隧道レポート 南房総市和田町の内郷隧道 後編

所在地 千葉県南房総市
探索日 2008.04.02
公開日 2025.01.31

 “おかめ洞”ふたたび!


“おかめぼら”再び!

このニュースは私の洞内を一瞬で駆け巡り、次の瞬間、叫び出したい衝動をぎりぎり抑えて、目の前の物体を凝視した。

北側の壁面にぽつんと一つだけ刻まれた、円形に近い、なんとも言えない形の線刻。
よく見ると、線刻の内側にのみ周囲の鑿痕とは違う凹凸が感じられ……、下ぶくれに膨らんだ両のほっぺに、おちょぼ口、中分けで左右へ流した髪型……、それはもう見るからに“おかめ”の顔であった。

いやいやいや、さすがにそれは想像力たくましすぎ。
なぜいきなり“おかめ”になる? そもそも人の面が彫られた隧道なんて他にあったか?
この形だって、コブシの実かもしれないじゃないか? 

……そんな反論もあろう。
だが、昔から当サイトを読んできた読者ならば思いだしてくれたかも知れないが、あったのだ。
人面、それも、“おかめ”の面が彫られた隧道が他にも。

その名も、“おかめ洞(ぼら)”を通称とする旧「遠藤隧道」である。
場所もここから遠くはなくて、7〜8km離れた同じ南房総市内。(レポートはこちら
今回の探索のわずか1ヶ月前、2008年3月の遭遇だったから、このときまだ“おかめ”の印象が強烈に残っていた。


 旧遠藤隧道 “おかめぼら” についての復習

以前の遠藤隧道は、明治19年に現在の隧道から約300mm程南方に開鑿されたため、坂道は解消されたが大きく迂回する道路であった。この隧道の三芳側入口の上部に、稲都小学校の一女生徒の絵を下絵にしたというおかめの面が彫られており、一名“おかめ洞”と呼ばれている。昭和9年に現在の地点に新たに遠藤隧道が開鑿され……

『丸山町史』(平成元年刊)より

以上が『丸山町史』に記されている“おかめ洞”の話である。
とても短い内容で、なぜわざわざ手が届かない坑門の上に“おかめ”を彫ったのか、とか、彫られたのは竣功当時なのかだいぶ経ってからなのか、とか、そういう詳細は事は何も語られていなかった。

前作レポートを書いた時点では、この隧道のほかに“おかめ”の意匠を有するトンネルを知らなかったし、地元小学生女児の下絵を利用したという経緯からしても、他にもあるとは考えなかった。もちろん、他にあるというような情報もなかった。

一つならば遊びであり、たまたまであり、奇抜という以上の意味などないと考えるのが普通だろうが、もし同じ市内に2つ以上あるとなると、これはちょっと考えなければならないのでは?
まだ世の中では知られていない、トンネルあるいは土木全般に関わる古い風俗や、地域的な流行が、あったのかもしれない。


今回、内壁に“おかめ”とみられる線刻が発見された内郷隧道とこの旧遠藤隧道は、同じ南房総市の市内にあるというだけでなく、どちらも明治10年代の竣功とみられることや、県道296号の旧道的な位置にある隧道であるといった共通点もある。
だがその一方で、“おかめ”が彫られている位置が坑門と内壁で大きく違っていることや、おかめのデザインそのものの違いもある。

果たして、これらの隧道は建設の時点で関わりの深いものであったのか。
そして、ともに“おかめ”を持つに至ったことには、どんな物語があったのか。
大いに気になるところであるが、今はまず内郷隧道の探索をしっかりと終えよう。




“おかめ”のスケール測定。
探索当時の私がとても愛用していて、仲間内ではちょっとした代名詞のようになっていた懐かしのアイテム「GENTOS SF501」(マグライト)を比較対象として溝にはめてみた。
これにより、顔面のサイズが分かると思う。

……遠藤の“子”よりは、だいぶ小さいね。
でも、小顔とはちょっと言えないかな。私やトリさんの顔よりはだいぶ大きいと思う。



出口を間近にして、洞内を振り返る。

“矢印”の位置に、“おかめ”が彫られている。
なんとも言えない、脈絡の無さである。
反対側の壁に並んでいる石祠は年代の異なるもの達が仲良く7つも並んでいるのに、“おかめ”はぼっち。
“おかめ”が居る側の壁に一つも石祠がないのはどうしてなの。“おかめ”が恐いの?

あと、なんで“おかめ”はこんなに位置が低いの?

…… … … … リアル小学生が彫った?



今度は出口に立って振り返っている。

もしかしたらこの隧道、過去に拡幅が企てられて一部着工したのかも知れない。
右側の壁、少し掘り広げようとした跡に見える。
もしかしたら、片側の壁にだけ石祠があることと、関係があるのか?
この拡幅で削りとられてしまった? “おかめ”のせいじゃない?!

“おかめ”がいつからあったのかにもよるが、拡幅着工前からあったとしたら、この工事如何では永久に消滅してしまったことだろう。
拡幅は果たされなくても、隧道は今も健在、そして、“おかめ”も健在である。
(“おかめ”を削りとろうとした拡幅工事関係者が次々と不幸な目にあったので工事中止になったというホラーなエピソードを想像してしまったのはヒミツだ)

外へ!



8:42 《現在地》

あら、素敵…。

“おかめ”に見送られるように外へ出れば、そこには感動的にまで秀逸な緑の道が。
ささやかな盛り土の路幅は隧道内のそれを引き継いでおり、かつては牛馬の挽く荷車や、耕耘機などの小型特殊が往来したのだろう。
いまではシングルトラックになっているが、それでも道は生きている。

山を潜ったことで、同じ南房総市内の和田町真浦という大字へ入った。
ここは太平洋へ注ぐ小さな小さな真浦川の流域だ。河口に真浦の集落がある以外に人家はなく、そこまでなお1km強の道のりがある。
地理院地図ではいま少し道のない区間が続くが、この調子なら廃道の心配は無さそうだ。



振り返る、内郷隧道東口。

【西口】との印象の違いが強烈で、僅か80m足らずの隧道とは思えないほど。
素掘りである坑口の岩肌は草や灌木に隠されて、2m四方の穴の暗がりだけがぽっかりと口を開けている。ジブリ作品に精通していない私でも、あるいはそんな私だからこそ、それっぽいと思ったのか。
草木に隠されそうな坑口が、なおここで踏み止まっているのは、生きたトンネルゆえである。闇の中に照明が見えるのが、なんとも頼もしい!



隧道を後に、草のシングルトラックを下り始める。
狭いが良く踏み固められた道だ。勾配もほどほどで、散歩にも最高だろう。
道端の一段高くなった畑へ登れば、おそらく行く先に輝く海が見えたことだろう。



満開の菜畑の畦をプレーキ操作だけで爽快に下る。
畑から溢れた花は路上にも歓びを与えていた。タンポポも釣られて咲き比べている。
そろそろ真浦川が近そうだ。



山腹から川沿いへ移り、周囲は深いブッシュになる。
しかしシングルトラックは健在である。藪漕ぎや倒木跨ぎとは無縁。この道は確かに生きている!嬉しい!楽しい!!
よほど気持ちが良かったらしく、わざわざ動画を回してこんな言葉を吹き込んでいた。
「こんなにも春って音に溢れていたのかと思うほど、いろいろな音が聞こえる。川のせせらぎ、鳥のさえずり……」。

……何もおかしな事は言っていないよ。
言ってないけど、18年ぶりにこんな自分のボイスを聞いてしまえば、つい茶化したくなるじゃない?
なに乙女みたいなこと言ってるんだって、“おかめ”に心洗われちまったのかって。
そもそもお前にとって、この音が新鮮なはずないんだよ。いつも聞いてるだろ。まあ藪を擦り壊す音に遮られることが多かったのも事実だけど。



隧道から約300m、親柱も欄干もないただのコンクリートの板のような橋が現れた。
この小さな橋が跨ぐ流れが真浦川であり、以後道は左岸へ。



薄っぺらなコンクリートの単純桁橋だ。
桁は昭和以降のものだろうが、それを支える橋台は重厚な石造りであった。これは明治からずっとありそう。

隧道とともに現地では名前を知る手掛りがないこの橋だが、南房総市が作成した令和元年度橋梁長寿命化修繕計画策定業務委託要約版という資料によると、市道小川5号線を構成する本橋には真浦境橋という名前があり、橋長4.3m、架設年度は昭和63(1988)年となっていた。現在の健全度はIIである。



川を渡った道端に、古ぼけた機械が置かれていた。
各所に「ダイヤモンド」や「KYOEISHA」の刻字も見られる。
この機械は脱穀機で、戦前から国内トップシェアを長らく誇った共栄社のダイヤモンド号だ。米や大豆の脱穀に利用される。



8:47 《現在地》

隧道から約350m、コンクリート舗装の道にぶつかった。地理院地図には点線で描かれている道だが、車が出入りしているようだ。
ここまで来れば、真浦集落で県道296号と再会するまで残り700mくらいである。


チェンジ後の画像は、分岐から来た道を振り返って撮影。
正面奥の一番低く見える鞍部の下に隧道がある。
生きた道だった。



合流地点を振り返り。左の道から出て来た。

合流先の道は一応舗装はされているが、軽トラよりも大きく重い車で走るのは遠慮した方が良さそうな感じだ。
カジュアルな感じで決壊した場所に、和田町役場と書かれたコーンが置いてあった。探索時点でも合併からは4年が経過していたが、それ以前から置かれていたっぽい。



以後、道としては特筆するところのない素朴な農道風景だが、途中で畑仕事をしているおじいさんと、散歩中のおばあさんに出会って、聞き取りと言うほどでもない立ち話をした。
おじいさんからは、先ほど隧道の中で披露した防空壕のお話を聞いたのであり、おばあさんからは、次のような話を聞いたぞ。

隧道の道は、小川地区の中学生が通学で和田浦駅に出る近道として自転車で通ったり、真浦の小学生たちが「お泊まり会」の行き帰りに引率の先生と団体で通ったりといったことに利用されている。「いた」ではなく、現在もそのように利用されているとのこと。県道は車が多いので車が通らない道は子供たちの安全な通り道として重宝しているそうだ。

……なるほど!
それでこの道は今も市道として行政がちゃんと維持を続けているわけだ。照明も点灯させて、草刈りもして。
私はこの探索に臨む前、歴代の地形図の変化を見て、明治36年版では早くも旧道のように描かれ、昭和42年版から隧道が抹消されていることを以て、またいつもの廃道・廃隧道だと決めつけた。しかし、道の存廃というのはそんなに単純なものではない。新道だから、旧道だからと、一元的に決定するものではなかったのだ。
地図からは省かれても、地域にとってはとても有意義な道があるということを教わった。

嬉しくなった私は、思わず隧道評論家にでもなったように「素晴らしい隧道でした!」と感動を露わにしたが、おばあさんは喜んでくれていたように思う。
ああ、あと、“おかめ”は不明。それが彫られていること自体、意識されていなかったと思う。
本当に見たよね、俺。 いま行ってなくなってたらどうしよう……。



やがて人家が現れ出すと、すぐに道は内房線の線路に突き当たり直角に左折、線路沿いへ。
100mほどで最初に現れた「真浦踏切」を右折して渡る。
内房線は山と海に挟まれた狭い平地に密集している真浦集落の山寄りをすり抜けている。
駅もありそうな雰囲気だが、実際に和田浦駅があるのはトンネルを一つ潜った1.3kmほど東だ。



線路の海側は入り組んだ路地になっており、一応道なりに進んで来たが、隧道の内部に負けないほど狭い。
一応別の道も選べるだろうが、どれも広くはない。
この辺りも、明治の道幅のまま固定化されている感じがする。



8:50 《現在地》《迅速測図での現在地》

国道128号の旧道である真浦集落内のメインストリートへ脱出した。
迅速測図の時代の仮定県道房総東往還である。
手前に進めば館山方面で、すぐに県道296号と合流、奥へ進めば鴨川方面で、こちらもすぐに国道128号現道とぶつかる。

チェンジ後の画像は入口を振り返り。
迅速測図から描かれている路地であるが、1.2kmほど先に生きた隧道があることを予見させるものは特にない。
それでも、地元の人たち、特に子供たちにとって、海と山という二つのフィールドを結ぶ大切な抜け道だった。

これを書いている2025年現在も、新しい世代の子供たちによって受け継がれているといいな。
南房総市では少なくとも2030年代まで、この市道とトンネルを維持する計画を明かしているぞ!



 机上調査編 〜情報乏しい内郷隧道の来歴と、“おかめ”の謎〜


“おかめ”のことが気になるだろうが(私も一緒だ)、まずは内郷隧道が誕生した歴史や経緯について調べてみたい。

この隧道については、明治16年に測量された迅速測図に掲載されていることから、それ以前に建設されたことは分かるのだが、由緒に関わる情報はとても少ない。
県道296号の旧トンネル的立ち位置という意味で共通項がある旧遠藤隧道については、『丸山町史』に明治19年の竣功であることが明記されていて分かりやすかったが、内郷隧道の所在地に関わる『和田町史 通史編 下巻』(平成6年発行)に、本隧道への言及はなかった。

いつものように国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索も行ったが、この隧道名でのヒットは無し。
やはり、現在の道路管理者自らが竣功年を不明であるとしている隧道の素性探しは、一筋縄では行かないようだ。
遠回りではあるが、この地域の道路の改良史を調べることで、内郷隧道の生まれに迫りたい。


ふたつの“おかめ洞”を繋ぐ存在となっている県道296号和田丸山館山線は、南房総市と館山市を東西に結ぶ約15kmの一般県道で、平成16年に南房総市が誕生するまでは館山市と安房郡の三芳村、丸山町、和田町を結んでいた。
この路線が誕生するまでの経緯については、『丸山町史』に断片的ながら参考になる情報が多くあった。

『丸山町史』によると、この県道の元となった道路は、明治14(1881)年に安房、平(へい)、朝夷(あさい)、長狭(ながさ)4郡の郡長となった吉田謹爾(よしだきんじ)氏によって整備されたものであるという。

彼は明治14年から28年まで長く安房4郡(明治30年に4郡が合併して新たな安房郡になって現在に至る)の郡長を務め、この間道路の整備に特に意を注いだとされる。就任直後の彼は、房州一帯の道路の現状について次のように手記に残している。

単に幅員の狭隘なるのみならずあるいは砂漠あるいは磯伝ひあるいは河中を往来し道形の存せざる所多く、また橋梁は絶無にして……牛馬の往来し得るものは絶へてあることなく往々足袋履物を脱ぎ水を渡る有様で……

『丸山町史』より吉田謹爾「橘堂手記」からの引用(抜粋)

そして続いて郡内の主要な道路を具体的に挙げ、それぞれの現状を記している。そこに県道296号の元となった道が登場する。次のような有様だ。

 (六)前田より白渚に至る道
遠藤坂を越えて前田より珠師ヶ谷、岩糸、小戸、中三原、小川の緒村落を過ぎ、白渚に出て県道に接続する路線は、ほとんど村境毎に険悪なる坂路であり、丸山川、白渚川の上流をはじめ、その他の細流にも橋梁はなく、旅人の往来はほとんど絶無にして、単に村人の耕作用の道に過ぎないものであった。

『丸山町史』より吉田謹爾「橘堂手記」からの引用(抜粋)

ここに登場した地名を上の地図上に全て記す余地はなかったが、地名をつぶさに追っていくと、今の県道296号の遠藤隧道より東側の区間が該当する。
注目すべきは、村境毎に険悪な坂路であったという部分で、この道の特徴をよく捉えている。今回探索した区間も、こうした坂路の一つであったと考えられる。
なお、ここに登場する「県道」というのは、当時は仮定県道であった今の国道128号を指している。

そして郡長就任後に彼がこれらの道を改修した経過については、『町史』に大正15年刊行の『安房郡誌』を引用する形で次のような記述がある。

(吉田)郡長は多額の資を投じて左記緒道路の改修をなし大に交通上の面目を改めたり、即ち、北条白浜間の道路、館山より豊房を経て曦町に至る道路、丸村より稲都を経て北条に至る道路、曽呂より平群を経て県道に達する道路、大山より平群佐久間を経て勝山に至る道路等之なり。

『丸山町史』より「安房郡誌」からの引用(抜粋)

これらの路線を現在の地名に当てはめてみると、今日の安房郡内にある県道の多くがこの改修を受けた道であることが分かる。その中で下線部の「丸村より稲都を経て北条に至る道路」というのが、現在の県道296号のうち、丸本郷(国道410号との交差点付近)より西側の区間に概ね一致する。北条というのは現在の館山市中心部である。余談だが、「大山より平群佐久間を経て勝山に至る道路」に建設されたのが、かつてレポートした安房白石隧道である。これも迅速測図に記されていた隧道だが、吉田郡長の事績だった可能性が高い。
また、あくまでこれらは郡の事業であり、当時仮定県道に属していた今の国道128号や127号は、千葉県の事業として改修が進められた。

『町史』はさらに吉田郡長による「丸村より稲都を経て北条に至る道路」の改修の詳細を次のように述べている。

那古より稲都を通り、遠藤隧道(明治19年竣功)から沓見の北辺を通り、前田、丸本郷を経て西原に入り、珠師ヶ谷釜滝隧道をぬけ、再び西原から岩糸を通り、小戸東方の五郎兵衛隧道(明治19年竣功)をぬけ、和田の県道に接続する路線は、枢要里道として明治20年6月に開設された。(中略)この路線のうち市場那古間は大正9年郡道となり、同14年県道に編入される。

『丸山町史』より

さて、一気に“隧道”が賑やかになってきた!
“おかめ洞”こと旧遠藤隧道はこの工事で誕生したものであり、他にも同期の仲間である釜滝隧道五郎兵衛隧道の名前が挙がっている。
これらの顛末も簡単に触れると、前者は釜滝トンネルとして健在だが、さすがに大規模に改修されて全く当時の面影はない。公的には昭和57(1982)年竣功とされている。後者は昭和3(1928)年に改修されて小戸隧道と改名、さらに昭和54(1979)年に開削撤去されて切り通しとなっている。

そして、この五郎兵衛隧道(=小戸隧道)があった地点が、丸山町と和田町の境であったことが悔やまれる。そのせいで、『丸山町史』にはこの先の和田町側の工事についての言及はない。
だが、「和田の県道に接続する路線は枢要里道として明治20年6月に開設された」とあるから、今回探索した内郷隧道もこの一連の工事に含まれていたのか? そのうえで、内郷隧道は明治16年の迅速測図に既に記入されていたので、明治19年に竣功した旧丸山町側の3本の隧道よりも少しだけ早く、郡長就任すぐに開削されたという仮設が成り立つ。

このように、県道296号の前身は、明治20年6月に郡事業によって開通した和田と那古を結ぶ枢要里道にある。
そしてこの路線のうち丸本郷の市場(国道410号との交差点)よりも西側は大正9年に郡道となり(路線名は郡道丸那古線)、さらに同14年には県道へ昇格したのであったが、どういうわけか市場から和田まで区間は郡道にも県道にもなれない期間が長く続く。それはやや不可解に思えるが、事情は審らかでない。

ここまでが『丸山町史』からの受け売りである。
今度は『和田町史 通史編 下巻』の記述を拾っていきたい。内郷隧道についての直接の言及がないことは既に述べた通りであるが、参考になる情報はちゃんとあった。


@
明治16(1883)年
A
明治36(1903)年
B
地理院地図(現在)


町史の記述を追う前に、本編前説でも紹介しているA明治36年の地形図について、もう一度振り返りたい。
この地図では、内郷隧道に対する新道を思わせる雰囲気で、現在の県道にあたるルート(これを向畑ルートと呼ぶことにする)が登場している。
向畑ルートには2本の隧道が描かれており(実際は3本あったが短いために省略されたらしい)、このうち向畑隧道は昭和45(1970)年竣功の向畑トンネルとして健在だが、昭和9(1934)年竣功とされていた向畑2号隧道と、昭和31(1956)年竣功とされていた小川隧道は、いずれも撤去済だ。

また、小川隧道と五郎兵衛隧道の間にもう1本、寺谷隧道というのがあり、この隧道の竣功年を明示した資料は未発見だが、@明治16年の迅速測図に内郷隧道とともに既に描かれている大古参だ。ここでは昭和54(1979)年に2代目の寺谷トンネルが掘られ、旧隧道は山中に現存している。

そして気になるのは、向畑ルートがいつ整備されたのかということだ。その時期次第では、内郷隧道ではなく向畑ルートこそが遠藤や釜滝や五郎兵衛の同期であって、内郷の来歴は別に求める必要があるかもしれない。
歴代地形図的には、明治16年から36年の間ということは分かっているが、もう少し絞り込みたいところだ。
そこでようやく、『和田町史』の出番である。

(県道)和田丸山館山線は、白渚より小川・中三原・下三原を経て丸山町へ通じる路線で昭和49年、町道から県道に移管されました。
この道路は昔から和田地区と北三原地区を結ぶだけではなく、丸山・三芳・那古に至る重要路線であったようで、明治22(1889)年ごろ、駒場よりで現在切通しに改良されたトンネル工事の際、死亡した地元の2名に対し、地元町村はもちろんのこと、近隣町村や各種団体から、あわせて25円の弔慰金が与えられたとの記録もあります。
町道時代には、向畑トンネルの改修や駒場から小川口バス体の間の改良が行われ、中三原の寺谷から下三原白石地先にかけては、町道和田市場線の時代に、町が町道改良のための用地買収を行い、工事は県が代行し、完成後、県へ移管になりました。

『和田町史 通史編 下巻』より

これらの記述により、重要なことが2つ判明した。
一つは、県道296号のうち旧丸山町市場より東の区間は、昭和49(1974)年まで町道和田市場線として管理されており、現在の寺谷トンネルはその時代に整備されていること。
そしてもう一つ、向畑ルートの新設工事が明治22(1889)年に行われていたことだ。現在は切り通しになっている小川隧道の新設工事が行われていたように読み取れる。開通は翌年以降かも知れないが、いずれにしても思っていたよりもだいぶ早い。
内郷隧道の開通が吉田郡長の就任後(明治14年)だとすると、それから10年足らずの間に整備されているのである。

これだけ時期が近いと内郷隧道に何か重大な欠点があったのかと想像してしまうが、現状を見る限りそのようなことは無さそうだから、これはもっと単純に、当時の開発意欲がとても旺盛で、少しでも便利な道を作ろうと、新道が続々整備されていたと解釈した方がいいかもしれない。実際『丸山町史』を読むと、この時期は並行路線のようなところでも道路の新設が相次いでいる。各村が我先にといった風潮だったのだと思う。

総合すると、明治16年以前から内郷隧道は(寺谷隧道とともに)存在したが、明治20年に枢要里道となったのは向畑を通る山越えの道で、この区間では明治22年頃に3本の隧道を有する新道(向畑ルート)の整備が行われた。その後も長らく里道→町村道として利用され、昭和49年に至って初めて県道へ昇格したという経緯だと思う。
内郷と寺谷の竣功年がはっきりしないのは心残りだが、現在知られている資料ではこの辺りが限界だ。
いずれにしても、“おかめ”仲間である旧遠藤隧道と同時開通でないのは確かであり、吉田郡長時代以前の開削という可能性も残っている。





“おかめ”が気になる? もう我慢できないって?

それでは、今度こそ“おかめ”の話をしよう。






内郷おかめが彫られた経緯は不明!



内郷おかめ遠藤おかめの関係性も不明!



何も分からない!

情報がなさ過ぎる。

2008年に当サイトで遠藤隧道“おかめぼら”をレポートし、同年内に『日本の廃道』の有料記事として2本目の“おかめぼら”発見例であるこの内郷隧道をレポートした。
それから既に17年も経過しているが、この間、読者さまからの“第3のおかめぼら”の発見報告は全くなし。
そして今回、17年ぶりに机上調査を試み、特に全文検索が出来るようになった国立国会図書館デジタルコレクションには大いに期待を寄せたが、“おかめぼら”やそれに類するキーワードでのヒットは見事にゼロ!
今流行のAIにも助けを求めたが……



わからん!

“おかめ”を岩に刻む風俗が一般的なものでないのは確からしいが、南房総にそれが2つあることにも風俗と言えるほどの深い意味はない?

たとえばだけど、“おかめぼら”と呼ばれて『丸山町史』に記されるほど地元で知られていた遠藤隧道の“おかめ”が先に在って、そのことを知っている地元の子供がいたずらで、内郷隧道の壁にも“おかめ”を棒きれとかで刻みこんだ?
そういえば、内郷隧道は昔から中学生の通学や小学生の遠足など、子供たちの往来が盛んであったという話を現地で聞いた。
内郷の“おかめ”が、大人から見ると妙に地面に近い位置に刻まれていることと関連がある?


わからん。

わからんが、県道296号の沿線には、今回紹介したほかにも多くの明治生まれの隧道が存在した記録がある。
沿道に拘らなければ、さらに膨大だ。

仮に2つ目以降の“おかめ”が子どものいたずらだとしたら、いやむしろそうだとすればなおのこと、伝播性は高そうに思う。
これらの隧道の中にも、“おかめ”を有していたものが存在した可能性があると思う。

残念ながら、その多くは後の開削や巻き立てによって見るべき地肌を残していないが…。その意味でも内郷や遠藤は貴重な存在である。

今回、“おかめ”の“ヒミツ”を解き明かすことが出来なかったのに、このレポートをリメイクして公開したのは、ひとえに皆さまからの新たな情報提供を期待してのことである。
どなたか、事情をご存知の方はおりませんか? ご家族、ご親戚、ご友人が南房総にお住まいの方がいたら、聞いてみて下さいませんか。
また、「こういう経緯ではないか」というご推察も大歓迎。
さらに、房総に限らず“おかめ”やそれに類する何かの刻まれたトンネルをご存知の方がいたら、それもぜひ教えて欲しい。

果たして“おかめぼら”は民俗か、子供のいたずらか。自然発生か。


ただ、今回調べていって分かったのは、“おかめ”の由来が、少なからず土木・建築と関わるものであったことだ。

最後にその話を紹介しよう。

ときは鎌倉、ところは京都……

(千本釈迦堂(大報恩寺)の由来)

ここはなんといっても「おかめさん」で有名な寺であり、「おかめの寺」ともいっている。これは本堂造営の際、棟梁である高次がふとしたことから寄進された掛け替えのない大事な柱の4本の中の1本を短く切り間違えて悩んでいたところ、妻の阿亀(おかめ)が他の柱も同じように短く切って足せば良いという助言をして、それが結果的には成功したという。ところが、もしその助言をしたということが他人にばれて夫の名声に傷が付いてはいけないと、安貞元(1227)年棟上げ式の日を待たずして可愛そうにおかめさんは死んだのだ。だから高次は亡き妻おかめの顔をお面に作り、扇御幣に飾り付けて棟上げ式の日に妻の冥福を祈ったそうである。それゆえいまでも棟上げ式には<おかめの御幣>を飾り付けて永久堅固や繁栄を祈る人がいるわけである。

『私の京都 愛する京へひとり旅』より

国宝・大報恩寺本堂の建立に関わる大工棟梁長井飛騨守高次の妻“阿亀”の伝説は、内助の功“おかめ”の福徳を知らしめるとともに、棟上げ式でおかめの御幣を捧げる民俗を作り出していた。
私は無知にも知らなかったが、このような伝説を下地とすれば、遠藤隧道の坑口に“おかめ”が彫られたのが開通当初であったとしても違和感はない。(いつ彫られたのかの情報はないが)
坑口に“おかめ”を彫ることが一般的でないのは確かだろうが、他にあっても不思議はない気がする。





“おかめ”の謎の解明を期待していた読者には申し訳ないが、いまはここまでだ。

皆さまからの情報提供、おまちしております!



おまけ

AIさんに「おかめ洞を想像で描いて」もらったよ。リンクをクリックして作品を見てみよう。

Google Geminiの絵  ・Microsoft Copilotの絵

(“おかめ”の要素はどこに? つか、Copilotさん食いしん坊?)





当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口

このレポートの最終回ないし最新の回の「この位置」に、レポートへのご感想など自由にコメントを入力していただける欄と、いただいたコメントの紹介ページを用意しております。あなたの評価、感想、体験談など、ぜひお寄せください。



【トップページに戻る】