隧道レポート 国道42号旧道 旧高浜隧道 後編

所在地 和歌山県串本町
探索日 2014.3.26
公開日 2015.7.31

想像の斜め“下”に発見されたもの!


2014/3/26 10:46 《現在地》 

う〜ん、かっこいい!

岩石海岸に穿たれた小隧道とは、こうあるべきなのだというような姿である。
もちろん私の好みの問題ではあるのだが、それでもこの隧道の姿は、きっと隧道好きの共感を得られると思う。
とにかくこの風景には、余計なものが一つも無い。
地形から植生から空の色から風の音から海の騒ぎまで、廃道を味わい深くする全ての要素が凝縮している。
褒めすぎかとも思うが、そのくらい、ビビッと来た。

そして話しは繰り返しになるが、この素掘の岩石隧道は、昭和42年以前の国道42号である。
その当時に紀伊半島一周ドライブなんかを体験した人ならば、おそらくこの隧道をくぐっている。マイカーでもバスでも、なんでもここを通行していたはずだ。
もちろん、その歴史も魅力の一端を担っている。

ただ惜しむらくは、「道路トンネル大鑑」にこの旧隧道の記載が無く、その他の私が知りうる様々な資料にも、正確な竣工年や正式名を記したものが見あたらない事だ。
本編の最後でも歴史の解明は試みるし、竣工時期のあたりは付いているのだが、それでも正確な竣工年や正式名は結局明らかにならない。
したがって、もし間違っていたら申し訳ないが、当たり障りのない「旧高浜隧道」という名前で呼ぶことにする。
(なお、高浜という現トンネルの名前の由来も明らかではない。付近の小字に由来するのかも知れないが、資料には見あたらない名前だ)




旧高浜隧道の断面は高さ幅とも2間(3.6m)程度であり、一応は貨物自動車や路線バスが通れる大きさだが、私がやって来た西側の坑口前には直角に近いカーブが海に面して存在するため、車長の長いトレーラーのような車は最初から走行不能である。

また、トンネル内では大型車が絡む車両同士のすれ違いは困難だが、直前にカーブがあって見通しが悪いうえに、西口には待避スペースもないために、この場所で対向車にばったり出会ってバックする羽目になることもあっただろう。

トンネルそのものは一枚岩に綺麗な半円断面で穿たれており、それなりに堅牢そう(といいながらトンネルの先が崩れているのが見えるが…)なのだが、ここがドライバー泣かせの難所であったことは想像に難くない。


…といった冷静な観察をしつつも、私の目は、隧道右下の海の際へ自然に吸い込まれていった。
そこには、思いがけないものがあった。




隧道のすぐ下にも、まるで隧道と並行するように、もう一つの穴が空いていた。

位置的に見て、道路と考えるのはさすがに低すぎるので、

天然の海蝕洞

だろうと考えた。だが仮にそうであったとしても、

その洞内にまで旧道の護岸擁壁が入り込んでいる状況は、特筆すべきものがあるだろう。




なんということだろう!

驚くべきことに、

路下の海蝕洞もしっかりと貫通しており、

しかもその内部には、旧隧道の石組みの護岸擁壁が、出口までしっかりと築かれていた。

もしもこの石垣を突き崩せば、海蝕洞と旧隧道は繋がってしまうことだろう。


…なかなか、凄いものを見た。

そもそも、トンネルの中に護岸擁壁が必要だというのが明らかにおかしな状況である。
トンネルに必要なのは、壁を固めるための施工であって、路肩を守る為の施工ではないのが常識。

現状を見る限り、旧来からあった海蝕洞のすぐ上に新たにトンネルを掘ったことで、こういう特殊な道路構造が生み出されたのだと考える。
現代ならば、こういうよく分からないリスクがありそうな施工方法は避けられるだろうが(岩盤の強度的にも不安がないとは言えない)、このトンネルが掘られた当時は、おそらくその延長を短くしたいという欲求が一番に立って、別のより内陸側の地点を選択することを諦めたのではないだろうか。

天然の海蝕洞と素堀隧道の珍しいコラボレーションの形態として、この隧道と護岸擁壁にはとても貴重性があると思う。「山行が道路記念物」に認定したい。




味わい深い、旧国道の石垣護岸。

石垣の隙間はモルタルで埋められているが、それでも枯木灘の荒波に打ち砕かれて一部は欠落している。

さらに特徴的なのは、その傾斜の緩やかさである。
傾斜を緩やかにした理由は定かでないが、一般に近世までに築かれた堤防や護岸には、傾斜の緩やかなものが多い。
そのため、この緩やかな傾斜からは古さを感じるのである。
もちろん、モルタルを使っていることからも分かるように、近世のものではありえないのだが、古さを感じさせる点は魅力といえる。


そして、このいぶし銀の石垣が…




そのまま海蝕洞の内部に続いているのだから、たまらない。

(何が「たまらない」のか上手く説明出来ないが、とにかく熱い!)


…もう少し海が荒れれば、さっそく海水が侵入してきそうな低い位置にある、この“海蝕洞”と思しき洞穴だが、どことなく人の手が入っている気配を感じる。

もちろん、左側の護岸擁壁は人手によるものに違いないのだが、それだけでなく、天井や右側の岩壁についてもなんとなく…。

あなたは、どう見る?


…まさか、
海蝕洞を利用した旧旧隧道だったりしてな・・・。



海蝕洞であるはずが、そこにも人の手の加わりを見て取ったことで、私の中での存在感は何倍にも増した。

そして気付けば私は、旧隧道ではなく、海蝕洞の方を先に潜ろうとしていた。

潜りながら振り返れば、そこには風波の荒磯。

凄まじい、道路の現場だった。




海蝕洞内は、立って歩くのがやっとなくらいの天井の低さだが、その天井は綺麗な半円形をしており、道路トンネルのようである。
まさに人手が加わった成果なのではないかと思えるポイントだが、そこに鑿の痕など明確な痕跡は見出せない。(仮にあったとしても、時代が古ければ風化しただろう)

また、洞内の幅は狭い。
原因は、旧隧道の護岸擁壁に邪魔をされるせいである。
この護岸擁壁は海蝕洞の洞内を通じて存在しており、天井に接している。
正味にして、完全に天井を岩盤に抑えられている長さ(いわゆる穴の長さ)は5m程度だ。

そして出口が近付くと、空が明けるよりも先に、旧道の路肩が空の位置に現れる。
まるで自分が海水になって、そこから路肩を見上げるような眺めであった。
日本広しと言えども、こんな風にトンネルを見上げられる場所は多くない。



そして、旧道護岸の終わりと同時に、海蝕洞も終わる。

波に洗われた形跡も露わな岩礫の斜面を数メートル這い上がると、そこには旧高浜隧道東口の旧道路盤が待っていた。

私は旧隧道を通らずに、海蝕洞経由で、この岬を越えてしまったのである。
なんだかルール破りをしたような後ろめたさを感じたので、速やかに海蝕洞を引き返し、それから何事も無かったかのように旧高浜隧道を西口から通りぬけた。



深く気にしなければ、別に普通の素堀隧道とその路面のようだ。

でも、私は知ってしまっている。
そして、あなたももう知ってしまった。

隧道の中なのに、なぜか路肩にコンクリートの部分があることの不自然さ。
 (そうだ!それは地下の海蝕洞に通じる護岸擁壁の天端だ!)

隧道内の路肩を、砂利で埋め立てたような部分があることの不自然さ。
 (そうだ!そこを掘れば海蝕洞に繋がってしまうはずだ!)

隧道を抜けた先に、海水が躍っていそうな陥没地があることの不自然さ。
 (そうだ!そこは海蝕洞を潜り抜けた海水が削る浸食の現場だ!)

この隧道は、やっぱりだよ!!




10:53 《現在地》

東口に立つと、海蝕洞を利用した隧道内護岸擁壁の構造がよく分かる。
そして、このブラインドカーブの恐ろしさも、存分にお分かりいただけよう。

また、背景に磯場が見えるが、この狭い海蝕洞に海水が躍り込むような状況で隧道を通行するのは、命がけだったろう。
しかも、この国道が現役であった時代は、道路災害の防止に大きな教訓を与えた「飛騨川バス転落事故」の発生前だから、
荒天時に通行するもしないも利用者の自己判断、自己責任に大らかに委ねられていたのである。
波が高いから(異常気象だから)通行止めなんて制度が、まだなかった時代の国道風景だ。

…道路って、昔は今ほど優しくなかったですな。




隧道東側の旧道は、今しがた隧道で潜り抜けたばかりの切り立った岩場の下を走る。
隧道前には大きな落石もあったものの、そこを過ぎると案外に穏やかな草道になっていて歩き心地が良い。
しかし間もなく現国道のトンネル坑口に突き当たって終りを迎えた。




見覚えのある景色に再開したところで、ぐるっと岬周りの旧道探索は無事終了。

ここに自転車を置いて歩き始めてからたった10分間の出来事だったが、海縁の旧道や廃隧道に望まれる要素が沢山散りばめられた、素晴らしい短期決戦だった。
しかも、海蝕洞というナイスなオマケ付きで。




最後に探索の仕上げとして、西側の浜から遠望する新旧高浜隧道の風景をご覧頂こう。

長い護岸の石垣によって辛うじて体裁を保っていた旧国道は、景勝地枯木灘の風景に、

その宿命的に長く続いた交通条件の厳しさを滲ませている。



岬の突端に隧道と海蝕洞が並ぶ様子は、見るからに新旧2世代隧道のようだが、

さすがに海蝕洞の位置は、道路としては低すぎるか。今にも波が入りそう!


やっぱり気になる。 これは本当にただの海蝕洞なのか?




海蝕洞の正体は、「通り穴」という熊野古道の往還!


・東雨村
有田浦の巽二十六町にあり 家数僅に四五軒 小谷の中にあり 故に今は二部村の小名の如し 村の名義詳ならず 村領の内海浜の往還に通り穴といふ岩穴ありて 其穴をくぐりて往来す   (「紀伊続風土記」より)

本編の探索後、しばらくしてからある仕事で和歌山県の古い文献調査を行うことがあり、その中で目を通した「紀伊続風土記」に上記の記述を見つけた時には、思わず仕事をほっぽって大ジャンプした。

「紀伊続風土記」とは、江戸幕府の命を受けた紀州藩が編纂した藩内の風土記で、天保10(1839)年に完成している。私が読んだのは明治44(1911)年に刊行された復刻版だが、その内容は江戸末期のものであり、上記の記述にある東雨村の通り穴というのは、明らかに今回探索した海蝕洞を指していた。

この風土記の文中で「往還」と書かれているのは、「熊野街道大辺路(おおへち)」という、現在の国道42号のもとになった紀伊半島南端部の主要な街道のことである。
この大辺路、近年は歴史の道「熊野古道」の一部として、一般の人からも熱い視線を向けられていると思うが、この「通り穴」がどのくらい有名なのかは分からない。少なくとも私が訪れた2014年時点では、現地に案内板などは見あたらず、知る人ゾ知る状態だったと思う。

それはともかく、道路トンネルの人為的な掘鑿が極めて極めて少なかった江戸時代においても、海蝕洞や天然橋といった天然の洞窟地形を便利な通路として利用することは広く行われていたようである。「紀伊続風土記」の他の部分の記述にも、やはり海岸沿いの往還が“胎内潜り”をする場所が登場しているし、場所は遠く離れるが、以前レポートした津軽半島(青森県)の“松陰くぐり”も、近世から海蝕洞が往還として利用されていた例である。

人による土木工事の成果ではない海蝕洞を“旧旧隧道”と表現することには違和感を覚える方もいるだろうが、実質的には現トンネル旧トンネルに次ぐ旧世代の道路として使われていた事実があり、少なくとも“旧々道”であったとは言って良い。
さらに“通り穴”の通行の便宜のために、岩角除去などの手入れが実際に行われていたと確認出来れば、旧旧隧道と呼ぶに足ると思えるが、この点は未解明である。


なお、大辺路は古くから多くの旅行者が通行した紀伊半島の主要な街道であり、風光も優れていたことから、近世の様々な紀行文にも登場している。そしてそのいくつかには本編の“通り穴”が登場しているので、年代の新しいものから順に3編を紹介しよう。

石門 汐御崎に対す。此処、海辺と山道と両道あり。海辺近し、石門を通る。
(小原桃洞「熊野採薬巡覧記」(文化11(1814)年完成)の記述)

東行百歩にして、一巨巌途を塞ぐ。大きさ数丈、其の下の欠くるを路と為し、車馬を通ずべし。之を過ぎて■然たり。又二阪を歴て一村を得、東雨と日ふ。
(菊池元習「三山紀略」(享和3(1803)年完成)の記述 ※元は漢文)

錦村過て、峠弐つあり。但し塩干候へば、峠へあがらず。海辺をとり候。浜に、あづま見の岩穴とて、大きなる岩穴くぐりてとをる。
(寺内安林「熊野案内記」(天和2(1682)年完成)の記述)

これらの記述から、往還は近世の比較的初期から東雨(あずまめ)で山道と海岸道に分かれていて、波の穏やかな日や干潮時には距離の近い海岸道を通っていたことが理解される。そして海岸道には“通り穴”あるいは“石門”があって、その奇景が遠路の旅人を大いに楽しませていた。
これは17世紀の文献にも登場しているので、もとが自然の海蝕洞だったことは断言して良いだろう。
ただ、その後に道路として利用するための何らかの手入れが行われたのかどうかは判然としない。


大辺路の現状についての解説書で最も詳しいと思われるのが、串本町の大辺路再生実行委員会が平成20(2008)年に発行した「熊野古道大辺路調査報告書」である。
上記3編の紀行文もそこから引用させて頂いたのだが、肝心の本文での解説は以下の通りである。“通り穴”に関する部分を抜粋する。

磯辺を通る道は、岩穴をくぐる道で、現在も地元では「通り穴」または「くぐり穴」と呼ばれている。穴は二つあり、上側は旧県道の拡幅工事により近代に掘られたもので古道のものでは無い。古道の「通り穴」はその下方の磯の岩に開いた穴で、県道の拡幅工事の際、土砂で半分以上が埋没した歪な形状になっている。「通り穴」は現在、最高部の高さは2.3メートル、全長10.3メートルである。満潮時や荒天時は通行が困難であり、近道であったが、山越道との使分けも必要だった。   (「熊野古道大辺路調査報告書」より)

ここで初めて私が旧高浜隧道と呼んだ国道42号旧道のトンネルが登場しているが、「旧県道の拡幅工事により近代に掘られたもの」と述べるに留まり、熊野古道ではないせいか、文中の扱いもやや冷遇を受けている気がする(苦笑)。だが、もちろん私の興味は、この旧高浜隧道にも注がれているのである。近代に掘られたつっても、その範囲は随分と広いのである。(おそらく、熊野古道である“通り穴”には、これからもっと愛される時間が来ると思うが、旧高浜隧道にはそれほど明るい未来が無いかも知れないので、せめて私が…という気分になった。)


そんなわけで、今度は旧高浜隧道の来歴について私なりに調べたが、ずばり言ってしまうと、明治隧道(ドゴーン!)である。

そしてその証拠というか、ソースはこれ。(→)

明治44(1911)年測図の地形図に隧道が描かれており、しかもその位置は、昭和28(1953)年版のものと変わらない。
ということは、昭和28年当時使われていた隧道が、明治44年には既に存在していた可能性が高い。
さらに、肝心の隧道の描かれ方を見てみると、幅1間以上2間未満(←明治44年版の場合、昭和28年版では同じ記号の意味が変化し、幅2m以上4m未満である)の荷車が通行できる県道(←明治44年版の場合、昭和28年版では国道として描かれている)として表現されており、これは海蝕洞さながらの“通り穴”を描いたものではないと思われた。

残念ながら今のところ、旧高浜隧道そのものの竣工年を明らかにする資料を発見できていないが、近世には徒歩道だった大辺路が、近代の道路改良の結果、車道として最初の完成を見た時点で既に隧道が存在していなければならないと仮定することで、その竣工時期を絞り込む事は可能である。(現地には旧高浜隧道を迂回する車道は、それより新しい現国道くらいしか見あたらない)
つまり、大辺路の改良史を調べることが、旧高浜隧道の竣工年を間接的に知る手がかりになると考えた。


大正13(1924)年に発行された「串本町誌」近代デジタルライブラリーを読むと、この町の生命線であった半島南端を巡る道路の近代初期の改良史が分かる。

同書は「町内道路沿革の大要」の冒頭で、「陸路交通として大辺路街道未開の当時は串本より東富田に通ずる延長十六里の間は峻阪険路車馬は通ぜず、殆ど樵径と称するより外はなくその不便は最も著しかった」と、現代では険阻で未開であることが魅力の一端となっている大辺路が、生活の道路としては甚だ不便であった事実を述べている。

そしてこの道の車道改築は、和歌山県により明治35年から大正12年頃にかけて行われたようである。
明治三十五年度に工費約壱万円を投じ当町から江住村に至る区域延長二里(七里の間に於て最も不便とする地域)の間を幅六尺の改修工事を行ひ、更に明治三十九年度からは継続事業として当地より周参見村に向って改修を行ひ、大正十二年度に於て漸く予定の工事を完成した。

また、大正3(1914)年発行の「和歌山県誌」近代デジタルライブラリーによると、大辺路は和歌山県によって明治12年以前に仮定県道(路線名「熊野街道」)の認定を受けており、改修には県費が支弁されている。

上記2冊の大正時代の本の記述と、明治44年の旧版地形図、さらに「熊野古道大辺路調査報告書」の記述を総合すれば、旧高浜隧道は明治35年から明治44年までの期間に仮定県道「熊野街道」として初めて建設されたと考えて良いだろう。
そして、その後も隧道の改築(拡幅)が行われ、ある時点で“通り穴”の内部にまで護岸擁壁を進入させたものと推測するが、残念ながらその時期は明らかでない。

その後の路線名の変遷は、大正9年に府縣道田辺串本線となり、昭和20年に国道41號線(「東京都より和歌山県庁所在地に達する路線(丙)」)、昭和28年に二級国道171号和歌山松阪線、同34年に一級国道42号、同40年に一般国道42号となって現在に至る。

現地に竣工記念碑や銘板などの手掛かりを持たない古い素掘隧道の正確な竣工時期を知る事は案外に難しく、それが改築されて現在の姿へ変化した経緯や時期を知る事は更に困難である。
今後も新たな情報が入手出来れば追記したい。


なお、これは道路の改良史とは別次元の話題だが、この串本一帯の海岸線は、南海トラフの大地震が起こる度に大きく隆起しているとされる。
例えば昭和21(1946)年に発生した昭和南海地震では約40cm、その前の嘉永7(1854)年に発生した安政南海地震では160cm、更に昔の宝永4(1707)年に発生した宝永南海地震でも1m前後は隆起したといわれる。地震がない平時は逆に徐々に沈降しているらしいが、それでも長いスパンで見ると串本の海岸線は中世以降に数メートルも隆起しているそうだ。
そしてこれが事実であろうと言うことは、自然の波食作用で完成したであろう“通り穴”が、現在はよほどの高波でないと波に洗われない状況であることからも理解される。

通常、オブローディングの対象になる道路景観は、長いスパンで行われる地形の隆起や沈降とはあまり関係しないが、“通り穴”は少なくとも300年前の文献に登場しているものであり、こと串本の激しい地形変動を加味すれば全く無関係とは言えないのである。
昔の旅人は、今よりも遙かにスリリングな“通り穴”に対峙していた可能性が高いのである。



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