隧道レポート 南房総市和田町の内郷隧道 前編

所在地 千葉県南房総市
探索日 2008.04.02
公開日 2025.01.29
このレポートは、『日本の廃道 2008年5月号』に執筆したレポートのリメイクです。

今回は、思い出したように、懐かしいネタを披露したい。
まず、探索時期が17年も昔の平成20(2008)年というのが懐かしいが、途中で登場する“キーアイテム”にも、当時から「山行が」を読まれている古い読者さまなら、懐かしさを感じられるのではないかと思う。
これは2008年に『日本の廃道』で一度レポートしたネタにはなるが、現在の私の視点から大幅にリライトしているので、お楽しみいただければと思う。




千葉県の南半分を占める房総半島には、トンネルがたくさんある。
中でも明治期に建設された道路隧道の多さは全国屈指であり、『明治工業史 土木編』(昭和4年刊)によれば、「明治に至り開鑿したる主なる隧道は、総数358あり。その中最も多数の隧道を有する地方を挙ぐれば、千葉76、静岡31、福島19、新潟、石川共に15、神奈川、兵庫共に13等なり(p.37)」だそうである。この数字の根拠は未だはっきりしていないけれど、とにかく多かったことは伝わってくる。

@
明治16(1883)年
A
明治36(1903)年
B
地理院地図(現在)

そして今回探索する隧道が今の数字にカウントされていたかは分からないが、明治16(1883)年に発行されたわが国初の「地形図」である迅速測図(二万分の一「松田村」)には、右図@の通り、ばっちり描かれている。
このことから、明治16年以前に開通した隧道であることが明確である。

《周辺地図(マピオン)》

この図はどこかというと、房総半島の南端に位置する南房総市のJR外房線和田浦駅の近くだ。地名としては南房総市和田町真浦の周辺で、今は国道128号が海岸線を通っている。

図@が描かれた明治16年当時、鉄道は影も形もなく、国道の前身は仮定県道「房総東往還」と呼ばれていた。
図中の「真浦村」で、この「県道」から、それぞれ「里道」と「騎小径」の記号で描かれた2本の道が内陸へ延び、「小川村」で合流している。このうち「騎小径」(騎乗したまま通れる程度の小道)が小さな峠を越える“矢印”の位置に、はっきりと隧道の記号が描かれていた。

図Aは、明治36(1903)年版である。
@で「里道」だった道のルートが変化し、そこに“青矢印”で示した2本の隧道が誕生している。また、「里道」の中でもっとも上等な「里道(達路)」(里道一等相当)の記号で描かれている。対して、@からある隧道の道も存続しているが、「里道(間路)」(里道三等相当)として表現されており、真浦〜小川間のメインルートは前者であることを窺わせる。

背景はまだ分からないとしても、@→Aの地図の変化を見る限り、これら2本の道には新道と旧道の関係性がありそうだ。
もし、明治の早々に誕生した隧道が、明治中頃には早くも旧道になっていたとしたら、これはいかにも“明治隧道王国房総”らしい剛毅な掘りっぷりだと感心するが、果たして実態は如何に。

最後にBの地形図は、お馴染みの最新版地理院地図である。
Aで誕生した里道が「県道296号線」として立派に活躍しており、2本あった隧道の1本は、いまも健在であるようだ。
一方、Aで旧道っぽく見えた@からあった隧道の方は、前後の道ともども消えてしまった。

これはやはり、旧道になり、廃道になり、廃隧道になってしまったということなのか。
ちなみに他の歴代地形図もチェックしたところ、昭和27(1952)年版まではしぶとく描かれていたが、次の昭和42(1967)年改訂版から消滅していた。




今回は、この明治16年の迅速測図に描かれていた房総有数の古隧道を捜索する。
最新の地形図に描かれていない状況から、廃道の探索となることが予想されたが、旧版地形図との対比から、探すべきエリアは相当に絞られているし、特に西口は集落からごく近い位置である。
アプローチの容易を期待して、西口がある和田町小川地区から探索を行うことにした。
もちろん、出発時のアシはいつもの自転車である。

決行日、2008年4月2日。 房総の春らしい、とても朗らかな朝だった。

まさかこの探索が、あヤツとの“再会”に通じているだなんて、少しも考えていなかった…!



 迅速測図に描かれた稀有なる隧道を探しに行こう!


2008/4/2 8:23 《現在地》

ここは和田町小川の千葉県道296号和田丸山館山線、路上。
この正面に見えている小高いところが、古くは小川村と真浦村を、後には北三原村と和田町の境であったりもした、山並みである。
ちょうど正面の一番高く見える山を左へ避けて抜けるのが、今回目指す隧道のあるルートで、右へ避けて抜けるのが、現在の県道のルートだ。
ここから見えている直線の突き当たりが、その左右の道の分岐となっている。
海に近いせいで、地形の奥行きが乏しく、とても素直なルート選択である。



8:24 《現在地》

突き当たりの丁字路へやって来た。
ここは小川地区に属する駒場という集落の外れで、沿道には立派な生垣を巡らせた住宅が多く見受けられた。
県道296号はここを右折だが、私は市道である左の道へ進む。

なお、この直前に青看が設置されているが、少し変わり種で、右折側への「最大高」の規制予告を兼ねている。
予告の規制標識を案内標識の上に描くときは小さく表示されるのが常だが、通常の規制標識と同じサイズのものがペイントされているので、妙に迫力がある。それだけ見逃されまいということなのだろう。県道を約1.4km進むと外房線のガードを潜るが、そこが昔ながらの低空頭であるため、高さ規制が行われている。ちなみにこれ以降迂回路はない。
このボトルネックを解消する向畑バイパスの計画があるが、2025年現在も着工には至っていない。



8:25 《現在地》《迅速測図での現在地》

左折して200m弱進むと、「居酒屋歩美」の角でまた二手に分れる。
左が本線らしい路上ペイントや道幅だが、私が進むべきは右である。

なお、迅速測図だと冒頭に私が通った直線道路がまだ無く、この左の道がその役割を担っていた。ようするに、左の道よりこの分岐へ突き当たり、そこを左折すると旧道(私が向かう道)へ、右折すると新道(現県道)へという案配だったようだ。
道標でもあればと思って辺りを見回してみたが、見つけられなかった。

ここにも青看が設置されていたが、直進は、「道久保方面 この先×行止り」と書いてあり、これは私が通ろうとしている“廃道”を念頭に置いた表記では無いと思うが、ちょっとドキっとした。



丘の麓を巡るように道は北東へ延びている。ほとんど勾配はない。
路傍には明らかに年代物とわかる長径の石材を布積みにした石垣が連なっていた。
定かなことは分からないが、明治時代に積まれたものというのがしっくりくる姿だった。



さらに進むと、今度は法面に低い露岩の出ているところがあり、それだけならなんのことはなかったが、その露頭の胸くらいの高さに小さな石仏が一体一穴のような感じで収まっているのを見つけてしまえば、立ち止まらずにはいられない。
穴を掘ること、岩を削ること、そうした行為へ対する圧倒的な馴染み深さを感じさせる、特徴的な石仏の安置方法だった。

なお、風化が激しく、石仏の種類や年代を一つずつ確かめることはしなかったが、馬頭や牛頭の文字が読み取れるものが多かった。
馬頭観世音に牛頭観世音、どちらも交通のために使役されることの多かった家畜の供養碑であり、ここがかつて繁く交易のために通行される道であったことを物語っているようだった。



8:28

鮮やかに鯉のたなびくうららなる郷をゆく。
廃道、廃トンネルが目的地とは思えないすがすがしさ。
山と畑と家と道とが睦まじく配置されていて、まるで完成されたモザイク画のような景色だ。
微妙なカーブが連なるこの道には、舗装の下の確かな古道の存在が感じ取れる。
小さな法面の苔生した石垣に、岩の窪みに納められた石仏たち、そして岩壁に点々と穿たれた地下水路(二五穴)の横窓らしき小穴も、全てがここになければならないものだった。



うんうん。
電信柱に括り付けられた、塞の神とおぼしきわらの細工もね。



8:29 《現在地》《迅速測図での現在地》

「歩美」の角から約500m進むと、内郷という集落に差し掛かる。
そしてここには、明るく伸びやかな畑の道にはやや不似合いな、「林道小川線」と書かれた錆色の林道標識が立っていた。
今もそうであるかは分からないが、この先の道は林道として整備されたものらしい。

だが、私はこの先には行かない。
林道標識の直前に、右へ分れる小道があるだろう。
迅速測図を見る限り、おそらくここを右折するのが、探している隧道への道である。

右折!



この道、いかにも奥に見えている民家の庭先で終わっていそうだ。
コンクリートが敷かれた鋪装の感じも、いかにも公道っぽくない。
だが、越えるべき背後の山並みとの位置関係は、期待を持たせるものがある。短い明治隧道が潜り抜けるにはうってつけの薄さと低さを感じさせる山並みだ。

あ! それによく見ると奥に神社の鳥居が見える。
そういえば迅速図にも、隧道の北側に隣接して鳥居の記号が描かれていたぞ!
この符合は……!

で、次の写真は、すぐ先だ。
15mくらい先で道が左に曲がっているのが見えるが、そこも二又になっていて、次の写真はそこで撮った。



《現在地》 

初めて、地理院地図に描かれていない二又だ。
左の道がやや太く、道なりでもあって、かつ地図に描かれている。
右の道は描かれておらず、そして上り坂。あと、柑橘系の何かの実が散らばっている。

左の道は明らかに奥の人家と神社で終わっていそうなので、地図に無い右の道を選択した。
自動車では絶対に入ろうと思えない極狭路だが、自転車ならまだ進めそうなので、このまま乗っていく。



8:30

うっほー! 狭いな!

自転車を横にして置いたとき、ちょうど前後のタイヤが真っ直ぐ左右の壁を触れた。
私のMTB(これは懐かしい先代車だが)は全長約180cmなので、道幅もそれと一緒ということだ。(微妙に車体が斜めな気もするから、170cmくらいかも道幅)
しかも、左右とも路外の余地は全くない石壁で、その上ブラインドカーブという至極の立地となっている。
数字の上では、軽トラなんかは通れるはずだが、直線ではないし、本当にギリギリだと思う(笑)。

だが、そんな車道の限界を思わせる狭さとは裏腹に、路上の様子は思いのほか上等だ。
コンクリート舗装が完備されているだけでなく、ときどき清掃されているみたいに綺麗だ。
途中で塞がれていたりもしなかったし、予想に反して……、
廃道じゃないぞ、この道!



しかも、この作業スペースが全く無さそうな道に接する右側の岩壁に、先ほど市道沿いでも目にしていた(写真は撮っていない)二五穴っぽい横穴が空いていた。
二五穴というのは房総半島で広く見られる灌漑用の地下水路の地域称で、幅2尺高さ5尺程度の人が漸く潜り込めるくらい小さなサイズのものが多い。
しばしば道路や川沿いの岩壁に、それらと平行するように掘られていて、点々と横穴があるから存在に気づく。

ただ、ここにある横穴は、それだけであり、本坑に繋がってはいなかった。
だからもともと二五穴ではなかったか、未成の二五穴なのかは分からない。
断面の小ささ的に地下倉庫ではないだろうから、未成二五穴っぽい気がするが。

……といったような発見? 遭遇? を交えつつ……、



あ!




8:32 《現在地》

おお〜〜!

この隧道、生きてるぞ!




 菜の花香る隧道に、見覚えのあるヤツが……


2008/4/2 8:32 《現在地》

なんと隧道は生きていた!

昭和40年代以降、長らく地形図からは抹消状態であったため、おそらく廃道状態と予想をしていたが、思いがけない「生存」だ。
もちろん貫通もしており、坑口に立った瞬間、出口まで見通せた。
そのうえ、洞内には照明まで点灯していた。
これは行政の管理が及んでいることを物語っている。
途中、私道っぽいなんて感想を持ったが、ここは同音異義語の“市道”であった。

廃道状態を覚悟していたとはいえ、この道が今も市道に認定されていること自体は、探索前から把握していた。
またその繋がりで隧道名や長さなどの諸元も判明していた。
当サイトではお馴染みの『平成16年度道路施設現況調査』という全国の道路法上の道路にあるトンネルの一覧表に、当時の安房郡和田町に所在する4本のトンネルの1本として次のようなデータが掲載されていたのである。

トンネル名道路種別建設年次延長幅員有効高壁面路面
ウチゴウトンネルその他市町村道明治1(1868)年67m2.4m2.7m覆工なし舗装なし
『平成16年度道路施設現況調査』より抜粋

資料には「ウチゴウトンネル」とカタカナ表記であるが、この場所の地名が「内郷」(うちごう)であることから、迅速測図に描かれていたこのトンネルとすぐに結びついた。
そしてこの資料には、顔面が硬直するほど驚くべき数字が記されていた。竣功年が、明治1(1868)年となっていたのである!!!!
これは本来だったら200pxレベルの馬鹿でかフォントで馬鹿になるべき驚きの数字だったが、私はこの数字について冷静に疑っている。

実はこの引用元の資料では、竣功年を、「年号を表す0〜5までの数字(不明の場合は9)」と「年を表す1〜2桁の数字(不明の場合は空欄)」の組み合わせて表現している。例として「3 22」だったら、昭和22年ということだ。で、この隧道には「1 1」と表記されている。だから明治1年となるのだが、正直これが嘘っぽく感じてしまう。本来は「9」、つまり「不明」とすべきところを、担当者が誤ってデフォっぽい数字を入れたままにしていたのではないか……なんて。

で、探索当時は頼るべき資料も少なく、これ以上の追求が出来なかったのであるが、今は新たな資料もある。
それは南房総市トンネル長寿命化修繕計画という、南房総市が2021年に策定し2024年に改訂した最新資料である。
ここに内郷隧道は写真付きで掲載されており、全長66.7m、幅2.60m、高さ2.65mといったデータとともに、竣功年を「1945以前※聞取」と書いてあった。ようは、現地での聞き取りによって戦前と推測されはするが、正確には分からないとしているのである。
「明治1年」という数字を資料にインプットしていたのは旧和田町だと思うが、それを道路ごと引き継いで市道に認定した南房総市が、この数字を破棄していることが窺える。

なお、同資料により、現在この道路が市道小川5号線に認定されていることや、過去5年以内の点検では健全性が4段階の上から2番目「予防保全段階」と判定されていること、今後も令和15年までは維持・修繕の計画があることも分かった。
地理院地図にも描かれていないトンネルだけど、まだまだずっと現役の見通しがあるのは純粋に凄いと思う! さすが房総! 明治トンネルまだまだ死なず!



とまあ、坑口前で随分語ってしまったが、明治元年竣功は疑わしいとしても、戦前どころか明治16年には既に存在していたことが明らかになっている内郷隧道へ、突入する!

既に記した諸元からも分かるとおり、とても狭い隧道である。
幅2.6m、高さ2.65mという数字が、明治の竣功当初からのものなのかは明らかでないが、冒頭で述べたとおり、明治36年の地形図では既に幹線道路の一線を退いていた感があるから、近年のモータリゼーションや車両の大型化に対応して拡幅が行われた可能性は低いと思う。なにせ【直前の道幅】の方が隧道内部より狭かった。拡幅するなら先に向こうだ。

洞内の線形は直線で、勾配もないと思う。
壁は凝灰岩の一枚岩で、側壁は垂直で天井の左右の角が少し丸められた長方形に近い断面。どこまでも素朴である。
洞床も素掘りのようで、少なくとも砂利は敷かれていない。
また、岩盤の一部から僅かに水が染み出していたが、大部分はカラッとしていた。



洞床には地盤そのものが露出しているようだが、綺麗に均されていて、鋪装と同等の感触だ。
また、向かって右側の端にごく小さな側溝が掘られており、しかもそれはちゃんと機能している。
本当にすごい。明治当初の姿のまま、現代を生きている感じがする。



この隧道が身につけた唯一の現代的な要素は、たった2つだけ取り付けられた白色蛍光灯である。
大人が手を伸ばせば届くほど近くに取り付けられている。耳を澄ませばジーという音が聞こえてきそう。

全長の3分の1ほどを進んだところで、入口から見えていなかったものが現れた。



横穴だ!

それも、たくさん!

左、右、左……という具合に、左右の壁に概ね等間隔で横穴が並んでいた。
とりあえず、手前から2つ目までの穴は、鉄格子で頑丈に塞がれている。
その様子が、なんとなく地下の牢獄(そんなものの実物を見たことはないが)を連想させ、直前までのほのぼのムードに一石を投じる不気味さを感じさせた。

ただの隧道では、終わらなかった、歴史がありそうだ……。



扉ではなく、完全にはめ殺しにされた鉄格子というか鉄のメッシュフェンス。
奥は完全に真っ暗で見通せず、何かを封じているような不気味さが。
しかもこれが左右に点々と並んでいるわけで、ホラーものだったら間違いなく、覗き込んでいる最中に背中トントンされるヤツ。



目の細かいフェンスの隙間から、ライトの光線とカメラのレンズを射し込んで、内部を撮影した。
横穴の奥行きは数メートルで、天井も本坑より低く、頭が付きそう。
しかも、本当に牢獄でもあったかのように、小部屋状の空間であった。
柱か仕切りとして掘り残された岩壁が、空間に複雑な形状を与えており、視線の届かない空間もある。
なので見えないところかが、隣の横穴(小部屋)に繋がっているかも知れない。



最終的にこのような横穴は全部で5つもあった。写真は全てを振り返って撮影している。
残念ながら全て完全に塞がれており、立ち入られるものはなかった。
気になる正体だが、これはおそらく構造と立地から皆さまが想像されているとおりである。

少し先回りした話になるが、この後の探索中に出会う真浦地区住民の方のお話しによると、太平洋戦争当時に掘られた防空壕とのことだ。
この道が通じている真浦集落がある房総南海岸は、連合国による本土上陸地に想定されていたこともあって、戦時中に住民総出でトンネル内に横穴を掘って避難所にした。空襲警報がある度に、狭い横穴で大勢が息を潜めたという。
明治期に生まれた隧道が、その後も人々を助けていた事実を伝える、貴重な証言であった。


出口の光が間近に迫ると、そこでまた足を止めるべき遭遇があった。



隧道を名残惜しむ気持ちがあり、珍しく自転車は押しながら東口へ迫った。
手の届く範囲には石や岩しかなかった硬質的な西口から一転して、東口には光と草が満ちていた。おもわず"くしゃみ"が出そうな眩しい坑口なのである

そんな明と暗の境である出口手前の内壁に、ここへ来る途中の道でも【見覚えがある】窪みが、いくつも並んでいた。
内壁に並んだ“横穴”という意味では防空壕と同じだが、その規模も、心の在処も、全く違うものであった。



向かって右側の壁に居並ぶ、手掘りの石祠(せきし)群

地上にあるのは先ほど見たとおりであるが、トンネル内の素掘りの壁に設置できない道理はなく、ご覧の通り。
しかしこれは珍しい。一基二基ならまだしも(そのくらいは見たことがある)、出口付近の壁に7基も並んでいる。
それも、各々デザインが微妙に異なっていて、長い年月の間に増殖してきた気配があった。

全てに共通しているのは、壁を掘って石祠の造形を作り、そこに一基の石仏を安置してあること。石祠は単純な四角い凹みではなく、供物を置くための台も造形され、一部には舟形の光背を表現する線刻もあった。
隧道を掘るだけでは飽き足らなかった玄人裸足のローカル石工達が、それぞれの精神世界まで表現し始めた感がある。



石祠に安置されているのはいずれも素朴な四角形の石仏で、風化が進んでいて表面の刻字が読み取れないものも少なくなかった。
読取れたものの一例を挙げれば……

「南無牛頭観世音」「大正●年」

「牛頭観世音」「昭和廿七年三月十九日」

……などで、全体として牛頭観世音5、馬頭観世音1、不明1、年号について見ると、、明治1、大正2、昭和2、不明2であった。
このことから、隧道が明治から大正、昭和の戦後に至るまで長く利用され、かつ牛馬(特に牛)を使役する畜力交通が戦後まで存続していたことが読み取れた。もちろん彼らは交通だけでなく農耕にも活躍したことだろう。
南房総地方と言えば、江戸時代に幕府が峯岡牧を設置していたくらい全国に有名な馬産地でもあった。

とはいえ、このような牛馬主体の道路の利用そのものは、全国の農村において特別珍しいものではなかったろう。
かつては普遍的であった牛馬への感謝を、彼らの通路である隧道の本体へ刻むという行為が珍しい。
これらの石仏が路傍の草むらに埋れ、あるいは高台の神社に集められていたら、こうして私が目を留めることはなかったと思う。

“生きた隧道”は、何か民俗学的な意味からも、生きて証言をしてくれているようだった。



しかし不思議なことに、全ての石祠は向かって右側の壁、すなわち南側の壁に安置されていた。
何か信仰的な理由があるのだろうか。それとも岩質の違い? 見た感じ、特に違いはなさそうだったが……。
写真は、石祠群の真向いにあたる北面の壁の様子だ。
けばいたような手掘りの鑿痕が鮮やかだが、石祠は一つもない。




?!





8:40 《現在地》

!!!

(↑これが 200px だ)






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