隧道レポート 神威岬の念仏トンネル 前編

所在地 北海道積丹町
探索日 2018.04.23
公開日 2021.10.16


《周辺地図(マピオン)》

念仏トンネル。

一度名前を耳にすれば、ずっと忘れがたいようなインパクトがある。

このトンネルは、積丹半島の北西に突き出した神威(かむい)岬の一画に存在する。
トンネルと言うよりは、隧道と呼ばれるべき古さを持っているが、「念仏トンネル」と呼び慣わされてきた。

神威岬は、茂津多岬、雄冬岬と並び、かつて西蝦夷三険岬の総称でもって恐れられた航海の難所だった。
アイヌの人々が「カムイ(=神)」の名で呼んだ神威岬には脅威が棲まい、和人の船もこの沖を通過するときは帆を下ろし、御幣を捧げて祈ることが通例であったという。
また、この地には人為的な境界線もかつて存在した。
安政3(1856)年に至るまで、松前藩ではこの岬より北側に和人の女性が立ち入ることを禁じ、男性のみの移住を認めていた。アイヌの人々との交易が重要な財政基盤であった藩にとって、和人がこれ以上奥地まで広がっては困るという思惑があったとされるが、この政策はいつしか、女性が乗った舟が岬を越えると沈むという呪いの伝説を生み出しもした。


神威岬は陸路にとっても難所であった。
しかし他の茂津多岬や雄冬岬と比べれば、ここを越える国道229号が車道として開通するのは遙かに早かった。
むしろ国道229号が積丹半島を一周する上での難所は、これより南の海岸線にあった。

念仏トンネルは神威岬の一画に存在しているが、国道229号やその先代となる道の旧道というわけではない。
念仏トンネルはもっと遙かに対内的で、心情的な、細やかな事情によって誕生したトンネルであった。
そういう意味で、これまで当サイトが紹介してきた多数の古いトンネルの中でも、だいぶ特異な背景を持つと言える。
ほとんどの古いトンネルは、地域の発展に資するものとして建設されたと思うが、このトンネルはもう少し狭い世界の平和を考えて作られていた。

右図は、神威岬と念仏トンネルの位置を示した最新の地理院地図だ。
トンネルは国道から分かれて岬へ通じる海岸沿いの徒歩道の途中に描かれている。
徒歩道の隧道という泡沫的な表現ながら、わざわざ「念仏トンネル」の注記があり、目を引く。

念仏トンネルの名前の由来とも関わる本トンネルが建設された経緯は、少し調べれば直ぐに出てくるので、勿体ぶらずに最初に書いてしまおうと思う。
『北海道道路史 III 路線史編』のp.517に、次のようなエピソードが収められている。

神威岬を望む草内に「念仏トンネル」と呼ばれるトンネルがある。大正元(1912)年10月29日午前8時半ころ、神威岬燈台草薙台長夫人と次長夫人、その二男(当時3歳)が天長節のお祝いに品物を買うため余別市街に行く途中、荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死したのである。
そこで難所を解消しようとして、後志支庁の技師の設計のもと、トンネルの開削に着手した。
技術が未熟であったのか、測量に誤差があったのか両側から掘削を始めたところ、中央において約21m食い違いが生じてしまった。
作業は一時頓挫したが故人のために双方から念仏を唱えながら、鐘を鳴らし方向を定め、大正7(1918)年11月8日ようやく完成をみたのである。
長さが約60m、高さと幅は約2mというもので、トンネル内は真っ暗である。
なんとなく冥土の旅へでも辿っていくような気がして、思わず念仏の声を洩らすので、念仏トンネルと呼ばれているものである。

『北海道道路史 III 路線史編』より

念仏という名前からして、死者の存在を想起することから逃れがたいものがあったが……。

これほど直截に、故人の存在と結びつけられて誕生したトンネルは、珍しい。
神威岬灯台(明治21(1888)年初点灯 昭和35(1960)年無人化)の灯台長と次長の家族3名の遭難死を悼み、事故現場付近に建設されたものだという。
偶然そこにいた通行人ではなく、この地にゆかりがあって暮らしていた……むしろこの故人たちは暮らさざるを得なかったという表現が正しいだろうが……人たちの犠牲ということに、いっそう胸が締め付けられる印象がある。
当時、この事故を目の当たりにした関係者や土地の人々も、このことに深い哀れみを感じて、村の幹線道路では決してない灯台守のための道にトンネルの新設を行ったのだろう。
建設時に何らかのミスがあり、内部に大きな食い違いが生じたが、念仏を唱えて苦心のすえ貫通させたことなども命名の故事とされているようだ。

そしてこのトンネル、現在はそこへ通じる唯一の道ごと封鎖されていると聞く。
いったいどんな姿のトンネルなのか、見てみたいと思った。


2018年の私の最初の北海道探索の初日、積丹半島の周回を目指して進めてきたこの日の探索の終わりに近いところで、念仏トンネルとの邂逅を持った。
本編はその模様である。



 草内から念仏トンネルを目指す


2018/4/23 16:19 《現在地》

ここは積丹町の草内(くさない)というところだ。
昔は集落だったのだと思うが、食堂が一軒あるほかは、住人の気配はない。
国道に沿ってぼうぼうとススキが茂る土地が広がっている。

しかし積丹半島の観光名所としては古くから名の知られた神威岬の入口は、この草内だ。
そこが寂れたように見えるのは、国道から灯台の近くまで行ける観光道路が整備されて、その先に大きな駐車場があるためだ。
念仏トンネルはすでに封鎖されていると聞くが、そこを通って岬の先端にある神威岬灯台を目指す昔の観光コースも、一緒に過去のものとなっているのだろう。

写真の分岐地点は、草内の入口にある新旧道の分かれで、左が現国道、右は旧国道である。
ここは旧国道をゆく。突き当たりに前述の食堂が見えるが、念仏トンネルへの道は食堂の所から右へ磯伝いに伸びている。



旧国道、現在は町道草内1号線というらしいが、草内橋という小さな橋を渡ったところで突き当たる。旧国道は直角に折れて左へ。
チェンジ後の画像は、その行く先を撮影した。

比較的緩やかな鞍部へ向かって、旧国道とその進路を争奪する現国道が延びていくのが見える。
鞍部の高さは60mほどであり、道路はさほど苦労なくその先の集落、柾泊へ伸びている。
西蝦夷三険岬と呼ばれた他の2つの茂津多岬と雄冬岬が戦後まで長らく車道を閉ざしていたのと比較して、神威岬は陸路に対してはそこまで強烈な障害とはなっていない。
しかし、明治までは道内移動の主流であった海上の往来に対しては、他の2つに勝るとも劣らない難所であったといえる。
その理由は、1つは前説で述べたような松前藩の女人禁制の政策にもあったであろうが、それだけではないだろう。

屈強な船乗りどもに恐れられてきた神威岬沖の海の様子、これから目にすることになる。



「食堂うしお」さんのノボリは海鮮丼を推して盛り上がっていたが、そこを目印に旧国道より外れる念仏トンネルへの道には案内板もなかった。
しかし、かつては灯台守やその家族、または灯台に用事を持つ人々が、それが有人施設であった70年あまりも往来し、さらにその後も遊歩道として利用されたことがある(らしい)道だけに、道形はしっかりとしていた。
舗装はされていないが、車でも入って行けそうに見えた。このまま自転車で進んでみよう。

地形図を見ると、ここから念仏トンネルまで約700mあり、私はそこで引き返そうと思っているのだが、トンネルから灯台までもさらに900mくらいある。
かつて灯台守が歩いた道は、この全線ということだ。

入って間もなく、山側に小さなお堂があった。(この写真も写っている)
扉が閉っていてなにを祀っているかは確かめられなかった。



16:21 《現在地》

私にとっては“始まり”だが、世の中的には、あまりに呆気ない幕切れだった。
入口から100m以内、最初の左カーブを回ったところで、うっかり見逃して進んでしまうことはなさそうな、歩道相手にしてはヤケに腰の入った鉄パイプバリケードが現れた。

バリケードの前に「立入禁止」「この先、落石の危険がありますので立入りを禁止します。」と書かれた木製看板が、「北海道」と書かれた柱に支えられて立っていた。
道路というよりは遊歩道の封鎖地点らしい看板であるが、封鎖されてから5年や10年ではきかない長い時間が経過していることが、皮肉にも、バリケードを避けて奥へ進んでいる濃い踏み跡の深さや堅さから、察せられた。

地形図には今も名前が出ていて、その名を見ればきっと気になる人も多い念仏トンネルは、今もまだ人気なのかな?




自転車を小脇に抱えてワルい踏み跡を辿ると、何事もなかったように元の濃さのまま、元の幅の路上へ戻った。

やっぱり念仏トンネルは今も人気……

……ではなく、釣り人が足繁く通っているだけなのかも知れない。
平日の午後だというのに(人のこと言える行為中かよ…笑)大勢の釣り人が平磯に乗って海原と対面していた。
あれよあれよと、踏み跡はそちらへ流れていき、路上からはあっという間に踏み跡が――




消え……たわけではなく、そもそも踏み跡がつかない地形になった。

あっという間の草木の喪失であった。

ある地点を境にして突然草木がなくなって、磯へ突き出された。

先の見えないカーブが、平磯を見下ろす少し高い位置に、岩を削って付けられていた。

ここで釣り人を脇目に流した先は、いつものひとり旅だと予感した。

念仏トンネルまで、あと500m。





険しさが、来た。

強烈な逆光を背に、神威岬灯台を先端に乗せた海抜148mの細長い山が、
視界いっぱいに現れた。灯台は山の陰の位置にあり、まだ見えない。

やや内陸側で鞍部を越える国道は、この高さと険しさとは無縁でいられた。
しかし、岬を巡る海路と、岬にある灯台へ行く陸路は、これと対峙しなければならなかった。

目的地である念仏トンネルも、いま見え始めたこの険しい海岸線のどこかにあるはずだが、
高さ幅とも2mほどしかないという事前情報であり、この距離で確認できないのも無理はない。
そう自分を納得させて、先へ進んだ。



海上に特異な岩の塔が現れ始めた。
「念仏」という言葉が頭頂部を支配しているせいもあると思うが、咄嗟に「仏手」(仏像とかの手の形)を連想して、ちょっと恐かったのはヒミツだ。

こういう光景、全国的にも奇岩怪石として名所になっているところが多いが、北海道の西海岸にはどうにも数が多すぎて、よほど規模が大きかったり、変った形でないと独立した名所としては扱われないようである。
今日、積丹半島を巡る最中だけでも相当たくさん目にしてきたが、昨日までこういう岩はよほど珍しいと思っていたのだから、まだドキッとする。

科学的には、地下から盛り上がってきたマグマの塊に由来するものが多いと聞くが、積丹半島は巨大な火山群であり、納得はいく。
でも、こういう海上にそそり立つ巨大な岩塔や、それが海中のスレスレに隠顕している暗礁が無数にある海域が、観測装置を持たず勘と経験で航海していた古の船乗りたちに恐れられないはずがなかったと思う。神威岬灯台が北海道で5番目に古い灯台として明治21年に誕生していることも、この海域の危険さを物語っているのだろう。



16:32 《現在地》

海上にそそり立つ奇岩のようには目立っていないが、その“なりかけ”のような岩が、浜にも無数に突っ立っていた。

足元が一枚岩でなく、大小の岩が山積した岩石海岸になってからは、道らしい道はなくなってしまった。
もともと自動車を通していたわけではないから、これで事足りたのだろう。
見た目よりも遙かに歩きづらい海岸で、転ばぬよう慎重に歩を進めていく。
まだ、目当てのトンネルは見えない。

だが、確かにここが遊歩道として利用されていたことは、道の見えない海岸のそこかしこに残る看板らしい物の残骸から窺い知れた。
何枚もあるのに1枚も原形を留めていないのは、廃止が最近ではないことと、いかなる海風も遮られずにぶつかってくる環境の厳しさを物語っているのだろう。



賽の河原……、そんな言葉を勝手に思い浮かべながら、誰の声もない海岸を歩いて行くと、進める余地が急に狭まってきた。
海と崖が急に近づいてきて、その隙間を行くしかないはずの道を圧迫する。

ここまで、トンネルの入口を見逃すようなことは、なかったと思う……。

ならばこの先に、目当てのトンネルはあるはずだ。




固まったままの溶岩を彷彿とさせる黒い岩場に入り込んだ。
これまで以上に荒涼感のある、本当に草木の一片も感じられない土地だ。
波の音は近くにあるが、荒れていないので耳障りではない。

微かに道形を削って付けたような気配があった。
遊歩道としての整備によるものなのか、念仏トンネルの時代のものか。

おそらく、天長節の買い出しに出た3人は、この場所に辿り着けず命を落したのだ。
この先に念仏トンネルがあるのなら、そういうことになるはずだ。
落命の現場をこれから目の当たりにすると思うと、恐かった。




険悪なる海岸線。

こんなところを通行して、灯台まで行き来していたのか…。

現代の安全感覚からすれば、遊歩道として許されなくなったのは当然と思える風景だった。


しかし、念仏トンネルとやらは……?




ん?

あれは… もしや、




見つけた!

もはや人工物にはほとんど見えない、洞穴の入口を!

あれが、念仏トンネル……。



目指すべき穴が見つかり、同時に、そこへ通じるラスト100mの道が現れた。

確かに人が手を加えて道を作った形跡があった。
遊歩道と呼ぶには刺々しい、素掘りの道。
今日のように穏やかな波であれば良いのだが、高波に襲われれば間違いなく逃げ場を失う道だった。

これでも、事故があった当時と比べれば、相当に整備されているはずなのだが……。

チェンジ後の画像は振り返って撮影した。
歩くべき岩場にも海苔のような海藻が生えており、波を日常的に被っていることが分かった。

ラスボスが待ち構える牙城の前の道としては、こういう光景が喜ばれるかも知れないが、幼子連れで買い出しに行く道じゃなかった。




16:40 《現在地》

念仏トンネル、到達。

突入準備、よいか?




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