2026/3/21 9:30 《現在地》
鬼女洞を逆走し、巨大なドリーネに中に収まった柏集落へと戻ってきた。
まもなく自転車のデポ地点にたどり着こうという所で、往路では会わなかった畑仕事中の住人に遭遇。
ここしかないと直感を持った私は、すぐさま自身の目的を明かして、聞き取り調査を開始したのである。
聞き取り対象者: 柏集落在住 80歳 女性
私ははじめに、証言者は鬼女洞に入ったことがあるかを聞いてみることにした。
たぶんYESであろうから、そこを取っかかりに、昔の洞窟の様子を聞いていこうという考えだったのだが、
数秒後、彼女が想像外の衝撃的な証言を始めることを察した私は、反射的に録音ボタンを押していた!
というわけで今回は、実際の証言内容を文字起こししたものを直に読んでいただくことにしよう。
……やべえぞ。内容。
| 聞き取り内容 前編 (太字=証言者 細字=私)
|
|---|
|
……古新聞紙を1枚巻いて、ちょっとこう火をつけて、あそこの入り口で。
松明みたいにして。
タタタタタタタタターッと、急げば燃え尽きるまでに、通れた。
燃え尽きるまでに歩かないといけないの?
すごい勢いで、ダダダダッ。
えー!??!(驚)
それからトトトッ降りて。
通学してたんですか!鬼女洞を通って?!(驚)
毎日ですか?!
いや、普段はこっち(西)から山をおりて(高梁)川沿いを歩いて国道に出ていた。けど、ちゃんとした道路じゃないもんだから、雨で増水するとなくなるんですよ道が。今は広くなったでしょ?
はい、今は車通れますもんね。
このぐらいの道なの(狭い道をジェスチャー)。そうすると、ちょっと増えると水がバシャバシャ来たら、もう歩けないでしょ。そうしたら、「あ、今日はこっちだ」と思って。
じゃあ、街へ出る鬼女洞を通路として使ってる方が、ここには他にもいらしたんですか?
いや、他にはいない。私は毎日行かなきゃなんないから。
学校に行くために!
たまに用事があって行くんじゃなくて、毎日でしょ。
線路まで出てからは、どうしてたんですか?
あそこ出てからは、小舟で渡らせてもらったり。「おーい」って言ったら渡してくれる人がいたんですよ。でも、大水が出たら危ないから渡してくれないでしょ。そうしたら、あのー、線路があるでしょ。あそこにトンネルが2つあるんですよ。
(ニヤリとして…)あ、線路歩いて!
それをトトトッと走って、トンネル2つくぐって、鉄橋渡って、その下に降りて、そこに自転車を置いてて。それで自転車ザーッと漕いでいって、井倉駅まで行って。
うわー、すごい。
それで駅まで行って、あとは電車通学。
えー!大変ですね、それ。
そう。だから冬なんか朝、電車がたいていね、6時半くらい、井倉駅を。
はい。
そうすると、ここを出て行くの6時に出ちゃ間に合わないでしょ。だから暗いのに電池(懐中電灯)を持って、そこ、杉ボラの間を通って行ったり、この鬼女洞を通ったり…。
あ、鬼女洞の上にも道があった?
本当に水が出ると鬼女洞も通れなくなるから、そのときは上に道があったんですよ。山を越えて、線路へ。
行きも帰りもそうしてたんですか?
そうそう。帰りもそう。いやー、だから、もう、こんな思いまでして高校行かなくてもいいわと思いながらやってました。
|
……さすがにぶっ飛んだぜ!! この証言には!
この証言者、かつて、このようなこと(↓)をしていたというのだ!
証言者はかつて高校へ通うために、鬼女洞を通っていた。
その際には、イメージ画像のように、丸めた新聞紙に火を付けたものを灯りとして、それが燃え尽きるまでに脱兎の如く洞内を駆け下ったという。
毎日の通学路だったわけではなく、川が増水し普段の通学コースが使えないときの緊急的ルートであったとは言うものの…。
これは私の想像を遙かに超える体験談であった!!!
この証言者の通学ルートを、実際に当時の地形図上に再現してみたのが、次の図である。(参考までに、2026年現在80歳である昭和21(1946)年誕生者の高校在学時期は概ね昭和37(1962)年4月〜40年3月である)
チェンジ前の画像に紫線で示したのが、平時の通学ルートである。
証言者は、高校へ井倉駅から電車通学をしていたが、自宅(柏)から井倉駅まで行くためには、高梁川の右岸のごく狭い道を歩いてから、(おそらく渡し船で)対岸の国道へ出て、駅へ向かっていた。
だが、この高梁川沿いの道は、川が増水すると通れなくなった。
チェンジ後の画像に紫線で示したのが、増水時の通学ルートである。
自宅を出るなり、鬼女洞を(即席の新聞たいまつ、あるいは懐中電灯)で潜り抜け線路へ出る(ここまで私が探索したルート)。
線路に出ると、普段はそこにも渡し船があったが、増水時は渡れないので、そこから線路をトンネル2本、鉄橋1本を渡って国道へ出、そこに停めておいた自転車に乗り換えて、駅へ向かったというのである。
また、これは私の個人的な印象だが、証言者は増水時だけでなく、より高い頻度で鬼女洞を通学に使っていたのではないかという印象を持った。
たとえば、自分の自転車を線路と国道の交点に普段からデポしていたという話や、本当に増水して鬼女洞も通れなくなったときの第3のバックアップルートを持っていた話などが、むしろ鬼女洞ルートが通学のデフォルトルートに近い状態だったのではないかと思わせるのだ。
私のこの感想はともかくとして、高校の3年間では相当回数を通学路として利用したのは間違いないだろう。
となれば、柏集落の住民の多くが同じように、生活路として洞内を通行していたのではないかという印象を持ったが、証言者はこれについては、「自分だけである」と明確に否定したのもまた面白い。もし時間があれば、他の住民にも話を聞いてみたいところであった(笑)。
証言者が高校時代、通学用自転車をデポしていたという、伯備線の第6高梁川橋梁と国道180号の立体交差地点の様子。
当時、国道はこれほど広くはなかっただろうが、鉄橋の姿は変わってなさそうだ。
日本広しといえども、通学のために鍾乳洞と鉄道トンネル2本&鉄橋1本を歩いていた経験を持つ人物は、彼女だけかもしれない!
また、文字起こしは省略するが、この後私は小学校・中学校時代の通学路はどうであったかも質問している。
証言者の小学校および中学校への通学ルートをまとめたのが、次の図である。
法曽小学校(平成14(2002)年閉校)へは、片道約3.5kmの道を歩いたが、鬼女洞を通る必要はなかったとのこと。
また、井倉中学校(平成22(2010)年閉校)へは、片道4kmの道を歩き、やはり増水時には図中にピンクの線で描いたような、大変な迂回路を通らねばならなかった(約6km)というが、鬼女洞を通った記憶はないらしい。(理由は分からないが、学校で厳しく禁止されていたのだろうか?)
証言者の話が面白すぎて、聞き手である私もテンションが必要以上に上がってしまった感があるが、最後は観光洞としての鬼女洞の終焉について伺った。
| 聞き取り内容 後編 (太字=証言者 細字=私)
|
|---|
|
……だから、すごいもう、そりゃあ苦労でした。学校行くだけでも。
高校生の頃には、鬼女洞はもう観光洞としては利用されていなかったのですよね?
そうそう、もう、それはもう完全にやめてしまってたんです。
私が小さい頃……、たぶん70年くらい前には止めてしまったと思う。
そんなに早く。
観光客は、どうやって鬼女洞を訪れていたのでしょうか?
観光客は、国道沿いに絹掛の滝があるでしょ。
はい、はい。ありますね。
あのあたりで車を止めておいて、それから冬とか水の少ない時期だけ架かっていた板橋を渡ったり、水の多い時期は渡し船があって、それで渡ってきていた。
川を渡ってから、線路がありますが、どうやって線路を渡っていたのでしょう?
線路は、下を潜れる場所があった。
(内心「あっ!ヤラレタ」と思いながら……) ああ、確かに線路の下に小川が流れてますね、あそこが通れた?
そうそう。
で、観光客は洞窟を潜り抜けて、柏の集落まで来ていたのでしょうか?
潜っても、そのまままた引き返していたんだよ。柏には車も入れなかったし、観光客も(集落までは)上がってこなかった。
通学に使われていた頃の洞内は、どんな感じでしたか?
観光のために整備したコンクリートの階段や通路がしっかり残っていて、照明は消えていたけど、歩き易かったよ。
それが今では随分と荒れていますが…。
昭和47年にとても大きな水害があって、洞内に大量の土砂が流れ込んで埋もれたり、階段や通路もほとんど流れてしまったんだよ。
なるほど、そうだったんですね
今日は大変貴重なお話を伺えて、とても感動しました!
いやー、大変なあれでした、もう本当に。道路がないっていうのは、本当にもう……。
どうもお邪魔しました。ありがとうございました。
|
この後段の聞き取りの中で私が「ヤラレタ!」と思ったのは、探索中に歩道の終点と考えて引き返した線路端から、さらに線路を潜って川まで降りる経路が存在したという話である。
私が現地で撮影した動画の中に何食わぬ顔で写っていた、小川を渡る小暗渠か橋梁と見えた部分には、観光客が通る通路が併設してあったのだという。
さすがにこのことを確かめるためだけに、あの洞内に舞い戻る気にはなれなかったので放置しているが…。
また、洞内が荒れてしまった原因は、昭和47年に発生した大きな水害とのことで、これはおそらく「昭和47年7月集中豪雨」のことであろう。上記リンク先によると、「昭和47年7月11日から12日にかけて梅雨前線の大雨により、岡山県内では、死者16名、重軽傷43名、全壊270棟、半壊・一部損壊1,000棟、床上浸水3,588棟、床下浸水13,633棟もの被害が発生した。
」とのことである。
ついでに、鬼女洞東口の対岸を通る国道路上より撮影した、周辺の遠景も紹介しておこう。
このように、洞窟の存在も、そこへ通じる道の存在も全く窺い知れないのであるが、予め場所を知っていれば、洞口がある巨大な岩崖や、洞口より流れ出る柏南平谷川が形作る門戸のような谷口の存在は、見て取ることができる。
かつて大勢の観光客がここを通って楽しみ、それが終焉した後も、少なくとも一人の学生を助ける仕事をした、道であった。
以上、洞窟探検を終えた私が、柏集落で巡り会った、“奇蹟の証言”を紹介した。
この証言を得たことで、地形図上にまるで道路トンネルのように表現されるという奇抜な特徴を有する天然の鍾乳洞である鬼女洞が、
少なくとも一人の人物によって、通学路として日常利用される道であったことが判明したのである!
期待を上回る聞き取りの成果に、私はもうお腹いっぱいになるくらい満足したが、ちゃんと文献調査も行ったので、最後にその成果をお伝えしよう。
@ 平成11(1999)年
|
|
|---|
A 昭和43(1968)年
|
|---|
B 昭和26(1951)年
|
|---|
C 明治31(1898)年
|
|---|
まずは歴代の5万分の1地形図で、鬼女洞がいつ頃から描かれるようになったのかを調べてみよう。
@平成11(1999)年版には、はっきりと鬼女洞が描かれている。しかも、最新の地理院地図と同じで、貫通した道路トンネル同然の表現をされている。
現地の状況や、聞き取りの内容と照らしても、既に観光洞としては廃絶して久しかったはずだが、今日まで描かれ続けているのである。
もし、管理者なりが積極的に坑口を封鎖して通り抜けができない状況にされていたら、もしかしたらこのような表記はされていなかったかも知れない。
A昭和43(1968)年版にも、全く同じように鬼女洞は描かれている。
周囲の状況についても@との違いはあまりないが、国道が全体的に狭かったり、今は開削されて消えたトンネルが描かれていたりしている。
B昭和26(1951)年版まで遡ると、鬼女洞は消えてしまった。聞き取りでは、鬼女洞が観光洞として使われていたのは昭和30年代の始まり頃(70年くらい前)までと聞いたが、発見時期はいつ頃なのだろうか。それ次第では、観光洞としては随分と短命だったということになるが…。<.p>
ちなみにこの版には、現在県内で最も栄えている観光洞である井倉洞もまだ描かれていないし、鬼女洞の対岸にある「絹掛の滝」についても、「不動滝」という別の名で表記されている。
C明治31(1898)年版まで遡っても、やはり鬼女洞は描かれていない。だが柏集落は当時から描かれていて、それが大きな凹地に面していることも、等高線の表現から分かる。
高梁川沿いには既に国道180号の祖先である馬車道が描かれているが、昭和3(1928)年に開業した伯備線は影も形もない。
まとめると、地形図に鬼女洞が描かれるようになったのは昭和43(1968)年版からで、それ以前は描かれていなかった。
続いては文献調査である。
国立国会図書館デジタルコレクションを「鬼女洞」をキーワードに検索し、ヒットした文献を古い順から一つずつ確認した。
すると、最も古かったのは昭和26(1951)年9月で、教育図書専門の出版社である旺文社が主に大学受験生をターゲットとして発行した教養雑誌『学苑』昭和26年9月号より、「阿哲峡の神秘境開く」という記事である。
その内容は次の通りだ。
阿哲峡の神秘境開く
中国山脈を貫く阿哲峽は、古生代石灰岩の綴る白亜のパノラマだ。
峽を流れる高梁川の清流は、全国の90%に上る石灰岩を産出する。
そこに最近、一大鐘乳洞が発見された。
伯備線の方谷駅と井倉駅の中間、ふるくより「柏の岩屋」と称ばれた未開の石灰岩の洞窟がそれである。
同地石蟹郷村の杉氏が数年来この洞窟の内部を探検、「鬼女洞」と命名して世に紹介されることとなつた。
入口は小さい穴であるが、内部は非常に広大で、天井の高さ百五十尺に達する処もあり大石柱、奇岩群立して壮観を呈し、これより百米離れて、水晶宮の如き石簡林立の美しい洞窟がある。
先日、祕庫の扉を開く開洞式が観光関係者を招待して挙行された。
『学苑 昭和26年9月号』より
この記事により、鬼女洞と命名される以前は、「柏の岩屋」と呼ばれていたことが判明。
大々的な「開洞式」が昭和26年に行われ、観光洞としての歴史を刻み始めたとのこと。
歴代地形図のB昭和26年版に描かれていなかったのも道理であった。
なお、洞内の様子も簡単に紹介されているが、入り口は小さな穴で内部は広大という表現から、当初は私と同じく柏集落側から足を踏み入れていたことが窺える。また、貫通しているという事への言及は特に見られない。

『おかやま』創刊号掲載「鬼女洞霊験記」より
この記事が出た翌月の昭和26年10月には、さらに詳細な鬼女洞のリポートが世に現れている。
それは、1950年代初頭の短期間、おかやま出版社という会社が発行した雑誌『おかやま』の創刊号(1951年10月発行)に掲載された、「鬼女洞霊験記」という怪しげなタイトルの記事で、小川閑香という人物が書いたものだ。
この記事、穏当な掲載誌名に似合わず、随分と“わい”方面に尖っていて、それは記事のトップ写真チョイスや、そのキャプション(洞内三十歩で此の奇型の陰窟に接し、神の創造の不可思議に胸のたかなりを想わしめる
)にも如実に現れている。
しかし、本洞が世に現れることになった経過を最も詳細に記しているのもこの記事である。抜粋しながら紹介しよう。
女の洞でバクチ
……阿哲峡の奇勝鬼女洞は過ぐる初夏の頃から世上に現れたのだが、全長200m天井の高さ30m、幅員も相当にある立派な洞窟が今頃急に出来たり発見されたり、そんな馬鹿な話はないので……可笑しいのはこれだけの奇象を、地元の阿哲郡石蟹郷村の人達が「柏の岩屋」と名前だけはつけていたが、こんな洞窟はどこにでもあるものでこれが世間に騒がれ様なんど考えていなかった。せいぜいカンテラの光さえあればバクチを打つは恰好の場所だ位にしか扱っていなかったというのである。
今、開発宣伝の総本家を担当していられる前村長杉寛次氏からが、去年の暮れまで知らなんだといふ始末なのだ。氏は幸いに土佐の「龍河洞」を見ていた。「柏の岩屋」は通り抜けが出来るそうだ。ということから、元来山歩きに屈退のない同氏一行がこの洞窟を探検して、有名な土佐の「龍河洞」よりも一層立派で、しかも洞内でとても素晴らしい女岩を見つけたところから、「これは宣伝次第でものになるゾ」と小膝を叩いたかどうか知らんが、その名も女岩に因んで鬼女洞(きめんどう)と名付け宣伝の旗を持ち、想を練ったというのがこの洞が公表されるに至った起源なのである。
『おかやま』創刊号掲載「鬼女洞霊験記」より
……とまあこんな調子で、観光洞といて日の目を浴びたきっかけが明かされている。
先の記事にも鬼女洞の探検者&名付け親として出ていた杉氏は、石蟹郷村(いしがさとむら)の前村長を勤めた杉寛次という人物であったことも判明。新見市合併以前の村の観光開発に属する仕事であったことが窺える。
しかしこの著者、よほど洞内の“女石”に感銘を受けたと見えて、これに関する記述がまだまだ出て来るのであるが、それはともかく、鬼女洞がこの地域の観光開発に与えるインパクトや、この著者がどのような立場から本洞初期の開発に携わったかといったことなどが明かされるので、引き続き読んでいこう。
阿哲峡の焦点
私が氏からこれらの話を聞いたときに、新しい観光資源としての洞窟の出現それ自体を喜ぶと共に、元来新緑、殊に紅葉の頃の美を以て都人に親しまれて来た阿哲峡に、実は探勝の焦点がなくて、その佳景を占める伯備沿線方谷駅から井倉駅の間をただ漫然とハイクするだけの終わってしまうコースの中に丁度位置も中央に位しているし、対岸に「絹掛の滝」がありこの瀬を見てから洞窟見物をやれば、コース全体の変化の妙とバライティーに富む点で、一層阿哲峡観光の価値を高めることになると考えてこの渓谷全体のために嬉しかったのである。
杉氏はかつてジャーナリストであったし、慧眼良く「女岩」を見つけて洞の名も「鬼女洞」と名付け、おまけに女を(じょ)と読ませずに、男が(おん)なら女は(めん)だと、一度この文字を見読んだ者にはいやでも好奇と記憶を強いずにはおかない、敬服すべき「きめんどう」の生みの親たる人に適わしい御仁であるが、サテ宣伝開発の点になると、そこは専門の私のことであるから色々と意見を述べて発展策を講じたわけであった。
『おかやま』創刊号掲載「鬼女洞霊験記」より
上記の内容から読み取れるのが、鬼女洞がこの地方における最初期の観光洞として発見・開発されていたという事実だ。
実は、現在も盛んに観光されている井倉洞よりも先に開発されていたのである。
資料によると、井倉洞の発見は昭和33(1958)年のことで、昭和26年開洞の鬼女洞よりも後だった。
また、当時この辺りの高梁川の峡谷は郡名から阿哲峡と呼ばれていた。しかし後に井倉洞が有名になってから、井倉峡と呼ばれるようになっている。
もしもの話だが、鬼女洞を遙かに上回る規模を有する井倉洞の発見がなければ、井倉峡は今も阿哲峡であり続けたであろうし、その場合、鬼女洞の観光洞としての価値はより重視され、現状も異なっていた可能性があると思う。
で、長い記事はまだ続く。
次はこの記事の著者である小川氏が、観光宣伝の専門家として、どのように鬼女洞を売り出そうと考えたかという話である。
その一策として……この洞が女陰に深い関係があるとなれば、この奇象と天恵を利用して信仰と結び付ければ、その発展は一層効を奏するであらう。即ち女陰に関係のある一切の願い事は適うと云うことにする「しもの病い」「避妊」「子授け」等々を験かれる神様に仕上げる。どうして仕上がるかと云うと、女岩の前にいとも勿体ぶった張幕を掲げて、神秘観を出し、燭台をしつらえて蝋燭の燃えさしを沢山たてるべし。その前に賽銭箱を置いて、米の一握り位は箱の周囲に散らしておくべし。洞の入口には最初地元の犠牲で赤塗りの鳥居の一二基を建て大願成就の千本幟を。経費の節約とならば、紙製の小さい旗でも構わぬから所狭しと地にさしたらよろしからん。そうすると世の中は面白いもので当たるも八卦、当たらぬも八卦、女岩様の御霊験では断じてないことは間違いないのに、大願成就の恋人が是非出来るもので、夫等がお礼詣りに来ようし、世間に宣伝もするし、そうすればそこは奇象見物を兼ねての慌て者の善男善女がワンサワンサと押しかけるであろう。
『おかやま』創刊号掲載「鬼女洞霊験記」より
……むなくそわりい〜〜。
だいぶ脱線してきたので、後はこの著者が鬼女洞でどうなったかを最後に。(原稿はまだこの倍くらいある…)
女陰の雄大さ
私はそれから二度この洞を潜った。最初は方谷駅から、二度目は井倉駅からで、どちらから歩いても4km余りの距離で……鬼女洞は入口を景勝棚ヶ瀬に向けて山の中腹から、恥ずかしげもなく高さ45mの外陰部を、その周囲に適当な雑木叢の陰毛に覆われて開口している。流石に入口から鬼の女陰の態を呈しているので、成程ナアの嘆声を発せざるを得ない。
入洞していよいよ登りにかかると30mばかりで、案内人のアセチレン瓦斯の光に照らされる奇岩に真っ正面から向き合わねばならぬ。それこそ「神の創造の不可思議に胸の高鳴りを禁ずることができる」と宣伝絵葉書の説明に書かれ、この洞の名の産まれた因となり、万人を唸らす女岩が、「助平共何しに来た」と云わんばかりに平然と鎮座ましまして、イヤハヤこちらが顔負けである。
鬼の戸棚、月球面、鬼の泉、茶の間、八畳敷、千畳敷など命名日も浅い奇岩、石柱が無数に突っ立っているほか、石灰岩の洞窟といて当然の鍾乳、石筍の発達にも見るべきものが多いが、ここではその詳述は止める。
天罰テキメン
ところで二度目の探検の最後に、この洞を通り抜けて、これの姉妹洞である「竜宮洞」を見に入ったとき、不覚にも私は岩に蹴つまずいて逆落としに前にツンノメリ、身体を支えた左手首の骨を挫折してしまったのである。痛さのため貧血を起こし、全身ビッショリ冷や汗をかいて倒れてしまって、今迄の賑やかな戯談口もどこへやら、それから山を下って駅までの徒歩4kmのうっとうしさ、そしてこの夜の苦しさ、イヤハヤとんだ目にあったが、思ふにその名の恐ろしき鬼女の秘奥をステッキの先でイヂクリ廻しておきながら、外に向かっては人を小馬鹿にした山の神秘を冒涜するような計画を企む男に、天罰てき面の報復を、この洞の霊が下したものに違いないものと恐れおののいて前非を悔いている次第である……(以下略)
『おかやま』創刊号掲載「鬼女洞霊験記」より
はい、反省してね〜〜。
とまあ、ついつい可笑しげな方向に私も引用を引っ張ってしまったが、方々に当時の洞内の様子を物語る貴重な情報が含まれてはいる。
例えば、当初は洞内の各所に(多くの観光洞に見られるような)命名がなされていたこととか、実は鬼女洞には姉妹洞とされる「竜宮洞」が存在していることなどだ。
それと、記述からの印象として、今の洞内より遙かに鍾乳石が豊富にあったような感じがする。ここも例に漏れず心ない者による盗掘を受けているのだと思う。
以上紹介したような経緯(石蟹郷村の元村長杉氏が地元で「柏の岩屋」と呼ばれていた洞窟を「鬼女洞」と命名し、昭和26年夏頃に開洞式を行った)が、鬼女洞の観光洞としての始まりである。

ヤフオク出品ページの画面キャプチャより
有名な井倉洞より先に発見され、阿哲台一帯ではおそらく最初期に観光開発を受けた鍾乳洞である鬼女洞。
しかし、現時点までの調査では、この洞窟が実際に観光されていた模様については、ほとんど文献的な記録は見当たらない。
柏での聞き取りでは、かなり観光洞としての終焉が早かったような感じを受けたが、やはりそういうことなのだろうか。
るくす氏がヤフオクに出品(←近日中にリンク切れするでしょう)されている膨大な観光地パンフレットの中から、たった1枚、「柏の岩窟 鬼女洞」と書かれた発行時期不明のパンフを発見されたのは、非常に貴重であろう。(購入を考えたが出費にキリが無いのでやめ)
鬼女洞の観光洞としての様子を物語る数少ない文献として、日本交通公社が昭和31(1956)年に発行して以来長らく版を重ねた国内観光の辞典といえる大著『旅程と費用』がある。
手元にある昭和32年発行の第三版には、新見市の項目の中に次のような記述がなされている。
鬼女洞(キメンドウ) 新見市法曽。伯備線井倉駅の西南4km、備北バス柵ガ瀬下車(10分、10円、2回)、渡船で対岸へわたり、それから500m徒歩5分。乙姫洞、竜宮洞の二洞があり、近年開かれた石灰洞で、乙姫洞は入口の高さ約45m、洞内に電灯の照明施設もある。入洞料大人50円、小人25円(渡船料を含む)。山上はよい展望台である。
井倉野鍾乳洞 市内井倉山の麓に最近発見されたもので、まだ探勝設備はできていないが、約70mの地底に幅6m、長さ60mの湖水があり、洞内には見事な石柱その他が発達しているという。
『旅程と費用(第三版)』(昭和32年)より
渡船とセットで料金を徴収していたことなど、当時は相当大々的な観光洞の運用が行われていたことが分かる。
井倉洞(当初は井倉野鍾乳洞)開発前夜のこの頃(昭和30年代初頭)が、鬼女洞の最盛期であったのではないかとも思う。
また、私が現地で探索したのは、鬼女洞の「乙姫洞」部分で、これとは別に(100mほど離れた場所らしい)「竜宮洞」があるらしいが、未確認である。
文献は確認できなかったが、現地の証言によれば、この後数年を経ずに観光洞としての終焉を迎えたことになるのだろう。
(証言者が高校に上がった時期は昭和37年と推定しており、その時点では観光洞としては使われていなかったという)
次に紹介するのは、昭和46(1971)年に発行された昆虫採集ガイド本『新しい昆虫採集案内 2 (西日本採集地案内編)』の記述である。
……有名な絹掛の滝に着く。ここは茶店もあって小休止できる上に、ムカシトンボも採れている。更に少し下った対岸に鍾乳洞の鬼女洞があり、渡し船で渡るとニシキキンカメムシの県下唯一の産地がある。
『新しい昆虫採集案内 2 (西日本採集地案内編)』(昭和46年)より
これは意外にも聞き取りの内容に反し、昭和40年代にも観光利用が可能であったような記述となっているが、証言者が高校を卒業したあとの時期であるから、改めて細々と再開された時期があるのか、あるいは証言者の高校生時代においても大々的ではないにせよ、絹掛の滝の茶屋に直接掛け合うなどの手段で、渡船を出して観光することができたのかも知れない。
しかしいずれにせよ全盛期のような賑わいは無かったであろうし、それさえもこの本が出版された翌年昭和47年の豪雨災害で洞内設備が完全に破壊され、二度と観光洞としての再開が出来なくなったのであろう。
やはり文献的記録は未発見だが、これが本洞の観光地としての終焉だと考える。
その後、昭和55(1980)年にコロナ社が刊行した『岡山県地学のガイド 岡山県の地質とそのおいたち』という文献にも鬼女洞のことが触れられているが、「棚が瀬の手前で前方対岸の崖に洞口が二つ見えてきます。鍾乳洞の一つで鬼女洞と呼ばれています。かつてはここも観光洞として多くの人が訪れていました。
」と、既に観光利用が過去の出来事であったように書かれていた。
さらに下って平成元(1989)年に発行された『角川日本地名大辞典 岡山県』における本編冒頭でも紹介した鬼女洞の解説文の記述「かつて観光洞として開発したが,交通の便,洞内景観ともに観光に適さず失敗した。
」となるのであり、同書の別項にある、「対岸の岸壁の中ほどには鬼女洞があり,以前は絹掛の滝の前あたりから渡しがあったが現在はなく,訪れる人はほとんどない。
」となるのである。
以上が、石蟹郷村が開発に乗り出し、これを合併した新見市が引き継いだが、より大規模な井倉洞の発見や、昭和47年豪雨災害などを契機として(詳細な経緯についての記述は未発見)終焉した、世にも珍しい地図に描かれた貫通式鍾乳洞、鬼女洞のささやかな盛衰史である。
観光客だけでなく、様々な思惑を持った人々が各々の目的のために通った鬼女洞は、確かに“道”の物語を所有していた。
その物語の“深部”へ、初訪問で奇跡的に到達した私は、とても幸運であった。(これが“道との相思相愛”というものだぞ小川くん)←冗談です、ナマ言ってスイマセン!