以下は、小浜漁港でたき火をしていた漁業関係者と思われる60才代とみられる古老2名の証言である。2人の証言に食い違うところがなかったので、まとめて紹介する。
- 隧道は、むかし小浜漁港を作る時に岩間海岸から砂利を運ぶために造られたもので、トロッコが通っていたと聞いている。
- トロッコは手押しで、機関車が動かしていたものではないと聞いている。
- 隧道が造られた時期は戦前だと思うが、はっきりした時期は分からない。子供のころには既にトロッコは廃止されていて、隧道だけがあった。
- 子供のころに隧道を歩いて通ったことがある。レールは既になかったが、枕木が残っていた記憶がある。水がたくさん垂れていて気持ちが悪かった。
やっぱり!
この耳でもはっきり聞くことができた、トロッコ説。
古老2人の証言の一致に、山口氏が調べた情報との一致、さらに隧道内にある待避坑の存在も見たいま、もはやこれは説ではなく、“事実”と断じて良いと思う。
小浜築港軌道の実在は、ほぼ間違いない!
山口氏の情報を既に得ていたために、そこまで目新しい情報は多くなかったが、手押し軌道だったらしいというのは、新情報である。
しかし、特に気になっていた、トロッコが稼働していた(=築港工事が行われた)時期については、相変わらずはっきりしない。
それでも次第に期間の範囲が絞り込まれてはきている。今回の古老の証言によって、戦前だということが分かった。
さらに上の年代の古老に話を聞ければ、トロッコの現役時代の証言が得られたかも知れない。
古老たち自身は、トロッコの現役時代を見ていないというが、子供のころに隧道を歩いて通ったことがあるという。
廃止後すぐにレールは撤去されてしまったようだが、枕木だけは残っていたとの証言もあった。
しかし今回の探索では1本も見当たらなかった。これはなぜだろうか。先の津波で全て流出したのか、以前に回収が行われていたのか、水の中で完全に朽ちてしまったのか、あるいは単に見逃しただけで実は残っていたのだろうか。(ちなみに、隧道まで津波が押し寄せる事態は、過去に何度かあったと思われる。平成23(2011)年の前でいえば、昭和35(1960)年に南米チリで発生した地震によって引き起こされた津波が太平洋を横断して押し寄せ、小名浜では3mを越える津波を観測、犠牲者も出ている。)
2人とも長らく隧道には近づいていないらしく、いまも貫通しているということを伝えると、とても驚いていた。と同時に喜んでもいた。
先ほど箇条書きにしたのは隧道に関する内容だが、他にもいくつかのお話を聞いている。
まず、本編でも紹介した渚川の河川トンネルだが、これがいつ出来たのかは分からないという。しかし古いものなのは確かそうで、以前偉い政治家の先生が視察に来たことがあるとも言っていた。
さらに、小浜地区にたくさんある穴の正体についても質問してみたが、「防空壕から味噌蔵までなんでもある!」と、威勢良く吐き捨てるように語っていた。どうやら本当に様々な目的で日常的に穴掘りが行われていたようであるが、「採石はしていない」とのことであった。
右図は、今回の探索と証言をもとに想像で描いた、小浜築港軌道(仮称)の全体図である。
推定全長1.2km、大半が砂浜上だが、竜宮岬を貫く全長約300mの隧道が最大の構造物であった。隧道前後の岩場にもいくらか土工によって開削された路盤があったと思われるが、地形の崩壊が著しく判別は困難だ。
しかし、隧道以外の線路や起終点の位置は想像によるもので、もっと西に長く延びていた可能性や、海岸から離れて現在の岩下集落辺りへと通じていた可能性もある。
山口氏の情報では、小浜から岩間に砂利(土砂)を運んだのか、その逆かがはっきりしなかったが、今回話を伺った古老は、「岩間海岸から小浜海岸へ砂利を運んでいた」と証言した。
築港工事というのは一般的に、航路や船溜まりとなる水域の浚渫と、船揚場や埠頭や荷さばき場となる陸域の強化・嵩上げが、同時に行われる。
これは必然的に大量の土砂の移動を伴う工事となるため、明治から昭和前半までは簡便で安価な大量輸送手段として、しばしば手押しトロッコを用いた工事用軌道が用いられた。(やがて機関車牽引が主流となり、さらにダンプカーなどへと置き換えられていった)
『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 勿来』より転載。
左図は、『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 勿来』(昭和55(1980)年/国書刊行会刊)に掲載されていた、昭和25年頃に撮影されたという勿来(なこそ)港の工事風景である。小浜と同じいわき市内にある勿来港だけに、時代は違うかも知れないが、参考になるのではなかろうか。
ここで注目すべきは、やはり人力らしきトロッコが写っていることだ。
撮影者のすぐ目の前、海水が抜かれて露出したと思しき海底に、バラストもなく枕木とレールが直に敷かれている様は、工事用軌道かくあるべしという野趣を帯びている。奥の少し離れたところにも、木製の箱トロッコと人夫らしき人々の姿が見える。これらの敷設位置は、おそらく現在は海底であろう。
小浜の築港風景に登場したトロッコも、港内ではこのような姿であったと思われる。
工事用軌道というものが、通常の鉄道のようには記録や遺構を多く残さないことが、写真からもお分かりいただけると思う。むしろ、隧道という半永久的施設を珍しく用いたために、明確な遺構を残した小浜築港軌道は、希有な例であったと思える。
岩間から小浜へトロッコで運ばれていた物資は、山口氏の情報には「砂」と書かれており、今回私が伺った古老も「砂利」と口にしていたので、岩間海岸の広大な砂浜から採取した海砂が、コンクリートの材料や埋め立てのために必要とされたのだろうか。
小浜海岸にも砂浜はあるが、それでは足りない事情があったのか。
ただ一点気になるのは、隧道内の勾配である。
普通に考えて、岩間から小浜へと土砂を運ぶのであれば、岩間から小浜への下り片勾配としたほうが輸送が効率的になるように思うのだが、実際は逆の片勾配になっていた。
地形や地質的にやむを得なかったということがあるのかもしれないが、この点は少し気になった。
……と、この後に及んでも(机上調査編に至っても)、古老の証言を軸に築港軌道の昔を探っていることから、皆様も察せられたかも知れないが、現在のところ、この隧道や軌道については、(山口氏の情報と)古老証言以外の情報がほとんどない。特に文献情報は極めて少ない。
まず私は、『いわき市史』にあたった。別巻を含めて15冊ほどもあるたいへんな大著であるため、全文を確認したわけではないのだが、広大な市内に10ほどもある港の中で最も規模が小さいとみられる小浜漁港の扱いは小さく、短時間の私の調査では以下に引用した記述くらいしか見つけることができなかった。各巻の目次を見た限りにおいて、これ以外の情報はなさそうだというのが、とりあえずの判断となる。
この文脈からは、現代の小浜港は小規模漁港であるということは分かるが、そんな小さな港が近世から現代の姿へと移り変わる過程で、どのような道のりを経てきたのかは全く分からない。私が知りたいのはそこなのだが…。
『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 勿来』より転載。
先ほど写真を引用した『ふるさとの思い出写真集』では、右に転載した写真を見つけた。
キャプションに書かれているとおり、これは昭和10(1935)年頃に撮影されたとされる小浜漁港の風景である。
背景に見える特徴的な陸地は竜宮岬で間違いなく、撮影者があと20度ほどカメラを右に向けてくれたら、隧道が写ったかもしれない。
肝心の港は、現代の感覚からは港ではなくただの砂浜であるが、小舟にしか見えない木造漁船が多く置かれているから、これが往時の小浜漁港であったのだろう。
これが、大隧道を掘削して行われた築港工事後の風景には見えないので、築港時期は昭和10年頃より後でかつ戦前という、わずか10年間ほどにまで絞られるのだろうか。
それとも、風流を好んだ撮影者が敢て旧態依然の場面を撮影しただけで、フレームの左側には新たな港が既にあったのか。(私はそう考えている。実際現在でも【このアングル】で撮影すると、港はフレーム外だ)
今回の文献調査は時間が少なく、国会図書館でデジタルデータが公開されているものだけを対象としたので、現地図書館で調べればさらに多くのことを知る余地はあると思われる。
文献からは判明しなかった築港工事の時期だが、福島県公式サイトが公開している「小浜漁港」というページに、次の記述があった。
指定年月日/昭和26年11月14日
管理者/福島県
小浜(おばま)漁港は、滑川及び馬坂川の河口に開けた天然の漁港として、昔から利用されてきました。昭和7・8年、時局匡救事業として現在の泊地を完成して以来、防波堤の築造等の整備を実施してきました。昭和36年、管理が県に移管され、現在に至っています。港の利用は主に地元の漁船で、沿岸漁業が中心です。
キタキタ! 香ばしい情報キタ!
小浜漁港に近代的な泊地が完成したのは、昭和7(1932)年から翌年にかけて実施された、時局匡救(じきょくきょうきゅう)土木事業によるという。
時局匡救土木事業については改めて説明しないが、私が探索対象とする道の来歴にしばしば現われる、まるで廃道の玉手箱のようなものである。今回の隧道もまた、時局匡救という国家的使命を背景とした極めてローカル的な事業として、この地に産み落とされたものだったのだろうか。
隧道の壁面に残されたいかにも人海戦術を伺わせるような膨大な鑿痕や、隧道自体の意外な長さ、そしてその後の人力トロッコによる砂利運搬作業……。
なるほど、時局匡救土木事業に相応しい雰囲気が濃厚だ。私は納得してしまったが、結論づけるまでには資料が不足しているのも事実である。
ともあれ本稿は、昭和7〜8年頃にトロッコ隧道が建設、利用されたという説を採りたい。
なお、明治から現代までの歴代地形図も確認してみたが、軌道や隧道が描かれた版はなかった。
仮設が前提である工事用軌道ということを考えれば、やむを得ないことだと思うが、隧道の規模としては描かれて不思議がないものであり、かつトロッコが廃止された後も地元の人の往来が皆無ではなかったようなので、描かれていて欲しかったというのが本音だ(←どうでもいい感想)。
右図は代表として、昭和57(1982)年版と昭和26(1951)年版の比較をしているが、古い方には小浜の港湾施設が描かれておらず、ただの砂浜になっている。
しかし実際は昭和7〜8年に泊地が造成されていたのであるから、これは正確性を欠いている。
航空写真も確認してみた。
地図・空中写真閲覧サービスで公開されている最古の版である昭和22(1947)年版にも、はっきりと小浜漁港の原形となった部分が描かれており、時局匡救土木事業説を助けている。
また、最新の航空写真と比較してみると、当時の港の突堤が現在も一部同じ位置で利用されていることが分かった。
それにしても、この新旧比較でいちばん驚いたのは、竜宮岬の両側にある砂浜のもの凄い後退ぶりだ。特に岩間側で顕著である。
この砂浜の後退は、東日本大震災で30cmほど地盤が沈降した(参考:pdf)影響もゼロではないだろうが、さらに以前からの問題であったことが、本編中でも引用した「いわきの今むがし vol.64 岩間町」に、次のように記されていた。
(略)
やがて昭和30年代を中心に、沿岸流が強くなっていきます。特に、昭和32(1957)年に入り、鮫川の河口の位置が岩間の海岸線近くまで50〜60mも移動しました。海に流れ込む鮫川の水と海水とがここでぶつかり合い、その勢いで砂地が流され、岩間海岸における海岸線の浸食が著しく進んだのです。戦後まもなく砂上に塩製造のために立てられた十数戸が危険にさらされ、また昭和32年10月の台風では、海岸に沿う県道の堤防を波が越え、岩間地区全体が危険となったため、勿来市は水防本部を立ち上げ、海岸に面する家屋の一部を解体するとともに、消防団などが土のうを積んで水難回避に努めました。このように被害が相次いだため、県施工により昭和33(1958)年度に延長520mの防潮堤が完成し、昭和35(1960)年度からは鮫川に沿って佐糠町までの防波堤延長が施され、水害の危険は避けられるようになりました。
上記の下線部にある記述を見る限り、小浜漁港の整備は、竜宮岬を隔てて隣り合う岩間地区の人々にとっても念願であったように思われる。
岩間地区には美景を知られる広大な砂浜があったが、砂浜のせいで良港を望むことは出来なかった。だから、小浜に活路を見たのかも知れない。
もしかしたら、岩間と小浜を最短で結ぶトロッコ隧道は、工事用軌道としての役目を終えた後にも、港の付属的な通路として活用される目論見があったのではないか。だからこそ、工事用軌道には似つかわしくない長大な隧道が建設されたのではないか……。
妄想かもしれないが、この可能性は十分あると思う。
【ちょっと追記】
情報が少ないトロッコ隧道だが、平成27年7月にいわき市が公表した「小浜・岩間地区復興グランドデザイン」(pdf)の10p、「地区の資源」を列挙した項目中に、「人を呼べる施設等」として、「トロッコが通ったトンネル」が挙げられていることに気付いた。
本編の具体的な復興のグランドデザインを述べる中には出てこないので、積極的に活用する計画はないようだが、行政にも隧道の存在を把握している人がいることは確かで、“トロッコトンネル説”は行政公認といえるだろう。
最後は、隧道を私より先に探索された、偉大な先人たちの記録にも目を向けてみた。
やまめ氏のブログ「いわきのひみつ基地日記」の2010年1月4日のエントリ「洞窟探検に行ってきました。」には、震災前年の隧道と周辺の風景が大きな画像で掲載されていて、洞内は水没状況を含めてほとんど変わっていないように思われるものの(でもキャディバッグはなかったようだ)、(私の探索時は大潮の満潮で特に海面が高かったことを考慮しても)小浜側岩間側とも坑口や地上の風景があまりに変貌していることに驚かされた。
おじさん氏のブログ「いわきの空の下」の2009年12月1日のエントリ「昔の鮫川の話 その4 岩間の洞窟」にも、興味がそそられることが目白押しだった。以下、記事の前半を転載させていただきました。
その壁面には、川の水面から2m程度上に洞窟が口を開けていました。
その脇にやはり、壁面を削り取ったところに、石碑があったと思います。
この洞窟は、岩間から山を越えたところにある小浜海岸へ続いていました。又、その先の照島海岸へも続いているということも聞きました。
私も1、2度 上級生に連れられて小浜海岸までは、いったことがありました。
洞窟というだけで、前日からかなり興奮して眠れなかったのを記憶しています。
洞窟の入り口は、高いところにあるので、流木が入り口のところに取り付けてあり……
おじさん氏が子供のころに体験した洞窟探検の一幕である。
岩間側坑口で私を助けた流木が、当時は子どもたちの尊い冒険を助けていたというのか。現実的には別の流木が偶然そこにあったのだろうが、本編で述べた「土地の記憶」を再度彷彿とした。まるで運命じみたものを感じる。
小浜から(さらに東にある)照島海岸へと続く第二の洞窟があったという話は、とりあえず子どもの噂と片付けたいとしても(マジならやばい)、下線を付した部分が非常に気になる。
隧道の岩間側坑口脇の壁面を削り取ったところに石碑があった?!
マジで?!!
探索中にもこの窪みに着目し、結局正体不明と結論づけていたのだが、ここに石碑があったとは全く思わなかった。
うおー! なんの碑だったんだァー!
超絶気になるのである。
だがこの窪み、見ての通り、現在は巨石混じりの土砂崩れにほとんど埋立てられてしまっていて、発掘などということを気軽に考えられる状況ではなくなっているのである。残念ながら、この発掘は無理だろう。少なくとも私の力では無理。
おじさん氏のブログの2009年12月26日のエントリ「旧鮫川河口 岩間の洞窟」では、40年ぶりの再訪が語られ、洞窟との再会を果たしているが、石碑の有無は書かれていなかった。
果たして、ここにあったとされる石碑には、何が記録されていたのだろう……。
先ほど紹介した「小浜・岩間地区復興グランドデザイン」中「地域の資源」に、「歴史を語る遺産」として、「勿来八景の石碑(倒壊)」という記述があった。さらに別のページには、「津波により流出した 小濱夕照(おばまのせきしょう)(勿来八景の石碑)を再建します」の記述を発見。 もしや! と思ったのも束の間で、同資料の表紙に在りし日のこの碑の写真が掲載されていて、別のものということが判明したのである。
ここにあって欲しいと思う石碑は、隧道の開通記念碑とか小浜港の来歴を刻んだ記念碑であるが、正直なところ、その可能性は極めて低いように思う。工事用軌道に、華々しいそれらはいかにもありそうにない。だがそれでも、失われた内容不明の石碑が気になる気持ちに変わりはない。
たくさんの思い出と、謎を秘めた竜宮岬のトロッコトンネルは、いまもそこにあり続けている。
だが、人目から遠ざかり続ける存在は、いつか本当に忘れ去られてしまうだろう。
時間という玉手箱に仕舞われてしまう前に体験できた私は、幸運だったと思う。
小浜築港軌道が写っている古写真が発見された! 2019/2/22追記
地元在住の読者tetsuyan00氏によって、小浜築港軌道とみられる古写真が発見された!
いわき市立いわき総合図書館が編集し、いわき未来づくりセンターが平成21(2009)年に出版した、『絵はがきの中の「いわき」』という書籍に、その写真は収められていた。
デジタル化された資料が公開されており、書名で検索すれば簡単にアクセスできるはずだ。
さっそくだが、問題の写真はこれだ! ↓↓↓
『絵はがきの中の「いわき」』p.145 より転載
!!!
お、おちつこう。
落ち着いて、キャプションを読もう。
鮫川は、当時、河口域で乱れ川となって海に注いでいた。写真右には小名浜港築港のために必要な鮫川砂利を運ぶための船と、ここから砂利を小浜港へ運ぶためのトロッコ線が見える。 (昭和10年代)
似ている地名のため紛らわしいが、ここから砂利を小名浜港へ運ぶ船と、小浜港へ運ぶトロッコ線のことが書かれている。
本レポートが取り上げたのは、後者のトロッコ線である。
“小浜港へ運ぶトロッコ線”……間違いない。
トロッコが写っている辺りを拡大したのが右の画像だが……
思っていた以上に大規模だ…!
砂利採取場とみられるこの場所では、線路が幾筋にも分かれていて、鉄道のターミナルを思わせる広がりがある。
そして、左側へ伸びている線路の上には、15両近くの箱トロッコが繋がっているように見える。これは留置されているものだろうか。もしこのように連結して運んでいたのであれば、古老が証言したような人力トロッコではなく、機関車が入線していたとみるべきだろうが、写真の解像度では写真内の機関車の有無は判別できない。
右側へ伸びている線路は水面に接しているようで、まさにいま掘り出した砂利を積み込んでいるところだろうか。やはり何両かが連結されているように見える。
線路が敷かれているこの一帯は一面の砂浜で、極めて低平の土地だ。しかし、ターミナルの周辺は石垣か木壁か分からないが、プラットフォーム状に構築された地盤があるように見える。建物の姿はみられない。また、丸で囲った辺りに見えているのは、木造船か? これが小名浜港まで砂利を運んでいたのか。
高波や河川の氾濫があればひとたまりもなさそうな立地だが、思っていた以上に規模が大きな採掘場で驚いた。
驚いたといえば、撮影が昭和10年代と書かれていることもそうだ。
これまでの私の調査では、「小浜築港は昭和7、8年に時局匡救事業として行われた」という福島県公式サイトの記述を根拠に、築港軌道もこの時期に開設利用されたと考えていたが、昭和10年代の写真にこれだけ大規模な施設が写っているとなると、昭和7、8年から継続的に築港事業が行われたと考えて良いように思う。
いずれにせよ、この写真が発見されたことによって、「昭和10年代」には竜宮岬を貫く隧道が既に存在していたことが「確定」した。
なお、この写真は書名から分かるとおり、絵葉書だ。1枚目の画像の左下に小さく「菊多浦」と書いてあるのもそのためだ。
本文によると、「砂丘を約2kmで止めているのは、この北側にある海食崖の竜宮岬が海、川の流れをともにさえぎっているからだ。この岬上から弓形の菊多浦、遠くは茨城県平潟港の鵜ノ子岬まで雄大な眺めを眼下に収めることができることから、いくつかの絵葉書に紹介されている
」とのこと。この写真も竜宮岬の高所に立って撮影されたのだろうか。空撮のような高度感だ。
新たに見つかった写真は以上である。
だが、この写真によって、これまでは「岩間地区のどこか」という程度にしか分かっていなかった築港軌道の起点位置が、より絞り込めるようになったことも大きな収穫だ。
『絵はがきの中の「いわき」』p.145 より転載
(←)先ほどの写真の地形の特徴と……
昭和22(1947)年に撮影された航空写真(↓)を見較べると……
竜宮岬を貫く隧道の岩間側坑口から、岩間海岸の砂浜を400〜500m西へ進んだ辺りが、砂利採取場(起点)だったと推定できるのだ!
これは大きな一歩だろう。
なお、この昭和22年の航空写真を最大限に拡大して眺めてみても、トロッコの線路はもちろん、盛んに砂利採取を行っていたプラットフォーム状の地形も明確ではない。
砂浜上になんとなくうっすらと痕跡があるように見えなくもないが、とても判断しがたい不明瞭さだ。
いずれ戦後までレールは残っていなかったようで、これは古老証言とも合致する。
昭和10年代のうちに築港の目的が達成され、撤去されたのだろう。
このように1枚の写真から、岩間側の地上にあった“廃線跡”の位置特定はだいぶ前進したが、勇んで追加の現地調査を行っても、新たな遺構を発見できる見通しは限りなく暗いと言わざるを得ない。
左図は昭和36(1961)年の航空写真だ。
新設された常磐共同火力発電所のもの凄い煙に目が行くが、私の想定する廃線跡の大半が鮫川の川底になってしまっている変化に注目して欲しい。
引用したキャプションにあったとおり、鮫川河口部は激しい乱れ川で数年おきに流路を変えていたとのことで、昭和22年から36年の間にもそういうことが起こったようだ。
この状況を経ている以上、遺構の現存は絶望である。
なお、現在の“廃線跡”や“砂利採取場跡地”付近は、再び陸地となって繋がっている。
昭和50年に鮫川河口を直線化させる導水堤が完成したため、ここにあった大きな河跡湖は消滅し砂浜になった。
見る限り地上には何も残っていないが、発掘調査でもすれば、新橋驛のようにプラットフォームが発見されるやも知れない…。
最後に、少しだけ更新することができた、最新版、小浜築港軌道(1933?〜1940頃?)の推定地図を掲載しておく。
鮫川河口砂利採取場と小浜築港地を結ぶ、全長約1.2kmの工事用軌道が、ここにあった。
(tetsuyan00さん、ありがとうございました!)
これまでの考えを覆す重大な事実が判明! 2019/3/9追記
匿名読者さまのコメントによって、さらに決定的な情報を秘めた1冊の本の存在が明かされた。
いわき市勿来地区地域史編さん委員会が平成25(2013)年に発行した『いわき市勿来地区地域史2』がそれだ。
至急入手して内容を確認したので、以下、そこに書かれていたいくつかの決定的な情報を紹介する。
これまで想定していた小浜築港軌道の姿は、いくつかの点において、根本から見直されることになった!
まず最初に引用するのは、小浜漁港の築港に関する記述だ。
上記が、これまでも知られていた、「小浜築港は昭和7、8年に時局匡救事業として行われた」ことの、少しだけ詳細な内容である。
そしてこれまでは、この後に少しの空白が生じていた。
前回の追記によって、「小浜港へ砂利を運ぶトロッコ線」が写る「昭和10年代」に「岩間海岸」で撮影された古写真が発見されたため、「昭和7〜8年」の築港と、「昭和10年代」の築港が、連続していたのか別のものであったのか、これまでは定かでなかった。
もっとも、この程度のことが解き明かされただけでは、わざわざ大仰な前文をつけての追記はしなかった。
実はこの先の本文に、私の重大な考え違いを指摘する内容が現われ始めるのだ。
小浜港の場合、湾内に漂砂が流れ込み岩盤の掘削を含む浚渫工事が難航したが、小浜漁業組合の費用負担も入れて、昭和10(1935)年度に暫定的ながら7万5000円を投じた事業が終了した。
引き続き、昭和12(1937)年11月からは予算6万円、町直営で小浜港船溜工事を始め、防波堤の延長と浚渫を主とする第2期工事に入り、翌年度末までに防波堤120mと防砂堤130mの2本が完成した。その後、浅い港湾が船の出入りに支障を来たしていたことから改修の陳情が起こされたが、太平洋戦争に突入したため実現せず、改修は浚渫を待たなければならなかった。
上記の記述により、小浜築港は昭和7年度に開始され10年度に暫定的に完成したが、引き続き昭和12〜13年度に第2期工事が行われたことが分かった。
このことに何ら不審はないのだが、私が「はてな」を持ったのは、1行目(下線部)の記述である。
小浜に1文字を加えただけの小名浜は、小浜の北東約8kmに、その最も古い港域を有する港である。
その名は小漁港である小浜とは比べものにならないほど著名であり、東北地方の太平洋側を代表する工業港&漁港として、社会科の教科書にも出ているほどだ。
右図を見ても、小名浜港の西側にギザギザとしたいくつもの巨大な埠頭が見えると思うが、これらは小名浜の繁栄に裏付けられた港域の拡大によって作られたものである。
小浜築港軌道を解き明かそうとする一連の捜索の中で小名浜港の名前が現われたのは、実はこれが2度目である。
前回の追記の主役となった【古写真】に付されていたキャプションに、次のようなことが書かれていたのが1度目の登場であった。
「写真右には小名浜港築港のために必要な鮫川砂利を運ぶための船と、ここから砂利を小浜港へ運ぶためのトロッコ線が見える。
」
私は上記の文章から、右図のような砂利輸送が行われていたと判断した。
すなわち、岩間海岸から小名浜築港現場へは砂利船で、同じく岩間海岸から小浜築港現場へはトロッコで、砂利が運ばれたと考えた。
また、小浜と小名浜の築港は、たまたま時期が重なっただけで、両者の間に特別の関連性があるとは考えていなかった。
しかし、『いわき市勿来地区地域史2』の記述は、それを否定した。
次のような記述によって、小浜築港と小名浜築港の深い関係が次第に明らかになっていった。
採取された砂利は砂利船に積まれて川を下り、鮫川河口付近の岩間海岸に広がる浅瀬に集められた。昭和8年7月には、砂利・砂採取を管理するため、岩間地内に「鮫川見張所」が設置された。 ここから小浜海岸までの1.6kmの間には、砂利輸送のため専用軌道が敷設され、ガソリン機関車がトロッコを牽引して往復した。竜宮岬には隧道が掘削された。さらに、小浜港に設けられた桟橋から、運搬船で小名浜港へ運ばれた。
この記述が、これまでの私の考えを覆させた部分が三つもある。
一つ目は、砂利を採取していた場所は、岩間海岸ではなく鮫川の上流で、集められた砂利は砂利船で川を下って岩間海岸へ集積されていたこと。
二つ目は、岩間海岸から小浜港へのトロッコは、手押しではなく、ガソリン機関車による列車輸送であったこと。
三つ目は、小浜港へ運ばれた砂利はそこで洋上の運搬船に乗せ替えられて、小名浜の築港現場へ運ばれていたこと。
そしてこれらの新事実を受け入れるならば、小浜築港軌道の意味合いも大きく変化する。
この軌道の最終目的は、小浜港を建設することではなく、小名浜港を建設するための砂利を、岩間の砂利集積所から小浜港の砂利積出し桟橋へ中継輸送することにあったということになる。
すなわち、右図のような輸送が実施されていた。
短距離の間で2度も積み替えるのは面倒なように思えるが、鮫川河口にある岩間海岸は非常に浅く、港を開発することができない土地だった。砂利運搬船が近づくことも難しかったはずだ。一方、小浜港は小規模ながら港の適地であり、漁港としての開発がちょうど行われていた。
昭和4年に開始された小名浜の商港開発は、国(内務省)の直轄事業であったから、資金は極めて潤沢であった。この大規模事業の遂行のため、県や町が細々と整備を進めていた小浜港に白羽の矢が立ったのではなかろうか。ガソリン機関車による砂利輸送も、内務省の港湾開発と切り離せない定番の風景であったし、信憑性は極めて高い。
いやはや、最初に竜宮岬にぽっかりと開いた穴を見た瞬間に想像した範囲を遙かに超えて話が広がったものである。
そしてこの『いわき市勿来地区地域史2』にも、何点かの写真が掲載されていたので、紹介したい。
『いわき市勿来地区地域史2』p.295 より転載
まずはこの写真。
前回紹介した絵葉書の古写真に写っていた岩間海岸のトロッコ線が撮影されている。
だが、前の写真よりも広く線路が見渡されていて、手前に向かってくる本線らしき線路上には、14両もの箱トロを連ねた運材機関車列車が力走する様が、はっきりと撮し込まれている!
線路の周辺にもタンクらしき施設や建物の屋根(「岩間見張所」だろうか)、あるいは畑などが点在していて、現在は完全に砂浜と化している一帯に様々な人々の活動が刻まれていた。
また、鮫川河口に繋がる大きな入り江にも多数の細長い船影が見て取れるが、これらが鮫川の上流から砂利を運んできた「砂利船」なのだろう。
とても洋上を航行できる船には見えないから、ここでトロッコに積み替えていたのも確かなことだろう。
最後にキャプションだが、これは前回紹介の絵葉書(『絵はがきの中の「いわき」』p.145)の写真と全く同じであり、流用されている。
いずれの写真も昭和10年代に小宮山書店というところが発行した絵葉書であるようだが、明らかに別の写真であるし、同日の撮影でもなさそうだ。
『いわき市勿来地区地域史2』p.292 より転載
この写真はトロッコを主題にしたものではなさそうだが、やはり写っている。
岩間集落の沖合に、その特徴的な砂利集積場の姿が。
この写真によって、現在の海岸線との位置関係が、より明確になるだろう。
チェンジ後の画像は、今回の探索で撮影した写真で、比較的近いアングルのものを重ねて表示した。
どう考えても、かつてあった海岸上の諸施設はことごとく失われてしまっているようだ。 残念!
『いわき市勿来地区地域史2』p.295 より転載
そしてこれも今回の重大な発見といえる1枚だ。
今まで未発見だった、昭和10年頃に撮影された小浜港側の写真である。
竜宮岬の側から東を向いて撮影しており、背後に見えるのは離れ島や御台場山と呼ばれていた岬である。
ちょうど現在は小浜漁港の様々な施設がある辺りに、おそらく昭和7〜13年にかかって整備された(あるいは整備中)の船揚場や突堤(防波堤)らしいものが点在しているが、港内に漁船らしい姿はほとんどなく、排煙を上げる砂利運搬船ばかりが多く浮かんでいる。
そして、そんな運搬船の一隻が横付けされている、ひょろ長い桟橋(トロッコも見える気がする)――
これこそが、軌道の小浜側終点にあたる、砂利積出し用の桟橋であったと考えられる!
今まで明確ではなかった小浜側の終点位置が、ついに明らかになった。
もっとも、こちらも位置的に遺構が残存している希望は皆無だが…。
事業が終了した昭和12年度まで、築港で使用された鮫川の砂利は3万9918t、砂は1万6288tに達した。
砂利採取は鮫川中・下流域のほか、上遠野村大字根岸の地内など鮫川上流域においても行われ、約100隻の砂利船が鮫川を行き来した。このうち半分が地元の砂利採取業者、半分が内務省港湾局小名浜築港事務所に所属した。昭和8年当時、この請負作業に当たる船頭は130余名に及び、砂利採取業者らは自らの権利を守るため、鮫川船業組合を結成した。
砂利運搬は鮫川河口―小浜港―小名浜港の径路をとり、昭和12(1937)年度まで行われた。
上記の記述により、軌道の終焉時期もはっきりした。昭和12年度末である。
一方、軌道の開設時期を明確に述べた資料はないが、昭和4(1929)年の小名浜築港事業着工時以降のどこかなのは間違いない。
残った謎としては、この軌道が小浜港の築港事業(昭和7年〜13年)に対して、どのような役割を果たしていたかという問題がある。
あくまでも小名浜港向けの砂利輸送に特化していたのか、小浜築港事業にも活用されていたのか。不明だ。
最後は、今回の衝撃的な新情報によって再び更新された、軌道の全体図を見ていただこう。
ここに至り、この軌道を「小浜築港軌道」と仮称し続けることの妥当性が揺らいでいる。
「小浜砂利運搬軌道」とか、「内務省小名浜商港築港軌道」とした方が良いのかも知れない。
また、起点と終点の地点名もそれぞれ改めるべきで、
起点は「鮫川河口砂利採取場」よりは、「鮫川河口砂利集積場」に、
終点は「小浜築港地」よりは、「小浜港砂利桟橋」とした方が良いと思われる。
また、全長の数字も更新され、従来の推定1.2kmから、本文中で示された全長1.6kmとする。
この増大分の出所だが、起点付近にあった枝線をカウントすればこのくらいになるだろうと思う。
信頼できそうな古老の証言や、私の現地での印象のいずれからも、かけ離れた実態が見えて来た。
経験に裏付けられた予測や先入観が、容易に正しからざる結論を導くことを肝に銘じる必要がある。情報提供者に感謝!