2014/11/12 6:02 《現在地》
まだ夜明け前、日が昇るまではあと20分くらいあるのだが、空が明るくなり始めた時点で私は行動を開始していた。
単に待ちきれなかったのである。
与茂内集落外れの国道280号から三厩湾を臨む。
津軽半島北端の龍飛崎まで見通す事が出来たが、空はどんよりしていた。しかし海は凪いでいるようだ。
情報によると、“くぐり”を通行する為には、まず波が穏やかであることが求めらるようだが、それはクリアーしていると思う。
ただ、潮の満ち引きについては今は良くない。この日のこの場所の満潮の一度目が、ちょうどこれから(午前6時08分)なのだ。
ちなみに干潮は正午頃である。
行程の都合上、深く考えることなく、この時間に来てしまった。
まあ、“松陰くぐり”が通れるならば、満潮でも干潮でもいいんだが…。
あった!
あれが、
松陰くぐり !!
小さな岬の突端に、穴が空いているのが見えた。
与茂内集落からは、目と鼻の先である。
そして、本当に海面が近いな……。
マジで水面すれすれだ!
だが、非常に波が穏やかであるおかげで、何とか陸を伝って穴まで近付けそうである。
助かった…。
次なる問題は、あれが人工の隧道なのか、天然の海蝕洞なのかだが…。
まだこの時点では、何ともいえない感じ。 しかし、まずは通りたい!
6:04 《現在地》
ちょっと場所を変え、与茂内集落の南を流れる与茂内川の橋へ来た。
近世の松前街道は与茂内川の河口で国道から外れていた。“くぐり”はその先にある。
同じ地点から“くぐり”が見通せた。
ここから見ると、“くぐり”がある近世の松前街道と、現代(或いは近代)の道路の位置の変遷が分かる。
松前街道は本当に海際の道で、おおよそ車両が通行できそうには見えない。
もし“くぐり”が無ければ、そこに道があったと私は思わなかっただろう。
岬の向こう側に白い波除けブロックの列が見えるが、あそこはもうお隣、大泊集落の前面である。
このように与茂内と大泊は僅かな距離しか隔てられていないが、その行き来は、時に決死の難路となった事が想像される。
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6:05
徐々に明るくなってきて、“くぐり”の写真も撮れそうなので、探索を開始する。
国道から分かれるこの小径が、“くぐり”へ続いていそうだ。
松前街道由来だろうか。一応車も通れそうだが、狭い。
路傍には沢山のカブが干してあり、雪国の晩秋を思わせる風情があった。
このカブは、松陰が見た景色にもあったかもしれない。
100mほど家々の隙間を通る道をゆくと、集落の端に達した。
端に近付くにつれて鋪装も無くなり、古びた木造家屋が建ち並ぶ、寂寞とした雰囲気に。
怪しく明滅する街灯が、一層もの寂しかった。
車道はここで尽きたので、低い防波堤を乗り越えて、適当に砂浜へ降りた。
ちなみに観光地でもあるはずの“くぐり”だが、付近に一切の看板や案内板、駐車場などは存在しない。
オブローダー的に興醒めするような場面は一切無いぞ。
6:08 《現在地》
与茂内浜の一番奥には、小さな船揚場があった。
数艘の漁船が陸に上がっていたが、付近の陸上にも海上にも人影は見られない。
この船揚場自体が、外からは見えないエアポケットのような空間に見えた。
そして浜が尽きた先には、岩場が直ちに海面へと突出しており、その出っ張りの先に“くぐり”と称されている穴が見えていた。
ここから先には、道らしい道は無いのである。
濡れた砂利の上を歩く。
う〜〜ん! 海だ。
江戸時代生まれ云々もさることながら、こんなに海面すれすれに隧道があること自体、もの凄いレアな風景である。
過去に見たことがない。
隧道内に両側から海水が浸入し、洞内でひとつに繋がっていた。海没隧道なのである。
それはまるで、人造湖に水没した昔の隧道か、或いは、隧道が陸ごと沈降して海へ沈んだ、そんな地球規模の遠い未来の光景を思わせた。
そしてそれは妙にいい形をしていた。
この四角形に近い断面形は、純粋な海蝕洞にしては出来すぎに思われたが…。
凪いだ海に屹立する、高さ10mほどのオベリスク状岩塔。
それだけでも“名所”たりうる奇景だったが、面白いのはその岩塔の一方が、
陸との間に“橋”を渡したように繋がっている事だった。
景観としては、“隧道”というよりも、“岩橋”と呼びたくなる。
果たしてこれが人工的な手を加えられた景観なのか、どうか。
岩塔の上の空には、くらげのような月が浮かんでいた。
ちゃぷんと波の壊れる音がする、静かな朝。
ここは松前街道。この眺めは昔と何も変わらないだろう。
ここを北国を旅する人々が、様々な志を胸に歩いたのである。
冒頭に書いたとおり、現在はちょうど満潮にあたっている。
そのせいだろう、“くぐり”に通じる“路面”は、ほとんど海の底にあった。
というか、 こ れ が 本 当 に “ 路 面 ” な の か ? という疑問はあるが。
しかし満潮時であっても、このように波が穏やかであれば、なんとか足を濡らさずに“くぐり”を通る事が出来るようだ。
“路面”の高さは一様ではなく、陸側に人が歩けるくらいの緩やかに傾斜した部分があった。
この斜面は満潮時でもギリギリ海面上にあったので、そこを伝えば濡れずに進む事が出来るのだ。
だが当然のことながら、波があったら、こうはいかない。
うおっ!
これは人工物だぞ!
ここに至り、そう判断できる材料が現れた。
こいつは間違いなく、人工的な手を加えられた、“隧道”であると。
その部分を、間近に見て頂こう。 ↓↓
←この壁面は明らかに、人 工 物 !!
岩質的に見て、自然にこれほど平らで垂直な壁が形成される可能性は極めて低いと思う。
水面下にまで平らな壁が続いていることに、大いに興奮した。
やはりこいつは隧道なんだと。
だが次なる疑問は、これがいつ、誰の手により加工されたのかということだ。
松陰が通った当時も、この姿だったのだろうか?
そうだとすれば、正真の江戸時代道路隧道といえるが…。
部分的な加工の痕跡が認められる“くぐり”だが、この光景は不思議さを持っている。
それは、満潮の度に水没してしまうような隧道を、なぜ車道と見紛うような断面へ拡幅したのかということだ。
人が通るだけならば、もっと小さな穴でも良かったように思えるし、この幅は満潮時の路面幅に対しては過剰である。
洞床の低い部分は50cmくらいの深さにあって、この場所の干満の差を考慮しても、干潮時でなお水面すれすれだと思うのだ。
この疑問の答えはいくつか考えられて、大胆なところでは、長い月日の間に海面が上昇したか陸が沈降したのではないかというのがありうる。だが、それはないようだ(理由は省略する)。
別の答えとしては、隧道を拡幅した上で海面を埋め立てて路面を建造したが、後に失われたという説。
これが一番有力だろうとは思うが、残念ながら現時点でそれを証明する資料は見つかっていない。
“くぐり”の先には、今にも溺れそうな道が。
もちろん、行ってみます!
次回、
“くぐり”の先と、近世文献に見る“くぐり”。