300m、幅員4.6mを工費44万円を投じて改修、同28年難所と言われた袴腰下通称風速地籍より字牛喰に至る間、延長500.6mを幅員4mに工費141万円を以て改修し同所の交通も安全となった。(5)
重要な内容(1)〜(5)が目白押しだが、色々な地名が錯綜していて地図がないと少々分かりづらい。
登場する主な地名を記した広域地図を用意したので、それを見ながら(1)と(2)をまず解説したい。
右図のピンクの線で囲んだ範囲が、旧川辺村の範囲(現在の小諸市大久保と小諸市山浦の2大字の範囲)である。
そして今回探索した隧道(袴腰下隧道(仮称))は、大久保と山浦を結ぶ千曲川左岸の市道沿いに存在する。
なお、大字山浦の中に西浦と上ノ平の小地名があり、これらの地名が村誌に混在して出てくるが、図では一つの地点に集約して描いている。
(1)の内容は、明治36(1903)年10月に、当時川辺村が属していた北佐久郡の郡会が、山浦より大久保に至る区間を新たに郡補助道に認定したという内容だ。
郡補助道は、本来であれば各町村単独で維持管理すべき里道でありながら、費用の一部を郡費から補助する規定を設けたもので、当時は多くの郡に見られた。
当時、大久保には現在の県道40号諏訪白樺湖小諸線の一部にあたる立科町芦田から小諸に至る路線が郡補助道芦田小諸線として通じていて、同様に山浦には現在の県道142号八幡小諸線にあたる路線が郡補助道八幡小諸線として通じていたから、これら既存の郡補助道を結ぶ山浦〜大久保も郡補助道になったことで、旧川辺村内の千曲川左岸道の全線が郡費を以て補助する路線となったことが分かる。
なお、川辺村は明治22(1889)年から昭和29(1954)年まで存続したが、もともと山浦村と大久保村の区域が一村となって発足したもので、役場は山浦の上ノ平に置かれた。したがって山浦と大久保を結ぶ道は、村を二分する地域間の交通路であり、一村としての和合に必須の重要路線と見なされていただろう。
続いて(2)の内容は、大正3(1914)年に北佐久郡会が、大久保〜山浦〜宮沢〜御馬寄(みまよせ)〜相浜の区間を、郡二等補助線という格付けの郡補助道川辺線として認定したというもの。
この新認定の路線は、従来からあった郡補助道八幡小諸線と山浦〜宮沢で重複していたと推測される。
ここまでの(1)と(2)は路線史(路線名の変遷)であったが、(3)以降は土木史(工事の記録)である。
そのため、(3)は時系列的には(2)よりも前の内容となっている。
(3)の内容はシンプルで、明治43(1910)年6月に西浦〜大久保間859間(1561.8m)を県及び郡の補助金を得て幅員9尺(2.7m)に改修したというもの。
村誌に明言はされていないが、袴腰下の岩場に隧道が掘られたのは、おそらくこの時だと考える。
すなわち、明治隧道だったということで、ほぼ確だろう!!
引用した一連の記述の前半にある、「袴腰下には千曲川へ突出した岩山がありそれは隧道で越した。其東口は低く梯子で登り降りした位で危険があった。一方千曲川増水の場合は袴腰の南を越えて通った。何れも幅員は二、三尺位で通行には不便で牛馬の通行は全く不能であった。」にある、梯子で登り降りしたり、幅2〜3尺程度で牛馬が全く通れなかったというのは、明治43(1910)年の改修(=隧道建設)以前に【この岩山】を越えていた古道についての記述だと判断した。
(4)は、(3)で建設された袴腰下の道が、開通後もたびたび崩壊し、道形を保ちがたかったという苦労話だ。
【現地】を見た後だと、まあそうなるよねと、超絶納得する。
何度も行われたという部分的改修や砂防工事の内訳も不明だが、こんな風に書かれているくらいだから、開通当初と廃止直前の状況は相当違っていただろう。
残念ながら村誌には(他の既知の文献にも)隧道や周辺を写した写真はなく、現役当時の姿については今のところ想像するしかない。
川辺村の千曲川左岸という狭い範囲の共通した立地に、今回探索した隧道の他に、数本の隧道が存在することが知られている。
以前レポートした県道142号の宮沢3号隧道(2本からなっていた)や、県道40号上に存在する布引隧道などで(いずれも先ほどの地図上に位置を表示)、どちらも由緒は明治まで遡るが、村誌を読む限り、それぞれ別の機会に工事が行われているようで、今回の隧道と一連の施工がなされたわけではなかった模様だ。
また、これらの隧道には昭和初期の改修時に設けられた非常によく似たデザインのコンクリート坑門があるが、両者の中間に位置する今回の隧道だけは最後まで素掘りであった。
最後の(5)の記述は一気に時代が下って、村誌執筆直近の事情が書かれている。
すなわち、昭和28(1953)年に袴腰下の隧道がある前後500mを工費141万円で幅員4mに拡幅し、これでようやく「交通も安全となった」と結んでいる。
現存する隧道も幅4m強を有しているから、この時の改修を受けた姿ということが分かる。
その後も、廃止までに改修が行われたかも知れないが、村誌刊行(昭和32年)以降の経過は文献的情報皆無である。
また、遅くとも大正3年までは郡補助道であったこの道が、その後どのような変遷を経て現在の小諸市道に至ったかも分かっていない。
おそらく大正8(1919)年の旧道路法制定後、北佐久郡の郡道となったのが順当な経過と思うが、まもなく郡制廃止のため郡道は県道へ昇格するか町村道へ降格するかの二択を迫られた。旧地形図を見る限り、この区間は一度も県道になっていないので、郡道から川辺村の村道へ降格し、その後県道に昇格する機会なく、現行道路法下で改めて市道に認定されたものと推測している。
ところで、平成15(2003)年に刊行された『小諸市誌 近・現代篇』には、川辺村誌には記載のない川辺村内での出来事が記されていた。
それは昭和初期の出来事で、「小諸―本牧線の県道編入をめぐって、川辺村の鴇久保と上の平で激しい争いがあった。この問題は村議会や県会議員を巻き込んで同盟休校や助役の辞任にまで発展し、県はこの事態をみて県道編入の請願を却下した。こんなことがあってか、御牧ヶ原へ登る道路の改修はおくれることになった。」とあるのだ。
小諸と現在の佐久市望月(本牧)を御牧ヶ原越しで結ぶ路線の県道認定を巡って、川辺村を二分するような激しい対立が起きたという。
小諸という地方の中心的都市に隣接していた川辺村では、小諸より放射される路線が村内のどこを通過するかで鋭い利害の対立を生んだ。こうした構図は、村内で完結する道路の整備を遅らせる原因にもなったかもしれない。
最終的に隧道が廃止され、隣に現在ある道が整備された時期についても、文献的情報はないが、古い航空写真を比較することである程度絞り込めた。図を見て欲しい。
確認できるものとしては最も古い昭和21(1946)年の航空写真を見ると、“矢印”の位置で、道が明らかに隧道を潜っていることが分かる。
道幅が4mに拡幅されたのは昭和28年とのことで、それ以前の風景であるが、空から見る限り、道形はとても鮮明だ。前述したように、川辺村内の最重路線として日々手入れされていたのだろう。隣を流れる千曲川の流れにも注目で、平時の水流は対岸寄りにあるものの、崖下まで川原が迫っていたことが分かる。
これが昭和50(1975)年の写真になると、道は隧道を通らなくなっている。前後の道も現在の位置にあるようだ。
既に川原を埋め立てて道を移動させる換線が済んでいることが分かる。この大々的な改修に関し文献的情報がないのは残念だ。
なお、画質が低いため掲載しなかったが、昭和46(1971)年版で既に換線済みであった。したがって、隧道の廃止と換線は、昭和28年以降、46年までの18年間に行われたと考えられる。
この期間にあった大きな出来事としては、昭和29年の小諸との合併があり、小諸市の事業として改修された可能性が高いが、『小諸市誌』に関連する記述は見つけられなかった。
大正4(1915)年に北佐久郡が発行した『北佐久郡誌』を確認したところ、大正初期の川辺村の道路についてまとめた次の記述を見つけた。
特に後半の「附記」とされた部分に注目して欲しい。
本村里道は南方南御牧村境宮澤より起り西北方北御牧に通ずるものを幹線とし、大久保より大久保橋を経て小諸町に通ずるもの、上の平より戻橋を経て同町に、大杭より萬年橋を経て同町小原區に通ずるもの(此外上の平より御牧が原を経て本牧に通ずるものあり)を主なるものとす。
附記 此幹線中南方宮澤の入口(南御牧地籍)及宮澤大杭間並に西浦大久保間の三所は千尋の絶壁千曲の清流を圧して聳立せるを以て其中腹を或は截り或は鑿ちて僅に道を通ずるを以て時に崩壊の災を招き之が修繕に少なからざる費用を要することあり、然れども其山水の風致に至りては行人をして覚えず足を停めしむ。
「附記」にある「3か所」とは、現在の月の島隧道、宮沢隧道、そして袴腰下隧道の地点を指している。
これらの地点は地形が極めて険しく、千曲川に臨む崖の中腹を「あるいは截(き)りあるいは鑿(うが)ちて僅に道を通ず」としている。切り通しや隧道による道があったことを明言しているのである。
これらの地点は、多発する崩壊のため道路の維持に多額の費用を要する一方、山水の風致に優れ、行く人が思わず足を止めて見入ると書いていて、私が現地で唖然となった袴腰下の【岩山風景】は、当時の人々にとっても衝撃的だったのだなと少し安心した。もしあれが当時は平凡な風景と見なされていたならヤバイからな(笑)。
私が、西浦ダムと島川原発電所を結ぶ地下導水路の旧水路跡と判断した、探索序盤に見つけた【謎の穴】だが、あれの正体はおそらく、水路は水路でも発電用ではなく、灌漑用だったようだ。『北佐久郡誌』に、「大久保用水 戻橋下より千曲川の水を堰上げ、大字大久保平の灌漑に供す。本村(=川辺村)唯一の用水たり」とあるのを発見。戻橋は川浦にあるから、川浦と大久保を結ぶ灌漑用水路があったことが分かる。
さらに郡誌は、川辺村内の主要な里道を3本挙げ、簡潔に解説している。
いずれも当時、北佐久郡会が郡費の補助によって整備した路線である。
○山浦里道 宮澤より上の平に至るものにして、明治35年4月改修竣工す。長さ32町11間2尺、工費9427円を要せり。
○布引里道 大久保より布引山に至るものにして、明治41年11月改修竣工す。長さ950間、工費2864円60銭を要せり。
○上の平大久保間の里道 明治43年6月竣功せしものにして、長さ859間、工費5467円35銭3厘を要せり。
3本目の路線「上の平大久保間の里道」が今回探索した区間であり、改修の時期や長さ工費など、村誌の記載と同じだ(おそらくこの郡誌を引用して書いたのだろう)。
他の2本はそれぞれ現在の県道142号と県道40号にあたり、いずれも明治期に隧道が掘られた路線であったが、上記の順序で順次に建設されたことが分かる。
また、それぞれの建設費を比べると、1mあたりの金額は上から順に2.68円、1.65円、3.50円となって、今回探索した区間が一番高い。
隧道は短くても非常な難工事であったことが窺える数字だ。
以上である。
隧道内にある小屋の正体など、もっといろいろな事が分かれば良かったが、現時点で判明したのは、このくらいだ。
机上調査をいつも(独自に)手伝ってくださる るくす氏(X:@lux_0)は、隧道現役当時のこの地方の紀行文を色々チェックしてくれた(おぶこめ No.54474)が、紀行を残す旅人はみな小諸から大久保を経て布引山を目指していて、大久保を左折して今回探索エリアに向かった内容は発見できなかったとのことだ。
今でこそ、今回探索した市道は小諸市街地を迂回する車の抜け道として交通量が多いが、昔の歩きの旅人にはそんな需要あんまりないもんなぁ…。
でも未知の隧道が発見できたから、探索は大成功だった!