2013/5/28 13:13 《現在地》
現県道の戸中第一トンネルの隣に口を開ける戸中第二隧道に進入。
この坑口に簡単ながら丸太塀で塞いだ形跡があったことと、坑口から見える洞内の散乱物の多い様子などから、無理に自転車を持ち込んでも徒歩で往復する以上に手間取る予感がしたので、自転車は入口に置き去りにして、歩いて洞内を探索し始めたのだった。
そんな洞内の様子とは……
こんな感じ。
……なんか様子が変なんである。
別に、崩れているとか、水没しているというわけではないし、遠くないところに出口も(そしてその次の隧道までも!)見えているのだが、この洞床のゴミの多さって、明らかに人が投げ捨てたり置き去りにしたって言う感じではない。
これは明らかに、押し流されてきて溜まったってカンジだよね?
それにこの立地状況を考えたら、これは隧道内まで高波が押し寄せてきたことが、過去にあったんじゃないかなぁ。
そう考えれば、人が壊したのとは違った感じに壊れていた、坑口の丸太塀の様子にも合点がいく。
ただ、この隧道まで波が押し寄せたってことは、その時にはすぐ隣のほぼ同じ高さにある現道も無事ではなかったように思えるわけで…。どうやら私が知らない佐渡の海の荒くれぶりってものが、少し垣間見られたような気がする。
とは言っても、全長40mにも満たない小規模隧道であるから、徒歩であっても1分足らずで通り抜け間近となった。
隧道は長さばかりでなく断面のサイズも小さく、記録によれば幅2.5m高さ3mという、まさに車1台分(小さなトラック1台分)でしかない。これは現状の目測値とも合致するので、おそらく大正2年の完成当時から変化しないまま、昭和48年の廃止の日まで頑張ったのではないだろうか。
もちろん、照明なんてものが設けられていた様子は、全くなかった。
そして、こちら側の出口でも丸太塀が押し倒されたように壊れていて、辺りには波が運んできたらしい大量のゴミが散乱していた。隧道を波が通りぬけたことがあるのかも知れない。
ここで一旦外へ出るわけだが、次に入るべき隧道の口はもう間近に見えていた。
しかし、私は少し嫌な予感を感じていた。
それは、この写真の中にも見えている、“あるもの”が原因だった。さらに人の声まで聞こえてきた。
13:15 《現在地》
“あるもの”とは、この巨大なクレーン車である。
聞こえてきた人の声は、その旁らで休憩中の作業員たちのものだった。
巨大なクレーン車が現道と旧道の間のわずかな空き地に陣取って、おそらくは現道上部の法面の修繕作業に従事していた。
写真に写っている巨大な渡り廊下のような道が現道であり、銘板ではひとつに統一されていた「戸中隧道」こと、戸中第一トンネルと第二トンネルを結んでいるものだ。
銘板の状況からして、このような風景は予想できたが、クレーン車の存在は想定外だった。よくこんな狭い場所に入ってきたものだ。
私の嫌な予感とは、工事関係者に先へ行くことを咎められる可能性であったが、幸いにして今は仕事の中休みらしくクレーンは動いていなかったし、作業員たちも一様に寛いでいた。
私は(たぶん気づかれていただろうが)、そのまま知らない振りをして先へ進む事にした。
まあ、先へ進もうにも、
なかなか容易では無い状況になっていたわけだが…。
2本の旧隧道を結ぶ位置には、海面からの高さが5mくらいもある高い防波堤が築かれていて、この防波堤は路面から見ると1.3mくらいの高さである。
もともとは路面が防波堤の内側に沿っていたのだろうが、波に防波堤の基部が洗われ、その下を貫通して海水が浸入。路面を陥没させるに至ったようである。
現在は、その陥没した跡に波消しブロックを突っ込んで、何事もなかったように見せているが(もはや旧道を道として利用する人がいないという判断だろう)、自転車を持ち込まなかったのは明らかに正解だった。
それにしても、この防波堤は旧隧道より新しそうである。
旧隧道が完成した当時、一体ここにはどのような海陸を分かつ風景があったのだろう。
次の隧道は、いかにも海面からそそり立つ一枚岩の土手っ腹にぶち開けられたような雰囲気があるが、防波堤が出来るまでは、もっと内陸まで海が侵入していたのかも知れない。
その場合、2本の旧隧道を結んでいたのは、橋だったのかも……。
この私の想像を裏付けるものは何も見つかっていないが、もし現実だったら、今以上に素晴らしい道路景観だったろう。
想像だけで、うっとり出来るレベルだ。
落石が直撃したらしき痛々しい傷跡が多数残る、天端の幅が40cmほどの防波堤。
ここを慎重に歩いて行く。
この日の波は極めて穏やかだったが、それでもくぐもった波の音が常時足の下から聞こえてきた。今も波消しブロックの下は海水に浸かっているようだ。
この調子で陸地の崩壊が進む事を人類は許さないだろうが、放置されれば、今後2本の旧隧道を行き来することはますます難しくなるだろう。(←それだけなら人類にとってほとんど何の痛手でもないが…)
クレーン車の旋回半径内に口を開けていた、2本目の旧隧道。
これが戸中第一隧道であり、魔窟と呼ぶに相応しい存在だった。
第二隧道同様、完全な素掘で坑門のこの字も無い原始的な洞口より、内部へ侵入する。
なお、ここには丸太塀がまだ残っていたが(一部破損)、隙間が大きかったので問題にはならなかった。
風が強く吹いていた。 この隧道もまた、貫通は間違いないようだ。
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
13:16 第一隧道に侵入成功。
そして、当然前を向く。
? 様子がおかしい。
この隧道の全長は172.0mと記録されているから、前の隧道よりも遙かに長いのは織り込み済みである。
海が近いせいか(海面からの反射光がある?)、照明が要らないと思えるほど奥まで壁が明るく見えたのも、驚くほどではない。
洞床に散乱しているゴミがないのも、これは大いに好都合であり喜ばしかった。
そういうことではなく、何かがおかしいであろう。
ここにある隧道は、第一、第二、この2本でなければならない。
記録上はこれで打ち止めであるはずなのに、
明らかに奥にもう1本あるように見えたのである。
どうやら、この隧道には横穴が存在するらしい。
そう考えるのは、至極当然の成り行きであった。
海岸や渓流沿いのような崖の近くで地中を貫くタイプの隧道だと、途中で地表を掠めるのは稀にあることだ。
それにしても、なんか光の入り方が普通でない気はしたが、まあ近付いてみれば全て明らかになる事だし、今は先を楽しみに進む事にする。
そんなことを考えながら30mばかり進んでいくと、狭かった洞内に広間と言うべき拡張された空間が現れた。
隧道は進行方向左側に幅3m奥行き20mほどにわたって拡幅がなされていた。
これは、洞内で車同士が行き違うための離合地点であったのだろう。
こういうものが洞内に必要なほど、先ほどの明かり区間は自由にならない場所であったのか(やっぱり橋?)。
それに、この隧道の本来の出口の光がまだ見えないところを見ると、途中で屈折しているようだから、やはり洞内にこうした待避所が必要だったのだろう。
待避所の天井には、冬眠から目覚めたばかりのコウモリ達のコロニーがあった。
大騒ぎするほどの数ではなかったが、それでも洞内に一頻りバサバサという喧騒が巻き起こる程度の数は居る。
私の闖入で起きるものは全て飛び去り、なおも眠るものたちはそのまま天井に残って、そんな分化が終わる頃には、私は更に洞奥へと進んでいた。
うーむ。
いったい何が、こんな風に見えているんだろう?
入口から50mを越えて進んでいくと、やはり照明なしでは足元が覚束ないほどには暗くなってきたが、私の目は再び狭まった周囲の壁ではなく、その先にある白く光り輝く領域へばかり注がれていた。
私には、この隧道でこれまで目にしたことのない、何か新しい風景を目にするのではないかという予感が生じつつあった。
そして、そんな愉しき予感に導かれるように、
“カイタク”に潜みし魔窟は、その珍なる本性を現す。
なん… だと?!
隧道同士の十字路交差なのか?!
い、いや …違う…。
この光、 そして音は……。
海!!!
隧道は、海蝕洞に突き当たったんだ!!
私は、この瞬間ほど強く思ったことはない。
ああ、嵐の日に訪れてみたかったものだと。
きっと、この地中の汀(みぎわ)に波は打ち寄せるに違いない。
そのとき、洞内はいかなる音響に満ちあふれ、吹き荒れるのだろう。
私には、とても恐怖しか想像出来ない!!! だから見たい!!!!
そして、昭和48年までは確かに存在していたはずの通行人たちは、
耐 え ら れ た の で あ ろ う か ?
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|