此ノ木集落で出会った古老の証言
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以上のような内容を、此ノ木集落に戦前から居住しているという古老から聞き取ることが出来た。
まず、隧道開削の時期(1.)や目的(2.)については、おおむね予想通りであった。
隧道の向こう側にある谷の大部分が此ノ木集落と同じ大字大田町に属している現状から、地形的には三室寄りでも歴史的には大田寄りの土地だろうということが推定され、尾根を挟んだ最寄りである此ノ木集落の人々が利用していたというのは頷ける。
ただし、竣工年が具体的に戦前のどの時期なのかは不明である。
なお、小さな峠の反対側に耕地を持ったために、隧道を掘って日々の行き来を容易にしたというのはよく聞く話だ。(金沢市の夕日寺隧道なども最たる例)
特に広域的な交通路上にはない隧道の場合、通学路か耕作路というのが集落お手製の隧道が誕生する2大要因と言って良いと思う。通学と耕作はほぼ毎日のことであるから、住人の利益に直結するし、住人一丸の協力体制が生まれやすかったためだろう。
そして、今回の隧道の最大の特徴であった洞内の木枠について(6.)だが、古老は“木の支え”と表現しておられた。
この言葉からは、現在の構造から感じられる洞内覆道の性格よりは、支保工の性格が濃いように感じられるが、これが長年のうちに合掌枠の目的が支保工から変化したことを意味するのか、単に見た目の印象を言っているのかは分からない。
また、なぜ“木の支え”があるのか(7.)についても、不明とのことだった。
しかし、“昔からずっとある”と仰っており、最近になって落石防止のような理由で追加したものではなさそうである。
と同時に、これがとても興味深いのだが、“ほんの3年くらい前”(2015年頃?)にも集落の人達が“木の支え”の修理をしたという。
やっぱり地元の人達がこまめに手入れをしていた!
今日、トンネルを含む道路の修理は基本的に行政の領分であり、地域住民が直接行うのはゴミ拾いやドブさらいのような沿道美化活動が中心だ。これは道路法により、道路法上の道路には全て道路管理者が定められていて、道路の管理(修繕を含む)は道路管理者の義務とされているためで、隧道が私道ではなく、例えば七尾市が管理する市道だとしたら、その隧道の修理を集落の人々が行うには、市の承認を得る必要があったはずだ。(参考)
隧道の管理者が誰なのかは帰宅後に調べており、確かに市道ということが確かめられたのだが(後述)、これは此ノ木集落と隧道の関係が昔も今も密接であって、最近も積極的に手を入れていたことが分かる、恐るべし隧道自前補修のエピソードだった。
古老からの聞き取り調査は以上である。
集落内には、合掌枠の補修にあたった当事者はもちろん、隧道開削の当事者も在住している可能性があるだろう。
さらなる聞き取り調査の有効性を感じたが、既に初回としては十分な成果を得られたと感じたので、撤収した。
現地探索終了!
右図は、明治43(1910)年と昭和42(1967)年の地形図の比較だ。
どちらにも隧道は描かれていないが、前者には此ノ木集落から“隧道の尾根”を越え、そのまま崎山半島の稜線も越えて、半島の突端部を占める旧崎山村の中浦(役場所在地)や鵜浦集落へ向かう道が描かれていた。
この道は、当時の図式(凡例)によれば、「里道(聯路)」かつ「荷車が通せざる道」として描かれている。
「里道」は当時の道路制度の中では最も下級の道だが、当時の図式はこれを「達路」「聯路(れんろ・連路)」「間路」の三種に分けて描いていた。これは地形図独自の表現だったが、明治9(1876)年の太政官達によって定められた【里道一等・二等・三等】一等 彼此ノ数区ヲ貫通シ或いは甲ヨリ乙区ニ達スルモノ
二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ、別段ニ設クルモノ
三等 神社仏閣及田畑耕転ノ為ニ設クルモノに対応するものといわれる。
聯路は里道中で中等の重要度を持つ路線で、今日でいえば幹線的な市町村道や、一般県道に相当する路線といえよう。
当時の崎山半島には、「里道(聯路)」より上級の道路記号が見られないので、此ノ木から“隧道の尾根”を越えて行くこの道は、当時の半島内の主要な路線だった可能性がある。
古老の証言ではあくまでも耕作目的で整備された隧道ということだったが、明治頃に東湊村と崎山村を結ぶ交通路として“隧道の尾根”を越す道がよく利用されていたなら、そうした背景も隧道の整備と関わりを持っていた可能性が出てくる。
もっとも、この里道に隧道は描かれていないし、峠に至る径路も今とは微妙に違っていて(此ノ木側から尾根伝いに上っていく)、峠の位置も現在の隧道よりやや北寄りである。
はっきり言えるのは、明治43年の地形図には隧道も隧道のある道も描かれていないということだけだろう。
昭和42(1967)年版になると、かつての里道は徒歩道に落ちぶれてしまい、新たに今回探索した上三室から沢沿いに上る道が車道として出現している。
やはり隧道は描かれていないが、道は今の地形図と同じで隧道の位置を通過しており、隧道の存在が前提になっている。
なお、道がこの位置に描かれ始めた版は、図式が大きく刷新されたこの版からで、例えば戦後の昭和28(1953)年版でも、旧態依然に明治43年版と同じ位置に道は描かれていた。これは単に地形図の更新がローカルな道に及んでいなかっただけの可能性が高い。
次に、道路法上の道路上に存在するトンネルのリストである国土交通省『平成16年度道路施設現況調査』の石川県の部に、「ナナオクノギトンネル」なる名称のトンネルを見つけた。
所在地は市町村レベルの記載があり、どのような道路上のトンネルかという道路種別の記載もあるが、「ナナオクノギトンネル」の所在地は七尾市、道路種別は市町村道とあった。
これが今回探索した隧道を指すことは状況的に間違いないと思われ、少なくとも平成16(2004)年の時点では、隧道が七尾市道に認定されていたことがはっきりした。
なお、リストは基本的にトンネル名を半角カタカナで表記しているので、漢字表記に直せば「七尾此ノ木トンネル」となるのだろう。
また、同じ七尾市内に「ナナオナカムラズイドウ」というのもあったりして、冒頭の「ナナオ」が正式名に含まれるのか微妙な気もするが、このリストの典拠は道路台帳であるから、少なくとも七尾市の道路台帳上では「七尾此ノ木トンネル」と呼称されているらしいことが分かる。
加えて、「此ノ木」という集落名の読み方は「このぎ」だと思われるが(現地のバス停は「このぎ」読み)、隧道名は「くのぎ」と呼ぶらしいことも、初めて知った。
リストの内容は、トンネル名だけではなく、竣工年や断面サイズなどの緒元も含んでいる。
収録された此ノ木隧道のデータは以下の通りだ。
名称:ナナオクノギトンネル (七尾此ノ木トンネル)
竣工年:昭和35(1960)年 延長:23m 幅員3.4m(道路2.9m歩道0m)
有効高3.4m 壁面:素掘 路面:未舗装 現況:通行制限あり
最も注目したいのは竣工年だが、古老の証言とは食い違っていて、戦後の昭和35(1960)年と記録されていた。
また、幅と高さはいずれも3.4mとなっているが、現地ではもう少し小さく感じた。もしかして合掌枠を除いた断面サイズだろうか。
現況欄の通行制限ありというのは、高さ制限2.7mがあることを意味しているのだろう。
竣工年が古老の証言と食い違った理由は不明だが、例えば市道に編入された年であるとか、大きな改築が行われた年などが、このリストに入り込んでいるのはたまに見るので、明示された数字だからといって即座に隧道誕生の年とは断定できない。ただ、この年に隧道に対して何かしらの行政行為があったことは間違いないだろうし、これより竣工が遅いということもまずないと思う。
さらに、『七尾市史』や『鹿島郡誌』などの文献類にもいくらか当たってみたが、現地で予感したとおり、これら広範な対象を扱う文献には、極めてローカルな隧道に関する記述はなかった。
工事が行われた経緯や竣工年について、これ以上はっきりさせることができなかったが、これまでの経験から培った勘をもとに推測するなら、昭和初年代の時局匡救目的の補助土木事業が盛んな時期に、此ノ木の人々が中心となって実行した道路工事だったのではないかという気がする。現段階では完全に私の憶測だが。
最後に、非常に珍しいと思われる隧道内部の木造合掌枠の由来について。
通常の支保工(三つ枠)ならばそこまで珍しくはないが、わざわざ合掌枠を用いたことが特異さの一点目。
さらに、合掌枠が側壁と天井にはほとんど触れておらず地面だけで支えている、いわば隧道内に置かれた木造覆道の状況であることが、特異さの二点目だ。
私は、これらの特異性を持った構造物が、この地に形を得、そして長く存続してきたとみられる、その背景を何よりも知りたい。
もっと具体的にいえば、これは鉱山技師の関与など技術的な系譜を持った構造物なのか、それとも言葉は悪いが、建設に関わった誰かの思いつきから生まれた一度限りのスタンドアローンな構造物であるのかということを、私は知りたいのだ。
ここの解明は、技術的な意味から本隧道を議論するうえでの要であろうと思う。
古老は、近くに同様の構造を持つ他の隧道は知らないと仰っていたが…。
現状、この点については情報が最も乏しく、明言できることはほとんどない。
他の場所で私が見たことがない珍しいものがここに現存していて、しかも最近まで(あるいは今も)此ノ木集落の人々によって連綿と維持されてきたという事実を述べたのが、今回のレポートの限界の到達点である。
“なぜ”に答えるためには、まだ、私のレベルは足りていない。