ここからは、お楽しみの“解説編”と行きたいところだが、私自身、まだ納得の行く“答え”には辿り着けていない。
先に結論を申し上げるが、“松陰くぐり”の誕生や改良の全容は判明していない。
したがって、これが東北地方で唯一の現存する近世道路用隧道と評価できるのかも分からない。
(あなたはどう思う?)
ただはっきりしているのは、近世の様々な人々が、この穴を「松前街道」として通行していたこと。
そして、そのような通行人達による様々な記録が残されているということである。
ここからは、そのような“記録”を拾い集めることで、写真などあるはずのない近世における“くぐり”の姿に近付きたいと思う。
第1章.近世の書物に記された、“くぐり”の姿
近世における松前街道とは、津軽海峡を挟んで南北に対面する青森と函館を結ぶ道であり、江戸千住を起点に蝦夷地の箱館(函館)へ至る長大な奥州街道の北端部を構成していた。
ここは松前藩の参勤交代や松前藩へ向かう幕府巡見使が通ういわゆる公道であって、本土から蝦夷地へ出入りする多くの人々が、ほぼ例外なくここを通ったのである。
この街道を行き交う人々の数が特に増えたのは江戸後期から幕末にかけてで、幕府によって蝦夷地警備を任命された全国の藩兵や幕吏達が、松前街道の本州側終着点である三厩から渡海するために利用した。
油川(青森市)から三厩までの距離は十三里(約51km)と記録されており、その途中には蟹田、平舘、今別などの宿場、そして一里ごとに一里塚が築かれていた。
道筋は現在の国道280号(青森市〜函館市)のルートと概ね重なる。
しかし明治時代に入ると北海道への渡航地が三厩から青森へと変更(青函航路)され、松前街道は再び辺境の静かな生活道路へと戻った。
そして現在に至る。
(1) 嘉永5年(1852) 吉田松陰 『東北遊日記』
近世の松前街道を旅して紀行文を残した人々としては、“松陰くぐり”に名を残す事になった長州藩士吉田松陰を、まず挙げる必要があるだろう。
嘉永4年(1851)の旧暦12月、江戸留学中にロシアの船が北方の海に出没することを知った松陰は、その防備状況を確かめるべく脱藩覚悟で東北へと旅立った。
その紀行中の日記が、『東北遊日記』である。
本書は国会図書館の近代デジタルライブラリーで全文を見ることが出来る。(→リンク)
この旅の中で彼が“くぐり”を通ったと考えられるのは、小泊から大雪の算用師峠を超えて三厩に至り、さらに大泊(本レポートに出てきた大泊である)まで歩いて上月という宿をとった嘉永5年(1852)旧3月5日のことであるが、三厩〜大泊間を次のように書いている。
経今別戸数湾港亦与三厩相類経大泊宿上月戸数僅十七八耳行程八里 (『東北遊日記』 〜近代デジタルライブラリーより)
何も書いてないのである。
吉田松陰は“くぐり”のことを、何も書き残してはいなかった!
意外だが、これが現実である。
もちろん、この『東北遊日記』に記されなかった、松陰と“くぐり”の関係を伝える何かが存在する可能性は捨てきれないが、少なくとも私が検索した限りでは、そのようなものは見つからなかった。
現時点で明らかな吉田松陰と“くぐり”の関係は、これだけである。 確かに通ったは通ったのだろうが…。
(2) 寛政2年(1790) 高山彦九郎 『北行日記』
寛政の三奇人に数えられる江戸時代後期の尊皇思想家・高山彦九郎は、寛政2年(1790)43才のとき、蝦夷地に渡ろうと龍飛まで来たが、順風に恵まれず断念した。『北行紀行』はこのときのものである。
次の文章は、この年の旧9月2日の旅路で、大泊から山崎までの記述である。
坂を越へて大泊家十軒斗り、人家を出で浜を行く、三馬屋(三厩)正面に当り今別は坤に当り龍浜(龍飛)の鼻は乾に当る、(中略)浜を経る、又タ狗潜りとて岩洞の中を行く、塩を焼く所有り、(中略)陸へ上り行きて山崎家七八軒、 (『北行日記』 〜「外ヶ浜道中記 松前街道探訪」より)
キター!!
1790年には既に松前街道に“くぐり(潜り)”が存在していたのである。
そして、そこには当然“松陰くぐり”の名があるはずもなく、それは“狗(いぬ)潜り”と呼ばれていた事が分かる。
三厩を正面に、今別を南東(坤)に、龍飛崎を北西(乾)に見るという風景も、まさに“松陰くぐり”からの今日の眺めと一致しており、疑う余地はないだろう。
そしてこの『北行日記』は、なんとさらなる未探索隧道?に関する情報をも含んでいた。
次は上の記述の直前、砂ヶ森から袰月までの行程である。
二日、朝雨降る、止ミて後しなが森(砂ヶ森)を立ツ山を越へ十丁斗り岩山の差出たる所狗潜りとて洞有り其ノ中を行く、母衣月(袰月)家十四五軒人家を出で三四丁の間の浜を舎利浜と号す行人舎利石を拾ふて土産とす、坂を越えて大泊(前引用箇所に続く) (『北行日記』 〜「外ヶ浜道中記 松前街道探訪」より)
上記によれば、砂ヶ森と袰月までのどこかにも、やはり“狗潜り”と呼ばれる洞道が存在した事が分かる。
現在の地図に照らせば高野崎の辺りだろう。高野崎は観光名所だが、現在も“狗潜り”があるかは分からない(今後探索予定)。
(3) 天明8年(1788) 菅江真澄 『率土か浜つたひ』
菅江真澄は東北地方各地を旅した江戸時代中期の紀行家、民俗学者である。
彼も高山彦九郎の2年前に津軽半島を旅して『率土か浜つたひ』を残している。
砂が森といふやかたあり。鷹の岬(高野崎)といふをへて、高きを下りて海べたのみちあり、山路あり。なぎさに大石のたてるに鶻(はやぶさ)のすぐひ、かゞなく鷲の声も聞えて、いとすさまじきあら磯也。胎内潜とも犬潜とも、あるいは、しろいぬくゞりともいひて、その高さいくばくならん、ひきまたのやうに分かれたる岩窓を通りて、かつ、母衣月の浦に休らひ舎利浜に至る。(中略)
ふたゝび大泊の浜に出来て、黒犬潜を越て山崎といふ村あり。四方内(与茂内)川をわたる。 (『率土か浜つたひ』 〜「菅江真澄全集 第一巻」より)
さすが当代一流の紀行家だけあって、これまでの日記を越えた迫力が伝わってくる。
そして、『北行日記』にも登場していた二つの“狗潜り”が、それぞれ“白犬潜” “黒犬潜”という名前で登場している。
前者はかなり詳細に表現されており、波濤の響く荒磯と不気味な洞穴の組合せは、部類の珍しい物好きであった真澄の心を捕らえたらしい。
真澄は現代の人物であったら、きっとオブローダーになっていただろうというのは、私の勝手な思い込みだが。
そして真澄が他の紀行者に勝っていたのは、文章表現の巧みさだけではなかった。
彼は文だけではなく、絵も良くしたのである。
『率土か浜つたひ』には、なんとこれら“白犬潜”と“黒犬潜”の真澄自ら描いたスケッチが収められているのだ! ↓↓
今回探索した“松陰くぐり”の姿は、明らかに左側の画像“白犬潜”に似ている。
だが、『率土か浜つたひ』の本文によれば、“松陰くぐり”は“黒犬潜”の位置にある。
真澄が描いた“黒犬潜”と、現在の“松陰くぐり”の姿は、正直似ているとは思えないが、その原因はわからない。
少なくとも、真澄自身が2枚のスケッチにそれぞれ「久呂委奴潜(くろいぬくぐり)」や「新呂委奴久具利(しろいぬくぐり)」などと書き加えているので、後世の誤りではないと思われる。
それにしても、真澄が描いた“白犬潜”の姿は、本当に現在の“松陰くぐり”と似ている。
良く見ると洞内の海側の壁に寄りかかって休む人物が描かれているが、彼と洞穴の大きさも、現在のそれと同じような印象を与える。
ただし、今の海側の壁は平らに均されていて、このように人が寄りかかれる出っ張りはない。
真澄の“白犬潜”が“松陰くぐり”であるという仮定に基づくならば、この隧道が元は天然の海蝕洞であり、後の時代に海側の壁を拡幅したのだと断定していいとさえ思う。
真澄タ〜ン、 もしかして白と黒、逆じゃな〜〜い?
あと、「新呂委奴久具利(しろいぬくぐり)」に続く2行の文章を、どなたか解読お願いします…。大画像
(4) 天明6年(1786) 橘南谿 『東遊記』
江戸時代後期の医者であり、文筆家でもあった橘南谿は、その代表作である紀行書『東遊記』のなかで、天明6年(1786)に訪れた舎利浜のことを書いている。(近世以来、袰月海岸では舎利石という奇石が採れており、舎利浜と呼ばれる“名所”であった)
そして私が知る限りでは、これが“くぐり”について書かれた最も古い記録である。(ただし詳細に調べれば、さらに出てくる可能性は高い)
又、此舎利浜の先きに今別という所あり。弐三里も隔たれり。此所の浜を瑪瑙(めのう)浜という。此浜に入る前後に自然の石門あり。甚だ奇境なり。夫より内凡そ半道余、瑪瑙石の浜なり。(中略)人馬往来する浜なれば、足元に玉石みちみち殊に日光にきらめきて目眩する計り也。其うるわしきに心留まりて通行くべくも覚えず。 (『東遊記』 〜「東北文庫 物語りWeb伝承館」より)
これによれば、今別には「大凡半道」(約2km)のメノウ石が採れる浜(瑪瑙浜)があり、その「前後」にも「自然の石門」があったと書かれている。
別の資料にも今別海岸で錦(にしき)石と呼ばれるメノウ石が採れた事が現れているので、「瑪瑙浜=今別海岸」と考えられる。
そしてその「前後」にも「自然の石門」があったというのだ。
今別海岸の東側に現存する(後の)“松陰くぐり”が「前後」の「前」としても、「後」は分からない。
私はこれについて、地形的に考えても、舎利浜(=袰月)の前後にあった“狗潜り”と混同した誤記と考えている。
その事はさて置くとしても、この「自然の石門」という表現は重視したい。
少なくとも江戸時代中期…1786年時点での“くぐり”は、全く人工の手が入らない「自然」の洞穴であったのだ。
そして「石門」という表現は、そこが古くから通行に供されていたことを示していると思うのだ。
(5) 寛政10年(1798) 陸奥州駅路図 (大日本國東山道陸奥州驛路圖 5巻)
「陸奥州駅路図」は寛政10年(1798)に完成した駅路図で、津軽半島の海岸調査は間宮林蔵の手によるといわれるが、「大日本國東山道陸奥州驛路圖」としてまとめられ、国立国会図書館デジタルライブラリーでこれを見る事が出来る。(→リンク)
そして、その中にしっかりと “くぐり” が描かれているのを見付けた。
繊細な絵柄に古さを忘れそうになるが、今から200年以上も前の絵図である。
そして赤○で囲んだ地点に、「犬くゝり」という注記とともに、海岸に出っ張った岩場と穴が描かれている。
これが18世紀末の“くぐり”の姿である。
現在の特徴的な岩塔は見あたらないが、場所的に見て“松陰くぐり”と同じものだろう。
また真澄が描いた“白犬潜”にはそこそこ似ているが、“黒犬潜”の方は見あたらないようだ。
本章の結論: “松陰くぐり”は、18世紀末において既に“いぬくぐり”などの名前で知られた存在だった!
松前街道の参勤交代のきらびやか殿様行列や、格式高い幕府の巡見使たちも、この荒磯の巌穴を通行していたのかと思うと、一層興味深いものがある。
(補) “いぬくぐり”から“松陰くぐり”へ。 名前変化の一考察
幕末期に吉田松陰が通行したから“松陰くぐり”と呼ばれるようになったという“くぐり”だが、もともとの名称は高山彦九郎によると「狗(いぬ)潜り」であったという。
この “いぬくぐり” が “いんくぐり” へ転じ、そこに吉田松陰が通行したという史実が重なって “松陰くぐり” と呼ばれるようになったのではないだろうか。
また、この犬が動物の“dog”であると考えれば、「狗潜り」は犬が通れるくらいの小さな穴という意味に取れる。
ちなみに垣根や塀に犬が通れるように開けられた穴の一般名詞が「犬潜り」である。
だが、別の可能性もある。
菅江真澄や柳田国男によれば、津軽半島には古くからアイヌの人々が住んでいたという。
これは現地にアイヌ語で解される地名が極めて多いことから見ても、事実に相違ないだろう。
そして江戸時代にこの地を支配していた津軽藩では、宝暦6年(1756)以前、藩内に住むアイヌの名前の下に「犬」という字を付けて差別していたというのである。
例えば「シャクシャインの乱」(1669年発生)鎮圧のため蝦夷へ渡った津軽藩兵に同行したアイヌの通訳四郎三郎は「四郎三郎犬」と書かれた。(「外ヶ浜道中記 松前街道探訪」より)
「狗潜り」も元来は、この地の先住民族だったアイヌの人々が通る天然の石門を見て、倭人が付けた名だったのかも知れない。
同じ地名が複数箇所にあることも、この説を裏付けるように思われるが、いかがだろうか。
第2章. “くぐり”の近現代史
(1) 松前街道の近現代概要
この章は未完であり、さらなる調査を続行中である。
本章では、18世紀において「天然の石門」であった“くぐり”の内壁が、現在のような“隧道然”としたものへ改良された経緯を解き明かしたいのであるが、
その調査の進展に伴って、意外な事実が明らかになった。
まずは松前街道の近現代について、簡単にまとめておこう。
「外ヶ浜道中記 松前街道探訪」には、明治19年頃に松前街道が開鑿されたとあるが、その具体的な改築の内容はわからない。
そして明治32年当時、この道は「県道松前街道」と呼ばれていた事が「奥羽六県共進会誌」に載っている。
“くぐり”が交通路としての役割を終えた時期は定かではないが、遅くとも大正13年である。
というのも、この年に蟹田から三厩まで海岸沿いにバスが走るようになったという記録があるからだ。
それ以前は、今別や三厩辺りと青森の間に定期船が運航されており、これが多く利用されていたようである。
明治期の県道松前街道は、旧道路法制下では府縣道青森三厩線に認定された(大正9年認定)。
さらに現行道路法制下では一般県道下前平舘蟹田線に認定された(昭和29年認定)後、昭和45年に同県道の青森〜三厩間は一般国道280号へ昇格している。(県道として残された残りの区間は、昭和50年に国道339号に昇格した)
こうした道路名称の変遷のどの段階で“松陰くぐり”が交通路としての役割を終えたのか。その解明が今後の調査の課題である。
“くぐり”の野趣溢れる姿も、「街道」という言葉のもつイメージにはすんなりはまるが、もしも「県道」と呼ばれていたとしたら、それはなかなか衝撃的ではないだろうか。
(2) 意外な顛末。 “くぐり”改修の正体は、コンクリ?!
読者さまからのご指摘により、18世紀には(おそらく)左の姿であった“松陰くぐり”が、右のような現在の姿にチェンジした経緯に関わる、重大な情報を発見した。
その結果、私が「交通路としての改修」を信じて疑わなかったチェンジの正体についての重大な疑義が生じる事態となったのである。
実は、“くぐり”に施された改修は…。
それでは皆さま、次のリンク先の画像をご覧下さい。
或いは、次のリンク先の中ほどにある「松陰くぐり」の画像も同様です。
上記のリンク先で見る事が出来る“くぐり”のカラー写真は、ともに撮影時期は不明であるが、カラー写真であることや、サイトの性質から考えて、かなり近年のものであろう。
そしてこれらのカラー写真は、ある点について、現在とは姿が異なっている。
それは海側の側壁である。
海側の側壁に、真澄が描いた“白犬潜”で旅人が腰を下ろしていた出っ張りが、ちゃんと存在しているのである。
現在この出っ張りが無くなっているということは、「削って拡幅した」のかと思いきや、どうやらそれも違う。
ヤラレター!!
このボツボツがある海側の側壁、現地でもなんか人工物みたいだなぁと思ったンだ。
でも、それを言い出せなかったのは、私の中に「そんなことはないだろう」という盲信があったため。
でも、今ならはっきりと認める事が出来る。
この部分は、自然石を模してつくられたコンクリート(擬石コンクリート)であると。
擬石コンクリートによって、海側の側壁にあった窪み(=出っ張り)が埋め立てられ、平らに均されたのである。
その目的は推測だが、海蝕によって壁が削り取られ、“くぐり”が倒壊するのを避けるための補強であったと思う。
良く見ると、坑口上部の亀裂も埋め戻された形跡有り。
なお、青森県ではこういう補強・改修の前例もあったのを思い出した。→ミニレポ13:猿神鼻岩洞門
“松陰くぐり”到達の過程で、私はこんなこと(↓)を感じて、そして書いていた。
観光地でもあるはずの“くぐり”だが、付近に一切の看板や案内板、駐車場などは存在しない。 オブローダー的に興醒めするような場面は一切無いぞ。 | ←いや、あった。現代の老獪な補強が…。 |
そしてそれは妙にいい形をしていた。 この四角形に近い断面形は、純粋な海蝕洞にしては出来すぎに思われたが…。 | ←私は直感的に違和感をもったが、さすがに的中させることは出来なかった。改修をプロデュースした人間の勝利である。 |
コンクリートによる補強が最近行われた事はほぼ間違いないと思うが、それ以前は“白犬潜”のままの姿であった可能性が極めて高い。
つまり、交通路として利用されていた期間には、目立った工事や改築は行われなかったのであろう。
そして本稿の結論が導かれる。
本章の結論: “松陰くぐり”は、江戸時代に交通路として利用された天然の地形であって、近世以前に建造された道路隧道ではない可能性が極めて高い。 (しかし、近世の紀行書に繰り返し登場する景勝地が現在も姿をあまり変えずに残っていることや、交通路として利用された記録が残る海蝕洞自体も珍しいことから、史跡および交通遺産としての貴重性はとても高いと思う。)