映画『 The Obroaders 』公開記念レポート

隧道レポート 干俣鉱石輸送鉄道の未成隧道 第1回

所在地 群馬県長野原町
探索日 2013.04.25
公開日 2014.11.23


今から2年前の平成24年10月7日に、無記名の読者さま(仮に「A氏」と呼ぶ)から寄せられた情報提供メールの全文を、以下に転載する。

題名: 吾妻線未成線?

はじめまして。
以前ヨッキさんは太子線を探索しておられましたが、
現役線の長野原草津口〜群馬大津間においても、
規模の小さいものではありますが未成線があると思われます。
幼少の頃通学路として利用していた頃の記憶ですので正直信憑性は怪しいですが。

国道145号(バイパスでない方)を長野原草津口駅前から群馬大津方面にむけて走りますと、
市街地を抜けたあたりで歩道橋があり、その向こうから崖沿いの道となるのですが、
崖沿いの歩道から崖下を覗きこみますと路盤らしきものが見えます。
また、歩道橋から50mほど進むと廃物置のようなものがあり、
今考えるとその真下にトンネルの坑門らしきものがあったと記憶しています。
具体的には、トンネル坑門のような形のコンクリートの壁上部に、長方形のアナが開いていたと思います。
当時はそれが何かわからなかったのですが……。
また、親から、崖沿いの路盤が崩れたために今のトンネルを新たに掘った、
というようなことを聞いた記憶もあります。
小さな物件かも知れませんが、
機会があればぜひ探索していただければ、と思います。
楽しみにしております。

情報提供者「A氏」はさらりと書かれているが、JR吾妻線の長野原草津口駅と群馬大津駅間に未成線の遺構があり、さらには未成隧道の坑口が残っているなどというのは初耳であり、大変な新情報であると驚いた。


【周辺図(マピオン)】

A氏も書かれているが、JR吾妻線の長野原草津口を起点とする廃線跡としては、著名なものが存在する。
それは通称で「国鉄太子線」と呼ばれることが多い、国鉄長野原線(現吾妻線)の長野原駅(現長野原草津口駅)〜太子駅の廃線区間であり、私も探索して「日本の廃道 2008年1月号」に詳細な実踏レポートを掲載したほか、「廃線跡の記録」にもまとめている。

一般に知られている情報として、国鉄長野原線は昭和46年に現在の終点である大前駅(嬬恋村)までの延伸開業に伴って国鉄吾妻線へ改称され、同時に長野原駅〜太子駅間が廃止されたとされる。
建設中の長野原駅〜大前駅間は、国鉄嬬恋線の名前で呼ばれていたが、この13.3kmの延伸工事において未成隧道が生じたという話しは、これまで聞いたことがない。

幸いにもA氏によって未成隧道の位置は特定されており(ただし幼少の記憶による)、すぐに現地へ向かっても良さそうだったが、その前に長野原町の町史を見てみることにした。
何かこの未成隧道について、情報があるかもしれない。




昭和51年に刊行された「長野原町誌 上巻」に目を通すと、ずばり情報に適合すると思われる未成線の情報が書かれていた。
小題は、「未完成に終わった干俣鉱石輸送鉄道」。
おそらくこの未成線はマイナーなのだろう。今まで色々な未成線の本を読んできたつもりだが、ぜんぜん知らなかった。
これは少し長文にはなるが、重要な情報なので、章の全文を転載する。
右側の地図で位置関係を確認しながらお読みいただきたい。


大東亜戦争も開戦後二年目の昭和十八年頃になると、戦況はいよいよ苛烈となり、前線へ送る兵器、食料の需要も緊迫してきた。この頃空中戦での花形飛行機の増産に必要なアルミニウム原鉱を、嬬恋村大字干俣の上信鉱山から飛行機製作工場へ緊急輸送するため、同鉱山に補助金を支出して鉱石運搬鉄道を敷設しようという計画が立てられた。それによると鉱石産出の干俣上信鉱山より鉱石を索道によって芦生田まで(約八粁)搬出し、芦生田より電気鉄道によって長野原町大字長野原まで約九粁の間を輸送し、折から敷設中の長野原線に連絡輸送しようというものであった。
敷設計画の地形は吾妻川沿いで断崖が多く、長野原町内では線路敷にあたる家屋は既に移転を終り、市街地は南側吾妻川断崖上と決り、作道観音堂前国道下はトンネルで素掘りもほぼ貫通し、線路敷も完成したが間もなく終戦となり、戦力増強の輸送鉄道も日の目を見ることができず、空しく線路敷を残したまま中止となった。(嬬恋村大塚連太郎氏資料提供)


嬬恋村芦生田と長野原駅を結ぶべく計画された、全長9kmの電気鉄道。

昭和46年に延伸される吾妻線に先行した、“幻の鉄道計画”である。

そして長野原町内の国道下には、戦時中に素掘のトンネルがほぼ完成していたというのだ。

これはA氏が幼い頃に国道の下に見た路盤らしき平場や、隧道の坑口らしきものと、特徴がよく一致する。

町誌の刊行からも早30余年が経過しているのは大きな不安材料だったが、

いざ、遺構の確認へ出発だ!




長野原の市街地で戦時中の遺構を探す


探索はいまから1年半前だが、当時既に八ッ場ダム関係の工事が相当に進んでおり、水没による吾妻線付替の起点となる長野原草津口駅(かつての長野原駅)は、その4年前に太子線を探索した時にはあった観光地の玄関口駅としての賑わいと端正さを失っていた。
周囲にはバリケードに囲まれた場所が多く、とても戦前の“遺構”を探しながら歩ける余地はない。
少し興醒めした私は、駅から少しだけ離れた新須川橋辺りから探索を始めることにしたのであった。


2013/4/25 10:35 《現在地》 

新須川橋は、国道145号が白砂川を渡る橋である。(なお、八ッ場ダム建設に伴って、国道145号には長野原市街地を南に迂回するバイパスが完成しているが、従来の国道も国道指定のままなので、本稿では従来の国道を「国道145号」と呼ぶ)
これは長野原町の中心部と長野原草津口駅を結ぶ唯一の道路橋でもある。

写真はこの橋の上に立って、白砂川の上流方向を眺める。
何本かの橋が見えるが、一番手前は水路橋、その奥のトラスが吾妻線の白砂川橋梁で、さらに奥にわずかに見えるプレートガーダーが、長野原線旧線(太子線)の廃橋「須川橋」である。(白砂川はかつて須川と呼ばれていた)

昭和46年開業の吾妻線の橋は国道の橋の150mほど北側(上流)にあり、そのまま長野原の市街地北側を2本の長いトンネルで通過していくが、未成に終わった鉱山鉄道のルートは、長野原市街地南側の吾妻川沿いに計画されていたという。
となれば、おそらく鉱山鉄道用の“須川橋”も国道の橋の近くに計画されていたものと思われるが、その場所はおろか、橋が着工された否かも不明である。



橋を渡って、長野原の東西に細長い市街地の東端に立つ。
街の入り口には諏訪神社があるが、この日はちょうど例祭でもあったらしく、多くの人がぴーひゃらと賑わいの音の中にいた。

そこを過ぎて少し行くと、国道の左側(すなわち吾妻川側)に徐々に離れていく小径を見つけた。
新旧道の分岐にありがちな三叉路で別れていくのではなく、突如国道の脇に現れた感じの小径である。
何の証拠もないが、未成線の計画ルートは吾妻川沿いであったという町誌の記述を頼りに、この小径を未成線跡と仮定して進む事にした。

なお、この写真は水平にカメラを構えて撮影している。
現地は右山左谷の土地になっていて、左側が低い。
ここに鉄道を敷設する事を考えるならば、右よりは左という気がするだろう。




10:35 《現在地》

国道とは微妙な距離を保ちながら、ほぼ一直線に畑を縦断する小径。

果たしてこの道は、未成線の跡なのだろうか?
人に会えば聞こうと思ったが、国道沿いは両側に民家が密に立ち並んでいるのに対し、この小径の周囲には畑が多く、人家は少ない。
このことも、小径が国道の旧道や古い街道に由来するものではないと考える根拠である。

帰宅後、昭和22年に米軍によって撮影された航空写真を見てみたが、その当時から人家が密に立ち並んでいるのは現在の国道沿いであり、小径はその外れを通っているように見えた。しかし画像の解像度の問題もあり、未成線の路盤であるかは判断できなかった。



小径を200mほど進むと、前方にややまとまった住宅群が見えてきた。しかし道は相変わらず未舗装だ。
ここに1本の用地杭らしきコンクリート柱を見付けている。
そんなに古いものには見えないものの、小径の土地所有者を知る手掛かりとなるだろう。

そう思って撮影してきた標柱のマークを調べてみたが、正体が分からない。
少なくとも、現在の長野原町の町章とは異なっている。
群馬県の県章でもなかった。
まさか戦時中に上信鉱山を経営していた日窒鉱業の社紋かと思ったが、現在の社紋とは違っていた。

果たしてこの記号の正体は? 謎である。



10:37 《現在地》

「ここは道路ではありません」が、気になる。
外見的には道路だが、公道ではないのだろう。
よく未成線跡の土地が帯状の空白地になっていたり、それが実質的には道路の形質を持ちながらも公道ではない場面が見られるが、これはそのパターンである。

そしてここまで約400m続いてきた直線の小径だったが、遂に姿を消してしまう。
目の前で直角に右へ折れ、そのまま国道に突き当たっていたのである。
直進する道は無く、そこは長野原の街が乗っている河岸段丘の縁にあたる雑木林や崖が続いているようだった。(すぐ脇は河岸段丘の縁)

無理矢理踏み込んでも良かったが、今は隧道が待ちきれないので、また今度にしよう。




そのまま国道を通って、長野原の中心地を隧道があるという西端までワ〜〜プ。

さすがに中心部は河岸段丘の縁までびっしり市街地になっており、
そこに未成線の形状的な痕跡を探すことは、難しそうであった。
ただし、鉄道用地の買収は完了していたという情報もあるので、
詳細に地割を見ていけば、未成線が浮かび上がる可能性は高い。



目印の歩道橋の下には


11:05 《現在地》

おっ! あった。 歩道橋。

A氏の情報を思い出す。
「市街地を抜けたあたりで歩道橋があり、その向こうから崖沿いの道となるのですが、崖沿いの歩道から崖下を覗きこみますと路盤らしきものが見えます。」

長野原の市街地でたった一箇所だけの歩道橋。
間違えようがない。この場所である。
歩道橋の名前は「長野原歩道橋」。

地形的にはここが長野原市街地の西端で、この先は群馬大津駅のある堂西地区まで約400mの峡谷となり、こちら岸に平地は無い。
A氏や町誌によれば、この峡谷の区間に未成隧道があるのだという。




路肩に立ち、期待を胸に、崖の下を覗き込もうとする私。

だが、その背後には小さな影が、迫っていた。



こっ、

こ れ は …。



ありました!!




路盤ありました〜!!!


ゴロゴロズサー…



11:07 《現在地》

矢も盾もたまらず、草の茂る急斜面を転げるように下った。

そして数秒の後に辿りついた平場は、谷側にコンクリートの立派な擁壁を持っていた。
幅は2m程度と狭いものの、鉱山鉄道ならばあり得そうなサイズである。
また平場自体は廃道ではなく、水路の用地として管理下にある模様だ。
赤い鉄の蓋が小さな水路を隠していたが、常時水の流れる音がした。




水路を目にしたことで、私の中で二つの可能性を探る気持ちが鬩ぎ合った。
幼い頃のA氏の記憶に残された、この平場の正体について。

A氏と私は、これが鉄道の未成線跡であることを期待している。
だが、現にいまそこにあるのは、現役の水路だった。
鉄道と水路の線形は、しばしば混同が起きるほどによく似る。ともに等高線に忠実である。

町誌も書いていたのだから、この長野原の地に未成となった鉄道計画があり、工事が行われたことは事実であろう。
だが、その遺構と思われていたものの正体が、実は水路だった…。

そんな悲劇が起きていないことを、祈りたかった。




悶々としながらも、答えを知るのを恐れるかのように、私は先に「東」へと向かった。

しかしその行く手が跡絶えるのはあっという間だった。
住宅地に阻まれ、路盤と思われるものは水路ごと、庭の中に消えていた。
さらに目線で先を追い掛けるも、コンクリートの街並みがそれさえも遮った。
この先は長野原の市街地であり、路盤も水路もないようだ。




もう、「西」へ向かうしかない。

蓋の下の水の流れに逆らう方向へ歩き始める。
最初にここへ降り立った歩道橋の下も素通りして、等高線へ忠実に左へとカーブしていく。




果たして、
この先に待ち受けるのは、
歓喜か、落胆か。

それとも……?





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