隧道レポート 神奈川県道522号棡原藤野線 沢井隧道 解明編

所在地 神奈川県相模原市
探索日 2013.09.24
公開日 2013.10.15

左図の如く、全長298mの中で5回も断面が変化するという、面白い特徴を持った沢井隧道。

なぜこのような姿になったのかを、前回の現地探索の結果を踏まえて、今度は机上より明らかにしていきたい。


まず、現地探索から明らかになったことは、北口に隣接する「断面5」(モジュラーチ)の部分10mは、平成9年に誕生したと言うことだ。
それ以前は、ただの明かり区間だったかもしれない。

それと南口に隣接する「断面1」の部分約50mについても、昭和44年の中央自動車道開通時に改築され、今の姿になったと見て間違い無いだろう。
ちなみに、昭和44年開通当時の中央自動車道(八王子〜河口湖間)は暫定2車線供用で、八王子〜大月JCT間は現在の上り線部分だけを使っていたらしいが、最初から用地は4車線を確保していたとのことである。
「断面1」の区間内に上り線と下り線の継ぎ目が見あたらないので、この断面区間は一挙に建設されたと考えて良さそうだ。

図らずも両側坑口が改修されているために、隧道の顔とも言える坑門の初期の姿を見る事が出来なくなってしまったのは残念だ。当時の写真でもあればよいのだが、未発見である。

残る断面2〜4の区間についてだが、前回紹介した「平成16年度道路施設現況調査」には、次のようなデータが記録されていた。

沢井隧道  (一般県道棡原藤野線)
 竣工:昭和37年  全長:298m  幅員:4.7m  高さ:4.7m

したがって、これらの断面区間は、昭和37年に開通したものと考えて良いのであろうか。
今度はこのことを考えてみよう。




『道路トンネル大鑑』(土木界通信社・昭和43年発行)より転載。

お馴染み『道路トンネル大鑑』(土木界通信社・昭和43年発行)の巻末リストを見たところ、そこにも沢井隧道の記載を見つける事が出来た。
だが、その内容は『平成16年度道路施設現況調査』とは、かなり違っていた。両者を比較してみよう。


資料名路線名全長(m)幅員(m)高さ(m)竣工年度覆工の有無
平成16年度道路施設現況調査(一)棡原藤野線2984.74.7昭和37年コンクリート
道路トンネル大鑑(一)佐野川小渕線272.55.55.0昭和37年コンクリート

ここで最も注目すべき変化は、なんといっても全長である。
昭和40年前後から平成16年の間に、トンネルの長さが25mほども伸びている。
通常、これだけの差があれば、トンネル自体が掘り直されていると考えるのが普通だろうが、沢井隧道に旧隧道は存在しない。
つまり、この全長の増加は、昭和44年の中央自動車道開通による南口の改修と、平成9年の災害復旧に伴う北口の改修の結果と考えられるのだ。

なお、この二つのデータの間では、トンネルの幅や高さまで変化しているが、これについてはそれぞれの測定方法の問題もあるので、誤差の範囲としたい。

それよりも不自然なのは、実際のトンネル内の最も狭い部分(断面4)は、どんな計り方をしても幅4.7mも無いと思われることだ。
4.7mもあれば乗用車(幅1.7m程度)の離合は可能な数字だが、実際は無理な相談だろう。
おそらくこの数字は、洞内で最も断面が大きい「断面3」のものではないかと思う。
高さについても同じことが言える気がする。


それはともかく、ここまでのところ竣工年については「昭和37年」で共通していた。
だが、さらに調べを進めていくと、実際の着工は遙かに遡る事が分かってきたのである。
まだまだ、沢井隧道の奥は深いぞ。






右の旧版地形図は、戦後間もない昭和22年応急修正版と、昭和51年修正版である。

川や山、そして中央本線の形はほとんど変化していないが、道路関連は相当に変化している。
最大の変化は中央自動車道の出現だが、一般道の甲州街道(大正国道8号)は、国道20号に生まれ変わる過程で全般的に屈曲を減らし(それでもまだまだグネグネしてるが)、我らが沢井隧道もこの期間内に誕生している。

沢井隧道が誕生する前の沢井村への道は、府県道佐野川吉野線と呼ばれていて、国道とは吉野町(近世の甲州街道の吉野宿に起源)で分岐していた。
また、中央本線の藤野駅がある場所は小渕村といった。
そして今登場した村や町が昭和29年に合併して新たな吉野町となり、翌年さらに大きく合併して藤野町が誕生した。(その藤野町の平成の合併で相模原市の一部となった)

さて、沢井隧道はいつ、どのような目的で、誰が建設を進めたのだろうか。
そのポイントは、意外な事に道路ではなく、鉄道にあった。
近世から明治を通じ昭和初期まで、この一帯で最も栄えていたのは吉野町であった。
だが、吉野町内の中央本線はトンネルが連続しているために駅を設ける余地が無く、せっかくの鉄道を十分に活用出来なかった。
そのため、当時は小村に過ぎなかった隣の小渕村が昭和16年頃から駅の誘致(請願駅の設置)に名乗りを上げ、その結果、昭和18年に小渕村の小字である「藤野」に待望の新駅が誕生したのであった。
それが藤野駅である。

これは藤野という小字の名が、吉野町を呑み込む新町の名となる僅か12年前の出来事だ。当時の鉄道が持っていた、地域を作り替える力の大きさが窺えよう。

そして、我らが沢井隧道も、そんな鉄道の大きな力によって、誕生を誘われたのであった。





『藤野町史 通史編』(藤野町・平成7年)に、沢井隧道建設の経緯がとても良く記録されていた。
全文を転載したいくらいだが、さすがに長くなるので要点を引用していくと、次のようになる。

昭和18年7月、藤野駅が開業すると沢井〜藤野間の隧道開削の気運が急速に高まった。
隧道工事は大事業であり、地元負担金も多く、そのため沢井村は村有財産の字陣場、字千馬の原野(略)を売却して資金にあてた。
同20年3月5日、吉野町他二か村組合(吉野町、沢井村、小渕村のこと)長は関係業者と契約を結び、金額5万円、工事着手20年3月5日、竣工20年9月5日とした。

『藤野町史 通史編』(藤野町・平成7年)より転載。

そして実際に昭和20年3月5日という、終戦の年の苛烈極まる戦況の下で、沢井隧道の工事は着工された。
何もこんな時にやらなくても…という気がしないでもないが、昭和20年2月に吉野町他二か村組合長が神奈川県知事にあてた土地処分理由書(村有財産を処分する理由を述べ、その現金化したもので隧道工事をしたい旨の請願書)は、次のように隧道の目的を熱く説いている。一部抜粋して引用する。(太字は引用者強調)


「太平洋戦争下の藤野地区木炭増強協力隊」
『藤野町史 資料編(下)』(藤野町・平成6年)より転載

津久井郡沢井村ハ県北端ニ在リ、県道佐野川吉野線ハ村内中央ヲ東南ヨリ北ニ貫キ、隣村佐野川村ニ接シ(中略)、元来林産物ノ生産ハ天然資源ノ宝庫ニ加ヘ、且県林務課ノ御指導ニ依リ逐年増加シ、戦時資材ノ飛躍的増産ヲ計リ、本年度木材一万石、木炭弐万俵、食料数百俵、其ノ他戦時資材ノ運材ノ為、中央線藤野駅ニ通スル道路(隧道)改良工事施業ハ、決戦下唯一ノ事業タルヲ以テ、之レガ県費補助金参万円ヲ仰キ、今春着工セシモノニ御座候ヘ共(中略)、将来本事業完成後ニ於ケル一般交通上ノ便益ハ、独リ本村ノミナラズ、関係小渕村・佐野川村並ニ吉野町ニ及ヒ、大東亜戦争完遂上不耗地二等シキ土地ヲ処分シ、事業ヲ完成村百年ノ大計(略)

『藤野町史 資料編(下)』(藤野町・平成6年)より転載

時局柄当然と言えば当然だろうが、全国の全ての施政者が皆こういう文書をすらすらと書いていた時代に恐怖を感じるのは私だけではないだろう。
何もかもが戦争遂行という一点に集約されており、大仰な言葉ばかりが並ぶから、それが本当に戦争遂行のための必需の事業なのかをここから判断するのは、よほどの現地通やエスパーでなければ無理だろうという気がする。

しかしともかくこうした請願は県の聞き届けるところとなり、今は県立公園となっている陣場山の一帯(大東亜戦争完遂上不耗地二等シキ土地)が大規模に伐採、現金化された。
そしてその5万円で沢井村の鈴木治作氏が工事を請け負い、昭和20年3月5日に着工した。
契約(計画)では、それから半年後の同年9月5日にも竣工することになっていたが、その前に終戦を迎え、隧道工事は社会的混乱のために中断されたという。
沢井隧道は一度、「未成隧道」という苦汁を舐めていたのだ。


工事中断中の昭和23年10月に、沢井村が県に宛てた「隧道改修工事施行陳情書」が残っている。
今度はその一部を引用しよう。

町村道沢井藤野停車場線ハ、県北資源開発ノタメ、急速県ニ於テ隧道改修工事御施行セラレ度(タク)、此ノ関係町村民代表ヲ以テ陳情致シマス(中略)
沢井藤野停車場線ハ、数年前請願ニヨリ新設シタル省線藤野駅ヨリ沢井村字日野・中里・落合・上沢井ノ各部落ニ通ジ、佐野川村上河原・橋詰・鎌沢・佐野川・登里ヲ経テ、都下西多摩郡桧原村ニ達スル県北唯一ノ主要道路デアリマス
本線ガ県ニ移換セラレ、隧道改修工事御施行相成マセバ、一般交通上ノ便益ハ勿論、地元民ノ福祉ト観光「ハイキング」ト併セ、再建日本復興資材ハ容易ニ京浜地方ニ搬出サレ、国家社会ニ及ス重大使命ヲ担ウ隧道デアリマス

『藤野町史 資料編(下)』(藤野町・平成6年)より転載

この資料では、沢井隧道が当初は府県道「佐野川吉野線」ではなく、町村道「沢井藤野停車場線」に建設されていたことが書かれている。
右の地図は同時期に存在した佐野川吉野線と沢井藤野停車場線の概念図だが、この請願書では町村道の方を、「県北唯一の主要道路」だと述べている。
そして、戦争遂行の為に必須であるとあれだけ宣伝していた沢井隧道を、今度は福祉や観光ハイキングや日本復興用材搬出のための「国家社会二及ス重大使命ヲ担ウ隧道」であると述べている。

だが、今度はなかなか県から再着工の許可を得られなかったようで、工事が実際に再開されたのは昭和25年であった。
(終戦直後から昭和25年までの約5年間、藤野の町中の目立つところに、途中まで掘られた隧道がぽっかり口を開けていたことになる。想像するとゾクゾクする。)
しかもようやく再開されても、思うように捗らなかったようである。次の引用文をご覧頂こう。

戦後工事が再開されたのは昭和25年のことであった。
戦後まもなくのことで、社会は失業・食糧不足などで混乱しており、工事はスムーズには進行しなかった。
27年6月に吉野村他二か村組合長と佐野川村長、議員らが連名で県に提出した沢井隧道懇願書によると、
県からの補助を受けて延長285mの導坑を25年度に貫通させ、27年度には両村はいかなる悪条件をも克服して完成することをひたすら願っている、と決意のほどを示している。懇願書の前文に、沢井・佐野川村の産物である薪炭・竹材・木材・牛乳などの生産物の搬出は沢井隧道の完成によるとして両村民の心底からの願いがこめられている。

『藤野町史 通史編』(藤野町・平成7年)より転載。

請願書ではなく、「懇願書」というのがまず凄い。
さらに、終戦による工事中断の時点では、導坑さえも貫通していなかったことが明らかとなった。
そんな導坑の貫通は昭和25年で、長さ285mというから、『道路トンネル大鑑』よりは長く『平成16年度道路施設現況調査』よりは短いという、微妙な長さである。


だが、結局「懇願」された昭和27年度にも隧道は完成せず、28年度、29年度、そして藤野町が誕生した30年度にも少しずつ工事が続けられた。
そして、沢井隧道がようやく日の目を見たのは、着工から12年後の昭和31年度であったと、町史は書いている。
このうち、昭和27年度から31年度までに要した工事費が表記されているが、合計すると約1500万円にもなる。
昭和20年に5万円で建設されようとしていた隧道がである。

ともかく、時流にさんざん翻弄されつつも、ようやく昭和31年度に開通した沢井隧道だが、当初は町道であった。
これが県道に昇格したのは昭和35年4月1日で、当初の路線名が『道路トンネル大鑑』にあった「佐野川小渕線」といったのだろう。
また、県道昇格に伴って、「拡幅・内装・照明など完全な工事が行われた。」とあるから、これらの改良工事が一通り済んで県道として開通したのが、おそらく『大鑑』などが示す「昭和37年」という竣工年なのだと思う。


これ以降の経緯については町史に記述が無いが、ここまでの現地調査と机上調査をまとめると、トンネル内の各断面が誕生した経緯は右図のようになるだろうか。

町道として開通した当初は、断面3の拡幅部分は無かったのだろう。
前記した工費的に見て、開通当初からコンクリートの覆工はあったように思う。(戦時中の計画は素掘であろうが)
まだ、断面2と断面4の違いなど解明しきれなかった部分もあるが、まあ、だいたい納得のいく経緯が辿れたように思う。
(断面2と4の違いは、地質の良し悪しによる覆工の巻き厚の違いと思われるが、年度ごとに異なる業者が工事を行っているので、そのために違いが生じた可能性もある。)


以上、何かありそうな感じのする隧道だとは思ったが、調べてみたら意外に多くの過去が出て来てビックリ&興奮であった。
皆様も今度この隧道を通行する機会があったら、ぜひ多彩な断面の変化に過去への想いを馳せて頂きたい。
中央自動車道を走るときだって、あなたはこの隧道を踏んでるんですよ〜。





【オマケのエピソード】 幻となった、“相武”隧道計画があった?!


先ほど引用した、昭和23年の沢井村による「隧道改修工事施行陳情書」には、まだ続きがあった。

沢井隧道の建設が中断している町村道沢井藤野停車場線は、藤野駅から沢井村や佐野川村の一部を経て、東京都桧原村に達する「県北唯一ノ主要道路」であるから、早く隧道を県の補助で完成させて欲しいと請願しているのが前段であったが、それに続く後段は、以下のような内容となっており、夢がひろがりまくりんぐ。

千万石ノ森林資源ヲ有スル前記桧原村ハ、山岳周囲ヲ塞ジ、交通ノ不便ハ意外デアリマス、
該地ノ大地主荒井庄三カ氏ハ私有林参千町歩、素材数数千万石ヲ所有シ、該資源ハ主トシテ佐野川村及沢井村字栃谷部落民ニヨリ利用開発中ナルモ、急坂ニ重ナル山路ヲ踏破セル苦労ハ容易ナラサルモノ也
前該荒井庄三カ氏ハ、藤野駅ニ通スル隧道改修工事実現セバ、桧原村ヨリ佐野川村ニ通ズル隧道工事ハ本人ニテ施行致シマスコト聞キ及ンデ居マス
前陳ノ地上御賢察被下多年ノ念願デアリマス本隧道改修工事御施行相成度、特別ノ御詮議ヲ以テ御授納願フ次第デス

『藤野町史 資料編(下)』(藤野町・平成6年)より転載

東京都桧原村と神奈川県内を直接結ぶ車道は、平成の今日も存在しない。
平成2年に桧原村と山梨県上野原市の間に開通した「甲武トンネル」(全長954m)(関連レポ)でさえ、昭和の時代から長らく“幻の県道・都道”と呼ばれ続けてきた末の開通だった。

町村道如きの沢井藤野停車場線が、桧原村に向けて峠越えの隧道を穿とうなどという話は、俄には信じがたいというか、幾ら有力な地主であっても私人の力で実現出来る規模の話とも思えないのだが、公式の文書に書かれている話だから、それなりに実現可能性があると見られていたのだろうか。
でも…、やっぱり「聞キ及ンデ居マス」なんて、怪しいような……。

今、改めて当時の地形図を見ても、相武国境山稜線のどこに、どのような隧道を掘る予定だったのかは全く分からずじまいだが、
ともかく、沢井隧道の背後にこんな“幻の構想”が存在した事も、夢見がちなオブローダーならば気に留めておいて良いだろう。






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