せっかく来たのだから、このロマンチックパークを単なる探索場最寄りの便利な駐車場として使うだけではなく、少しは希少な地名のロマンに触れてみたいと思う。
沖合に浮かんでいる弁天島が、この地の景観の主役ではあるようだが、陸上にも奇岩が林立しており、中でも異彩を放っていたのが、この「ソフトクリーム岩」だ。
周囲を取り囲むようにフェンスがあり、立ち入り禁止にされているのだが、その注意書きの文面が奮っていて、印象的だった。
「あなたの恋も砕けるおそれがあるので中には入らないでください。
」
――これは、大変な“人質”を取られたものである。
世の道路管理者もこれを見習い、各地の通行止め表示にこの文言を追加するのはどうだろう。特に廃トンネルの壁面にスプレーで相合い傘を書く層に絶大な効果があるかもしれない。
地名の由来を知りたい人には、こちらの案内板が役目を果たしてくれる。(→)
約700年前というから、鎌倉時代の悲恋物語に端を発する地名であるらしい。
内容としては各地に同型のものがしばしば見られる、3人の男女の三角関係を扱ったものだ。
隣に英語版の解説文があるのも親切だが、日本語版では修正されて「能登町」になっている地名が、合併以前の「内浦町(UCHIURA TOWN)」のままになっているのが惜しい。
あと、日本語版よりだいぶ解説が丁寧である。例えば、日本人には説明不要と思われる「恋路」という言葉の意味を、“The road to love” と解説してくれたりしている。これは直截にすぎ、ますます愛欲の濃い地名と思われそうだ。
…って、いつまで恋路の説明をしているのか。無縁なんだから、さっさと愛する隧道へ行け。
7:02 《現在地》
ロマンチックパークから300mばかり海岸沿いの道(旧国道)を南下して、尾ノ崎の小半島の付け根までやってくると、ご覧の分岐地点が現われた。
旧国道は左の道で、海岸線に沿って迂回するようについているが、ストリートビューで隧道の片鱗を見たのは、右の道の奥である。
地図を見れば明らかなとおり、右の道は尾ノ崎の蛇行に一切付き合わず、極めて直線的に稜線を乗り越える進路を採っている。
両者の道は尾ノ崎を越えた先で再び一つになるが、そこまでの距離は左が約600m、右が約400mという差がある。
端的に言って、右の道がより古道っぽいルートだと感じるが、分岐の風景もそのことを裏付けるようだった。
右の道は、狭くて険しい道のりであるようだ。
(←)入口に立つ、一部の文字が消えかけた看板が、そのことを予告していた。
はっきり見える「通行注意」の前行には、「急坂・道幅狭い!」と、書かれてあった。
(→)そして実際に足を踏み入れてみると、看板に偽りなしということを、すぐさま理解した。
現代の進化した自動車ならば、こんな道でも登っていけるのに違いないが、人力や畜力は無論として、非力だった一昔前の自動車も、この坂道の登攀は大変だったと思う。
そんな理由から遠回りだが平坦に近い新道が車馬のために作られて、それがいまの旧国道なのだと想像できた。
ちなみに2001年に切り替えられた現在の国道は、内陸側の丘陵上をもっともっと直線的に貫いていて、もはや尾ノ崎の小さな凹凸には少しも拘泥していなかったりする。
ちなみに今回も自転車を車から降ろして探索しているが、急坂の入口から50mばかり進んだ左側に、脇道があった。
いま上っている道も急ではあるのだが、それが霞むほどの急坂で、半ば落ち葉に埋もれたような階段が続いていた。
そして傍らには、「恋路観音参詣道」と書かれた標柱が、これまた目立たぬ感じで棒立ちしていた。
恋人の聖地的な演出がなされていて、ロマンチックであると同時に少し軽薄な雰囲気も漂わせていた冒頭の“恋路”と比べて、こちらは“戀路”と、敢えて旧字体で表現したくなるような重厚な雰囲気があった。少なくとも、カップルがサンダル履きで行くような所ではなさそうだった。
アマノジャクの私などは、多少興味を惹かれはしたものの、目指すべき隧道の位置がなまじ分かっているだけに、そこから離れる寄り道をする気にもならず、スルーした。
右の写真は、急坂をさらに進んでいったら見つけた、路上のマンホールの蓋。
「ROMANTIC TOWN 内浦町」と書かれているから、平成17(2005)年に能登町になる以前のものだ。海と山が合わさって大きなハートマークの意匠を作る、なかなか凝ったデザインだった。
7:04 《現在地》
いくら急坂とは言えども、本気で相手にするようになるには、あまりにも短かった。
入口から約100mといったところで、早くも「ストリートビュー」で見た分岐地点
――隧道の入口がチラリズムしていた、あの分岐――
が、見えて来たのである。 今回はもう決着がつく。
間違えようもないが、ストリートビューの場所は、ここである。
道は二手に分かれているが、どちらも尾ノ崎の尾根を越える方向へ上っているところは共通している。
右の道はこれまで通りの急坂を維持したまま、峠の頂上を間もなく極めんとしていた。明るさと地形と地図から、それが分かった。
対して、隧道の存在を教えられており、現に肉眼でその姿が見え始めている左の道は、この先の上り方はだいぶ緩やかであって、尾根を少し低い位置で潜り抜けようとしているようだった。
右図は、最新の地理院地図を拡大したものだが、隧道や、ここから隧道へ続く道は描かれていない。
チェンジ後の画像に、それらを書き加えている。
さて、ここで分かれる2本の道の関係性を、どう見るべきか。
もしも別々の目的地を持つ無関係の道なら無駄な考察になるが、そうでないとしたら、これはいかにも、峠越えの新旧道の関係を思わせる。
もちろん、新道は隧道がある左側の道だ。
しかし、現在も使われ続けているのは、旧道のように見える右の道だという捻れた現実があった。これは、ちょっと興味深い。
確かに、隧道は存在している!
事前にストリートビューで見られたのは、この距離までだった。
勿体ぶるわけじゃな…… いや、嘘は止そう。私はいつもこうして、自分を勿体ぶらせながら、見つけた隧道を咀嚼している。
まずはこの位置から、ファーストインプレッションの観察だが……
大丈夫か、この隧道?
五体満足か? なんというか、半身しかないように見える。
それが単に、手前にある大きなコンクリート擁壁の影になっていて見えないだけなら問題ではないが、ここから見る限り両者は相当に近接しているし、隧道の中に光が見通せないことも、不安材料だった。
もっとも、封鎖されている様子がないことから、単純な廃隧道にも見えないが…。
隧道までの道の様子も、なんとも微妙だった。
貫通もしてるッ!
これで、ホッと一安心。
地形から予想はしていたが、かなり短い隧道である。
そしてサイズも小さい。「人が通れるくらい」という事前情報の通りだ。
自転車やバイク、小型四輪までならば車両も通れるが、どちらにしても小型のトンネルである。
また、ここから見えるシルエットで、覆工がなされていることが分かる。素掘りではない。
これも事前情報通りであれば、石造隧道ということになるが、まだそこまでは確認できない。
坑口前の道は一応舗装がされているが、腐葉土や落ち葉、枯れ枝に半ばまで埋もれている。
また、右側のコンクリート擁壁が、道路を圧するように高く、近い。そのため、隧道の存在感が食われている。この上には民家がある。
さあ、坑口前に到着!
7:05 《現在地》
石造隧道だ!!
それも、坑口だけが石造というのではなく、内壁も含めて石造りによる、純石造隧道である。
地域差はあるものの、全国的に見て道路用の石造隧道は希少であり、これは嬉しい!
坑口は、坑道のアーチリングがそのまま地上へ突出したような、壁のない造りになっている。
石造隧道としてはかなり珍しい形態だ。そして、アーチリングは石巻だが、後年の補修であろう、
左半分が場所打ちされたコンクリートに置き換えられており、アーチの美観という意味では著しく失点している。
石造隧道が文化財と評価される以前に、道として効率的に生きることを優先された外見だった。
遺存している石アーチ部分の近影。
使われているのは、しばしば土木構造物に用いられる、凝灰岩の石材とみられる。有名な大谷石や、かつて房総の鋸山などで産した房州石(いずれも凝灰岩)に似ている。
また、表面に目立つノミの痕がないので、石切鋸のようなもので成形したのだろう。これは加工の容易な軟質の石であることを示す。
坑門のアーチリングを構成する石を迫石(せりいし)といい、そこは隧道の顔であるだけに、しばしば装飾的な加工が施されるが、この隧道にはそれがなく、無造作だ。
芸術点という意味では減点だが、質実剛健と好意的に評価したい。石材で隧道を覆工したいという目的に照らせば、何ら問題にはならないのだ。
この隧道は見るからに土被りが浅く、それだけ地中も風化していて軟弱そうである。したがって圧壊を免れる必要性に迫られて、手間のかかる覆工を全体に行った可能性が高い。
そこに石材を用いた理由は、単純にコンクリート出現以前というほど古いせいなのか、それ以外の理由もあるのかはまだ分からないが、いずれにしても理には適っている。
恋路は昔から観光地だったと思われるが、この隧道は伊達や酔狂ではなさそうだった。
内部から北口を振り返る。
巨大なコンクリート擁壁が、隧道断面を僅かに圧迫していることが分かる。
これが通常の道路における擁壁と坑門の関係であれば、酷くちぐはぐな施工だと思うが、両者の施工時期には非常な隔たりがあると考えられることと、そもそもここが私道ではない保証もないので、なんとも言えない。
しかしいずれにせよ、この巨大な擁壁のために隧道北口は本来の全景を喪失している。
隧道内部の様子。
隧道内もアスファルトかコンクリートで舗装されており、これも後年の改修によると思う。
内壁は全面的に石積みであったようだが、現在は広い範囲にわたって目地だけでなく表面にまでモルタルが薄くコーティングされており、まるでコンクリートトンネルのようにつるりとした風合いになっている部分が多い。これもやはり後年の補修によるのだろう。
この写真でも、内壁の模様は石造隧道のそれというよりも、コンクリートの養生に当てられていた実板(さねいた)の跡のように見えると思う。
特に補修が濃い部分は、石材由来の模様がほとんど失われていた。
……というか、ちょっとおかしいのである。
私は、気付いてしまった。
この隧道の石の積み方って……
なんか変じゃないっすか?!
いや、「変」というのは、ちょっと語弊がある。
これだとなんとなく劣るイメージがつきまとってしまう。「独特」と言おう。
今までいろいろな石造隧道を見てきたが、これは、なんとも独特な積み方がなされている。
といっても分かりづらいかも知れないので、先に一般的と思える石造隧道の積み方を見てもらいたい。
右写真は、おそらく日本一有名な石造道路隧道である、天城山隧道(静岡県、明治38(1905)年完成、国の重要文化財)の内部だ。
天城山隧道の石材の積み方は、石造隧道では一般的な「布積み」である。石の長さは均一ではないが(均一の場合もある)、目地がトンネルの進行方向に揃っていて、断面方向には不揃いである。このように、水平方向にのみ揃った目地を「馬目地」と呼ぶ。
改めて、恋路の隧道の石材の積み方を見て欲しい。
目地は、トンネルの進行方向に不揃いだが、断面方向に揃っている。これは天城山隧道と逆だ。
このような目地の呼称を知らないが、ようは1列(1段ではなく)ごとに完結したアーチになっている。
アーチ構造としての最低限の強度は確保されているだろうが、隣り合う列と噛み合うことによる摩擦がないので、明らかに天城山隧道より脆弱だろうし、この積み方で天城山隧道のように大きな断面の隧道を作ることは難しいと思われる。
何かメリットがあるとしたら、施工の容易さが想像できるが、石造隧道としてはとても変った積み方だ。(同じ積み方の隧道を知っている人がいたら、ご一報ください。)
やべぇぞ(笑)
禁断の
“芋目地”出現だ!
芋目地とは、目地が単純な十字路になっているものを言う。
イモという名前だが、別に馬鹿にしたネーミングではなく、美観と施工性に優れることから、実際塀などではよく見かけるオーソドックスな積み方だ。しかしその場合も、だいたいは補強用の鉄筋が入れられている。
芋目地は、噛み合うところが少ないので、構造として弱い。だから、土木構造物には用いられないというのが、原則である。
実際私が、石材や煉瓦やコンクリートブロックで芋目地ができる積み方をしているトンネルを目にするのは初めてである。そのくらい珍しい。
面白くなって目地の観察を続けると、アーチ部分だけではなく、側壁についても、芋目地になっている部分が多数発見された。
土木の教科書的な評価をするならば、だいぶ稚拙な造りという誹りを免れないかも知れないが、安易に決めつけるのもどうだろうか。
この隧道の竣工は、決して最近ではないだろう。
それが、長い年月をこうしてちゃんと道路としての形を留めて使えているのだから、結果的にこの積み方で大丈夫だったということかも知れないのだ。
もっとも、よくよく見ると、目地にはモルタルによる補強だけでなく、巨大なホチキスのような金属部材によって固定されている場所もあり、これなどはまさに部材同士が十分に接着していない芋目地の弊害と思えるだけに、やはり問題がないとは言えない気もするが(苦笑)。
命名! 「禁断の芋目地隧道」
私の中では、石造隧道ということ以上に、目地に興奮を憶えてしまった感はあるが、いずれにしても楽しめた。
しかし隧道の長さは30mにも満たないほどであり、あっという間で通り抜けてしまう。
出口は、入ってきた北口以上に廃道然としていた。
切り通しに続いているようだが、見るからに藪っぽい。
しかし、古隧道としての雰囲気は、北口より遙かに良いものが期待できそうだ。
脱出!
7:08 《現在地》
オオッ! 坑門がある!
アーチリングだけが斜面から突出するようになっていた北口とは異なり、
この南口には、よく見慣れた壁としての坑門が存在していた。
しかし、壁があるのは左右だけで、アーチの上部は土の斜面になっている。
このような形の施工は不自然なので、上部は崩壊したまま復旧されずにいるのが、
現状の姿である可能性が高いと思う。そこには、隧道名などを記した扁額が
あったかも知れないので、とても悔やまれる崩壊だ。おかげで名前が分からないぜ。
またこうなると、北口についても、現在の姿は後年の崩壊によるもので、
もともとはこの南口と同じような普通の姿をしていた可能性が高いように思う。
かなり掘り込まれている、隧道南口に通じる切り通し。
昼なお暗いという表現がぴったりである。
緩やかな、下り坂になっている。
チェンジ後の画像は、振り返って撮影した南口遠景。
隧道が小さいので、これでも立派に隧道をしているが、切り通しにされても不思議ではないくらいの小さな土被りであった。
隧道から道はまっすぐ下ってきて50mほど離れると、切り通しを脱出するが、同時にもそっとした緑が邪魔をする。
そしてこの強烈な緑の向こうには、民家の屋根が見えて来た。
道を辿っているはずが、人の家の裏庭に突然現われることになりそうな気配に、少々の気まずさと緊張を強いられた。突然飼い犬に吠えかかられたりすることがあるので、こういう場面はいつでもビクビクだ。
7:10 《現在地》
道の両側に立ち並ぶ数軒の家屋や小屋は、どれも無人のようだ。
いずれも空き家となってから相当に時が流れているのか、人気が感じられなかった。
隧道へ通じる唯一無二の道は、隧道を頂点とする小さな谷戸の中央を貫通しており、両側に4〜5軒の家屋が建ち並んでいる。
この小集落の住人は、隧道の最大の利用者であった可能性が高いばかりか、建設とも関わりがあったかもしれない。少なくとも、隧道の晩年を見届けた記憶者ではあったはずだ。
小“廃”集落をまっすぐ通り抜けると、谷の出口が見えて来た。
道は相変わらず、道というよりも、庭先の路地っぽい。植えられた庭木の隙間みたいな所を潜り抜けていく。
そして最後は…
まだ新しそうな2車線道路にぶつかって、路(ジ)・エンド。
この2車線道路は、旧国道と現国道を繋いでいるもので、詳しい来歴は不明だが、現国道と同年代、すなわち平成に整備された道である。
潜り抜けてきた隧道とは時代的にミスマッチな終着点であり、本来ならこのままもう少し直進して写真奥に見える旧国道とぶつかるか、あるいは写真の外だが、ここから3〜40m右側を並走している峠越えの町道(【ここ】を右に行った先の道)と合流して終るのが、相応しいと思う。
もっとも、この2車線道路による地形の攪乱が激しいため、現実的に辿りうる一連の道は、ここで終わりという判断を下した。
昔の道の形の詮索は、机上調査に委ねるとしよう。
7:11 《現在地》
隧道のある道の南側出口を、2車線の町道側から望む。
封鎖はされておらず、出入りが可能だが、隧道の通行というよりは、
空き家が建ち並んでいた小集落へのアプローチ用なのだろう。
ここから隧道までは僅か100mほどであり、到達は容易だが、北口がより平易である。
能登半島で初めて目した石造隧道は、珍しい芋目地の石造構造物であった。
しかし、肝心の来歴や名前を知ることのないまま、探索を終えた。