2020/3/7 10:28 《現在地》
国道8号に北陸自動車道、さらに信越本線といった重要交通路が輻輳している青海川の海岸から、谷根川という清流に沿って走る県道257号線を辿ること3km少々で、この川の名前の由来となった谷根の集落が、隠れ里を思わせるような小盆地を伴って、目の前に広がった。
中越地方の例に漏れず、ここもいわゆる豪雪地だが、今年は例年より雪解けが早かったのか、周囲にはまどろむような春の陽気だけが漂っていた。
それでも里の背後には、沢山の雪を残した山が見えた。あれは米山(992m)で、海の上からもよく目立つピラミダルな山容から、海上交通の目印として船乗りたちの信仰を集めてきた中越の霊山である。
絵に描いたような、長閑な山里だ。
初めてこの地を訪れた私は、そんな印象を持った。
しかし、この平和な里が、屈強なオブローダーを苦しめた谷根隧道の“主”である可能性は極めて高い。
一通り探索を終えた暁には、集落に入って聞き取り調査もしてみるつもりである。
集落入口にあたる上記地点から、左後方へ分かれていく道がある。
写真はその進行方向を写したものだが、2車線ある県道とは比較にならないくらい狭い、いかにも農道という感じの道だ。
また、入ってすぐに3方向に分かれているが、中央の道がターゲットとなる。
この道、最新の地理院地図でも入口からいきなり“徒歩道”表現という危ういものだが、目指す隧道はこの先にあるはずなのだ。
距離としては、ここから坑口まで約1kmと推定される。
ただし、ひろみず氏の調査に依れば、こちら側の坑口は開口していないということだった。
それでも自身の目で確かめることは大切なので、その西口を探しに行くことから、探索をスタートしよう。
最初のうちはいつものように自転車で行く。
隧道への道はいきなり結構な急勾配で、美しい白壁が映えるお寺の脇へと登っていく。
昔ながらの牛馬道や荷車道をそのままコンクリート舗装しただけのような、狭さとファジーカーブが同居している道だ。
私の目は道の周囲に絶え間なく注がれた。
道の入口周辺には、その道の素性を伝えるような記念碑の類があるかも知れない。
そういうものを見つけられれば、後日の机上調査を待たずにして、最も信頼できる情報を得られるだろう。
だが、残念ながらそんな発見はないままに、お寺が建つ河岸段丘上らしい平坦地に登り着いた。
思いのほか広々とした段丘上の土地には、かつて水田が拓かれていたようだが、今は小さな畑とススキの穂立ちが目立つ。
沿道には花を付けた梅が街路樹のように植えられていて、喩えようもなく春だった。
1台のシニアカーが、脇道の入口にポツンと置かれているのを見た。
元気な古老が近くにいると思ったが、今はまだ情報の聞き時ではないと思い素通りした。
(個人的に、探索前に聞き取りをするのは好みではない。探索の結果を知ってしまうこともあるし、稀に立入自体を注意されることもあるからだ。)
道は地形図の徒歩道をなぞるように、素直に北へ進んでいて、同じく北の青海川の海岸へ通じる県道とは、100mほどの間隔を空けて並行している。
ただし、川に沿って下って行く県道と、山裾を次第に登っていくこの道の落差は、徐々に広がっている。
道は徐々に清掃の行き届いていない感じになり、くたびれてきた。
前方には耕地の終わりを告げる杉林の列が近づいている。畑の終わりと同時に道が終わっていても不思議ではない感じで、まさに身構えるような心境であった。
このまま首尾良く山へ道が入っていて、集落を離れられれば、第一関門突破だが…。
10:37 《現在地》
よし!
心配は杞憂に終わった。道は森へ入っても、かつて与えられた使命を忘れず、消えずに伸びていた。
入口からここまで約200m、隧道西口まで残り800mほどと推測される。
ただし、森に入ると舗装が途切れた。
まだ軽トラくらいは通れる道だが、どこかへ車に乗ったまま通り抜けられる感じはしない。情報通り、廃道なのだろう。
ここから先は、隧道が使われていたその時代から、あまり景色が変わっていないかもしれないと思った。
素晴らしい掘割り道だ!
ちょっと興奮してきたぞ。
今の地図だと徒歩道なのに、しっかりとした車道幅の道形が続いている。
隧道が設けられていた以上、元は車道だった可能性が高いというのは自然だが、実際に目の当たりにすると、凄く嬉しいものである。
やはり私の本分は、車道探索にある!
しっかりと大地を削って掘り抜かれた坂道に、“明治車道”というものの確かな手応えを感じた。
そして、喜びは連鎖した。
矢印の地点、路傍の何気ないところに目を向けると――
石碑発見!
于時明治廿七甲午年
妙法 十二夜塔
九月建之 願主中和田講中
見ての通り、開通記念碑のような石碑ではなく、厳密には石仏といった方が正しいオブジェクトだった。
だが、路傍にある碑はことごとく、その道が活躍していた時代の忘れ形見なのであるから、やはりこうして碑があることは重要だ。
しかも、ちゃんと記年があるのも大きなポイント。
刻字によれば、「于時(ときに)明治27甲午年(きのえうまのとし)9月之を建つ」というわけで、明治隧道へ通じる路傍に、明治27年の碑があるというのは、同じ明治でも末期ではなく、中期以前の開通なのではないかという期待を深めさせずにはおかない発見だった。
なお、碑を建立したのは「中和田講中」とあるが、帰宅後に調べてみると、谷根集落の中心部に中和田という小字があるらしいので、やはり谷根の人々が建てた碑であった。
しかし、「二十三夜塔」や「二十二夜塔」というのは、月待塔と総称されるものの中でもよく目にするのだが、「十二夜塔」は初めて見る。
簡単に検索した限りでは、全国的にも他に類を見ないのではないかとも思えたが、そのようなものがここに忽然とあるのだとしたら、とても不思議だ。(一文字欠けているだけなんてことは…?)
石仏の加護を受け(た気持ちになり)つつ、掘割りの中のグネグネ道を上る。
驚いたことに、ここにもまだ、車かバイクの新しそうな轍があった。
誰がこんなところまで車で入ったんだ?
しかし、轍の泥濘んだ感じからも分かると思うが、この程度でも自転車で走るにはキツイ道だ。なので、早くもどこで乗り捨てようかということを考えはじめていた。
どうせ隧道は貫通しておらず、自転車のまま峠を乗り越えて進むということはできないのだから、持っていくのが大変になる前には乗り捨てたい。
10:44 《現在地》
ひとしきり坂道を登ると、少し平らな場所に出た。
辺りには疎らにスギが植えられているが、手入れされている感じは薄い。
そして道はここで二手に分かれていた。
地図だと一本道なので、どちらかは地図に描かれていない道だろう。
見た感じ、右の登っていく道が本道っぽいが、左の平坦な道の行く的には、藪に絡まれた廃車体が見えており、気になる。
どちらが「描かれている道=正解」なのか、この景色だけで即断するのは難しい。
実際に少し立ち入って、GPSの現在地を見て判断するのが手っ取り早そうだ。
とりあえず、左の道へ。
「4WD」であることをことさらアピールしている廃車体。
一体いつからここにあるのか。静かに森に溶けつつあった。
周りは胸くらいの高さがある笹藪で、道は廃車体のところで終わっているのか、あるいはそのまま藪の中に続いているのかの見分けがつかない。
見分けがつかないというのは気持ちが悪く、もう少し奥まで進んでみる必要があった。GPSの「現在地」も、まだ分岐地点から動いておらず、役には立たなかった。
藪の中に進んでいくと、意外な光景が待っていた。
これは、水が抜けた溜池の跡か?
小学校の体育館くらいの広さの長方形の凹地が、眼下の斜面に横たわっていた。
そういえば、この直下の県道沿いに、コンクリートプラントの跡のような【廃墟】があったことを思い出した。
両者には関係がありそうな気がするが、いずれも私が目指す明治隧道とは無関係だろう。
10:52 《現在地》
廃車体のあった分岐に戻り、今度は右の道を進み始める。
すると、わずか50mほどで再び、この写真の分岐地点が。
さてさて、今度もどちらか一つは地図にない道だ。 どっちが正解だろう?
……そして、ここでの選択が、遠い遠い道のりの始まりとなったのである……。