「図説佐渡島 自然と歴史と文化」より転載
隧道と交差していた海蝕洞は、私の想像以上に深かっただけでなく、なんと天然の鍾乳石を(僅かながらも)有する、石灰洞窟でもあったということが判明した。
佐渡に鍾乳洞があるというのは私は知らなかったし、現代ならば天然記念物に指定されていても不思議ではないような地形を貫く隧道が容赦なく建設され、昭和48年に至るまで全く堂々と自動車が行き来していたとは、ますます驚きであった。(もっとも、これは今日の常識であり、地方では比較的近年に至るまで「開発」>「保全」の関係が普通だった)
しかも、後日の机上調査の過程で、この鍾乳洞の存在が相当古くから知られていて、多くの文書に現れてることが判明したのである。
鍾乳洞は、隧道より遙かに古い歴史を持つ地球が造り出した天然の洞穴であり、当サイトの探求する対象の外ではあるが、ここでは隧道誕生の時期を推し量る目的と、この地に生きた人々が眺めた過去の景観に思いを馳せるという意味から、鍾乳洞に関する歴代の記事を探ってみることにしよう。
私が知る限りでの最古の記事は、江戸時代後期の佐渡奉行による領内(島内)巡検(巡村)に関わるものである。
「図説佐渡島 自然と歴史と文化」(平成5年/新潟交通株式会社発行)に次の記述がある。(文中の※以下は私の注記)
川路聖謨(かわじとしあきら)のあとを継いだ久須美祐明(くすみすけあき)奉行の「佐渡日記」を見ると、翌年(※天保12(1841年)のこと)五月二四日海上平穏の日をえらんで小早御船で相川を発ち(中略)途中戸中村に上陸して鍾乳窟を見たあとすぐ乗船して南片辺まで行ってそこに上陸(以下略)
ここにはっきり「戸中村に上陸して鍾乳窟を見た」とある。しかし、それ以上の記事はなく、実際にどんな景観だったのかはよく分からない。
しかし同書によれば、歴代の佐渡奉行はおそらく幕初の頃からこうした巡村を行っていて、江戸時代中期からは細則が設けられた事で、だいたい決まった行程を巡ったとある。
もしそうであるならば、上の記事にも出てくる先代の佐渡奉行こと川路聖謨(wiki)が残した自伝的日記「島根のすさみ」に、この鍾乳窟の記事があるのではないかと私は考えた。そして平凡社より復刻されている同書を入手して確認したところ……
あった!! かなり詳細な記事があったのである!
「島根のすさみ 佐渡奉行在勤日記」より、彼(川路)が鍾乳窟を巡見した部分を以下に転載する。(文中の※以下は私の注記)
(※川路聖謨の佐渡巡見は天保12年(1841)3月9日〜22日に行われたが、これはその初日の記事である)
戸中村にては、石鐘乳のある岩屋これ有り候て上陸。岩山の直立弐百間も、其の余もあるべき、みどり成る岩おの裾に、穴四、五十間もあり。其内くらくて、何もみえず。兼て差越し置きたりとみえて、銀山大工奥より出て、鐘乳をうちかきたるを籠にいれていだす。珍敷(めずらし)という迄にて、みるべきものにあらず。
川路が鍾乳洞を目にするのはこれが初めてだったと思われるが、暗くて中が見えなかったためか、銀山の工夫が予め採取していた鍾乳石を見せられても、さほど楽しんでいる様子は無い。
それはさておき、高さ200間(約360m…これはオーバーか?)もある岩山の裾に、奥行きが4〜50間(約72〜90m…これも少しオーバーか、或いは昔は今より奥まで行けたのか?)もある鍾乳洞があったことがはっきり記録されている。
なお、彼らは鍾乳洞附近に上陸して巡見したあと、またすぐ海路へ戻っており、このあたりの陸路が奉行の巡見には耐えないものであったことを想像させる。
続いては、時代が下って、明治末頃の記事である。
明治41年に佐渡水産組合が発行した島内の名所案内、その名も「佐渡案内」の金泉村の項に、洞屋(どや)という名所が記録されているのを見つけた。
洞 屋 (どや)
字戸中にあり、天然の大洞窟にして、窟内深さ知るべからず、往時風濤の荒るゝ時は行人一時此洞内に避難し、潮の去るを待って疾走するを常とせしが、近時欃(※文字が潰れていて判読困難)に桟道(かけはし)を作り鉄索を設け、辛ふじて行通の杜絶を防ぐを得たり、窟内に石鍾乳ありしが、採尽して今は殆ど絶へたり、
篏空石乳岩、隔断両戸村、両村欃咫尺、沓如隔乾坤、坤軸震将裂、狂濤吐又呑、 丸 岡 南 陔
(※丸岡南陔(kotobank)の漢詩の意味を誰か翻訳プリーズ)
この記述はかなり重要で、この本が編纂された明治40年頃には、まだ隧道が存在しなかったことが窺い知れる。
当時の交通の方法は「桟橋と鉄索」とあるが、これは険しい登山道のように、鉄の鎖で岩場を攀(よ)じたり、鉄線に縋(すが)って危うい桟橋を渡るような道であったということだろうか。(本レポートの最終回で地表に出て海岸の様子もご覧頂くが、残念ながらこの旧々道というべき道の明瞭な痕跡は見つかっていない)
また、「桟橋と鉄索」よりも前の時代には海岸線に道自体が存在せず、旅人は波の満ち引きを計りながら海岸をただ駆け抜けるという、難所として悪名高い“親不知子不知”的な通行方法を余儀なくされていたと書かれている。そして、その時代から洞窟は人の役に立っていたのだとも。
さらに、現在の洞内にめぼしい鍾乳石が見られず、ただ洞壁に水垂れのような滑らかな白い帯を残しているだけであるのも、明治以前に「採尽」されたことが原因であったようだ。
そりゃそうよな。 佐渡奉行巡見の度に鍾乳石を折り取って見せていたのだとすればな〜(苦笑)。
江戸、明治と来たので、大正…を通り越して、今度は昭和の記事である。
昭和12年に金泉村教育会が出版した「金泉郷土史」に、村内の名所として次の記事がある。
洞 窟
戸地より戸中に通ずる墜道は昔外海府の親不知と称された。洞屋を横に鑿ったもので、其旧洞窟は高さ六米幅七米もあり昔は鍾乳鉱を産した由であるが今は墜道の照明窓となって仕舞った。
“墜道(=隧道)の照明窓”となってしまった鍾乳洞のことが書かれている。既に隧道が完成して久しい時期の記事であることが分かる。
また、“外海府の親不知”という香ばしい文句も出てきている。
これで、私はこの難所に対する呼称を、3つも知ってしまった。“カイタク”、“洞屋(どや)”、“外海府の親不知”。
どれも、負けず劣らずに怖ろしげな名前だぁ…。
紹介する最後の資料は現代のものだ。
昭和51年に佐渡誌刊行会が発行した「佐渡誌 島の風土とくらし」に、島の地形的成り立ちを論じた中で、次の記述がある。
戸中と戸地の間のトンネルの真中辺に、トンネルに斜めに交叉する海食洞があり、舟小屋の代りに利用されていた痕跡がある。地下水の滴る壁面に、小さな鍾乳石が析出している。洞底は海面に近いが、現在は波食をまぬかれる位置にあるのは、地盤隆起が継続して来た結果とみてよい。
昭和48年に戸中隧道は現在の戸中トンネルへ切り替えられたはずだが、この記述ではまだ旧隧道が現役のように取れる。
この奇異なる隧道を、確かに現代の人も通過していたということの証言である。
なお、「舟小屋として利用されていた痕跡」をどこで見出したのかは、残念ながら不明であるが、かつて旅人の波除けに利用されていた洞窟だけに、そのような利用実態があったとしても不思議ではないだろう。
ああ、ずいぶんと文章ばかりになってしまった。
だが、現在では全く名勝地として案内されることもなく、ただ廃道と共に眠っているだけの“洞窟”が、過去には数え切れないほどの人々によって目撃され、役立ってきたことを伝えたかった。
その時層の広がりを表現するのに、これだけの文字量を要したのだとご理解戴きたい。
次回からは再び、隧道探索の続きに挑もうと思う。
実は、この隧道の驚きはこれだけで終わらなかったんだ。