
“おかめ”のことが気になるだろうが(私も一緒だ)、まずは内郷隧道が誕生した歴史や経緯について調べてみたい。
この隧道については、明治16年に測量された迅速測図に掲載されていることから、それ以前に建設されたことは分かるのだが、由緒に関わる情報はとても少ない。
県道296号の旧トンネル的立ち位置という意味で共通項がある旧遠藤隧道については、『丸山町史』に明治19年の竣功であることが明記されていて分かりやすかったが、内郷隧道の所在地に関わる『和田町史 通史編 下巻』(平成6年発行)に、本隧道への言及はなかった。
いつものように国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索も行ったが、この隧道名でのヒットは無し。
やはり、現在の道路管理者自らが竣功年を不明であるとしている隧道の素性探しは、一筋縄では行かないようだ。
遠回りではあるが、この地域の道路の改良史を調べることで、内郷隧道の生まれに迫りたい。
ふたつの“おかめ洞”を繋ぐ存在となっている県道296号和田丸山館山線は、南房総市と館山市を東西に結ぶ約15kmの一般県道で、平成16年に南房総市が誕生するまでは館山市と安房郡の三芳村、丸山町、和田町を結んでいた。
この路線が誕生するまでの経緯については、『丸山町史』に断片的ながら参考になる情報が多くあった。

『丸山町史』によると、この県道の元となった道路は、明治14(1881)年に安房、平(へい)、朝夷(あさい)、長狭(ながさ)4郡の郡長となった吉田謹爾(よしだきんじ)氏によって整備されたものであるという。
彼は明治14年から28年まで長く安房4郡(明治30年に4郡が合併して新たな安房郡になって現在に至る)の郡長を務め、この間道路の整備に特に意を注いだとされる。就任直後の彼は、房州一帯の道路の現状について次のように手記に残している。
単に幅員の狭隘なるのみならずあるいは砂漠あるいは磯伝ひあるいは河中を往来し道形の存せざる所多く、また橋梁は絶無にして……牛馬の往来し得るものは絶へてあることなく往々足袋履物を脱ぎ水を渡る有様で……
そして続いて郡内の主要な道路を具体的に挙げ、それぞれの現状を記している。そこに県道296号の元となった道が登場する。次のような有様だ。
(六)前田より白渚に至る道
遠藤坂を越えて前田より珠師ヶ谷、岩糸、小戸、中三原、小川の緒村落を過ぎ、白渚に出て県道に接続する路線は、ほとんど村境毎に険悪なる坂路であり、丸山川、白渚川の上流をはじめ、その他の細流にも橋梁はなく、旅人の往来はほとんど絶無にして、単に村人の耕作用の道に過ぎないものであった。
ここに登場した地名を上の地図上に全て記す余地はなかったが、地名をつぶさに追っていくと、今の県道296号の遠藤隧道より東側の区間が該当する。
注目すべきは、村境毎に険悪な坂路であったという部分で、この道の特徴をよく捉えている。今回探索した区間も、こうした坂路の一つであったと考えられる。
なお、ここに登場する「県道」というのは、当時は仮定県道であった今の国道128号を指している。
そして郡長就任後に彼がこれらの道を改修した経過については、『町史』に大正15年刊行の『安房郡誌』を引用する形で次のような記述がある。
(吉田)郡長は多額の資を投じて左記緒道路の改修をなし大に交通上の面目を改めたり、即ち、北条白浜間の道路、館山より豊房を経て曦町に至る道路、丸村より稲都を経て北条に至る道路、曽呂より平群を経て県道に達する道路、大山より平群佐久間を経て勝山に至る道路等之なり。
これらの路線を現在の地名に当てはめてみると、今日の安房郡内にある県道の多くがこの改修を受けた道であることが分かる。その中で下線部の「丸村より稲都を経て北条に至る道路」というのが、現在の県道296号のうち、丸本郷(国道410号との交差点付近)より西側の区間に概ね一致する。北条というのは現在の館山市中心部である。余談だが、「大山より平群佐久間を経て勝山に至る道路」に建設されたのが、かつてレポートした安房白石隧道である。これも迅速測図に記されていた隧道だが、吉田郡長の事績だった可能性が高い。
また、あくまでこれらは郡の事業であり、当時仮定県道に属していた今の国道128号や127号は、千葉県の事業として改修が進められた。
『町史』はさらに吉田郡長による「丸村より稲都を経て北条に至る道路」の改修の詳細を次のように述べている。

那古より稲都を通り、遠藤隧道(明治19年竣功)から沓見の北辺を通り、前田、丸本郷を経て西原に入り、珠師ヶ谷釜滝隧道をぬけ、再び西原から岩糸を通り、小戸東方の五郎兵衛隧道(明治19年竣功)をぬけ、和田の県道に接続する路線は、枢要里道として明治20年6月に開設された。(中略)この路線のうち市場那古間は大正9年郡道となり、同14年県道に編入される。
さて、一気に“隧道”が賑やかになってきた!
“おかめ洞”こと旧遠藤隧道はこの工事で誕生したものであり、他にも同期の仲間である釜滝隧道と五郎兵衛隧道の名前が挙がっている。
これらの顛末も簡単に触れると、前者は釜滝トンネルとして健在だが、さすがに大規模に改修されて全く当時の面影はない。公的には昭和57(1982)年竣功とされている。後者は昭和3(1928)年に改修されて小戸隧道と改名、さらに昭和54(1979)年に開削撤去されて切り通しとなっている。
そして、この五郎兵衛隧道(=小戸隧道)があった地点が、丸山町と和田町の境であったことが悔やまれる。そのせいで、『丸山町史』にはこの先の和田町側の工事についての言及はない。
だが、「和田の県道に接続する路線は枢要里道として明治20年6月に開設された」とあるから、今回探索した内郷隧道もこの一連の工事に含まれていたのか? そのうえで、内郷隧道は明治16年の迅速測図に既に記入されていたので、明治19年に竣功した旧丸山町側の3本の隧道よりも少しだけ早く、郡長就任すぐに開削されたという仮設が成り立つ。
このように、県道296号の前身は、明治20年6月に郡事業によって開通した和田と那古を結ぶ枢要里道にある。
そしてこの路線のうち丸本郷の市場(国道410号との交差点)よりも西側は大正9年に郡道となり(路線名は郡道丸那古線)、さらに同14年には県道へ昇格したのであったが、どういうわけか市場から和田まで区間は郡道にも県道にもなれない期間が長く続く。それはやや不可解に思えるが、事情は審らかでない。
ここまでが『丸山町史』からの受け売りである。
今度は『和田町史 通史編 下巻』の記述を拾っていきたい。内郷隧道についての直接の言及がないことは既に述べた通りであるが、参考になる情報はちゃんとあった。
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@ 明治16(1883)年 | A 明治36(1903)年 | B 地理院地図(現在) |
町史の記述を追う前に、本編前説でも紹介しているA明治36年の地形図について、もう一度振り返りたい。
この地図では、内郷隧道に対する新道を思わせる雰囲気で、現在の県道にあたるルート(これを向畑ルートと呼ぶことにする)が登場している。
向畑ルートには2本の隧道が描かれており(実際は3本あったが短いために省略されたらしい)、このうち向畑隧道は昭和45(1970)年竣功の向畑トンネルとして健在だが、昭和9(1934)年竣功とされていた向畑2号隧道と、昭和31(1956)年竣功とされていた小川隧道は、いずれも撤去済だ。
また、小川隧道と五郎兵衛隧道の間にもう1本、寺谷隧道というのがあり、この隧道の竣功年を明示した資料は未発見だが、@明治16年の迅速測図に内郷隧道とともに既に描かれている大古参だ。ここでは昭和54(1979)年に2代目の寺谷トンネルが掘られ、旧隧道は山中に現存している。
そして気になるのは、向畑ルートがいつ整備されたのかということだ。その時期次第では、内郷隧道ではなく向畑ルートこそが遠藤や釜滝や五郎兵衛の同期であって、内郷の来歴は別に求める必要があるかもしれない。
歴代地形図的には、明治16年から36年の間ということは分かっているが、もう少し絞り込みたいところだ。
そこでようやく、『和田町史』の出番である。
(県道)和田丸山館山線は、白渚より小川・中三原・下三原を経て丸山町へ通じる路線で昭和49年、町道から県道に移管されました。
この道路は昔から和田地区と北三原地区を結ぶだけではなく、丸山・三芳・那古に至る重要路線であったようで、明治22(1889)年ごろ、駒場よりで現在切通しに改良されたトンネル工事の際、死亡した地元の2名に対し、地元町村はもちろんのこと、近隣町村や各種団体から、あわせて25円の弔慰金が与えられたとの記録もあります。
町道時代には、向畑トンネルの改修や駒場から小川口バス体の間の改良が行われ、中三原の寺谷から下三原白石地先にかけては、町道和田市場線の時代に、町が町道改良のための用地買収を行い、工事は県が代行し、完成後、県へ移管になりました。
これらの記述により、重要なことが2つ判明した。
一つは、県道296号のうち旧丸山町市場より東の区間は、昭和49(1974)年まで町道和田市場線として管理されており、現在の寺谷トンネルはその時代に整備されていること。
そしてもう一つ、向畑ルートの新設工事が明治22(1889)年に行われていたことだ。現在は切り通しになっている小川隧道の新設工事が行われていたように読み取れる。開通は翌年以降かも知れないが、いずれにしても思っていたよりもだいぶ早い。
内郷隧道の開通が吉田郡長の就任後(明治14年)だとすると、それから10年足らずの間に整備されているのである。
これだけ時期が近いと内郷隧道に何か重大な欠点があったのかと想像してしまうが、現状を見る限りそのようなことは無さそうだから、これはもっと単純に、当時の開発意欲がとても旺盛で、少しでも便利な道を作ろうと、新道が続々整備されていたと解釈した方がいいかもしれない。実際『丸山町史』を読むと、この時期は並行路線のようなところでも道路の新設が相次いでいる。各村が我先にといった風潮だったのだと思う。
総合すると、明治16年以前から内郷隧道は(寺谷隧道とともに)存在したが、明治20年に枢要里道となったのは向畑を通る山越えの道で、この区間では明治22年頃に3本の隧道を有する新道(向畑ルート)の整備が行われた。その後も長らく里道→町村道として利用され、昭和49年に至って初めて県道へ昇格したという経緯だと思う。
内郷と寺谷の竣功年がはっきりしないのは心残りだが、現在知られている資料ではこの辺りが限界だ。
いずれにしても、“おかめ”仲間である旧遠藤隧道と同時開通でないのは確かであり、吉田郡長時代以前の開削という可能性も残っている。

“おかめ”が気になる? もう我慢できないって?
それでは、今度こそ“おかめ”の話をしよう。
が彫られた経緯は不明!
と
の関係性も不明!
何も分からない!
情報がなさ過ぎる。
2008年に当サイトで遠藤隧道“おかめぼら”をレポートし、同年内に『日本の廃道』の有料記事として2本目の“おかめぼら”発見例であるこの内郷隧道をレポートした。
それから既に17年も経過しているが、この間、読者さまからの“第3のおかめぼら”の発見報告は全くなし。
そして今回、17年ぶりに机上調査を試み、特に全文検索が出来るようになった国立国会図書館デジタルコレクションには大いに期待を寄せたが、“おかめぼら”やそれに類するキーワードでのヒットは見事にゼロ!
今流行のAIにも助けを求めたが……

わからん!
“おかめ”を岩に刻む風俗が一般的なものでないのは確からしいが、南房総にそれが2つあることにも風俗と言えるほどの深い意味はない?
たとえばだけど、“おかめぼら”と呼ばれて『丸山町史』に記されるほど地元で知られていた遠藤隧道の“おかめ”が先に在って、そのことを知っている地元の子供がいたずらで、内郷隧道の壁にも“おかめ”を棒きれとかで刻みこんだ?
そういえば、内郷隧道は昔から中学生の通学や小学生の遠足など、子供たちの往来が盛んであったという話を現地で聞いた。
内郷の“おかめ”が、大人から見ると妙に地面に近い位置に刻まれていることと関連がある?

わからん。
わからんが、県道296号の沿線には、今回紹介したほかにも多くの明治生まれの隧道が存在した記録がある。
沿道に拘らなければ、さらに膨大だ。
仮に2つ目以降の“おかめ”が子どものいたずらだとしたら、いやむしろそうだとすればなおのこと、伝播性は高そうに思う。
これらの隧道の中にも、“おかめ”を有していたものが存在した可能性があると思う。
残念ながら、その多くは後の開削や巻き立てによって見るべき地肌を残していないが…。その意味でも内郷や遠藤は貴重な存在である。
今回、“おかめ”の“ヒミツ”を解き明かすことが出来なかったのに、このレポートをリメイクして公開したのは、ひとえに皆さまからの新たな情報提供を期待してのことである。
どなたか、事情をご存知の方はおりませんか? ご家族、ご親戚、ご友人が南房総にお住まいの方がいたら、聞いてみて下さいませんか。
また、「こういう経緯ではないか」というご推察も大歓迎。
さらに、房総に限らず“おかめ”やそれに類する何かの刻まれたトンネルをご存知の方がいたら、それもぜひ教えて欲しい。
果たして“おかめぼら”は民俗か、子供のいたずらか。自然発生か。
ただ、今回調べていって分かったのは、“おかめ”の由来が、少なからず土木・建築と関わるものであったことだ。
最後にその話を紹介しよう。
ときは鎌倉、ところは京都……
(千本釈迦堂(大報恩寺)の由来)
ここはなんといっても「おかめさん」で有名な寺であり、「おかめの寺」ともいっている。これは本堂造営の際、棟梁である高次がふとしたことから寄進された掛け替えのない大事な柱の4本の中の1本を短く切り間違えて悩んでいたところ、妻の阿亀(おかめ)が他の柱も同じように短く切って足せば良いという助言をして、それが結果的には成功したという。ところが、もしその助言をしたということが他人にばれて夫の名声に傷が付いてはいけないと、安貞元(1227)年棟上げ式の日を待たずして可愛そうにおかめさんは死んだのだ。だから高次は亡き妻おかめの顔をお面に作り、扇御幣に飾り付けて棟上げ式の日に妻の冥福を祈ったそうである。それゆえいまでも棟上げ式には<おかめの御幣>を飾り付けて永久堅固や繁栄を祈る人がいるわけである。
国宝・大報恩寺本堂の建立に関わる大工棟梁長井飛騨守高次の妻“阿亀”の伝説は、内助の功“おかめ”の福徳を知らしめるとともに、棟上げ式でおかめの御幣を捧げる民俗を作り出していた。
私は無知にも知らなかったが、このような伝説を下地とすれば、遠藤隧道の坑口に“おかめ”が彫られたのが開通当初であったとしても違和感はない。(いつ彫られたのかの情報はないが)
坑口に“おかめ”を彫ることが一般的でないのは確かだろうが、他にあっても不思議はない気がする。

“おかめ”の謎の解明を期待していた読者には申し訳ないが、いまはここまでだ。
皆さまからの情報提供、おまちしております!
おまけ
AIさんに「おかめ洞を想像で描いて」もらったよ。リンクをクリックして作品を見てみよう。
・Google Geminiの絵 ・Microsoft Copilotの絵
(“おかめ”の要素はどこに? つか、Copilotさん食いしん坊?)