2010/2/4 15:33
現在地は、浜行川隧道と行合隧道の間の僅かな明かり区間。
ここから左へと、明治時代に作られ昭和28年に廃止されたという、旧行合隧道(仮称)へ続く旧道が分岐している。
だが、房総としても一番藪の薄くなるこの季節(2月)でありながら、明確な道の痕跡は見えない。
むしろ、はみ出さんばかりにススキが溢れている。
僅かに切られたステップ(階段)から、無理矢理進入すると…。
やぶ濃いです。
この猛烈に生長した藪の中に埋もれていたのは、道だけではなかった。
始めに見えたのは、屋根と思しき錆びたトタン。
次に小さなタイル敷きの階段と、その上にある建物の基礎が現れた。
道の方は完全な叢(くさむら)となっていて、立ち入ることが出来ない。
迂回の意味も込め、この廃屋の基礎へと登ってみた。
登ってみて驚いたことに、廃屋は廃屋でも、火災現場の跡だった。
民家が丸ごと焼けた跡のようでもあるが、無人になってから出火したのかも分からないし、余り知りたくもない。
ともかく、焼け爛れた材木や廃品の中を、何にも触れず踏まずということに気をつけながら進む。
問題は、この廃屋が建っている基礎が間もなく終わってしまうと言うことだ。
その先は…、左のなんか訳の分からない激藪へと戻らねばならないだろう…。
よっこいせ!
でたー!!
藪を脱出!
再び、あの落ち着いた照葉樹の森が始まる。
道もある!
キター!!!
キタァー!
これは、すごい雰囲気。
イイカンジだ!!
掘り出し物だよ!!
限りなく自然物であるかのような堀割が、奥へ奥へと続いている。
そして、その深さが限度に達したところで、突如ガツンと岩盤が立ち塞ぐ。
照葉樹が醸し出すちょっと怪しい森の雰囲気は、隧道が本来的に持つ、自然への背徳という妙味を際立たせる。
ひと言で言うならば、ムードのある坑口前の現場である。
ただ、
惜しむらくは、
こちらの坑口が、現存していなさそうだということだ…。
ぐむむむむ…。
これは、かなり現存が厳しそうだぞ…。
坑口前に、恐らく自然に積もっただろう土砂の山は、普通の明治隧道が埋もれてしまっても不思議はない高さに達している。
現に、ここから見上げる限りにおいて、開口している様子は見えないし。
もちろん風の流れも感じられない。
だが、実はこの写真には、坑門の一部がしっかりと写っているのだ。
それに気付いた人はいるだろうか?
私などは、余りにも予想外だったので、全然気付かなかったが…。
坑口前の瓦礫の山に、登ってみる。
登りきったところは、当然路盤よりも4mくらいは高い位置。
それなのに、見てよこれ。(←)
このシダやらコケやらがビッシリと生えている部分、どことなく坑口みたいな形をしている…。
とはいえ、別にこれが埋め戻された坑口の蓋というわけではない。
ただ、とにかくこの緑色の部分というのは、自然の岩盤ではないのである。
石 垣 なのである。
でも、坑口の上に、人工的な石垣(石積み)があるって状況。
よく考えるまでもなく、それって「石造坑門」だよね…?
大正解!
その通り!
なんとナント、この「旧行合隧道」の南口は、石造坑門を有していたのである。
石造の道路隧道は、全国的に見ても希少である(半分くらいが近代土木遺産に指定されているくらい貴重)。
“隧道とトンネルの国”といっても良いくらい隧道まみれの房総半島であるが、どういう訳か有るのはとにかく素堀素堀素堀素堀!!
っていうくらい、素堀しかない。
もちろん、平凡なデザインのコンクリート隧道は結構あるし、鉄道用に限っては煉瓦製もある。
だが、石。
明治隧道という言葉に最もしっくり当てはまる、石造隧道というものは、房総にも本当に少ない。
個人的に把握しているものを挙げても、これでわずか2例目である。(1例目は、内房の明鐘隧道(廃))
それだけに、嬉しかった!
素堀も素堀の味があるけれど、やっぱり石造や煉瓦の隧道は古隧道の華である。
まして明治生まれが決定的と言える状況でこれは、嬉しい!!
どう見ても異常としか言いようのない高く歪な形に積まれた“胸壁”(一応“帯石”の上に積まれている部分なのでこう表現した)も、個性的でベリーグッドだよ!
この奇妙な胸壁は単なるデザインというわけではなく、背後の地山が崩壊しないように抑えたものか、或いは工事中に崩れて空洞になった部分を埋めて整えたのだろう。
より古い旧隧道の坑口を埋め戻したという可能性も考えたが、確率は低い。
ぬっふふふ…
開口確認!
最も多いところで13段も積み上げられた胸壁の下に、1段の帯石があり、さらにその下にアーチ環が存在していた。
ぎりぎりであったが、アーチ環の上部が地上に残っており、あわせて僅かな開口を示していた。
間違いなくこの坑口は全面石造構造である。
ほとんどの部分が地中で見えないのがとても惜しい(道具を持っていって掘り出したいくらいだ)が、おそらく帯石以下はオーソドックスな意匠なのだろう。
…たぶん。
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15:42 《現在地》
出でよ! ネコマタス!
って言うほどは狭くないが、一応使っておく。
素堀ではない隧道で、こんな位置から入るのはあまりないことだ。
良い具合に緑を付けた帯石と、しっかり定位置に並んだ行儀の良い迫石と要石とを交互に撫でてから、いざ下半身を食わせる。
まだ中を見ていないこの時点でも、既に貫通はほぼ確信している。
下半身が風に当てられて寒い!!
そのまま仰向けの体勢で足から入ったので、洞内を歓声を上げるのは、身体がほとんど全部入った後となった。
うおぉ!
やっはー!!
やりやがつた…
やりやがつた!!
これ、房総で初めてのケースだぞ。
あの夏目漱石がその景観を愛したという(一応そういうことになっている)旧明鐘隧道にしたって、石造だったのは東京側の坑門と洞内の半分までだった。
それがこのはっきりとした名前さえ分からない隧道が、やってのけた。
完全石造隧道!
洞内より振り返る南口。
9分目まで土砂に埋もれており、遠からず完全に埋まってしまいそうである。
そうなってしまうと、かなり惜しい思いをすると思う。
実は現時点(平成22年2月)で千葉県内において、道路由来の隧道で近代土木遺産に指定されているものは一件もない。
明治以前からの隧道が日本一多かった千葉県にもかかわらずだ。
だが、この隧道(と旧明鐘隧道)は、最も指定に近い位置にいるのではないだろうか。
(むしろなぜ指定されていないのかと言うくらいだが、廃止されてしまっていることは大きなマイナス点になるようだ)
房州石と言われるものとよく似た(或いはそれそのもの)、見た目よりも遙かに軟質な石材が使われている。
経年劣化のせいもあるのだろうが、壁は触れるとどこも「さらさら」という感じに、砂となって落ちるのだ。
もし引っ掻けば、その形がそのまま残りそうなくらいである。
路面に一切の轍が残っておらず、踏み跡やゴミなども見あたらないのは、自然に壁から落ちた砂が堆積して、さらに吹き抜ける風が均してしまうためであろう。
これまた見た目に反して洞内は乾ききっており、とにかく「さらさら」である。
巻き立ての石材はこれほど風化しているにもかかわらず、欠けたり割れたりしている部分はほとんど無い。
特に欠けに関しては、天井に1〜2箇所見つけられただけである。
ちょうど左の写真のところがそうだが、大きな方の割れ目を覗き込むと、奥は白い砕石で満たされているのが分かった。
裏込めのグリ石であろう。
しっかりとした丁寧な施工を受けていることが分かる。
また、右の小さい方の割れ目は黒いが、これはゲジゲジたちである。
洞内では唯一この亀裂の中にのみ生息が確認された。
他の生物(例えば蝙蝠など)は見られなかった。
使われている石材は一種類ではない可能性がある。
というのも、北口付近の石材は触れても砂ほどには脆くはなく、フラッシュを焚いたときに見せる風合いも異なる。
より堅牢な石材を偏圧がかかる坑口付近に用いた可能性もあり、コスト削減の工夫かも知れない。
またこれが不思議なところなのだが、脆い方の石材(右の写真で言えば右半分)は、表面にやや光沢のある殻状の“かさぶた”を生んでいた。
まるで石材内部のカルシウムか塩分が析出して結晶化したようにも見えるが(蒸気機関車の通った鉄道用隧道では、煤煙が結晶化したものがこうして残っていることは珍しくない)、正体は分からなかった。
こうした石材に詳しい方のお知恵を拝借したいところだ。
ちなみに殻状の部分も、強く触れば割れるくらいに脆い。
興津東隧道 (旧行合隧道)(仮称)
全長:54.5m 幅員:3.6m 高さ:4.2m
15:50 《現在地》
わんだほ〜!
今回叫んでばかりだが、この北口も見どころがある!
というか、こいつは初めて見る形だ。
南口同様にフル石材の坑門であるが、妙にコンパクトに仕上げられている。
元々大きくもない坑道が、より小さく見える不思議なデザインといえる。
(交通安全上、今日の道路では採用しない方が良さそうなデザインだ(笑))
横から見た北側坑口。
だいぶ風化して石材の角が取れているが、それでも材と材の隙間は無く、ぴっちりと仕上げられている。
モルタルも使っているが、基本は石の丁寧な積み方だ。
こういう変形部材(斜めのラインが取り入れられた坑門の突出部)を上手に使っているのは、手慣れた印象を受ける。
前述したとおり、房総には現存する石造隧道は少ないのだが、かつては半島内にも多くの石造隧道があったのだろうか。
確かに、現在は素堀やコンクリートの隧道となっているものの中にも、昭和以降の拡幅で旧来の石巻を破壊されたものが無いとは言えない。
例えば、すぐ隣の現役隧道である浜行川隧道は、かつてどんな姿で竣功したのだろうか。
明治以前から風光明媚で知られた明鐘岬の隧道はさておき、“おせんころがし”に近いとはいえ、それほど観光色も強くないこの地で、これだけ微妙な石造隧道が現れたことは予想外の収穫だった。
この自然の岩盤との一体感は、特筆に値する。
道路の一部と言うよりも、すでに遺跡といった風格を醸し出している。
(前に50m離れたところから見たときには、ただの素堀坑門と思ったくらいだ)
だが、昭和28年より前には、ここを車が(もちろんバスも)通っていたのである。
“おせんころがし”の旧々道(大正10年廃止)よりは、ずっと後まで現役だった。
自然の回復力というのは、ほんとうに侮りがたいものである。
15:54
やはり瓦礫に半ば埋もれた堀割を50mほど歩くと、見覚えのある地点に戻ってきた。
これで一周である。
房総初の完全石材隧道を満喫出来たので、撤収する。
最初に入ってきた旧道の分岐地点に戻ってきた。
スタートは「ミスの取り直し」というマイナスからのスタートであったが、結果的には有意義な探索が出来て、大満足だった。
房総にさらなる石材隧道を探す旅も、これで張り合いを得たというものだ。(→あなたの情報をお待ちしております)