7:23 《現在地》
電池満タンのSF501を点灯させてヘルメットを被ってから、さほど高さに猶予のない坑口より、内部へと侵入。
隧道の安否を計るうえで、一番の指標となる風の有無だが、 ──ある。
風がある! …と思う。
ビュービュー吹いているわけでは決して無く、自信を持って「ある」とは言えないが、頬にあたる空気には微かな流れを感じるように思った。
ところで、扁額などあるはずもない素堀のままの坑口だが、扁額の位置に文字が彫られているのを発見した。
誰かが悪戯をするには高すぎる位置だし、手が込みすぎるように思われるから、竣工当初のものではないか。
肝心の書かれた文字の内容だが…。
私には、縦書きで漢字二文字 「山田」あるいは「山由」と読めるが、いかがだろうか。
これらの名前に心当たりは無いが… 或いは本隧道の名称は「山田隧道」なのか?!
(なお、仮称で「旧口野隧道」としているが、本隧道は口野地区にはなく、多比と江間を結んでいる。あくまでも、現道の口野トンネルに対する旧道的な位置にあるためにつけた仮称である。)
洞内に一歩足を踏み入れると、案の定出口は見えず、闇が広がっている。
というか、広がりすぎている。 広ッ!
それに、石碑が……。
ちょっと気持ち悪いよ…。
な、何で洞内に石碑があるの…。
見たこと無いし、こんなシチュエーションは。
まあ、あるとは聞いていたけれど……。 かなり不気味。
洞内でまず第一に石碑に目が行ったのは確かだが、普通の隧道離れした異様な様子に気持ちを飲まれ、石碑をじっくり観察する心境になるまで少々時間を要した。
ここは、隧道と言うよりも、地下の建物のようである。(写真は最初の広間から振り返って撮影)
現役ではないのだから、「廃墟」と言うべきなのか。
一枚岩の白い岩盤に穿たれた、広い空洞。
これは、隧道などではそもそも無くて、石切場の跡地なのではないか…。
…当然、そう考える。
しろ氏も、メールで同様の見識を披露されていた。
ただし、「石碑の存在」と「地形図に隧道の記号がある場所に、地下への入口があるという一致」を挙げて、「もしかしたら隧道かも…」という結論であった。
本洞の正体を知るためには、やはり奥まで行って、“貫通しているかどうか”、“そこに道としての機能があるかどうか” を確かめる必要があるだろう。
洞内の空気には、素堀隧道にありがちなジトジトや、土臭さはあまりない。
もっとさばさばとした、ガランとした印象である。
暗さに慣れてきた後には、外よりもむしろ居心地良く感じるようになったほどだ。
(それでも、石碑は何となく気持ちが悪かったが)
洞内に入って最初のホールから、さらに奥を写したのがこの写真。
やや右より正面と、直角に左方向の二手に空洞は続いていた。
これが隧道であったなら…隧道を石切場に改造したというのならば…、せめて坑口から見て直進方向へ進むものが“本坑”で有るべきだろう。
そんな予感から、正面を本坑、左を支坑と仮定した。
(上写真) 向かって左の支坑入口。
トタンの壁で塞がれていた形跡があるが、風によって自然に壊れたようだ。
(右画像) 入洞早々にして混迷の度を増してきた、旧口野隧道。
果たして、その正体は……。
さて、本隧道の “カギ” となるのかこの石碑。
暗いところにある石碑と言うだけで、なんだか気持ちが悪いわけだが、初めて正対する。
石碑の本体は高さ1.2m、幅50cmほどで、自然石から調製してある。
それが、洞床から数えて高さ50cmほどの台座に載せられている。台座は、後から据え付けたものではなく、内壁と一体である。
また、台座の前には、金属製の破れた盥一個、一升瓶一本、珊瑚のような炎のような奇妙な造形の塑像一体が、置かれている。
一升瓶と盥の存在は、かつてこの碑が信仰の対象であったことを臭わせるが、塑像は全く意味不明でこれまた不気味。
ドキドキしながら覗き込む碑面。
うわぁ。
文字がぎっしりだ…。
しかし、読みづらい。
そもそも文字の彫りが浅いことや、SF501の強烈すぎる灯りが文字を読むのに適さないこともあるが、文面も字体も非常に古風なのである。
達筆といえばいいのだろうが、行書かつ古文体ということで、学のない私には現場での解読など不可能。
じっくり自宅で読むために、いろいろな角度から碑面の写真を納め、取りあえず現地では洞奥の探索を優先することとした。
詳細は読めなかったが、本碑に関する最も重要な部分は、何となくだが読めた。
そもそもこの碑が何であるかについては… ずばり、「隧道に関する記念碑」と思われる!
本文中に、「道」や「隧」の字が見て取れる。
しかも、冒頭の文字は「明治二十年五月」。書き出しには「多比村」の文字が鮮明である。
もしこれが、隧道の完成後に建てられた記念碑だとしたら、明治20年には既に開通していた事になる。
また、「多比村」は明治22年に「静浦村」に合併したのであって、この村の名前が出て来ている時点で「明治20年建立説」は強い。
この碑がここに最初からあったものなのか、本来の隧道の場所から移設されてきたものかは分からないが、とにかくこの碑が顕彰している隧道は、めちゃくちゃ古いものらしい。
それこそ明治20年竣工だとしたら、私が知る限り伊豆半島内で二番目に古いことになる。(第一は柏隧道…明治15年竣工)
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ということで、宿題として持ち帰ってきた碑文の解読だが、やはりこれは難問であった。
結局一人で解読することを断念して、先日当サイト掲示板にて協力者を募ったところ、多くの読者が手伝ってくださった。
そして、ほぼ全体が解読できたので、次にその成果を公開する。誤りや異説のご指摘も、掲示板かメールにてどうぞ。