今年最初に道路業界を駆け巡ったニュースは、関係者にとっては頭の痛い問題であるとしても、我々オブローダーにとっては心の躍るものだった。
2014年(平成26年)1月5日付け神奈川新聞配信(電子版)ニュースの見出し、
『小柴の“放置”トンネル問題:さびた看板、暗い蛍光灯、一年中水漏れ… 「どこに補修頼めば…」周辺住民困惑』
――放置トンネル問題は、我々オブローダーが日常的に取り組んでいる問題であり、今回も新聞社に発表の先を越されたことへの悔しさよりは、「あそこか」といううすら汚い笑みがまず漏れた。
この場所、2009年(平成21年)9月に何気なく行っており、何ともいえない感情を持ったものの、市街地で地図さえあれば行きにくい場所でもないと思ったので、報告のための机上調査をしないまま放置していた。
私の中でも放置トンネルとなっていたのである。
そんなつまらない冗談はさて置き、記事の中身(おそらく記事公開期限があるので、後日のリンク切れはご容赦)を読んでみると分かるが、放置トンネル問題といっても完全な放置、遺棄、廃止ではなく、現に住民生活に使われているトンネルの管理者が分からぬまま、ろくに管理もされずに放置されている事の問題であった。
これは単純な廃隧道より厄介な問題であり、それだけに正月の静寂を裂く記事となったものであろう。
この隧道に関する神奈川新聞の記事はもう1本配信されており、2本の記事の要点を箇条書きにすると、次のようになる。
- 旧小柴貯油施設(横浜市金沢区)の南側に、施設のゲートと住宅街をつなぐ1本のトンネルがある。
- 70年以上前に旧日本軍が造ったものだが、戦後の手続きから漏れたため、国にも市にも台帳に記載されておらず、「所有者不明」の状態である。そのため正式な名前も判明しない。
- トンネルは高さ約5メートル、幅約7メートル、長さ約180メートル。住宅街と旧小柴貯油施設のゲートをつないでいる。
- 2012年(平成24年)12月に山梨県で起きた「笹子トンネル事故」を契機に、トンネルの所有者を確定させ安全に管理されるよう、横浜市が問題解決に向けて動いているが、未だ解決していない。
- ぼろい。
これらの記事のおかげでサボっていた机上調査が楽になったことと、このトンネルに一層興味が湧いたこともあるので、追加の机上調査を少ししたうえで、今回のレポートを書くことにした。
ただし、探索は5年前に行ったきりなので、現状は少し変わっているかもしれないので…いや、新聞記事を見る限り変わっていないような…、そのつもりでお読みいただければと思う。
それでは、現場周辺の道路地図をご覧頂こう。
地名で言えば、神奈川県横浜市金沢区柴町である。
記事の中では「小柴の…」と「小」が付いていたが、小柴というのは柴町の通称のようなもので昔から使われている呼称のようだ。
最寄り駅は金沢シーサイドラインの海の公園柴口駅だが、私は金沢文庫駅辺りから主要道路を離れて現地へ入った。足はいつも通り自転車であるが、車でも行けないことはない。しかし途中に狭いトンネルがある。
この地図でもトンネルは奇妙な描かれ方をしていて、トンネルの南側はバスも通る柴町へのメインストリートであるように見えるのに、長いトンネルの北側は、園路や工場内あるいは私有地の道路を示す破線の二重線になっている。そしてその先に「米軍石油貯蔵所」という重苦しい文字が置かれている。
なるほど、トンネルは米軍石油貯蔵所へのアクセス道路だな。
おそらくトンネル自体も立ち入れなくなっているのだろうが、見に行くだけ行くだけ行ってみよう。住宅地とのミスマッチが楽しめそうだ。
5年前の探索の単純な動機である。
しかし、実際はこのとき既に柴の米軍石油貯蔵所は日本国に返還されており(返還は平成17年)、米軍は無関係であった。
にもかかわらず、私はそれを知らないまま探索を終える事になるのだった。このことからも、現場がどんな状況であったのか想像が付くであろう。
それでは、いざ “柴さ行がねが!”
2009/9/28 12:21 《現在地》
ここは国道16号の君ヶ崎交差点で、京急本線の金沢文庫駅はすぐ近くだ。
シーサイドラインが近年開業するまで、柴町の最寄り駅といえば金沢文庫で1.6kmほど離れていた。
歩くにはちょっとした距離だから、駅と柴町を結ぶ路線バスが設定されて、現在も走り続けている。
今でこそ柴町は横浜市金沢区の一街区名に過ぎないが、昭和22年までは神奈川県久良岐郡柴村という単独の村を形成していた。
そして問題の「小柴の“放置”トンネル」が建設されたのも、そのような昔時であった。
喧騒に満ちた国道16号から東へ分かれ、1〜2車線の街路を海の方向へ向かう。
道はほとんど平坦で遠くは見通せないが、柴は海沿いの地区である。
海岸線の埋め立てが進んでいなかった昔時においては、風向き次第で、この辺りまで潮の香りがしていたであろう。
しかし今は上品な住宅地がずっと広がっている。
写真は駅と柴の中間辺りにある称名寺である。
この古刹の境内には、記録がはっきりしているものとしては日本で最も古い“中世の隧道”があるが、今はスルーして柴を目指す。
柴まで残り500mを切ると、上り坂が始まった。
海へ向かっているつもりだったので少し意外だったが、柴の周囲には小高い丘が広がっており、それを乗り越えないと辿り着けない場所であった。
少なくとも昔時はそうであった。(今は埋めてられた海岸を行く平坦路もある)
柴まで残り200mで、丘の頂点に迫った。
道が二手に分かれていたが、右の低い道が柴への道だ。
そして次のカーブの先がどうなっているかは、見るまでもなく明らかだった。
12:32 《現在地》
隧道出ましたー!
しかしこれは目指す“小柴の放置トンネル”ではない。
ちゃんと横浜市により管理され、名前もある、“正規のトンネル”である。
ちなみに、隧道前にあるお宅の名前は「穴倉」さんと「穴倉荘」らしい。
12:23 《現在地》
海抜20mほどの地点で海抜40mの尾根を貫通する、昔からの柴への通路。
それがこの柴隧道である。
そのままズバリの名前で歯切れが良いが、おかげで“小柴の放置トンネル”に、適切な仮称を与えることが難しくなった。
横浜市のトンネル台帳に見る柴隧道の主なスペックは、「全長35m、幅4.5m、高さ5.4m」というもので、自動車の離合不可能な狭隘トンネルだが、京急バス金沢文庫発柴町行き路線バスがここを通っている。
探索中は残念ながらバスはおろか行き交う車も出会わなかったが、これは隧道が既に柴へのメインストリートではなくなっていた為だろう。
そしてもう一つ台帳から判明したのが、このトンネルの意外な…といっては失礼だが、歴史の長さについてである。
大正2年竣工と記録されていたのである。
ほとんど明治隧道である。
100年を生き続ける間に外見はだいぶ変わってしまったようだが、柴の生命線として大変長らく活躍したものであった。敬礼。
頭を垂れつつ、洞内へ。
柴隧道を通りぬけると即座に柴の街並みが現れ、道は緩い下り坂となって続く。
そのまま200mばかり一本道を進んだ所に分岐地点があり、
そこを左に折れると、眼前に問題の“小柴の放置トンネル”が現れる。
という流れなのだが、なぜか私はこの間を全く撮影していなかった。
なので、この間の風景は以下のリンク先に代行していただこう。
トンネル見つけたら、戻って来てね〜。
→【google ストリートビュー】←
12:35 《現在地》
でかい。
それが問題の隧道の第一印象。
そして、強い違和感を放っている。
静かで平和な住宅地の1車線道路から、突如2車線幅のトンネルが分かれているのは明らかに異様だが、このシチュエーションだけでなく、外見の古風さもまた目を引いた。
もっとも、この古風というのは、煉瓦だとか石積みだとかといった古典的古風さではない。
もっと実用主義的な古風さ。突貫工事で大きなものを作ったときに溢れ出るマッシブな重量感。
これは、明らかに軍事的建造物を思わせる古風さであった。
この住宅地で米兵が銃を携えて警備をしていたらなお一層奇妙だったが、そんなことはなくトンネルは暗く静かだった。
立入禁止になっている様子も無く、ただそこに口を開けていた。
そしてこの交差点が、柴町行きバスの終点である柴町バス停だった(写真中央にバス停が写っている)。
googleさんもイヤイヤをして立ち入ってくれないこの問題のトンネルへ、
次回、進入する!