2008/2/26 7:28
「旧口野隧道」である可能性が高いと考えられる、多比地区谷戸の穴。
入ってすぐに石碑があり、そこには隧道の由緒が格式高い文体でしたためられていた。
果たして現在潜入中のこの穴が、明治5年に着工したという“県内最古”の隧道なのか。
それともこれは単なる石切場で、石碑は別の場所から持ち込まれただけなのか。
真実を探るべく、隅々まで洞内を探索することにした。
まずは、入って最初の広間から左に分かれる、トタンの壁で塞がれていた形跡のある空洞へ。
そこは、最初の広間よりもさらに広い空洞であった。
天井の高さは3mほどだが、幅と奥行きは段違い。
小さな体育館くらいの広さがある。
そして、天井には蛍光灯が取り付けられており、洞床に雑多なものが散乱している。
少なくとも、この空洞については間違いなく石切場であったあろう。
跡地を倉庫として利用した時期もあったのかも知れない。
とにかく様々な物が置かれているが、なべて昭和の雰囲気である。
また、細長い広間の中途左側に、外へ通じる二つめの坑口があった。
木板で塞いであったようだが、やはり風で壊されたのだろう。
出入り口が一つではなかったことで、はじめに坑口で感じた風の正体も、期待されるものではなかったのかも知れない。
とにかく、この坑口からも外へ一度出てみた。
初めの坑口とは、30mほど離れて横並びにあるはずだが、あたりは藪が深く、また細かな起伏もあるので全く見通せない。
取りあえず、藪を掻き分けてまでこの坑口が厳密に“どこ”であるかを知っても、隧道の正体とは関係なさそうなので引き返した。
もしこれが重要なものであれば、また逢うような気もしたし。
洞内に入ってからこれまでの行動の軌跡。
このあと、すぐに洞内へ戻った。
ちょっとした冒険者(職業:マッパー)気分である。
次に、この広間の行き止まりにあたる、北よりの壁に接した。
ここには、天井近くの壁に小さな孔があって、外が見えている。
明かり窓として故意に用意したものかも知れないが、その歪な形状を見る限り、地表ギリギリまで掘りすぎた結果であるように思われる。
穴からもたらされたらしい土砂や落ち葉もほとんど無いので、ごく最近出来たのか?
7:32 石碑のある広場へ戻った。
今度は、本坑と思しき坑道へ進む。
もしこれが隧道を改造したものであるならば、本当の出口はこの先にあるはずだ。
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本坑を進むと、勾配はやや上り基調になる。
天井は2mほどしかなく、坑口同様に息苦しさを感じる。
正方形に近い断面なのも、隧道として慣れないせいか余計に圧迫感を覚える。
行く手を占う“風”の有無だが、風と言うほどではないが、依然として空気の流れは微かに感じられる。
第3の坑口が、どこかに存在するようだ。
10mほど進むと、行く手に壁が現れたが、隧道は左にカーブして続いていた。
…カーブ。
明治隧道にはあまりない特徴だが…。
(写真左)
うわ…。
まだ、左カーブだ…。しかも、直角に近いようだ。
(写真右)
通路部分の洞床には、敷石が施されていた。
それも2列。
馬車が通れるようなサイズではないので、石材運搬用の木橇を通すための舗装と見て間違いないだろう。
残念ながら、様々な状況証拠が隧道説を否定していく。
隧道説を背負う本坑であったが、ここで直角に近いようなカーブが現れてしまったのは、致命的な気がする。
こうなると、隧道説を支持するものとしては坑口の「山田」の文字と石碑に刻まれた「山田与七」の一致くらいである。
とはいえこの一点だけでもなお、「なぜ?」と問われれば答えられない、そんな重みがあるのも事実である。
とにかく、閉塞するまで進もう。
右の写真は、この角に作られた小さな池。浅いようだが、水は濁っていた。
天井にアタマが付きそうな直角カーブを左折。
すると、その先は急に天井が高くなった。
幅も広がっている。
通路 兼 広間だ。
高いところでは、10m近くもありそうな天井。
足場のような切れ込みが所々に見える。
石灰分を含む地下水が流れ出ているようで、クリーム色に変色している場所もあった。
これはもう、間違いなく石切場の廃坑だろう。
洞床にあって道しるべのように見えるラインは、プラスチック製の細いパイプだ。
こうやってみる限り、廃坑としてはさほど荒れてもいないし、意外に最近まで稼働していた(昭和末頃?)のかも知れない。
この丁場(石切場のこと)の所有者が“山田某”であるとしたら、坑門の記銘も頷ける。
さらに想像力を逞しくすれば、かつて隧道を掘った山田与七と、丁場の所有者山田氏は、血縁にあるのかも知れない。
全ては想像の中だが… 残念ながらこの穴は明治の人々が掘った隧道では無さそうである。
もっとも、明治からこの一帯の主要な産物として石材があったので、本丁場が明治からのものである可能性は否定できない。
それに別の可能性として、石を切り出しながら坑道の延長を延ばして、やがて山の向こうに通じた坑道を隧道として解放したということも …有り得ないことではないかも。
全体的に支坑は少ないのだが、大量の瓦礫を吐き出したように見える小さな横穴を、向かって右の壁に見つけた。
この方向は入口とは反対向きであるから、その行く手が特に気になるのであるが、腰を屈めて入ってみても、数メートル先で天井まで瓦礫が埋めており、風も光も通じてはいなかった。
ただの廃坑であろうか。
7:38
あ。
水没してる…。
来ちゃったか……。
ガ──ン…
深い…
人の背丈なんかよりも、遙かに深い。
藍色がかった水が、波紋一つ無い水面下に沈黙していた。
本能的に、恐ろしい眺め。
まだ、空洞は奥へ続いている。
それに、何と憎たらしいことか。 風がありやがる!
…でも、今回ボートなんて持ってきていないし……。
対岸までの距離は、最低10mはある。
マリオやルイージでもなければ、ジャンプ攻略は難しい。
おおよそ、スペランカーの主人公程度の身体能力しか有さない私では、ここを突破することは…。
万事休す …か。
あ、 そうだ!
これを ちょっと拝借して……。
一号橋梁 落成!!
しかし、せっかく架けた橋も、危なっかしくて何度も渡れる代物ではなかった。
橋自体の強度も全く信用ならないばかりか、両側が固定されていないため、左右に転倒する危険が高いのだ!(笑)
…もっとも、 せっかく架けたんだし、騙し騙し渡りはしたが…。
幸い…、この序盤の水深は足が付く程度だしな…。
問題は、その先の「二号橋梁予定地」だが…。
こんなに長い橋は…
ちょっと…
資材がないよ……。
人工島“沼ホタル”から、風の吹いてくる方向を遠望。
どう身体を捻ってみても、捩(よじ)ってみても、爪先立ちをしてみても…
!見えないものは見えない!
ああ…。
おそらくこれは隧道では無いと思うのだが、もしどこかに通じているのならばそれを確かめたいというのが人情。
だが、人工島から次の一歩は確実に、水深「背丈以上」。
お、 泳ぐか…?
水は流れてないんだし、10mも無いんだから泳げるだろ……。
ま、待て待て。
それはいくら何でもやりすぎだ。
そもそも、そんなことをしなくても、山の向こう側に行けば出口が口を開けているんではないのか。
それを確認できればイイじゃないか。 なぁ、同志よ。
う、うむ…。
天井の窪みに身を寄せ合って冬眠するコウモリたち。
奴らめ! どうせ俺がこれ以上進めないと分かっているのか、微動だにしやがらねぇ。
…まあいいさ。
あとで、向こう側から“強襲”して度肝を抜いてやるわい。
2号橋梁の架設は資材不足により断念。
とりあえず、本坑は旧口野隧道の候補たり得るものだが、可能性は低いように思う。
だが、石碑の存在は極めて重大な発見と言えるだろう。
町村誌には記載のない本隧道の、真の歴史を記すものである。
私は外へ戻り、引き続き“別の”隧道を探すことにした。
7:43
地上へ戻って、チャリを回収。
広場の周囲をよく観察すると、坑口とは反対方向に登っていける道が有ることに気付いた。
チャリを押して登りはじめる。
闊葉樹が茂る、密林のような森。
夏場には藪蚊が多そうだ。
そもそも、冬でこれならば、夏など踏み込めないかも知れない。
そんな緑に覆われた地表には、多くの石造構造物があった。
どれも素朴な空積みの石垣で、崩れているものも多い。
必ずしも道に面していないものも散見され、この辺りがかつて石切場として開発されたことを感じさせる。
ヘアピンカーブだ。
こういうカーブがあるということは、かつて車輪付きの乗り物(荷車とか)が通った可能性が高い。
路盤不良のためチャリはお荷物であり、連れて行く意味が分からなくなってくるが、もし峠を越えて走り出すことが出来たなら、それは私にとって最も嬉しい攻略となる。
その意義のために、いまは這い蹲ってもチャリを連れて行く。
限度は、 あるけどね…。
路上距離にして50mほど進んだか。
ヘアピンカーブ一つで、前の坑口の真上あたりの山腹へ進んできた。
すると、初めて峠の鞍部(らしき場所)が見えてきた。
隧道が潜っていたのも、あの鞍部なのか。
しかし、肝心の道の方は鞍部の方へ登らずに、真っ直ぐ薄暗い藪の中へ飛び込んでいる。
7:46
おふ!
おふぁ
これは!
まさか…
これが本当の…?
キタ?
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