『小柴の“放置”トンネル問題:さびた看板、暗い蛍光灯、一年中水漏れ… 「どこに補修頼めば…」周辺住民困惑』
―――2014年(平成26年)1月5日付け神奈川新聞配信ニュースの見出し
そいつを今から、とんと味わうぜ。
げっへへ…。
『小柴の“放置”トンネル問題:さびた看板、暗い蛍光灯、一年中水漏れ… 「どこに補修頼めば…」周辺住民困惑』
―――2014年(平成26年)1月5日付け神奈川新聞配信ニュースの見出し
そいつを今から、とんと味わうぜ。
げっへへ…。
2009/9/28 12:35 《現在地》
今回は、この先にあるのが旧日本軍の軍事施設と分かっているために、特にそのような目で見てしまうのかもしれないが、如何にも軍が作ったトンネル…それも突貫工事で作ったという気配が滲み出ている。
外見的な特徴としては、まずこの扁平な断面である。現在作られているトンネルに較べて明らかに横に平べったく、2車線分の幅は確保されているが、高さに余裕がない。
こういう扁平な断面は、より少ない工事量で広幅員のトンネルを作ろうとすれば、自然に導き出されるものである。
そして、扁額さえも省いた(扁額を取り付ける為の凹みさえないので、本当に当初から無かったと分かる)スパルタンな無装飾性。
坑門のアーチリングは装飾を完全に廃したべた塗りで、一応上部に笠石的な意匠が見られるものの、これも装飾といえるほどの余力は感じさせない。
また、これはトンネル自体の構造とは無関係だが、電柱が設置されている位置にも注目したい。
このトンネルを2車線として使うつもりは、毛頭ないらしい。
ちょびっとトンネルに入ってみる。
途端に私を包む冷気。
探索は暑い日だったので、凄く幸せだった。
この正式名称不明のトンネルの全長が180mというのも、後の新聞記事を見てから知ったことで、探索時点では目測で200m程度と判断した。
どちらにせよこれは何かの照明がなければ通りにくい長さであるが、一応(奥の方は)点灯している事が確認出来た。
それにしては、妙に暗いのだが…。
他にも目についたモノが色々あって、まずはベンチ。
不法投棄…ではなく、坑口前にある柴町バス停の待合所らしい。
未だかつて、トンネルの中が待合所として使われているバス停ははじめて見たが、おそらく住民が独自に整備したものだろう。
次にベンチ脇の壁面にある、古いペンキの注意書き。
「この附近に物を置かないようにして下さい」とあって、ベンチだけは例外らしい。
しかし、この注意書きを書いたのも道路管理者ではなかったのだろう。
このトンネルの管理者が分からなくて住民が困っている。それが今年のニュースになったくらいなのだから。
そしてもう一つ、トンネルの断面変化である。
入って10mほどの地点で、トンネルの断面が30cmほど圧縮されていた。
更に進むと街の空気が後ろに遠ざかり、色々な生活音も遠くに感じられる。
自分の周囲には、トンネルの壁があるだけだ。
町中にあるトンネルなのに、この長い空洞にいるのは私だけというのが奇妙に感じられる。
ここは、数百万人が暮らす横浜市だぞ。
しかも、ちゃんと2車線分の幅がある道路トンネルだ。
だが、幾ら人口が多い都会でも、用事のある人でなければ道を使うことはない。
人口密度に応じて無人の所に人が沸いてくるのではホラーで、いまこのトンネルに用事がある人間が私しかいないと言うだけのことだ。
そもそもの問題。このトンネルを通りぬけたところで、どこへ行けるというのか。
そういえば入口に「ここから市民農園には入れません」という看板があった。
手元の地図では、この先にあるのは「米軍石油備蓄所」だけで、一般の市民がこのトンネルをくぐる理由が思い当たらない。
だが、その割には物々しさがない。
あるのは、全国の廃隧道や旧隧道にあるものと同じ、埃くさい空気と静寂だけだった。
入口から40mくらい進むと、再びトンネルの断面が入口と同じ大きさに戻った。
つまり、南口から10〜40mの区間だけ、側壁とアーチの巻き立てが15cmほど厚くなっていたということだ。
この断面の変化は、明らかに戦前とされる建設当初からの物ではない。
かなり後年の補強工事にによるものであることは、“従来の壁”との傷み方の違いや、壁の一部にアンカーボルトが打ち込まれていたこと等から、断言していい。アンカーボルトによるトンネル補強は近年の工法である。
このことから、私は今回の新聞記事を見るまで、トンネルが管理者不在の問題物件だとは思っていなかった。
記事によれば、戦後まもなく日本軍が消滅してから、今までずっと誰の所有物かも分からないまま、使われ続けているのだという。
確かに先ほどの“ベンチ”や、壁の“注意書き”は、管理者の不在を思わせる風景だったが、このトンネルの壁面補修も管理者不在のまま、どこかの親切な業者が勝手にやったのだろうか?
いったい誰が、補修したの?
この私の疑問の答えは、一通り机上調査をした今も解決していない。(米軍が一時的にこのトンネルも所有していた?)
しかし、このトンネルの不遇な身の上は、確かに現実であるらしい。
こんな悲しい照明の使い方は、今まで見たことがない。
現代の道路トンネルでは標準装備となっている見慣れたナトリウムライトがすべて消灯され、代わりに電線へ接続されていたのは、私の部屋にもあるような惨めな白色蛍光灯だった。
おかげでこの“暗さ”である。
歩道用の小さな断面のトンネルならばいざ知らず、フルサイズの道路トンネルにこの照明では明らかに力不足だ。
この照明の変更の理由が経費節約だというのが、また悲しい。
利用実態を考えれば、間違っていない選択だとは思うが……。
利用者減少&コスト削減のため、一旦電化した鉄道をディーゼルに戻すような悲しさを感じる。
米軍が施設を利用していた頃には、ガンガンのオレンジシャワーが注いでいたんだろうな…。
こうして、「さびた看板、暗い蛍光灯、一年中水漏れ…
」という3大悪評のうちの一つが、この5年前の時点で既に顕現していたことを確かめた。
虚しいスペックダウン照明の暗さにも増して、トンネル後半の世紀末的頽廃ムードを演出していたのが、これだ。
トンネルの片側の壁に沿って設置された、“Aバリ”(A形バリケード)の骸たちである。
件の新聞記事にもこの写真が象徴的に使われていて、読者に「これはきもい」と思わせ戦犯だが、探索当時は何のためにあるのか分からず仕舞いだった。
トンネルの両側にある蓋のない側溝の転落防止というのも、側溝の規模的に考えにくかった。
では、このAバリの目的は何だったのか。
これはトンネル内への不法投棄を防止(というか妨害)するために置いた障害物だったらしい。
そして、これまた、誰が設置したのかは記事の中でも明らかにされていない。
ホームセンターにも売っているようなAバリだが、これだけの数を並べたのは個人とも思えない。
ともかく不法投棄防止のための障害物が、そのまま投棄物のようになってしまったのは皮肉で、設置したまま更新しなかった怠慢への報復である。
おそらく記事の見出しにあった悪評のひとつ「錆びた看板
」というのは、このAバリ廃群のことなのだろう。
「安全第一」の看板と見れないこともないかな…。
多少古びてはいても、作りとしてはまだ活躍出来る2車線のトンネル。
だが、その利用実態は1車線で十分事足りているのだろう。
自らの道路幅を障害物で制限する退化的な利用法が悲しい。
その上でもなお道路両端附近は砂埃が堆積し、足跡さえ付いていなかった。
軍事目的で掘られたトンネルだけに、その役目を終えてしまうと途端に宙ぶらりんの存在となってしまったのか。
2車線に見合った幹線道路として生まれ変わる期待はまずない。
これが山中であれば、早々廃止されてもやむを得なかっただろう。
大都会のお情けで現代まで命脈を繋いでいるとはいえ、根本的な斜陽物件なのだと感じる。
また、これは私にとっても住民にとっても大変喜ばしい事なのだが、このトンネルは本当に今まで部外者にとって目立たぬ存在であり続けたのだと思う。
管理者不在といわれる薄暗いトンネルが、都会の片隅に眠っている。
これがもっと早くから有名であったら、サイケなラクガキの温床となっても不思議ではなかったのかも知れない。
むしろ、報道で有名になってしまったこれからが心配だったり…。
そして3大悪評の残るひとつ。
“一年中水漏れ”。
横浜の天然水(だよね?)が、ひび割れた壁面の至る所から漏れ流れていた。
それは洞床にある側溝だけでは受けきれず、路上に広く浅い水溜まりを作っていた。
これでは、新聞報道にあった通り、周辺住民が「このトンネル大丈夫なの…? これより新しい笹子トンネルでさえ崩れたのに、このトンネルなんていつ崩れて来るか分からない…」と、不安に思うのも頷ける。
もっとも、笹子トンネルで崩れたのはトンネルの内壁ではなく天井に設置された付属物であり、事故の種類は違う。
それに専門的ではない個人の感想として、昭和前期の道路トンネルでこの程度の水漏れ自体は珍しい事ではないと思う。
とは言っても、管理者不明のトンネルがこのまま放置され続けたとすれば、最終的な末路は一つしかないのだし、利用者が不安に思うのは当然だ。
――入洞5分後、
問題の“放置トンネル”を貫通。
そこに、待ち受けていたのは?
色々あるが、平たくいえば封鎖地点だ。
封鎖されていたことは予想通りとはいえ、その風景は想像していたものとはだいぶ違っていた。
まず一番驚いたのは、トンネルを抜けた先にも民家があったということ。それも仲良く並んで3軒。
このトンネルを利用しなければどこへも行けない人口が、横浜市には数人あったのである。
私が見た道路地図も地形図も、トンネルの先は即座に米軍敷地のように描いていたが、それは少し雑な表現だったという事になる。
そして、これは新聞報道によってはじめて知ったことだが、このバリケード前の広場まで京急の路線バスが来ているらしい。
バス停はここに無いのだが、終点の柴町で客扱いを終えたバスが、ここまで来て方向転換をしているらしいのだ。
つまり意外にも、このトンネルを朝な夕なとバスが通行していた。その回数は、ここの住民以上に頻繁だろう。
利用の目的は、「Uターン場所を求めて」という、正直トンネルの本懐を遂げていると言えるかは微妙な所だが、利用され続けてるというのは好ポイントだ。
12:40 《現在地》
閉ざされたふたつのゲート。
左のゲートはかつて米軍の燃料貯蔵施設に繋がっていたもので、塞ぎ方も特に厳重である。
タバコのイラストに禁止のマークを組み合わせた標識が、火気厳禁を至上命題としたこの施設の性格を現している。
しかし、バリケードは既に夏草のジャングルと化しつつあり、奥も手前も周囲は無人であった。
銃を携えた米兵は居ないのである。
私は予期しなかったが、既にこの時点で施設は日本への返還を完了しており、奥の土地も横浜市の市有地でしかなかったのである。
とはいえ、このバリケードには立ち入る余地がなかったし、またあまり興味もなかった。
もう一つのバリケードは市民農園に繋がっている通用路であるが、やはり施錠されていて通行は出来なかった。
こちらは既に民生利用が行われている区域へ繋がっているにもかかわらず、ここから行く事は出来ない様になっている。
通れれば多少は便利になる(トンネルは行き止まりの存在でなくなる)はずだが、敢えてそれをしていないのは、管理者不在のトンネルに外部者の通過交通を入れたくないからなのか、理由は分からない。
こちらもなかなか厳重な封鎖であり、私はトンネルをチェックして引き返すつもりだったので、これ以上の無理な前進はしなかった。
現在報道されているトンネルの所有者問題が無事解決し、さらにこの先の土地の利用も進展すれば、やがてこれらのバリケードは平和的に撤去される事だろう。
その時にはトンネルも化粧を改め、見違えたように生まれ変わるのかもしれない。
引き返そうと振り返ると、風景の珍妙さに言葉を失った。
垂れ下がるツタを切り払いもせず、そこだけを見ればまるで廃隧道のようにも見える“小柴の放置トンネル”と、
愛情を込めて端正に手入れをされた3軒の真新しい住宅。
明らかにミスマッチな両者が、隙間無く完全に密接していた。
だが、これを安易に歴史の暗と明とはいいたくない。前者のうえに後者が成り立っている。
道路と住居というジャンルの違いこそ有れど、戦前と戦後それぞれの特色が隣接する珍しい風景である。
こんな不思議なトンネルが身近にあるというのは面白いし、これが都会流の懐の深さというものであろう。
ちなみにこれらの民家も、トンネルの反対側と同じ「柴町」に所属する。
地形的には山のこちら側は「長浜」地区に近いが、そういう境界設定となっている。
5年前ではあるが、概ね現状報告に近い探索のレポートは、以上である。
次回はこの探索のまとめとして、現地調査では分からなかったトンネルの
詳しい素性について、出来る限りお伝えしたいと思う。
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