10:01 【地図は右画像をマウスオーバー!】
ちょ! 隧道来た。
見事貫通もしている!!
やったぜ!
つか、なんだこの形は?!
こ…これは…、あれだ…。
矩 | 形 | |
断 | 面 |
※一度これをやってみたかったんだよな…元ネタ分かりましたか?(笑)
しかもこれ、ただの矩形断面では納まってない。
天井は微妙に孤を描いているし、左の側溝は分かるとしても、右の歩道みたいな出っ張りは完全に意味不明。
矩形をベースにしつつも、明らかにそれを逸した“変態断面”である。
かつて房総で見た「旧城山隧道」にも劣らない変態度だが、完全な廃道中で見つけた分、興奮度は段違い。風の吹き抜ける洞内に立ち尽くしたまま、数分は動けなかった。(眼だけは動いていた)
矩形の断面を有する隧道の大御所といえば、私自身は見たことはないが、大分県の「キリズシの隧道」が知られている。(より詳しい情報は「日本の廃道vol.17」(バックナンバーCD vol.2所収)に掲載されています)
あれは明治3年竣功という古さもさることながら、長さもなかなかのものがあり、近代土木遺産の最上位であるAランクに見事列せられている。
もちろん、評価の最大のポイントは矩形断面自体の珍しい事にある。
この隧道、もしかしたら 結構な掘り出し物 なのでは…?
隧道の“土木的価値”を判断するためには、どれだけ古いかを知る必要が最低限有る。
地質の条件さえ揃っていれば、今の掘削技術を使ってこんな形の隧道を(戯れて)掘ること自体は難しくないはずで、どの時代の技術で作られたかは非常に重要な評価点となるのだ。
だが、キリズシの場合は現地に立派な開通記念碑があって竣功年を誇っているのに較べ、この隧道にそういうものは見あたらない。
また南伊豆町誌を読んだことがあるが、この隧道については全く書かれていなかった。
素堀だから、扁額の情報を期待することも出来そうにない。
唯一隧道の古さを判断できる情報は、古地形図に記載された年代である。
冒頭で述べたとおり、この探索の発端となった古地形図は「大正15年版」である。
また、そのひとつ古い版である「明治29年版」に隧道が描かれていないことも確認済み。
つまり、かなりの確率で隧道の完成年は明治29年〜大正15年の間である。
近代土木遺産の認定条件のひとつは戦前の完成ということなので、資格はあるのだ。
ゴチャゴチャ言うのはまた後にして、この異端の隧道を詳解していこう。
まずはもういちど、最初に入った北口坑口を振り返って…
壁に、
なんか模様がある…!
まさかと思い、恐る恐る近付いて見てみると…
この野郎!
やりやがった!!
壁に刻まれた扁額出現!
しかも、「明治」の文字が真っ先に飛び込んできた!
こいつ、まさか明治隧道?!
よよよ読んでみよよよ。
于時
明治卅一年二月下旬成工
当区九番地
石工
□□次郎□
これから分かる内容は明瞭で、隧道は明治31年2月下旬に完成したと言うことが第一。
それ以下の情報は石工についてのようだ。
「当区九番地」とは、この一條地区の九番地という住所であろう。
だが、そこに住む石工の名前は意図的に削り取られたように見える。
これはどういう経緯によるものなのか。
残念ながら分からない。
それと、地味に冒頭の二字「于時」という書き出しも初めて見るものだ。
これで「時に」と読むとのことである。
この銘板についても皆様の知見を広くお借りしたい所である。
ともかく、
この隧道の竣功年は超高確率で明治31年。
明治隧道を、また一本発見した!
隧道の細部を観察していこう。
通り抜けるだけならば、あっという間に過ぎてしまうような短い隧道だ。
じっくり、味わいたい。
これは天井の拡大図。
表面の岩質は全洞に渡って均一のようで、石切場で見るのと同じ凝灰岩である。
素堀隧道にとっては最良の地質で、これほど浅い土被りでもほとんど崩壊していないことからも、その優位が分かるだろう。
また、中央部がやや高くなるように掘られているが、これだけ均質的な地質であれば、平面も円弧も強度的に大した差はないと思う。
これは少しでも利用者の圧迫感を減らすように考えたのか、単純な気まぐれなのか…。
意図的にそう削っていることは明らかなだけに、面白い。
これは側壁のアップ。
刷毛で擦ったような痕が全体に広がっているのは、鑿で手彫りを行った何よりの証拠である。
鑿はかなり刃の大きなものを使ったようで、一本の削り痕も長いから、比較的に柔らかい地質で掘りやすかった事が分かる。
なお、写真中央部にひとつだけダイナマイトの装填穴のようなものが写っているが、この正体は不明である。
南口付近にのみこのような穴が複数見られたように記憶している…。
(亀裂も写っているが、これは自然に出来たもの)
このように鑿で掘った事は間違いないが、その作業は整然とシステマチックに行われたようだ。
というのも…
一面鑿痕に埋め尽くされた内壁(天井も)に浮かび上がった、より大きな枠組みの痕。
残念ながら詳しい掘り方は想像によるしかないが、この大きな枠組み(フレーム)単位でまず掘り進み、次いで壁面の成形も行ったのではないだろうか。
これはツルハシやダイナマイトで“破壊的”に掘り進むのとは別の技法を感じさせる。
もう、私の頭の中には“ある場所”のイメージがこびりついて離れなくなっていた。
ここは、“ある場所”に怖ろしく似ていた。
右はその“ある場所”の写真だ。
一條隧道とそっくりの矩形断面と、壁一面の鑿の痕、そしてよく見ると「フレーム」も見える。
ここはお隣の下田市内にある、某廃坑道である。
現地では“丁場”と呼ばれる石切場の跡で、こうした坑道やより大きな広間が無数に存在している。
洞床にはレールも敷かれていた。
言わんとすることはもう分かっただろう。
この一條隧道は、石切の技術をもって建設されたに違いない。
銘板にあった「石工」というのも、普段から字碑を作るような我々の考える石工ではなく、石切職人の事ではなかっただろうか。
いずれにしても、この隧道が明治以前の古い石切の技術で掘削されている事は断定して良いと思う。
巻き尺を持っていたので、だいたいの断面のサイズを計ってみた。
天井の幅は180cmで、綺麗に1間と一致した。
床と天井の間の距離(高さ)も同程度(実は自信がない)だが、気になるのは片側の壁の下端が、高さ30cm幅40cmほどのサイズで切り残されていることだ。
敢えてここを掘らなかった理由は、これまた分からない。
ここが自動車道ならば「歩道として残した」と考えたいが、それはない。
荷車や人力車くらいは通れそうだが、隧道南側の道は急坂であり、本当に車両が通れたかは分からない。
それに段差上は屈まなければ歩けないほどの天井の低さだし、歩車道のセパレートの段差をこれだけ大きくする理由も分からない。
工費が途中で足りなくなって、最後の段階で掘削を妥協したのか?
段差の上も脇も妙に凸凹していて、隧道中では唯一“仕上げられていない”という印象を受けたが…。
全長(目測)15mほどの隧道では、幸せを噛みしめる時間は短い。
もう、南口が迫ってしまった。
だが、ここにも気になるものが、ふたつあった。
一つは、左の壁の出っ張りである。
たった一つの大岩が削られずに残っているだけなのだが、25cmくらいも出っ張っている。
先端を削り取る事さえしていないというのは、隧道が車両や大きな荷物の通行を想定しなかった証左ではないだろうか。
もうひとつは、例の床の掘り残しについてだが、この南口の所で一箇所だけ“掘り終えて”いるのが見つかった。
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どんなことにも意味がある。
そう考えるのは、私の悪い癖かも知れない。
意味は無いのかも知れないが、鑿の痕はこの30cm四方だけ削り取られた部分にも付いており、当初からの施工であったことを教えていた。
考えられるのは、地蔵や何らかの建碑の場だった可能性だが、普通そういうものは周りより高いところに置く。
掘り下げて安置するとは考えにくい。(いや、碑ならば固定のためにそうしたかも知れない)
他には扉を設置した可能性だが、これは低そう。(前代未聞過ぎる…)
100年以上昔の、それも相当に土着的隧道のあれこれを想像するのは、色々無理があるかもしれぬ。
まあ、それが楽しいのだが。
10:08
あーあ、終わっちゃった…。
振り返る南口は、始めに見た北口とは印象が180度異なっている。
北口が谷底の竹林にひっそり口を開けていたのに対し、この南口は急な山腹にドンと開いており、木漏れ日を浴びて青々と茂る草が洞風に揺れていた。
坑口前の土は流れ出してしまったのか、直に岩盤が露出している。
このままでは車輪の付いた乗り物は通行不可能(チャリは担げるからOK)である。
また、洞内から引き出された側溝が、最後まで詰まることなく仕事を果たしていたのも、なんか感動した。
まあ、隧道内部は完全に乾ききっており、側溝が活躍する場面はあまり想像できないのだが。(仕事が丁寧である)
そして、道は一つに繋がった。
隧道を出て下っていくと、案の定、チャリを停めていた分岐地点が見えてきたのである。
見えてきたというか、急勾配の道はそのまま分岐へ繋がった。
地図にすると、【この通り】。
結局私が辿った2本のルートは、旧道と新道の関係だったのかも知れない。
前回見た「謎の凹み」の謎は残ったままだが。
ぐるっと一巡。
チャリの元へ戻った。
そして、改めて隧道へ繋がる道を観察すると…
石垣発見…
ただ、丁寧な印象の隧道とはうって変わって、こちらは間近に見ないと人工物と判別できないほどに風化。
植物に覆われている。
接近して見てみても…
砕石をただ乱れ積みにしたような粗雑、というか素朴な石垣である。
面白いのは、わざわざ石垣を積んでまで据え付けた道が、車道らしからぬ急坂である点だ。
個人的にこの隧道は人道専用に近かったのではないかと思っている(バイクや自転車は通ったかも知れない)が、その根拠がこの石垣上の急坂である。
チャリを抱えて今来た隧道へ戻る。
写真は石垣上の急坂道。
幅は2mくらいある。
常識的に考えたら、隧道へ向かうような道ではない。
だが、実際にはこの急坂を突き当たりまで進み、直角に左折して間もなく坑口はある。
もし先にこちらを探索していたとしても、全体に草が茂っているせいで、相当近付かないと隧道の気配は感じられなかっただろう。
再び隧道を楽しむ with チャリ。
結局この隧道の一番の謎は、壁際の“掘り残し”かも知れない。
これだけは、最後まで自信のある推測が出来なかった。
あなたはなんだと思われますか?
隧道での動画も2本有るので、お暇ならどうぞ。
隧道に関してはこれが最後のチェック。
浅い浅いと言っていた土被りの本当の浅さを確かめるべく、北口脇から隧道直上の尾根へ登ってみた。
確かに思ったとおり浅かったのだが、それより驚いたのは、ここにもちゃんとした道の痕跡が残っていたことである。
流石に隧道と併存した道ではなく、両側は坑口前の堀割(北口)や広場(南口)に削り取られて切断されていたものの、峠越えの道自体は今もかなり鮮明だった。
先に越えた西側の峠よりも立派なくらいである。
(すなわち、ごく近接して二つの明かりの峠が存在することとなり、それぞれの由来が謎である)
これが一條隧道直上にある峠である。
見ての通り、明らかに堀割を成している。
やはり西側の峠よりも立派だ。
そして、この堀割の路面と隧道の路面の比高は、大きく見積もっても10mしかない。
隧道工事という大業の成果として、僅か10m峠を下げることに、当時の人々はどんな意義を認めたというのだろう。
解明されていない謎である。
<2本の峠に関する一仮説>
今いる東側の峠が古くからの本道であり、次に西側の「謎の凹み」の位置に隧道を掘ろうとして工事に取りかかったが、何らかの事情により中止。
代わりに東側の峠の下に掘ったのが現在の隧道。
西側の峠道は、最初の工事の際の作業道の名残である。
仮説というか、矛盾を生じさせないためだけの妄想か…。
さて、残り(右図の水色の部分)を仕上げて帰ろう。
西側と東側の2本の峠道が合流しても、道の様子は別に太くなるとか変化はなく、鬱々とした竹林の中をほぼ真っ直ぐ下っていく。
道というか涸れ沢のようでもあるが、ともかく道はこれ以外考えられない。
特に困難を感じる場所もない。
ということで、普通に考えればここが道で間違いないし現に道もあったのだが、冷静に古地形図を見ると異変に気付く。
隧道を南から北へ抜けた道は、そのまま沢を下ることなく反対に遡って、峠を越えて山向こうの毛倉野へ至るように描かれているのだ。
これとは別に北側にももう一本道が描かれ、これは北西の山中に消えている。
現地の地形を見る限り、これはやや不自然である。
隧道を抜けた道が再び登り直し別の峠へ向かうことは別に構わないが、2本の道を結ぶ道が存在しなかったとすればそれは不自然だ。
ちょうどそこには一軒の家屋の記号が描かれており(それらしい物は辺りに現存しなかったが)、そのために道が間引きされたと考えるのが自然だろう。
それはともかく、一條と毛倉野を結ぶというのがこの道の意義だったのだろう。
今の地図に当てはめると、右の通り。
緑色の部分にも道の痕跡があったはずだが(今回は未確認)、少し行けば現在の車道にぶつかるようだ。
古地図の記載は破線(徒歩道)だが、実際どの程度の往来があって、また重視された道であったのかはそれだけでは測れない。
隧道が掘られたと言うことは、地域にとってかなり重要であったか、それとも大きな利便を受ける裕福な人物や企業があった可能性が高いが、いま手許にある情報だけでは判断しかねる。
いま言えることは、この場所に明治31年に掘られた、珍しい矩形断面の隧道が現存しているということである。
そして、その隧道は地域に根ざした石切の技術によって掘られただろうという、これは相当に確からしい推測である。
もしかしたら今後、然るべき機関によって再評価される可能性もある一條隧道。
人任せにしないで、私も引き続き追いかけてみるつもりである。
ここからは余談。
隧道という土木構造物の価値って何だろうって、思うことがある。
石切場としては希少でも何でもない矩形断面の坑道が、もし隧道だというだけで貴重と判断されるならば、隧道と坑道の違いは何だろうか。
公用と専用?
少なくとも、技術的に厳然たる区別はないはずである。
石切技術転用の隧道を別に蔑んでいるわけではない。
ただ、純粋に疑問なのだ。
このことが自己の中で解決しない限り、本心から「これは貴重ですよ!」って言えない気がして、もどかしい。
まあ、そんなのは本当に価値が評価されてから悩んでも足ることだが(笑)。
10:27
短いが密度の濃い探索は、一條と毛倉野と結ぶ町道にぶつかったところで終了した。
こちら側からだと隧道まで僅かな竹林歩きだけで容易に到達できるし、危ないところも特にない、何より通行止めなどという表示もないようなので、気軽に矩形隧道を体験したい人は行ってみると良いだろう。
ただ、余計なお世話かも知れないが、竹林はタケノコの出る季節だけは入らない方がいい。
Dさんと誤解される心配がある。
町道に出た向かいに数軒の民家が集まって建っていた。
ぜひ隧道の事を聞こうと思って近付いてみたが、残念ながらご不在のようでした。
ちょっとだけ、心残りかも…。