2013/4/25 11:09 《現在地》
国道の長野原歩道橋下で、A氏の情報の通りに発見された平場。
はたしてこれは、戦時中に建造されようとした鉱山鉄道の未成路盤なのか、それとも水路でしかないのか。
おそらく、この先に進めば答えがわかるだろう。
間もなく姿を見せるであろう隧道が、水路なのか、鉄道未成線なのかを、教えてくれると思う。
期待と不安を胸に、赤い蓋が続く平場を西へ向かう。
まだ振り返れば、木々の隙間に街のビルが見えるくらいの場所なのに、早くも道は絶壁に行く手を阻まれ、今にも跡絶えかけている。
辛うじて残ったのは、水路としての構造物だけだった。
足元はコンクリート製の水路とその蓋で、法面から手すりまでの幅は1mに満たない。
さすがにここを未成線の路盤だというのには無理があるが、あくまでも未成線だから、途中に断絶があったとしても不思議はない。
まだ、諦めない。
この先に待つものを、見届けたい。
ぐぬあぁ!
これはチト、厳しいか?
隧道と言えば隧道… しかし小さいッ
しかも実態は隧道ではなく、片洞門の谷側にコンクリート水路の側壁があるというもので、とても鉱山鉄道と関わりがあるものには見えない。
もしかしたら、その工事用通路として開鑿されたというような秘史を持っているかも知れないけれど、ぬ〜〜ん。
ぬ〜〜〜ん。
「ぬ〜ん」しつつも、可能であるならば、さらに先へ進んで謎の解明に取り組みたかった。
だが、目前の岩場は容易ではない。
鉄筋用の細い鋼材で、通路の骨組みと手すりを兼ねたようなものが岩棚に取り付けられているが、はっきり言って邪魔だ。
体重をかけた途端に折れ曲がって、柵ごと崖に落ちるという最悪の未来を私は無視できない。
他に古いトラロープが崖に架かっているが、こんなものに頼ってまで進みたいと思える場面でもなかった。
ここは一旦国道へ撤収して、水路の反対側へのアプローチを再考することに。
一時撤収。
11:12 《現在地》
下りてきた斜面をよじ登り、国道へ復帰。
路肩の歩道を西へ向かいながら、斜面下の水路へ降りられる場所を探したが、転落防止用の高いフェンスがほぼ途切れずに続いていた。
これを乗り越えてアプローチするしかないだろうが、その場面を通行人に見られないように気をつけよう。自殺願望を疑われかねない。
なお、この辺が町誌に未成隧道の在処として地名があった「作道観音堂前」と思われる。
現在は法面に小さな地蔵が収められているだけだが、古い地形図では崖の上に寺院の記号が描かれ、「作道(つくりみち)観音堂」といったようだ。
名前からして“萌え”だが、国道やその先代の街道と深い関わりがあるのかも知れない。ここは見るからに交通の難所である。
フェンスの外の斜面に、ロープが張ってあるのを見付けた。
きっとこの下に、水路の続きがあるはずだ。
そう直感した私は、速やかにフェンスを乗り越え、ロープの行き先を目指して斜面を下った。
そこには確かな踏み跡があり、廃道探索などという怪しげで頼りないものとは違う、業務としての人の行き来があるように感じられた。
10mほど斜面を下ると、案の定、水路の続きを見つける事が出来た。
新たに見つかったのは、ほんの5mにも満たない短い明かり区間で、前後は地中にあった。
写真奥に見えている水路隧道は、先ほど私を引き返させた岩場の反対側の坑口である。
残念ながら、ここにも“水路以外の構造物”を見出すことは、出来ないか。
透明な水が滾々と流れ出てくる、国道直下の穴。
大きさは水が通る分だけしか無く、人間はどうやっても入る事は出来ない。
むしろ水路としても小さすぎるくらいで、どうやって工事をしたのか不思議だが、
現代の機械を用いれば、不可能では無いのだろう。
結局、歩道橋の下に見付けた平場のどこからどこまでが未成線の路盤であったのか。
それともすべてが水路でしかなかったのか。判断の付かないまま、ここでの探索は終わった。
11:16 《現在地》
作道観音堂下での探索は、まだ終わらない。
A氏が幼い日に見た記憶…
歩道橋から50mほど進むと廃物置のようなものがあり、
今考えるとその真下にトンネルの坑門らしきものがあったと記憶しています。
具体的には、トンネル坑門のような形のコンクリートの壁上部に、長方形のアナが開いていたと思います。
…この正体が、判明していない。
崖下に注目しながら更に西へ向かうと、鋭い絶壁が30m以上も下の吾妻川まで切れ落ちていた。
ここにはもはや水路さえも通す余地はなく、地中へ迂回しているのである。
鉄道を通すならば、隧道にせざるを得なかったであろう。
国道には隧道こそないものの、その分とても高い法面を背負っている。
歩道橋から200〜250mほど進むと、遠方に堂西地区の民家が見え始めた。
こうして峡谷の終わりが意識されるようになると同時に、いくらか眼下の傾斜が緩み、
そこに再び路盤のようなものが見えてきたのであるから、
私の中にくすぶっていた炎が、再度めらめらと燃え始めたのは言うまでもない!
路盤のような平場を見下ろせる位置まで、大急ぎで進む。
11:18 《現在地》
路肩のフェンスに身を乗り出して、眼下の斜面を覗き込む。
歩道橋の時と同じような高さに、同じような平場が続いていた。
そして、蓋の種類は変わっていたけれど、やはり見覚えのあるサイズの水路が通っていた。
だが、そこは水路にしてはいかにも幅が広過ぎるし、直線的過ぎるだろう。
これはもう、今度こそはもう、間違いないんじゃないかという気になった。
キターー!!
キターー!!
A氏すげぇ!!
まるで、昨日見てきたことをメールしてくれたのかと思うほど、彼の教えてくれた通りの光景が、平成25年の作道観音堂前国道下には展開していた。
トンネル坑門のような形のコンクリートの壁上部に、長方形のアナが開いていたと思います。
まさしく、その通りであった。
水路の為に掘られたとは到底考え難い、巨大な坑口。
そしてそれが廃の世界のものである事を教えようと立ち塞ぐコンクリートの壁には、闇を湛える大小の四角い穴が見えていた。
入 っ て く れ と、言わんばかりに。
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11:19 《現在地》
長野原町大津に属する堂西地区に、この群馬大津駅がある。
駅と言うよりは停留場といったほうがしっくりきそうな片面ホームの小さな駅だが、長野原町の市街中心部(例えば役場)の最寄り駅である。(役場〜長野原草津口駅が1.4km、役場〜当駅は1.0kmである)
完全に余談だが、この大津という地名は面白い由来を持っている。
一帯は吾妻川沿いの土地であり、川湊に由来するのかと思いきやそうではなく、明治8年に周辺の三つの村が集まって一つになるとき、隣にあった草津村(現草津町)を近江の草津にかけ、自らを大津と名付けたのだそうだ。草津と大津は東海道の宿駅として隣り合っていて、現在も滋賀県の自治体として草津市と大津市が隣接する。これは古くから名湯として知られた「草津温泉」に対する一種のあやかり地名(軽井沢に対する北軽井沢のようなもの)の変わった例とも見なせるが、群馬県の大津村は長く存続せず、明治22年に長野原町の一部となって消えてしまった。
上の写真と同じ立ち位置から、反対方向を撮影したのがこの写真。
口を開けたトンネルは吾妻線の第二長野原トンネルで、その上を国道145号が横切っている。
そして肝心の未成線路盤跡と思しき平場は、トンネルと同じ高さで右に逸れていき、国道の下へ続いていく。
この吾妻線と未成線の高さの一致は偶然かも知れないが、両者の計画ルートに繋がりがあった可能性を感じさせるものがある。
それでは今度こそ、表題の未成隧道目指して出発進行!!
見覚えのある水路の蓋を踏みながら、自転車に跨がったまま、やや草むした平場を進む。
水路があるから当然だが、勾配は極めて緩やかで、かつ順勾配で行く手に向かって下だっていた。
自ずから私の足が回す車輪も、鉄道を思い出させる快調さとなる。
そして、僅かな時間で国道から見下ろしたエリアに入り込む。
うああぁ(嬉み)
春うららかなこの場面。
鉄道未成線跡の悲哀は無く、普通に鉄道廃線跡のようである。
いままでこんな廃線跡を、たくさん見てきた気がするのである。
すぐに来る、路盤の突き当たり。
とうとうやって来た、この時が。
国道直下という人目に付きやすい場所の筈なのにマイナーなのは、
やはり戦時中の未成線という、記録の乏しさ故だろうか。
コンクリートの壁の向こうには、
私の知らない戦争が生んだ闇が、眠っている。
反対側に出口は無かったから、
きっと行き止まりの 闇 だろう。
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