国道121号旧道 非道隧道  

公開日 2006.11.27
三島通庸

 三島通庸(みちつね・みっちー 1835-1888)。
私は、果たしてこの名を何度連呼しただろう。
いまや私のPCは“み”と入れるだけで三島通庸と出るまでに成長した。

 国会図書館のサイト「近代デジタルライブラリー」で閲覧することが出来る『三島通庸』(平田元吉 明治31年刊)と言う書は、三島の死後10年めに書かれたもので、未だ多くの三島道が現役で活躍していた当時の記録として、きわめて貴重である。

「通庸十年の間、東北に開鑿せし道路は、其の延長実に三百五十里内外にして (中略) 其の工夫を役せしこと三百万人を下らざるべく(中略)橋梁は約百八十を架し、隧道は十個を穿てり……」

ここでは、その名称と現状だけ列挙してみようと思う。リンクが張られているものは既にレポート済みだ。

  • 栗子山隧道  (△現存・閉塞)
  • 二ツ小屋隧道 (○現存)
  • 刈安隧道   (×開削)
  • 関山隧道   (○現存)
  • 座頭頽隧道  (×開削) 
  • 鳥上坂隧道   (○現存)
  • 大峠隧道   (○現存)
  • 本尊岩隧道  (△現存・封鎖)
  • 蟹沢隧道   (×ダム水没)
  • 非道隧道   (○現存)当レポ

 明治15年から17年までの2年間の福島県令時代(17年は栃木県令兼任)は、彼にとって闘争の日々に他ならなかった。
すなわち、農民を巻き込んで県土を席巻した自由民権運動の鎮圧と、この火に油を注いだ彼一級の道路傾倒の政治政策。
そんな中で生み出された隧道の一つが、非道隧道である。

 “非道”とは、また随分な名である。
福島県令としての彼が心血を注いだのが、会津若松市を中心にして東西南北の車道を建設するという「会津三方(さんぽう)道路」計画であった。
議会の承認を得ぬままに独断で建設をはじめ、しかも沿道の農民には重度の賦役を強制、働けぬものには税金を課したと言うから、まさに“非道”。
もともと自由党勢力が強かった福島の県民が、「喜多方事件」を契機に暴力的な自由民権運動へと立ち上がったのも、道理と言える。

 文字通り、血と涙が染み込んだ道。
 それが会津三方道路なのである。

 さて、とにかく完成した会津三方道路ではあったが、福島赴任前に山形県令として築き上げた「万世大路」や「関山新道」のような高評価には届かなかった。通庸が病に伏す明治30年以降、昭和はじめ頃まで、東北にも長く鉄道王者の時代が到来したためだ。
当時、失政だと揶揄する声さえあった。

 だが、彼の死後相当経ってから、今日まで道路全盛の時代が続いている。
山形でそうであったように、この福島でも、彼が築き上げた道は国道として、会津地方に欠かせぬ道になっている。
盛んに利用される道は、廃されて自然に任される以上に変革を余儀なくされる。
大川に根元を洗われる“比戸岩”に掘り抜かれた“非道”隧道もまた、早々と地図上から、そして人々の記憶からも消えていった。

 その隧道が、このネット上で2004年の冬、“再”発見された。
しかも、現役当時の姿のまま? ひょっこり? 現れ出たらしい。
この驚くべき発見は、福島を拠点に活動されるTUKA氏(街道WEB)の手に依った。




昭和40年頃まで車道でした

大川狭窄部 鉄路との協奏

周辺地図

 会津三方道路のうち南北線として建設された米沢−会津若松−今市(日光市)のルートが、昭和28年に二級国道121号に指定され、現在までその路線番号を引き継いでいる。

 下郷町役場に近い橋坂地区の国道121号が、現在の二連続で大川(阿賀川)を渡る道になったのは、昭和41年の若水橋開通以後で、それ以前には素直に大川左岸をなぞっていた。
しかし、そこには比戸岩と名付けられた花崗岩の露頭が迫り出しており、そうでなくとも蛇行する大川が険しい垂崖を削り取っている。

 ここに、三島の残した遺物はある。



 私がこの場所を訪問したのは、2006年の11月24日。
あらゆる薮道がもっとも鮮明さを持って地上に赦される時期を狙ってきた。
非道隧道を含む一連の旧道区間は全長1kmほどで、私は大川下流の若水橋側(東側)から入ることにした。

 入口には申し訳程度の封鎖ゲートがあった。
また、その奧には車の轍が続いていた。
なお、写真左の青色の欄干の橋は若水橋に並行する若水歩道橋だ。



 旧道に入ると早速急峻な斜面に取り付く。
崖を削り取って道が拵えられており、その路面は砂利敷きのままだ。
車がすれ違える状況ではない。
しかし、会津三方道路を三島は馬車が2台すれ違える幅で建設しており、幅4間(約7m)以上を標準とした。
この道もよく見てみると、轍の外にも平場があり、全体としては確かに、かなり広いことが分かる。



 旧道は水面の近くまで緩やかに下っていく。
振り返ると現道の若水橋の高さが際立って見えた。
スラリと長い橋脚が谷に居並ぶ姿は美しい。



 更に進むと下りが終わって、その先に水面上に張り出して建てられた橋板水位観測所が現れた。
この下流には大川ダム(若郷ダム)があり、その関連施設だろうか。
大川やその下流の阿賀川、阿賀野川は、その支流只見川と並び、昔から「電気が流れている」と言われるほど電源開発者の熱い視線を浴びてきた川だ。

 路傍には、おそらく現役時代に立てられたと思われる路肩ポール(雪国の定番だ)が残っていた。


 刻まれた4輪の轍は水位観測所の前で突如終わった。
この先には、僅かに一本の轍(この人か?)が薄く残るのみだった。
路面には大小の倒木が散乱し、ぶ厚く堆積した落ち葉の下はややぬかるんでいた。
ガードレールは見当たらず、法面も裸のまま。
岩場には終わりかけの紅葉が、身に沁みる霜風に揺れていた。



 だが、孤独ではなかった。

路肩も半ば崩れ落ち、廃道の景を欲しいままにする旧道だが、そのほぼ真上、正確には切り立つ法面の10mほど上方に、スカイブルーのか細い鉄橋が連なっていた。
初めてここに来た誰もが刮目する光景である。



 それは、かつて一度は廃止されかけながら、3セクとして今に存続した国鉄会津線。
名を変え、今は会津鉄道会津線である。
会津線の単線の鉄路もまた、屹立する比戸岩の前でジタバタせず、構造物の連発で悪地形をねじ伏せる路を選んだのだった。

 …よくあんな所怖くなくて走れるな…。
傍目からはそう思えるような、レール幅のほかに殆ど余裕のない鉄橋に、その身を半ばはみ出させつつ、しかも結構な速度で列車は通過していく。



 何と荒々しい道か。
強引に岩場を削って得た道が、今度は緩やかに登りながら続いている。
見るからに脆そうな風化した花崗岩の岩場からは、人間大の岩が幾つも路上に落下していた。
道に面した崖の所々には、かつてダイナマイトをセットしたと思われる細い筒状の穴が空いている。
三方道路の工事時にはまだダイナマイトは実用化されていなかっただろうから、これでも後に改良されたのだろうか。



 入口から400mほど来たところで、遂に私は隧道に遭遇した。
だが、それは鉄道のものだった。
しかし、我らが旧道も負けじと橋を持ち出してきた。
いよいよ比戸岩と呼ばれる難所に突入する。


 はたして、かつてこの橋には如何なる名が付けられていたのだろう。
そこにあったのはコンクリート橋であり、三島時代の物でないことは明らかだ。
しかし、既に橋上は殆ど真っ平ら。親柱4柱全てが消失しているに留まらず、欄干さえ僅か1mほどを残して全て削ぎ落とされている。
こんな信じがたい暴力を振るったのは、おそらく毎年2メートルも積もる雪だろう。



   橋の周囲にはまともな平地がまるっきり無く、このように橋を側面から撮影するだけでも結構危ない。
30mほど下方の青々とした水面に滑り落ちるリスクを背負いながら、斜面に生える木に身を預けてカメラを構える。
だが、こうして撮影した橋の側面は、思いがけず真新しく見えた。

 いったい三島はここにどのような橋を架けたのだろう。
特に記録が残っていないことからも、石橋ではなかっただろう。
すなわち、木橋。
当然、当時はまだ頭上の線路はなかった。

 三方道路の工事では、主に普段は鍬を持つ人たちが、工事に当たった…。
いったい、彼は何人死なせたんだろう……。
なぜか、そのような記録は残っていないようだが…。



 名も知れぬ橋を渡ると、鉄路は短いトンネルへ、旧道は岩場を迂回するようにカーブしている。
相変わらず路傍にはガードレールが見当たらないが、現役当時には存在していた可能性が高い。
というのも、一部路肩が崩壊している箇所では、崩れた土砂の中に古びたガードレールが散見されているのだ。
つまり、ガードレールは存在しているが、毎年の落石と落ち葉の堆積によって、地中に消滅してしまったのではないだろうか。

写真は、カーブの途中、ややオーバーハング気味に張り出した岩場を振り返って撮影。



 ふと気付くと、頭上の崖の中腹に小さな石碑が立っていた。
左はお地蔵。
右は馬頭観音と刻まれている。
真ん中には、「蛭蟇巌」と刻まれている。
果たしてこれは何を意味するのだろう。
蛭(ヒル)、蟇(ヒキガエル)… どちらも水田に関係するものだが…。

 それにしても、石碑が安置されている岩場は水面から30m以上も高いが、明らかに川面に浸食された痕跡がある。
一体どれほどの時をかけて大川はこれほど深く谷を浸食してきたのだろう。
気が遠くなりそうだ。



 更に進むと、朽ちた吊り橋が現れた。
更にその先にも、並行して谷を渡る巨大な影が見える。
思いがけぬ遭遇に、足取りは早まった。



現役と廃物の四重奏


 それは紛れもなく吊り橋の残骸だった。
主塔は非常に低くコンパクトな外観だが、結構な幅を有している。
細い何本かのワイヤーを綯って主索としているが、枯れたツタが絡まり不気味である。
肝心の渡り板はその殆どが深淵に落下し、残っているのは数枚だけだ。
一昔前の地形図昭和43年応急修正版(部分)を見ると、確かにここには橋の記号があった。
対岸の橋坂集落は崖際まで民家が密集しており、国道がこちら岸にあった当時には、この橋が集落へ行くための貴重な道だったに違いない。



 廃吊り橋の隣に掛かっているもう一本の橋。
それは、今まで見たことがない、異様なものだった。

 充腹コンクリートアーチ橋の上部、普通なら通路となる部分が半円形の上面を有している。
すなわち、この橋には平坦と言える部分はなく、しかも欄干もないから、もし渡ろうとするならバランス感覚を試されそうだ。
幅40m、深さ30mもあろうかという谷を、異形の大アーチが跨いでいる。
苔を纏う巨大な体躯は、まるで伝説上の大蛇のようだ。


 近付いてみると、巨大な水管であったことが判明。
袂には高さ3mほどの円筒形のサージタンク(管内の水圧を調整する機構)があり、その中を覗いてみると、水がなみなみと湛えられていた。しかも水面は小刻みに動いており、現役であることを知る。
実はこれ、戦前に喜多方が誘致した昭和電工(株)の発電用送水管なのである。

 水管の袂に設置された金網通路の上に立って谷を見渡すことが出来る。
右の写真は上流方向で、中腹に行く手の道の法面が連なって見えている。


 そして、渡ってみました。

ゲゲゲと思うかも知れないが、意外にイケます。

 真新しい欄干が設置されており、しかも安全帯(命綱)を繋留するためのワイヤまで完備されている。
これらもまた、この施設が現役であることを物語っている。
仮に手摺りが無くても風がなければ渡れそうなほど、結構幅が広いのだ。
渡った先は民家の裏庭で金網で柵がされているが、私は思った。

 地元の子供はきっと、ここで度胸試しをしたはずだ。
そして、夏は飛び込んだに違いない…。(でも、やるなよ。俺はやらないぞ)
ご覧の通り、谷底の水面は静かで、入浴剤でも入れたかのように青々としていた。



 と、ととと、  と、

  ところで…、


 この谷底の崖の途中に見える、あのラインは何かな……。


 まさか、まさかだよね。

 絶対近づけないからね。あそこには…。




 たっぷり高所を満喫して旧道へ戻った。

 そこには吊り橋(廃)、水道管(現役)に次いで、更に2つの構造物が出現していた。
というか実は、この辺に来ると、この4つがほぼ
同時に目に入ることになる。
だが、レポ的にそれは無理…(笑)。
故に、自分が近付いた順序に合わせて紹介したまでだ。
この場所の“盛り沢山”感はちょっと凄い。

この画像に写っているのは、上が会津線の雪崩覆い(現役)と、下が…。



非道隧道  通庸最後の遺址

 非道隧道である。

 明治16年に完成し、昭和41年までは国道として車を通していた、非道隧道。

 三島通庸が生涯に東北各地に造らせた10本の隧道のうち、所在が判明しているのは9本。
うち、地上に現存するものは6本。
さらに、現在も貫通しているのは4本。
そのうち、後世にコンクリートによって改良を受けなかったのは、1本

 それが、この非道隧道である。

おそらくは、三島が造った当時の姿を残す唯一無二の隧道が、この非道隧道なのだ。
そんな貴重なものが、ここに素知らぬ顔でひょっこり、現存していた。


 確かに薩摩隼人通庸の辣腕は、生活に精一杯の人々にとって“非道”であったに違いないが、なにゆえ“比戸”岩を貫く隧道に、この当て字を許したのだろう、彼は。
或いは「道非ず」を開鑿したことを顕彰する命名だったのだろうか。

 完成当初の規模は不明だが、現存する非道隧道は、ご覧のように大型車がようやく通れる程度の素堀隧道となっている。
ちなみに、我らオブローダーのバイブル『全国隧道リスト』(「山形の廃道」提供)においても、この隧道の記載はない。
おそらく、リストは昭和42年時点のものなので、タッチの差で廃道化しリスト漏れをしたのだろう。



 いざ入洞の前に、私をここまで誘導してくれた道に黙礼。

かつて、この短い隧道を脱したドライバーの目前に現れた光景は、この重厚な駒止めだった。
大型車との行き違いなど、果たしてどこでしていたのだろう。
私の見る限り、前後に見通しの利く広場など無かった。



 比較的断面の整った入口に対し、もの凄い歪なシルエットを見せる出口。

 もともと崩れやすい(掘りやすくもあったろうが)花崗岩に掘られた隧道ゆえ、全壊していないだけでも儲けものと思える。
また、不思議なのはこれだけ天井が抜けているにもかかわらず、洞床にはそれほど岩石が落ちていないことだ。
殆ど人が来ている気配はなかったが、それでも今なお管理されていると言うことなのか、或いは…

現役当時に崩れたのか。



 三島のフルネームを叫ぶ間もなく、隧道は終わる。(名字までは行けそうだ)

既にだいぶ崩れてしまった天井ではあるが、側壁にも巨大な亀裂が走っており、それは内壁を一周して反対側の坑口にまで続いている。

外見上は貧相な素堀隧道であるが、その経緯を考えると、東北全体、或いは日本全土で見てもかなり貴重な土木遺産だろう。

このまま自然に任せ崩壊させるのが自然だという考えもあろうが、これはただの古い素堀隧道ではないのだ。
行政には最低限の補強工事と延命処置を期待したい。



 右上の画像は既に著作権切れとなっているものだが、我々が「非道隧道」の誕生当時の姿を知ることの出来る貴重な写真である。
これは、三島通庸が自らの関わった道の完成した姿を、写真家菊池新学に撮影させたもので、福島県内分は37枚全てが現存している。
三島の道の風景としてお馴染みの洋画家高橋由一の絵画も、同様に三島の依頼で描かれたものであった。

こうして同じアングルと思われる写真を較べてみると、岩の配置に変化はないものの、国道時代の視距確保のためか、かなり岩盤が削られていることが分かる。
また、もとより坑口の断面は縦長だったのかも知れない。



 ここで旧道区間はちょうど真ん中である。

気がつけば、大川の水面は驚くほど下方に遠ざかっていた。
なおも険しい岩盤から削りだした道が続くが、遠くには現国道の楢原橋が見えている。
あそこまで行けば旧道も終わりだ。



 旧道区間全体の中でも、この辺りがもっとも法面の崖が高くそそり立っている。
岩質も変化しており、硬質的になってきた。
しかし、そのせいか路面状況は比較的穏健である。
一部はガードレールも残っており、おそらく国道時代の姿をもっともよく残したエリアだろう。

険しくはあるが、それでもこの道はまだ、明治のころに要求された役割であれば十分果たしそうだ。



 行く手には道を塞ぐ鉄柵と、杉の林が見えてきた。
三島とのめくるめく逢瀬も、もう終わりが近いようだ。

彼の生前には殆ど誰にも評価されなかった、三方道路建設の偉業。

私は、その断片でしかない、この短い廃道で、何を知れたという自信もない。
だが、来た道を振り返り、思う。

彼は、その生きた時代を通り越す、先進的な新道を幾つも造った。
彼の死後に我々が引き継ぎ、そしてやがてこの日本に現れ出たもの。
それは、まさに彼が思い描いていたような道路網だった。
山河をものともしない、近代的な道。橋。トンネル。

 見よ三島!!

あなたの残した道は、今こんなにも孤立している。
しかし、それは後世の我々が、あなたの夢を現実にする、幾多の土木技術を得たからに他ならない。
あなたの道を、時代遅れだと捨て去るほどに、私たちは育ったのだ。

 喜んでくれるか、三島よ…。



 この柵の手前では、一人の老人が地面に落ちた枯れ枝を拾い集めていた。
明らかに土地の人っぽいその動きに、私は叱られるかと覚悟した。
しかしご老人は、私の「おはようございます」の呼びかけににっこり笑うと、「写真撮りですか」と応えたきり、またもとの作業に戻っていった。

 そのまま私はゲートを越え、杉の林の一本道に入った。



 永久設置されたような鉄パイプのゲートを振り返ると、そこには新しげな看板を見つけた。

もう枯れきったような廃道に、この通行止めの看板。
意外な取り合わせであるが、よく読むと驚きがあった。(ちなみに、この廃道は町道なのかも知れない)

「この先の橋坂隧道にて落石の危険があるため当分の間通行止めとします 下郷町」


 隧道の名前。

聞き慣れない「橋坂隧道」になっているではないか。
「非道」という名は、既に過去のものだったのだろうか。
“当分”がいつまでなのかは問うまでもないとして、この隧道の名の相違は、気になった。
まさか町の担当者が“非道”の名を知らなくて… などというわけではあるまい。



 ご老人の乗って来たらしい自転車をよけ、杉の落ち葉が路面を覆い尽くす道を進む。
100mほどして、その道を取り巻くように作業場が現れた。
かつて国道敷きだったはずだが、既に払い下げられているのだろうか。



 そこを出るとようやく普通の道になる。
振り返ると、TUKA氏も突っ込んでおられた「40km制限・終わり」の標識があった。
確かにこれは不思議だ。
非道(橋坂?)隧道に法定速度ギリギリで突っ込んだらどうなることか。

 ちなみに、会津線の2つ目のトンネルはかなり長かったが、ここでようやく地上に現れると一度旧道と並行し、また離れていく。



 さらに200mほどで現道に合流して終わる。

この合流地点の線形を見ると、今歩いてきたのが旧道だったとよく分かる。
このまま国道を真っ直ぐ行けば南会津の中心地田島町を経て、さらに山王峠で栃木県に達する。
三島はこの道を山形−若松−今市−東京の「奥州街道に並ぶ東北の大幹線」と定義して改良に当たったが、現在でも並行する高速道路がないこのルートは、三島の夢を果たせたとは言えないだろう。



 現道の楢原橋から、いま通ってきた比戸岩の風景を振り返る。

 さきほど水道橋の上から見つけ、私に「ありえない!」と叫ばせた“謎の”ラインだが、どうやらそれは相当に古い時代の水管設置通路だったと思う。
というのも、谷間に残る鉄の管を発見したからだ。
そして、鉄の管に始まる“それらしい”ラインを目で追っていくと、川の勾配を無視して、ずっと水平に続いていることを見いだした。

…もっとも、この管を施設したのは人間だったのだろうが…。



 旧道とは対岸にある橋坂集落内から、断崖に挑む旧道と、その上で共闘する鉄路を俯瞰する。

旧道は明治16年頃、鉄路は昭和9年に敷かれている。
今後はもう、敢えて比戸岩に立ち向かおうとする道が造られることはないだろう。

我々は既に、この程度の谷を何度でも一跨ぎにする橋梁技術を、手にしているのだから。