栃窪隧道の罠にまんまと掛かった私は、見えている出口を利用することが出来ず、西口の外見を見ずに撤退した。
よってここからは、その西口を外から目指す探索である。
仮に辿り着いたところで、隧道内を探索する余地は皆無という、オブローダーにとってはモチベーションの維持が難しい展開だが、そこは私の持ち前の負けず嫌いの精神をもって、屈辱へのリベンジマッチを期したのだった。
絶対にこのままでは済まさんぞ!
2011/5/17 10:24
泥靴でワルクードのアクセルを踏み、桑探(くわさぐり)峠を越えてやってきたここは、栃窪町と同じ見附市に属する椿澤町だ。
町内には神社仏閣が点在しており、平野の山際という立地に照らしても、いかにも歴史の深そうな集落だった。
栃窪隧道へ至る椿田川沿いの道は、集落内を南北に貫通する旧県道から分岐していた。
目立たない分岐地点で、行き先についての案内板などもないが、大きな火の見櫓と、赤い屋根の山門が目印になる。
ここから栃窪隧道までは道路地図上で約2.8kmの道のりがあり、後半の700mほどは徒歩道を示す破線で表現されていた。廃隧道が目的地となる道だ。きっと破線部は廃道だろう。
近くに車を停め、自転車に乗り換えてから、再スタートを切った。
この道、栃窪隧道というキョーレツな“魔窟”へと通じているワケだが、入口はむしろなんだか「ありがたい」感じがする。
なにせ道の入口に、道路脇というか道幅の3分の2くらいを埋めるような形で山門がある。山門は本格的で、両側にはちゃんと仁王像が侍っており、また門内に巨大な“わらじ”が束ねられたものが鐘のようにぶら下げられている。だからなんだか旅人には御利益が多そうな気がするのである。
山門はここにあるが、本堂はこの道を100mほど進んだ先から左へ入った奥にあるようだ。
秘密山という意味深な山号を持つ、椿沢寺(ちんたくじ)である。
ありがたい山門からスタートした道だったが、お寺をスルーして直進すると500mほどで集落から外れ、こんなどこにでもありそうな山道になった。
道沿いを流れているささやかな川は、椿田川だ。
この川の源流付近に栃窪隧道はあるはずで、さきほど私を退けた洞内の水は、やがてここを流れて、刈谷田川と信濃川を経て日本海へ注ぐのだろう。
道は舗装されており、道幅も1.5車線くらいはあるので、栃窪町内の道よりは遙かに整備されている。
上りではあるが勾配も緩やかなので、爽快にペダルを漕げた。
10:35 《現在地》
入口から800mで椿田川を渡り、さらに100mほど進むと、(←)怪しい分岐地点があった。
また、ここの山側路肩には、(→)「林道内山線」と書かれた林道標識が立っていた。
栃窪隧道開通当時の道は、この左の草むした“廃道”の方だと思う。
現在使われている右の道は、標識があるとおり、後年に林道として整備されたのであろう。
標識によると、この林道内山線は、着工が昭和37年、完成は昭和5●(読み取れず)年で、全長271●mとなっていた。
そしてこれは地図を見れば分かるが、この林道を道なりに進むと、2.7km先にある「桜峠」で東山丘陵の主稜線を越え、さらに1.5km進むと栃窪町に出られる。私は通ったことはないが、ちゃんと舗装された1.5車線道路のようである。
つまりこの林道は、栃窪町と椿澤町を結ぶ栃窪隧道の代替路(新道)として機能している。
栃窪隧道経由の方が距離は約半分で済み、アップダウンも遙かに少ないが、あの隧道の「ヤバさ」を思えば、誰しもが迂回を選ぶだろう。
前述したとおり、直前の分岐地点は、“左の廃道”こそが栃窪隧道への旧来ルートだと思うが、現在そこから栃窪隧道へ行くことは不可能である。
なぜなら、すぐ上流に大きな砂防ダム(看板によると「椿田川第4号砂防ダム」)が作られているからだ。
旧道は砂防ダムに断ち切られているうえ、その先の路面は沈砂面より低いため、土砂に没して跡形もなくなっていた。
ゆえにここは好むと好まざるとに関わらず、林道を迂回するしか先へ進む手立てがない。
10:42 《現在地》
栃窪隧道方面へアプローチするための付替道路へは、前述した廃道分岐地点から400m林道を進んだ所から、左折する。
左折地点にも現地にはなんの案内もないが、手許の地図に従った。
入ると砂利道で、まずは谷底まで一気に下る。
後年付け替えられた道だけあって、いかにも機械的な感じがする線形だった。
あっという間に下って椿田川の谷底へ着くと、案の定そこに旧道が待っていた。
旧道とは丁字路型に接続するので、道なりに右折すると栃窪隧道方面だ。(左折は前述の砂防ダムで行き止まり)
椿田川の谷底にある道を、栃窪隧道目指して進行中。
あの“魔窟”とセットで建設された道ではないかと思うが、意外にも善良そうな、どこにでもありそうな砂利道だ。
道幅も隧道内よりは遙かに広々としているし、路肩のコンクリート擁壁もしっかり川から道を守っていて、特につっこみどころがない。
状況的に、この辺りからは廃道化も覚悟していたが、実際は付替路に引き続いてしっかりとした轍があり、通行に不安を感じなかった。
まだこの先に何か往来の根拠となるような施設があるのだろうか。
地図上では、もう隧道まで一本道のようだが。
10:54 《現在地》
しばらく何ごともなく順調に進み、早くも林道を左折した地点から800m進んだ。逆算すると隧道までの残距離は600mほどだ。
持参していた地形図(2011年当時の最新版)は、隧道の700m手前から道を破線の「徒歩道」にしていたが、特に問題なく轍が続いている。
それ自体はありがたいことだったが、私はここで、実際の道の線形が地形図と微妙に異なっていることに気付いた。
地形図の道は、隧道直前までずっと左岸伝いなのだが、実際の道はここで100mほどの短い区間、右岸へ迂回していた。
地味に道が付け替えられているかもしれない。(旧道ははっきりしなかったが)
この右岸から左岸へ戻る地点には、昭和30年代のものとはとても思えない、もっと新しいアーチ暗渠があった(←写真に写っている)。
あ、 あれ?
暗渠を渡って左岸へ戻る辺りから、急に、轍が… 寂しく……。
むしろ、今までの区間の轍が、あんなしっかりしていた理由が謎だ。
可能性があるのは、ここへ来る途中数ヶ所に「椿沢住民以外の山菜採り禁止」と書かれた新しい看板があったので、山菜採り車が多いのか。
それとも、この日はたまたま無人だっただけで、普段は林業などで出入りする車が多いのか。
ちょっと謎だが、栃窪隧道という“廃もの”へ近づきつつあるという実感が、これでようやく濃くなってきた。
嬉しいような…、嫌なような…、微妙な心境。
10:56 《現在地》
わーお…。
衰えはじめたと思ったら、そこからは早かった。あっという間。
廃道である。
最後まで「予告」も「警告」も「封鎖」もないまま、至ってぼんやりとした感じに轍は草むらへ消えていた。
轍だけでなく、路肩の様子も、急に怪しくなっている。
あと「急」といえば、路盤のある位置も急に谷底から高くなった気がする。
地形自体も、里山らしからぬなかなかの峡谷的険悪を、急に見せ始めた。
ここがあの“魔窟”の在処か…。なるほど、なかなか相応しいような気がするぜ。この谷は袋小路って感じがする。
おうふ…。
ただ草むしてるってだけじゃなく、路盤自体も崩れていて、完全に自動車はお断りになってしまってるな。ここ数年以内の荒廃ではなく、かなり時間が経過している感がある。
蓄積した枯れ草で路面がふっかふかなので、上り坂と相まって、自転車に跨がって進むことができなくなった。そろそろ潮時かも知れない。
谷の前方に、背の高い砂防ダムが見えてきた。
椿澤から数えて2カ所目だろうか。
地形図には、こことこの先に計2カ所の「せき」が描かれている。
これらは進捗を図る目印になる存在だ。これの次の砂防ダムを過ぎれば、目指す隧道は間近であるはず。
11:00 《現在地》
砂防ダムを越えると、あれだけ深いと思った谷底が急に道の隣まで上がってきた。
谷が埋め立てられたせいで、まるで休耕田みたいな長閑な風景になっているが、本来は相変わらず険阻なV字谷であったはず。
砂防ダムの建造年は確認できなかったが、工事中にはこの道が唯一の進入路として活用されたことだろう。
この先も路盤の草むした状況が改善する気配はないし、そもそも行ったら必ず戻ってこなければならない工程である。
ゆえに私は、ここに自転車を残していくことにした。
こっからは、徒歩だ。
谷底と路盤の高度差は、またすぐに増大した。
道が結構な勢いで上っているせいだ。(路上を覆い尽くす一面のシダが新緑で美しい)
地図を見ると、スタート地点の椿澤の海抜はわずか30mほどだったが、栃窪隧道西口では170mとなり、さらに東口で180mまで上ってから、160m周辺の栃窪集落に下る。つまり椿澤〜栃窪間の一連の道は、隧道東口を頂点とする片勾配色の強い峠道である。
これに対して、現在使われている迂回路となる峠道は2本あり、桜峠は海抜290m、私が迂回に使った県道の桑探峠は海抜110mである。
後者は楽な道だが、迂回量が多い。前者は普通にキツい坂道だと思う。
谷底に細い3段の滝を見た。
落差10mくらいだが、視線がギリギリ届く狭い谷を捻るように流れ落ちており、谷底の地形の険しさを物語っている。
正面に近づいて見るのは容易でなさそうだが、なかなか綺麗な滝だ。
道は無造作に滝の上部を通過しているが、路肩も法面もただ切っただけで、擁壁やガードレールがないのは、いかにも怖い。
隧道だけでなく、このアプローチの谷道も、なかなかの難工事が想像できるうえに、完成後の維持にも大変手間取りそうだ。
しかも新潟と言えば豪雪地である。一年の3分の1を占める積雪期には、この谷道などいかにも雪崩が恐ろしく、交通は途絶したことだろう。
その意味からも放棄が早まった可能性がある。
豪雪地においては、必ずしも標高の低い道が至便とはいえない。それは谷道であることが多く、谷道の防雪には膨大な労力を要するからだ。その点でも桜峠のような尾根道が重宝がられた可能性は高い。
11:05 《現在地》
徒歩探索に切り替えたタイミングが良く、何より春先という探索時期が良かったため、ふかふかの草道をハイキング感覚で快調に進めている。
その証拠に、前回の砂防ダムからたった5分で次の砂防ダムに到達できた。
現在地と地形図の対照が正しければ、目指す隧道まではあと200mないはずだ。
今度の砂防ダムも背が高く、これで再び谷底は路面のすぐ下に追いついた。
このように砂防ダムが多数建設されていることからも、椿田川が普段のささやかな水量には見合わぬ暴れ谷としての一面を持っていることが窺えた。
また、この砂防ダムに取り付けられた銘板は位置が良く、カメラの望遠機能で読み取ることができた。
曰く、「昭和46年建 椿田川第三号堰堤」であるという。
行政の資料では、栃窪隧道の完成年が昭和31年となっていたから、この道も同じ頃に開通しただろう。
砂防ダムはそれより15年くらい新しい。建設時には、この道を大型ダンプが通ったりしたのだろうか(隧道は絶対通れないだろうが)。
峡谷を切り開いて付けられた道は、草むしてはいるが概ね原型を留めており、本来の道の作りを推察するのは難しくない。
道幅はおおむね3.6m(敢えて中途半端な数字なのは、これが2間という古い道にありがちな幅だからだ)くらいで、幅2mしかなかった隧道と較べれば遙かに普通である。自動車が問題なく通行できる幅といえる。
だが、それでも決して現代的な印象は受けない。
廃道区間に入ってからは、険しい場所にも一切ガードレールや落石防止柵といった防護施設がないし、路肩や法面をコンクリートで補強するような場面もない。さらに路面は土道ではなかったろうか。砂利の存在がいまいち感じられないのだ。
総じて“近代車道”の雰囲気だ。“現代車道”っぽくない。
これは単純に竣工が近代であったせいなのか、竣工は現代だが簡易な施工で済ませただけなのか、悩みどころだが、隧道の竣工年が昭和31年で間違いないなら、後者ということになる。
ん?
また谷底に砂防ダムか? 地形図にはなかったが…。
谷底を塞ぐコンクリートの分厚い壁が、堰のように設置されており、その一部に暗渠の穴が空いていた。
椿田川の水は全てそこを流れているようだ。
しかし、なんだか砂防ダムとしては不自然な景色だ。
はじめ堰堤かと思ったコンクリートの壁の上には、大量の土がまるで…
……まるで築堤のように、乗っかっている。
というか、これは……
ガチで築堤だろ!
それも、盛大に崩壊した築堤!!
(築堤と橋の組み合わせだと暗渠は不要だと思うので、長い築堤で谷を渡っていたと推測する。砂防ダムも兼ねていたのか?)
そして、道が対岸へ行ったということは――
11:11
西口は、ここだろ!
トラウマというのは大袈裟だが、100分前に闇の中で痛感した悔しさが甦る。
ここから見ても一見して開口部などなさそうだが、あの狭さなら当然だ。
土砂と春の草木によって、ほとんど埋没しているのに違いない。だがそれでも、
私には絶対に開口している確信がある!
想像以上に廃度が濃い壮絶な状況に、少しだけ恐れを感じたが、立ち入って暴かねばならぬ!
石碑だ!
なんという場所に、取り残されていやがる。 グッときたぜぇ…。
これにより、
現在地、完全確定!
何の石碑なのかが凄く気になるぜ!!
期待しても、いいかな〜?
11:11 《現在地》
椿澤を自転車で出発してから50分足らずで、椿田川を2.7km遡った地点にある栃窪隧道の西口付近に辿り着いた。終盤の500mは廃道状態だったが、藪が濃くなる前の時期であったため、あまり苦労せずに来られた。全体的に日当たりの良い場所が多いので、真夏は藪が相当大変そうだ。
そして最後に立ちはだかった難関が、この築堤の大決壊だ。
ここには椿田川を横断する大きな築堤があったようだが、完全に決壊し、路盤は10m以上にわたって寸断されている。
敢えて橋ではなく築堤を作った理由は不明だが、砂防ダムを兼ねるような効用を期待したのだろうか。あるいは、230mぶんの膨大なズリ(隧道掘削の残土)を利用できる築堤の方が、橋を架設するより安上がりだったのかもしれない。
思索はともかく、まずはこの断絶を突破しなければ、隧道へ辿り着けない。
小手先の技が通用する場面でもないので、潔く草付き斜面を滑り降り、ぬかるむ谷底を徒渉してから、対岸の草付きをよじ登った。
11:13 渡ったぞ!
渡ってから左岸を振り返ると、少し前までいた道形は、築堤の始まりと思われるあたりで唐突に終わっていた。
橋台や橋脚らしい構造物がないので、やはり築堤だったのだと思う。
また、周囲の斜面に大きな木が全く生えていないのは、立木ごと表土を押し流すような大きな崩落が、そう遠くない過去にあったのかもしれない。土砂崩れも雪崩れも多そうな場所だった。
今度は同じ築堤突端から、椿田川の下流方向を撮影した。
なかなか険しい谷筋であることが、この眺めからも分かると思う。繰り返しになるが、ここを開削するのは、結構な難工事であったと思う。
またこの景色は、かつて隧道の利用者が狭い地底から抜け出して新天地に一歩を刻むとき、最初に目にする眺めだった。
どんなに肝の太い人でも、この開放感に、ホッと胸をなで下ろしたことと思う。
そういうことを想像して、自分に重ねてみるのが私は大好きだ。
実際に隧道を潜り抜けることはできなかったけれど、この想像力が、できなかった体験を補完してくれる。
今度は隧道方向を撮影。
はっきり言って、どこが道なのか分明不可能な状況だ。周囲はちょっとした広場になっているようだが、全体に草と灌木が激しく茂り、道の在処も進行方向もよく分からない。近くにあるはずの“石碑”も隠されていて、今は全く見えなくなっている。隧道も同様だ。
だがここには、私を坑口へと導く、信頼度の高い“道しるべ”が存在した。
それは、足下の草むらを潤している長閑な春のせせらぎだ。
築堤上を水が流れているという不自然な状態が、築堤の先にあるものを暗示していた。
私は地面に犯人の足跡を探す古典的探偵のように姿勢を低くして、注意深く小川の出所を探り進んだ。
足下を緩やかに浸す緩やかな水の流れを、遡る。
この水は泥の成分を多く含んでいるようで、全体的に黄ばんでいる。
迫り来る邂逅の予感に、胸が躍った。
そして、突き止めた。
↓ 水の出所を! ↓
これが、栃窪隧道の西口跡だ!
案の定、隧道はほとんど埋没していた。
もしも水が流れ出ていなければ、ここから見た状況だけで、「完全閉塞」であるという誤った判断を下したかも知れない。
そのくらい、開口部が目立っていない。
というかそもそも、隧道があったという痕跡が乏しすぎる。
坑口前に道らしいものがないというのは、キツい。
隧道を探し歩くのでなければ、こんな場所には誰も辿り着かないだろう。
ただ、路面はどこにもないけれども、右を見れば、例の石碑がある。
しかしこれもぎりぎり草葉の陰に見える程度で、夏場は見逃しそうだ。
き、気持ち悪すぎる!!
こんな気持ちの悪い穴が見せた“光”を、私は信じていたのか……。
人間が陸上でしか生存できない生物である以上、水没した坑口というものは、
根本的・生理的に受け付けがたいものなのだろうが、この泥沼が天井すれすれを
浸しているという状況は、見ているだけで本当に辛い。胸がアップアップする!
もしもの話だが…、これで反対側の坑口から立ち入れていなかったとしたら、
私はどうにかして内部を知りたいと思うあまり、ここを侵して入洞する術を、
考える羽目になっていたかもしれない。私の性格上、きっと葛藤しただろう。
そういう展開にならなかったことについては、この“裏切りの隧道”に、感謝を捧げても良いとさえ思える。
それくらい、この穴からの入洞はきつい選択肢だった。(美味しいとかそういう問題じゃない)
足下はこんな状況なので、穴を覗くという姿勢を取るのが、まず難しい。
何もかもかなぐり捨て、泥の上に四つん這いにでもなれば、
首を洞内に突っ込むことができるのだろうが、さすがにそれをすると、
ワルクードが完全にぶち切れそうだ。つうか、素直にそれは嫌だと言いたい。
だからここはカメラだけを水面すれすれ構えて、無視認撮影を敢行した。
そして、意図したとおりの衝撃的な写真が撮れた。
↓ 刮目して見よ! ↓
西口から見る、東口の光…。
もっともこれは直接の光ではなく、水面に反射した東口の光となる。
終始気持ちの悪い穴だったが、この景色は過去に経験したことのない目新しさがあり、良かった。
泥沼の上に四つん這いにならず、これ以上奥までカメラを突っ込むことができないので、
私の撮影も、これが限界である。でもちゃんと光が見えたので、良しとしよう。
身体は貫通しなかったが、視線が両側から隧道を貫通したことで、一応の制覇としたい。
それにしても、このような状況になっている隧道が、最新の地図に現役のように描かれていたり、
最近の行政資料にも現役トンネル施設として採録されているするというギャップが、可笑しい。
↑ 動画も撮影した。 ↑
ここで注目して欲しいのは、やはり写真では伝わらない“音”だ。
極めて異常な状態になっている坑口の臨場感を感じて欲しい。
この動画撮影をもって、隧道本体の探索を完了した。 残るはあれだ。
見つけた瞬間から、坑口以上に早く見たいと思っていた存在――
坑口前に独り取り残されていた、石碑。
発見時点では丈余の草むらに取り囲まれていて、見られることが仕事の石碑としてはあまりに可哀想な状況であったので、まずは少し刈払いを行って風通を良くした。
チェンジ後の画像が刈払いを行った後のものだ。最小限なので、さほど変わっていないが。
碑の外形は、現代の石板碑として各地で良く目にする、高さ2mほどの大きな黒御影石製だ。
ひとことで言えば立派な石碑で、建立の時期を問わず、お金が掛かっていると断言できるもの。この隧道に対して、私が従来持っていたイメージには似つかわしくない立派さだと思った。
碑を支える台座はシンプルなコンクリート製で、装飾的要素はない。
碑も台座も破損は見られず、完全な姿を保っていた。こんな厳しい環境にありながら、さすがは碑(いしぶみ)だ。
それでは肝心の内容を見ていこう。
それはずばり、ここを訪れる誰もが人が期待する最高の内容だった。
隧道には激しく裏切られたが、碑は私を裏切らなかったのである!
“ 栃窪隧道貫通記念碑 ”
この文字が目に飛び込んできた瞬間は、あまりの興奮で、刈払いのナタを手にしたまま雄叫びを上げてしまった。
ここに石碑が存在するであろうことは、地形図に記号があったので、探索前から予期していた。
そしてその内容にも期待を持っていたが、隧道を通り抜けられなかったことで、今まで確認がずれ込んでいた。
それがようやく果たされた。まさに、期待通りの内容で!
そもそも、開通記念碑的なものが沿道にあるのではないかという期待は、オブローダーなら探索中つねに持っているものだと思う。
私もこれまで栃窪集落内や椿澤からここまでの沿道に、それらしいものがないかを、それとなく探していたが、ようやく実った。
碑の表面には、上記の題字が中央にひときわ大きく力強い筆跡で刻まれていた。
そして、文字はそれだけではなかった。
題字の左右両側には、少し小さな文字で、次の内容が刻まれていた。
(右側)
起工 昭和参拾年十二月八日
竣工 昭和参拾一年五月三十一日
(左側)
縣議会議員 丸山直一郎書
すばらしい!
事前情報(行政の資料)にはなかった情報も、新たにゲットできた。
まずは竣工年だが、昭和31(1956)年竣工という情報は得ていたが、これに加えて、5月31日という竣工日が新たに分かった。
そして着工年は完全な新情報だ。昭和30年12月8日に着工らしい。
これらの情報から、隧道の建設に要した期間は約6ヶ月間であったことも分かった。
たった半年で、全長230mの隧道が建設されたというのは、なかなかの速成であると思う。
洞内の状況から、相当の難工事だったというイメージを持っていたが、案外順調に終わったのかも知れない。
そして、裏面にも期待を裏切らない情報量があった。
続いてご覧いただこう!
裏面にも、小さな文字がびっしりだった!
このように力の入った記念碑からは、“伝え残したい”という、関係者の誇りが強く感じられる。
完成をとても祝福された隧道であったことが伝わってきて、現状とのギャップに寂しさを覚えもするが、それ以上に温かい気持ちになった。
裏面の内容は、大きく3つのパートに分けられる。
上から順に、隧道建設の功労者の列記、記念碑建立資金寄附者の列記、そして最後に、隧道建設の沿革を述べたパートである。
皆さんが一番気になるのは沿革パートだと思うが、上から見ていこう。
本事業功労者 | |
---|---|
縣議 | 丸山直一郎 |
市長 | 斎藤為次郎 |
市会議長 | 渋谷伝三郎 |
他議員一同 | |
旧上北谷村村長 | 関 圭三 |
同助役 | 小林恭二 |
栃窪区長 | 佐野久左エ門 |
副区長 | 石井善松 |
表面の揮毫者として名前の出ていた県議会議員丸山直一郎氏は、ここでも筆頭であり、本隧道建設における最大功労者という認識があったものと思われる。
他の記名者は関係する自治体の長や栃窪区長などであり、総じて行政の協力と理解を十分に得て円満に進められた事業だったという印象を受ける。
次は、碑面上で最大の面積を割かれた、記念碑建立資金寄附者パートの内容だ。
またこのパートには、いくつか付随する情報があるので、そこも要注目だ。
建碑資金寄附者 | |||
---|---|---|---|
東京都 | (氏名略 12名) | 下田村 | (氏名略 2名) |
酒田市 | (氏名略 1名) | 長岡市 | (氏名略 7名) |
岐阜 | (氏名略 1名) | 細越 | (氏名略 1名) |
秋田 | (氏名略 1名) | 葛巻 | (氏名略 2名) |
愛知 | (氏名略 2名) | 柏崎 | (氏名略 1名) |
栃尾 | (氏名略 5名) | 新潟市 | (氏名略 1名) |
小千谷 | (氏名略 1名) | ||
隧道工事請負者 | 佐野五三郎 | ||
記念碑石工 | 村澤豊次 | ||
世話人 | ○井千太 佐野仁久治 区長 石井善松 |
建碑資金寄附者として36人の名が刻まれているが(栃窪在住者は除外されてる?)、彼らの在住地を見ると、全体の3分の1を東京都在住者が占めている。
東京との関係性など皆無に思える隧道の貫通記念碑へ、なぜ少なくない東京在住者が寄付を行ったのか。
これはおそらく、当時の栃窪には、集団就職や冬期間の出稼ぎなどのために、東京在住者との深い関係を持つ者が少なくなかった証しだと思う。
東京で働きながら家族へ仕送りをするのみならず、国許の発展のために寄付まで行うという者が少なからずいたことを思うと、自身の体たらくが胸に痛い。
労働における地方と大都会の関係は、今も根本的に変わっていないと思うが、それぞれの在住者の間にある心の距離感は、交通の発達による物理的な近接化ほどは縮まっておらず、SNSなどを利用した情報の共有は進んでも、それぞれが抱える困難な出来事への共感や助け合いの精神は、むしろ遠くなってしまったような印象もあるだけに、この昭和30年代の碑に刻まれた東京在住者の多さを、まぶしいと思ってしまった。もちろん、現代にも志の高い人は大勢いるだろうが。
さて、最後はお待ちかね、隧道建設の沿革を述べたパートの内容を転載しよう。
町村合併促進法 ニヨリ昭和二十九年四 月旧上北谷村栃窪ハ 見附町ニ合併シ我 部落ハ隧道貫通 道路ヲ要望シタル所 採択起工セラレ椿沢 町ノ協力ヲ得テ 貫通セラル之ニ依リ 栃窪町ノ文化交通ニ 格段ノ進展ヲミルニ至ル 茲ニ喜ビノママニ記念 碑ヲ建立ス 工費参百万円 延長二四〇米 昭和三十三年八月 栃窪町 村中一同
隧道が建設された経緯を明かす非常に重要な内容であるが、解説はちょっと後回しにする。
まずはそれより……
「 ここに喜びのままに記念碑を建立す。 栃窪町村中一同 」
この末尾の文章を見れただけで、私はもう感無量である。
こういうのに弱いんだよ私は。愛され系の道路エピソードに、すぐ感情移入してしまう。それが既に廃止されたものだと、なおさらだ。
もう大好きになった、栃窪隧道のこと。だから許した! さっきの裏切りの件は、もう許した!(笑) 私のわだかまりは全て、隧道の水に溶けたグァノ成分と一緒に信濃川へ流れていった。
栃窪隧道、お前のような隧道は私の大好物だ! 好き!!
このあと、来た道を引き返して、探索は無事に終了した。
碑に刻まれた沿革の内容を忘れないうちに、このまま締めの机上調査編と参ろう!
といっても今回は、碑文の内容と、手許にあった資料だけで組み立てた、簡易な机上調査編だが。
まずは【碑文】町村合併促進法 ニヨリ昭和二十九年四月旧上北谷村栃窪ハ見附町ニ合併シ我部落ハ隧道貫通道路ヲ要望シタ所採択起工セラル椿沢町ノ協力ヲ得テ貫通ヲシ之ニ依リ栃窪町ノ文化交通ニ格段ノ進展ヲミルニ至ル茲ニ喜ビノママニ記念碑ヲ建立スに書かれている隧道建設の経緯を、図などで補足しつつ説明しよう。
文頭にいきなり「【町村合併促進法】政府は53年、町村行政基盤の確立を理由に,町村の基準人口を8000人程度とし,町村数をおおむね1/3程度に減少させる町村合併促進法を、(19)56年9月30日までの時限立法として公布した。同法により町村大合併がすすみ、50年に町1862、村8346であったのが、60年には町1922、村1049と大幅に減少した。(『世界大百科事典 第2版』より)により」と書かれている通り、栃窪隧道は町村合併と極めて深い関係をもって誕生した。
左図は、町村合併促進法が交付された昭和28(1953)年当時にあったいくつかの町村の位置と、昭和29年以降の見附市境の位置を示している。これを見ながら説明したい。
まず、昭和28年当時の栃窪は、古志郡上北谷村に属していた。図に青色で着色した区域が上北谷村の範囲である。
間もなく栃窪隧道が穿たれることになる東山丘陵の主稜線は、西接する古志郡北谷村(図では赤色に着色)との村境になっており、この時点では地形に対して素直な区分けが行われていた。
おそらく、上北谷村は古くから同じ古志郡にある栃尾町の商圏に属し、東山丘陵を越えた西側にある北谷村は、郡は異なるものの、同じ平野で隣り合っている南蒲原郡見附町の商圏に属していただろう。
町村合併促進法の公布があった年(昭和28年)の10月、まず北谷村が見附町への編入を選択し、その一部となった。そして翌年の3月31日には上北谷村も見附町へ編入され、同日に市政を施行して見附市が誕生した。これで東山丘陵の東側にある栃窪(旧上北谷村大字栃窪)が見附市の一部となった。しかしこのとき、旧上北谷村のうちの2大字(小貫と土ヶ谷)は、見附町(市)ではなく最寄りの栃尾町へ編入(栃尾町も6月に市政を施行し栃尾市になった。さらに平成18年には長岡市に編入)を選んだため、旧上北谷村を二分する地形的にはだいぶ中途半端な位置に、見附市と栃尾市(長岡市)の市境が誕生することになったのである。(栃窪の南に佐野新田という飛び地も生まれた)
『角川日本地名大辞典 新潟県』には、戦国期から栃窪村があったことが出ている。
現在では山中に孤立した小さな村のように見えるが、周辺に劣らず古くから人の住んだ実り多い土地であったようだ。
江戸期を通じて一村として存続し、天和元(1861)年における戸数は16、人口108、明治6(1873)年には戸数33といった記録がある。そして明治22年からはずっと上北谷村に属していた。
そんな栃窪がなぜ、川沿いの道で古くから結ばれていた小貫や栃尾ではなく、敢えて険しい桜峠の裏側にある見附との合併を選んだのか。残念ながらその経緯は定かでない。
しかし、栃尾との合併を選んだ大字もあったのだから、見附との合併は栃窪の住民が選択・決断したことだと思う。
昭和29年頃の状況を踏まえて理由を想像するなら、広大な平野に立地し、新潟や関東と鉄道および一級国道で結ばれている、そして将来は高速道路や新幹線が…までは想像もしなかったろうが、ともかく栃尾よりも見附に将来性を感じたのだろうか。
しかし、刈谷田川があるおかげで東山丘陵が障害とならない旧上北谷村の北部はともかく、栃窪にとってこの選択は勇気の要る決断であったと思う。
そして実際に見附市の一部になったからには、栃尾市に属することになった小貫へ迂回せず、市の中心部に行ける道路が欲しい。
「我部落ハ隧道貫通道路ヲ要望シタ」とあるのは、そういうことなのだろう。
碑に功労者として出ている人々はとても有能だったようで、これは速やかに「採択起工」された。編入翌年の昭和30年12月に早くも起工し、翌年5月末に完成している。そして33年に記念碑を「喜ビノママニ」建立しているわけだから、全てが順調に進んだと思われる。
なお、碑文には「工費参百万円」という記述もある。
私はこの隧道の内部を探索中、あまりにコンクリート巻き立て区間がピンポイントであるのと、坑門工が省かれている姿を見て、失礼を承知ながら“貧乏普請”という罵りを行ったが、この300万円という工費は実際のところどうだったのだろうか。
といっても、トンネルの建設費など専門外も良いところなので、まず消費者物価指数の推移から、昭和30年の300万円が現在のいくらに相当するかを調べてみた。消費者物価指数は約6倍になっているので、単純計算で今なら工費1800万円相当ということだ。
全長200m以上もあるトンネルが1800万円。 安いだろ! やっぱり安すぎる!…気がする。
栃窪が独自に寄付金を集めて建てた記念碑は立派でも、公共事業として行われた隧道工事については、受益者がかなり限られることもあって、節制的なものであったと思う。
(また、碑文には「延長二四〇米」とあるが、行政の資料『平成16年度道路施設現況調書(国土交通省)』は、全長230mとしている。なぜ数字が違っているのか。そしてどちらが正確なのか。残念ながらこれも分からない。)
こうして大いに祝福されて誕生した栃窪隧道は、この手の碑文の定型文的ではあるが、「之ニ依リ栃窪町ノ文化交通ニ格段ノ進展ヲミルニ至ル」とまで、その効果を絶賛されている。
栃窪隧道は実際のところ、どれくらい活躍したのだろうか。
そしてなぜ、現状のようなことになっているのだろうか。
次はこの辺りを少し考えてみたい。
← 古い (歴代地形図) → 新しい | ||
@ 明治44(1911)年 | A 昭和43(1968)年 | B 現在(地理院地図) |
まずはいつものヤツ。歴代地形図の比較だ。
明治44(1911)年版には当然、栃窪隧道は存在しない。
だが、現在もある桜峠の道だけでなく、椿田川の北側尾根上にも椿澤と栃窪を結ぶ“里道”が描かれている。図中の表記からして車両は通れない山道だったようだが、古くから椿澤〜栃窪〜土ヶ谷(図の右下端)〜栃尾という一連の山越えルートがあったことが窺える。
(そしてなんと、椿澤集落の外れ辺りの椿田川沿いには、この里道に属していた“明治隧道”があったことが判明した。探索時はまるで意識していなかったが、現在の地図と位置を比較して思い返してみると、確かに隧道跡として通用しそうな切り通しがあったことを思い出す。→グーグルストリートビューで見る。 この仮称「椿澤隧道」は、昭和20年代の地形図まで記載があるが、昭和43年版からは消えている)
昭和43(1968)年版は、栃窪隧道が完成して12年後の状況を描いている。
隧道や前後の道は現役の車道であるように描かれており、他に代替となる道も(迂回路である桑探峠くらいしか)見当たらないので、ちゃんと活躍していたのではないだろうか。
この頃は栃窪集落内に学校もあったようだ。通学に隧道が使われたことがあるかは不明だが、椿田川沿いの道はなかなか険しかったので、集落内に学校があったというのは納得できる。
最新の地理院地図では、栃窪隧道の坑口が描かれなくなった。しかし従来の位置に破線の道は残っているので、山越えの奇妙な直線の徒歩道があるかのように表記されている。
私が探索した頃の最新地形図にはまだ隧道の記号があったので、最近になって改描したものらしい。趣旨は不明だ。
目立つ変化は、桜峠を越えて椿沢と栃窪を結ぶ一連の林道が完成していることだ。
この道が、栃窪隧道の直近の代替路になっている。
この林道内山線は、探索中に見つけた【林道標識】により、昭和37年に着工し、50年代に完成していることが分かっている。
そしてずばり、栃窪隧道は林道内山線の完成によって需要を失い、放置されるに至ったのだと私は考えている。
栃窪隧道の利用状況をさらに推測すべく、歴代の航空写真も見比べてみた。
← 古い (歴代航空写真) → 新しい | ||||
@ 昭和37(1962)年 | A 昭和51(1976)年 | B 昭和61(1986)年 | C 平成16(2004)年10月24日 | D 平成23(2011)年 |
昭和37(1962)年版や昭和51年版では、隧道前後の道がくっきりと映し出されている。
ただ、前者には西口前の特徴的な大築堤が見えず、当初は橋を架けていたのかもしれない。後者にははっきりと築堤と分かる姿で写っている。
そして、桜峠越えの林道が開通した後と見られる昭和61(1986)年版を見ると、隧道前後の道が不鮮明になっているように思う。特に東口前の道の色が周囲の草と区別が付きづらくなっているのが気になる。
平成16(2004)年版は、新潟中越地震の翌日に撮影されたものだ。
地震が隧道と道に影響を与えた可能性を考慮してチョイスしたのだが、栃窪集落北側に土砂崩れらしい斜面が見えるものの、隧道周辺には特に変化は感じられなかった。
これは例の行政の資料が編纂された年でもあるが、とうの昔に栃窪隧道は利用されなくなっていたと思う。
一番新しい平成23(2011)年版もこれと言って変化はないが、昭和51年版辺りと比較すると、地味に集落内の家の数が半分くらいに減っていることが分かる。
隧道が集落に与えた「文化交通ニ格段ノ進展」があったとしても、それを覆い隠すほどの人口減少の大波が押し寄せているのだろう。
栃窪隧道は、なぜ廃れたのか。
その理由は、色々あるだろうと思う。
隧道とそれに連なる椿田川沿いの道の難点は、探索中に幾つも指摘している。
隧道はとにかく断面が小さく、大量の木製支保工が車の通行には邪魔であるうえ、全体的に水気が多くマッディで崩れやすいので、とても現代人に好まれる安心安全なトンネルとはいえない。
椿田川沿いの道は、全体的に急峻で雪崩や土砂崩れが多そうだが、防護施設が全くない状態で、危険極まりない。実際に崩れ易いことも、坑口前の崩れた大築堤や、多数の砂防ダムの存在が物語っている。
また、栃窪隧道に対するそもそもの需要が減った。
人口が減少していることもあるが、それ以上に、モータリゼーションの進展は、栃窪隧道の優位性であった「距離と上り下りの軽減」が持つ価値を、相対的に少なくしてしまった。
自動車という速い乗り物が幅をきかせる現代、道さえ良ければ数キロ程度の迂回は(徒歩でやるような)苦ではなくなった。
栃窪隧道は、断面サイズからして明らかに人道に毛が生えたようなものだ。無理をすれば軽トラくらいは通れたかも知れないが、普段は郵便用のバイクが通れれば十分くらいのサイズ感だろう。
自動車の普及が、栃窪住民の意識からも、隧道の存在を遠ざけたものと思われる。
結果、記念碑だけが村の外に取り残された。
碑を集落に面する東口に設置していれば今でもアクセスはしやすかっただろうが、隧道の誕生した経緯からして、見附市側から栃窪を訪れる人々に対して誇るべき記念碑である。当然、隧道を通る前に見せたかったからこそ、西口に設置されたのだと思う。
そして少しも変わらぬ姿で、変わり果てた隧道がもたらした喜びが、確かにあったことを教えている。