念仏トンネル。
一度名前を耳にすれば、ずっと忘れがたいようなインパクトがある。
このトンネルは、積丹半島の北西に突き出した神威(かむい)岬の一画に存在する。
トンネルと言うよりは、隧道と呼ばれるべき古さを持っているが、「念仏トンネル」と呼び慣わされてきた。
神威岬は、茂津多岬、雄冬岬と並び、かつて西蝦夷三険岬の総称でもって恐れられた航海の難所だった。
アイヌの人々が「カムイ(=神)」の名で呼んだ神威岬には脅威が棲まい、和人の船もこの沖を通過するときは帆を下ろし、御幣を捧げて祈ることが通例であったという。
また、この地には人為的な境界線もかつて存在した。
安政3(1856)年に至るまで、松前藩ではこの岬より北側に和人の女性が立ち入ることを禁じ、男性のみの移住を認めていた。アイヌの人々との交易が重要な財政基盤であった藩にとって、和人がこれ以上奥地まで広がっては困るという思惑があったとされるが、この政策はいつしか、女性が乗った舟が岬を越えると沈むという呪いの伝説を生み出しもした。
神威岬は陸路にとっても難所であった。
しかし他の茂津多岬や雄冬岬と比べれば、ここを越える国道229号が車道として開通するのは遙かに早かった。
むしろ国道229号が積丹半島を一周する上での難所は、これより南の海岸線にあった。
念仏トンネルは神威岬の一画に存在しているが、国道229号やその先代となる道の旧道というわけではない。
念仏トンネルはもっと遙かに対内的で、心情的な、細やかな事情によって誕生したトンネルであった。
そういう意味で、これまで当サイトが紹介してきた多数の古いトンネルの中でも、だいぶ特異な背景を持つと言える。
ほとんどの古いトンネルは、地域の発展に資するものとして建設されたと思うが、このトンネルはもう少し狭い世界の平和を考えて作られていた。
右図は、神威岬と念仏トンネルの位置を示した最新の地理院地図だ。
トンネルは国道から分かれて岬へ通じる海岸沿いの徒歩道の途中に描かれている。
徒歩道の隧道という泡沫的な表現ながら、わざわざ「念仏トンネル」の注記があり、目を引く。
念仏トンネルの名前の由来とも関わる本トンネルが建設された経緯は、少し調べれば直ぐに出てくるので、勿体ぶらずに最初に書いてしまおうと思う。
『北海道道路史 III 路線史編』のp.517に、次のようなエピソードが収められている。
神威岬を望む草内に「念仏トンネル」と呼ばれるトンネルがある。大正元(1912)年10月29日午前8時半ころ、神威岬燈台草薙台長夫人と次長夫人、その二男(当時3歳)が天長節のお祝いに品物を買うため余別市街に行く途中、荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死したのである。
そこで難所を解消しようとして、後志支庁の技師の設計のもと、トンネルの開削に着手した。
技術が未熟であったのか、測量に誤差があったのか両側から掘削を始めたところ、中央において約21m食い違いが生じてしまった。
作業は一時頓挫したが故人のために双方から念仏を唱えながら、鐘を鳴らし方向を定め、大正7(1918)年11月8日ようやく完成をみたのである。
長さが約60m、高さと幅は約2mというもので、トンネル内は真っ暗である。
なんとなく冥土の旅へでも辿っていくような気がして、思わず念仏の声を洩らすので、念仏トンネルと呼ばれているものである。
念仏という名前からして、死者の存在を想起することから逃れがたいものがあったが……。
これほど直截に、故人の存在と結びつけられて誕生したトンネルは、珍しい。
神威岬灯台(明治21(1888)年初点灯 昭和35(1960)年無人化)の灯台長と次長の家族3名の遭難死を悼み、事故現場付近に建設されたものだという。
偶然そこにいた通行人ではなく、この地にゆかりがあって暮らしていた……むしろこの故人たちは暮らさざるを得なかったという表現が正しいだろうが……人たちの犠牲ということに、いっそう胸が締め付けられる印象がある。
当時、この事故を目の当たりにした関係者や土地の人々も、このことに深い哀れみを感じて、村の幹線道路では決してない灯台守のための道にトンネルの新設を行ったのだろう。
建設時に何らかのミスがあり、内部に大きな食い違いが生じたが、念仏を唱えて苦心のすえ貫通させたことなども命名の故事とされているようだ。
そしてこのトンネル、現在はそこへ通じる唯一の道ごと封鎖されていると聞く。
いったいどんな姿のトンネルなのか、見てみたいと思った。
2018年の私の最初の北海道探索の初日、積丹半島の周回を目指して進めてきたこの日の探索の終わりに近いところで、念仏トンネルとの邂逅を持った。
本編はその模様である。