非道隧道である。
明治16年に完成し、昭和41年までは国道として車を通していた、非道隧道。
三島通庸が生涯に東北各地に造らせた10本の隧道のうち、所在が判明しているのは9本。
うち、地上に現存するものは6本。
さらに、現在も貫通しているのは4本。
そのうち、後世にコンクリートによって改良を受けなかったのは、1本。
それが、この非道隧道である。
おそらくは、三島が造った当時の姿を残す唯一無二の隧道が、この非道隧道なのだ。
そんな貴重なものが、ここに素知らぬ顔でひょっこり、現存していた。
確かに薩摩隼人通庸の辣腕は、生活に精一杯の人々にとって“非道”であったに違いないが、なにゆえ“比戸”岩を貫く隧道に、この当て字を許したのだろう、彼は。
或いは「道非ず」を開鑿したことを顕彰する命名だったのだろうか。
完成当初の規模は不明だが、現存する非道隧道は、ご覧のように大型車がようやく通れる程度の素堀隧道となっている。
ちなみに、我らオブローダーのバイブル『全国隧道リスト』(「山形の廃道」提供)においても、この隧道の記載はない。
おそらく、リストは昭和42年時点のものなので、タッチの差で廃道化しリスト漏れをしたのだろう。
いざ入洞の前に、私をここまで誘導してくれた道に黙礼。
かつて、この短い隧道を脱したドライバーの目前に現れた光景は、この重厚な駒止めだった。
大型車との行き違いなど、果たしてどこでしていたのだろう。
私の見る限り、前後に見通しの利く広場など無かった。
比較的断面の整った入口に対し、もの凄い歪なシルエットを見せる出口。
もともと崩れやすい(掘りやすくもあったろうが)花崗岩に掘られた隧道ゆえ、全壊していないだけでも儲けものと思える。
また、不思議なのはこれだけ天井が抜けているにもかかわらず、洞床にはそれほど岩石が落ちていないことだ。
殆ど人が来ている気配はなかったが、それでも今なお管理されていると言うことなのか、或いは…
現役当時に崩れたのか。
三島のフルネームを叫ぶ間もなく、隧道は終わる。(名字までは行けそうだ)
既にだいぶ崩れてしまった天井ではあるが、側壁にも巨大な亀裂が走っており、それは内壁を一周して反対側の坑口にまで続いている。
外見上は貧相な素堀隧道であるが、その経緯を考えると、東北全体、或いは日本全土で見てもかなり貴重な土木遺産だろう。
このまま自然に任せ崩壊させるのが自然だという考えもあろうが、これはただの古い素堀隧道ではないのだ。
行政には最低限の補強工事と延命処置を期待したい。
右上の画像は既に著作権切れとなっているものだが、我々が「非道隧道」の誕生当時の姿を知ることの出来る貴重な写真である。
これは、三島通庸が自らの関わった道の完成した姿を、写真家菊池新学に撮影させたもので、福島県内分は37枚全てが現存している。
三島の道の風景としてお馴染みの洋画家高橋由一の絵画も、同様に三島の依頼で描かれたものであった。
こうして同じアングルと思われる写真を較べてみると、岩の配置に変化はないものの、国道時代の視距確保のためか、かなり岩盤が削られていることが分かる。
また、もとより坑口の断面は縦長だったのかも知れない。
ここで旧道区間はちょうど真ん中である。
気がつけば、大川の水面は驚くほど下方に遠ざかっていた。
なおも険しい岩盤から削りだした道が続くが、遠くには現国道の楢原橋が見えている。
あそこまで行けば旧道も終わりだ。
旧道区間全体の中でも、この辺りがもっとも法面の崖が高くそそり立っている。
岩質も変化しており、硬質的になってきた。
しかし、そのせいか路面状況は比較的穏健である。
一部はガードレールも残っており、おそらく国道時代の姿をもっともよく残したエリアだろう。
険しくはあるが、それでもこの道はまだ、明治のころに要求された役割であれば十分果たしそうだ。
行く手には道を塞ぐ鉄柵と、杉の林が見えてきた。
三島とのめくるめく逢瀬も、もう終わりが近いようだ。
彼の生前には殆ど誰にも評価されなかった、三方道路建設の偉業。
私は、その断片でしかない、この短い廃道で、何を知れたという自信もない。
だが、来た道を振り返り、思う。
彼は、その生きた時代を通り越す、先進的な新道を幾つも造った。
彼の死後に我々が引き継ぎ、そしてやがてこの日本に現れ出たもの。
それは、まさに彼が思い描いていたような道路網だった。
山河をものともしない、近代的な道。橋。トンネル。
見よ三島!!
あなたの残した道は、今こんなにも孤立している。
しかし、それは後世の我々が、あなたの夢を現実にする、幾多の土木技術を得たからに他ならない。
あなたの道を、時代遅れだと捨て去るほどに、私たちは育ったのだ。
喜んでくれるか、三島よ…。
この柵の手前では、一人の老人が地面に落ちた枯れ枝を拾い集めていた。
明らかに土地の人っぽいその動きに、私は叱られるかと覚悟した。
しかしご老人は、私の「おはようございます」の呼びかけににっこり笑うと、「写真撮りですか」と応えたきり、またもとの作業に戻っていった。
そのまま私はゲートを越え、杉の林の一本道に入った。
永久設置されたような鉄パイプのゲートを振り返ると、そこには新しげな看板を見つけた。
もう枯れきったような廃道に、この通行止めの看板。
意外な取り合わせであるが、よく読むと驚きがあった。(ちなみに、この廃道は町道なのかも知れない)
「この先の橋坂隧道にて落石の危険があるため当分の間通行止めとします 下郷町」
隧道の名前。
聞き慣れない「橋坂隧道」になっているではないか。
「非道」という名は、既に過去のものだったのだろうか。
“当分”がいつまでなのかは問うまでもないとして、この隧道の名の相違は、気になった。
まさか町の担当者が“非道”の名を知らなくて… などというわけではあるまい。
ご老人の乗って来たらしい自転車をよけ、杉の落ち葉が路面を覆い尽くす道を進む。
100mほどして、その道を取り巻くように作業場が現れた。
かつて国道敷きだったはずだが、既に払い下げられているのだろうか。
そこを出るとようやく普通の道になる。
振り返ると、TUKA氏も突っ込んでおられた「40km制限・終わり」の標識があった。
確かにこれは不思議だ。
非道(橋坂?)隧道に法定速度ギリギリで突っ込んだらどうなることか。
ちなみに、会津線の2つ目のトンネルはかなり長かったが、ここでようやく地上に現れると一度旧道と並行し、また離れていく。
さらに200mほどで現道に合流して終わる。
この合流地点の線形を見ると、今歩いてきたのが旧道だったとよく分かる。
このまま国道を真っ直ぐ行けば南会津の中心地田島町を経て、さらに山王峠で栃木県に達する。
三島はこの道を山形−若松−今市−東京の「奥州街道に並ぶ東北の大幹線」と定義して改良に当たったが、現在でも並行する高速道路がないこのルートは、三島の夢を果たせたとは言えないだろう。
現道の楢原橋から、いま通ってきた比戸岩の風景を振り返る。
さきほど水道橋の上から見つけ、私に「ありえない!」と叫ばせた“謎の”ラインだが、どうやらそれは相当に古い時代の水管設置通路だったと思う。
というのも、谷間に残る鉄の管を発見したからだ。
そして、鉄の管に始まる“それらしい”ラインを目で追っていくと、川の勾配を無視して、ずっと水平に続いていることを見いだした。
…もっとも、この管を施設したのは人間だったのだろうが…。
旧道とは対岸にある橋坂集落内から、断崖に挑む旧道と、その上で共闘する鉄路を俯瞰する。
旧道は明治16年頃、鉄路は昭和9年に敷かれている。
今後はもう、敢えて比戸岩に立ち向かおうとする道が造られることはないだろう。
我々は既に、この程度の谷を何度でも一跨ぎにする橋梁技術を、手にしているのだから。