上信電鉄旧線 (上野鉄道) 隧道捜索編 (後)

公開日 2014.4.13
探索日 2014.4.02
所在地 群馬県下仁田町

線路端から、廃隧道内部へ



2014/4/2 12:10 《現在地》

明治30年の上野鉄道開業当初に開通し、大正13年の電化&改軌に伴って廃止されたという歴史を持つ、
名前の分からない旧煉瓦隧道へ、これから侵入を試みる。

上信電鉄の現在線に隣接する立地上、この坑口は多くの人の目に晒されているが、
内部についてはそうではあるまい。むしろ、線路端を歩かないと近付けない場所であるだけに、
内部については秘したる度合いが高いと感じられる。私の本当の役目はこっからだ!!




坑門は、山から落ちてきた土砂のため断面の半分程度を埋められていた。
元々軌間1067mmの普通鉄道用より遙かに小さな断面しか持たないナローゲージ(軌間762mm)用のトンネルであったため、入洞に際して特に天井の近さを実感した。

はじめて目にする洞内は、右に緩やかなカーブを描いていた。
その先に出口の明かりは見えず、代わりに崩土なのか意図的な埋め戻しなのか、ここからは判断が付かないが、30mほど奥に土色の壁が天井まで届いているのが見て取れた。
当然のように風も吹いてはおらず、涼しい春の外気に対しては隧道特有の冷気も感じられなかった。
しかし、“廃隧道”特有の土の匂いは、目をつぶっていてもここがどこであるか分かりそうなほど、濃厚であった。

入口から隧道の閉塞はほぼ確認出来たが、もちろん侵入する。



現在線と極めて近接しているという立地上、洞内に何らかの補強が施されている可能性を疑っていたが、上信鉄道はその必要がないと判断しているのだろう。
隧道の変状をモニタするような装置なども見られず、どこかの孤立した山中で見つかった廃隧道のように、完全放置で崩れるに任されていた。

奥の閉塞壁にばかり目が行くが、内壁の様子も観察しておきたい。
まず、内壁は全て煉瓦によるが、側壁とアーチ部で積み方が異なっていて、側壁は小口の段と長手の段が交互に現れるイギリス積み、アーチ部は長手積みによっている。この組合せは煉瓦隧道として一般的である。

しかし、ナローゲージ鉄道の煉瓦隧道というは結構珍しく、当サイトに登場したものでは、津軽森林鉄道(明治42年開業)の相の股隧道くらいしか前例がないのではないか。

また、煉瓦の壁が3色に見える点も印象的だ。
黒・白・赤の3色であり、今から90年近く前の廃止当時は、全体的にもっと黒かったものと思われる。
言うまでもなくこの黒は、上野鉄道が導入していたドイツやイギリス製の小型蒸気機関車が吐き出していた煤煙の汚れである。
白は、いわゆる白華現象のような、煉瓦や目地のモルタルの成分が析出した化学的な劣化によるものであろう。
また、一番深刻なのは煉瓦本来の色であるはずの赤い部分が斑に見えている事ではなかろうか。
これは外圧によって煉瓦の表面が割れてしまった結果と思われ、隧道の構造全体が相当劣化している証明であった。



入洞時点から見えていた“閉塞壁”に到達した。
坑口から30mほどの地点で、隧道の全長は分からないものの、反対側の出口ではなさそうだった。

実は間近に確認するまで、この閉塞壁は人為的な埋め戻しではないかと疑っていた。
すぐ隣の地上には現在線の切り通しがあるわけで、そんな場所に老朽化した廃隧道という空洞があるのは、問題である。
そういう考えから、埋め戻しが行われたのではないかと思ったのだ。

だが、実際にはここでも完全放置というのが、上信鉄道の判断であった。
閉塞部分の天井煉瓦壁には数メートル四方の巨大な穴が空いていて、そこから大量の土砂が洞内へ流入していたのである。
煉瓦の壁に遮られて見る事は出来ないが、この壁の上には落ちてきた土砂に匹敵する容積の空洞が生じていると思われる。



洞内の崩落は大規模であり、そこを通り抜けて先へ進む事は不可能(風の漏出も無し)だということが容易く確認出来た。

洞内探索を開始して1分くらいしか経過していなかったが、早くもやることをやってしまい、地上へ足を向けることになる。

閉塞壁を背にして外を見ると、先ほど述べた煉瓦の“3色”には、もう一色を加えなければならないと思った。
それは、外光の届く範囲の壁を埋め尽くした、美しくもまた頽廃の憐れさを彩る苔の緑であった。

浅い闇を容易く蹴って、溢れる生命の世界へと復帰。




――探索終了――?




否! まだだ。

反対側の坑門と、それに連なる閉塞の闇を、私はまだ見ていない!




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北口から、南口へ



もう少しだけコソコソと線路沿いを歩くわけだが、もの凄く「ドキッ!」とするものを見付けた。

気付けて本当に良かったのだが、廃隧道が埋まっている部分の地上斜面に設置されたネット状のフェンスは、ただの落石防止用のネットフェンスではなく、落石が衝撃した場合それを探知して非常警報を発令するセンサー装置だったのだ。

おそらく小動物が触れたくらいでは反応しないと思うが、人間が引っ張ったりすれば、作動してしまうかもしれない。
そうしたら、列車は緊急停止するのではないだろうか。
イタズラでは済まない一大事になるだろう。

しかし、このような装置を設けることによって、万が一廃隧道が圧壊して地表に被害が及ぶ事があったとしても、事前に列車を停止させるような対策を講じていたのであった。
決して廃隧道の存在は、安全上において看過されていなかったと言えるだろう。




そして、この切り通しである。

切り通しは、緩やかに右カーブしながら70mほど続いており、ここが容易にアクセス出来る場所ならば、人気の撮影スポットになりそうだった。

今から90年近く昔の土木技術者たちが、当時はまだ完成から27年しか経っていなかった煉瓦隧道を放棄し、そのすぐ隣に隧道ではなく切り通しの新線を設ける決断を下している。
この時の電化と改軌の工事がどのように行われたのかは分からないが、工事の規模からして活線工事(路線を営業しながらの工事)ではなかっただろう。
であるならば、隧道を更に一回り大きく掘り直してから、再び内壁を畳築する事は出来たはず。
敢えてそれをしなかったのは、当時既に隧道に何か良くない兆候があったのか、単純に工期や工費の面で、切り通し化が有利と判断されたのか。




人目に付く場所ではほとんど平坦な田園風景の中で、関東山地を背景にして走っている上信電鉄の、

ある意味でプレミア度の高い、山岳路線らしい風景である。

もし、路線名の通り信州への延伸が適っていたら、こういう風景を見れる場所はたくさんあったんだろう。




12:19 《現在地》

見つけた!! 隧道の南口!

見つけるまで、南口は現在線の切り通しに切り取られていて、現存しないかも知れないという不安があったが、杞憂に終わった。
むしろ、南口は先に見つけた北口よりも坑門の保存状態が良さそうだったので、ガッツポーズが出た。

※ 探索中は、出来るだけ線路内に立ち入らないように行動しています。
具体的には、やむを得ず線路を横断する場合の他は、バラストを踏まない位置(かつ出来るだけ列車から目撃されにくい位置)で行動しており、左の写真の地点へ来るときも、路盤ではなく、右の法面の下の斜面を歩くなどしています。このレポートを参考に現地へ訪れる場合は、くれぐれもご注意下さい(オススメしません)。現地は警報機が鳴る踏切が近くにないので、事前に列車の接近を知る手立ては、時刻表の他にありません。




保存状態が比較的良好な南口(下仁田側)坑門。

崩土によって下半分が埋め立てられているのは北口同様だが、現在線の開削に伴う破壊は最小限で、北口では失われていた上と横の端の大部分が原形を留めていた。
これにより、本隧道の煉瓦の意匠の全貌が、ようやく判明したのであった。

煉瓦意匠は、やはりシンプルな内容であった。
意匠的なものとしては、上端部にある2段に迫り出した笠石を唯一とし、同年代の煉瓦隧道にしばしば見られる帯石、扁額、柱石などは省かれていた。
煉瓦の積み方も特筆するような特徴はなく、アーチは小手積み4重巻き、それ以外の面壁はイギリス積みによっていた。

なお、群馬県といえば信越線の碓氷峠区間に数多くの煉瓦隧道を含む多くの煉瓦構造物が知られているが、その開通は明治26年で、上野鉄道の開業とは4年を隔てるのみである。また、地理的にも下仁田と碓氷峠は20kmも離れていない。
そのため、上野鉄道で使われた煉瓦は、信越線と同じ工場(官営工場)によるものではないかという印象を持っている(裏付け調査はしていない)。

さらに余談だが、現地から1kmばかり西の山中に、県道南蛇井(なんじゃい)下仁田線の小坂坂(おさかざか)隧道も明治26年の開通で、内壁の一部に(道路用隧道としては珍しく)煉瓦が用いられている(現在一部現存)。小坂坂隧道は当時富岡街道の幹線にあたり、この煉瓦も信越線との関係が疑われる。なお、『日本鉄道請負業史 明治篇』によると、信越線軽井沢〜横川間の工事で用いられた煉瓦の多くは、軽井沢に設置された官営塩沢煉瓦製造所によるという。



また、北口にはない南口の特徴として、短い区間だが明確な旧線の路盤が存在することが挙げられる。

坑口に続く浅い掘り割りは、特に煉瓦や石垣で補強された形跡もなく、ナローゲージ鉄道ということで、ここでも林鉄(跡)臭を醸し出していた。

なお、倒木などの散乱物が多く、その内部を歩き通すのは困難と見たので、妥協した。




この旧線の最果てであるが、隧道から100mほど下仁田側に進んだ辺りで、緩やかに現在線と合流していた。

もちろん現場まで行ってみたが、そこには小さな渓流を超える築堤があり、旧線時代は架橋されていた可能性もあるが、そうした痕跡は見られなかった。


さて、隧道内部への2度目のアタックで締めようか。

まあ、閉塞が確定している廃隧道へ潜るのは、余り気が進まないけれどな…。

内部が気にならないと言えば、それは嘘になる。





比較的保存状態が良かった、この明るい坑門の中は、

どうなっていたのか?




・・・



……きてるな。




全方位にわたって内壁煉瓦の崩壊が顕著で、
もはや組積性アーチとしての構造限界を迎えている事は明らかだった。
外圧によって砕けた煉瓦の破片が洞床に散乱し、壁と路盤が血を垂らしたように鮮やかだった。

不吉と戦慄の赤だった。

昔、二井山隧道が圧壊消滅する数ヶ月前の洞内が、まさにこんな壊れ方だったのを思い出す。
本隧道は既に内部の崩壊が閉塞レベルまで進んでいるが、坑門自体の圧壊消滅も遠くないのではないか。
大袈裟でなく、いまここで地震が起きたらヤバイと感じた。(これは私にとっても珍しい事)




煉瓦4重巻きの内壁は、随所で地圧のため破裂し、地山を露出させる状況となっていた。

廃止当時の本来の表面であった部分は、煤煙のため黒いので区別出来るが、赤い破裂部分との比率は、北口の内部と較べて圧倒的に少ない。

現在線を列車が走れば、当然震動が加わるだろうから、そのための落盤もあり得ない話しではない。
確率としては相当低いだろうが、個人的経験則から来る廃隧道100本に1本というレベルで長居したくない状況だった。




北口から見通せる位置にあるご覧の大崩壊は、先に南口で行き止まった閉塞壁とは異なるものであるのは、距離的に間違いないと思うが、もう終わってもいいよね。

閉塞確定なんだしサ。


「穴あるよ」 じゃねーんだよ!!
その穴は、絶対 “違う” から。




これは明らかに、が通るではなく、

隧道(ハクビシン)が通るだから…。 俺には、分かるんだよ……。



しかも…、すぐ先に“第2の閉塞壁”が待ってるじゃねーかヨ…。

無理してここをくぐることに、何の意味があるというのだ……。




意味など無くとも、人がくぐれる穴があるならば、行くしかないだろう…。


………もぞもぞ。

もぞもぞもぞ。

…頼むぞ、今崩れてくるなよ……。
出来れば、電車も通って欲しくない。


そして、這いつくばってこの隙間を、無事突破。
先には、3畳分くらいのスペースがあった。




潜り抜けてきた穴と、その隣に口を開けた巨大な落盤穴。

地獄の淵に片足を掛けていることを、強く実感する光景だった。
洞内へ零れきている岩は粒が大きく、生身の人間では退かすことなど、不可能だ。
ウッカリ転げ落ちてきて進路が塞がれたら、生殺しになりかねない…。




第1落盤と第2落盤の間のスペースは、狭く、息苦しい場所だった。
2つの落盤は5mも離れず近接しているため、両者が零した土砂の山は繋がっていて、本来の洞床に足が付く場所は無い。
断面の上半分、狭苦しいアーチ部分だけが、私の束の間の居場所だった。

しかも便りの壁面は、見ての通り、ほとんど真っ赤っか…。
既に述べたが、この赤い壁は構造物としての限界に近い状況を示していて、煉瓦本来の美しい色などと言う事は言ってられないのだった。
早く出たいぜ。




南口から30mほどの地点に待ち受けている、第2落盤壁。

状況としては第1落盤壁や、北口30mにあった閉塞壁と同様である。
天井が破れて、大量の土砂が洞内を狭窄している。

マジで、「穴あるよ」×2 じゃねーんだよ……。




← 左側の穴

右側の穴 →

チクショウ。

どっちも、微妙に開口していて、その穴の狭さゆえ、微妙な冷気の通風を、より敏感に感じさせてくれやがる。

つまり、この第2落盤壁の先にも、未踏の空洞領域が存在しているのである。
このことは、両坑口の位置から推定される隧道の全長100mに対し、南北それぞれの坑口から辿りうる長さを足しても60m程度にしかならないことからも頷ける結果である。
推定40m程度の“未踏の空洞”が、今なお地中に存在している可能性が極めて高い。

だが、私には無理だ。

身体より狭い穴を拡張してまで入る気にはなれない…。 少なくとも、ここでそこまではリスクを冒したくない…。
今回は、ここまでで勘弁…!




落盤と戯れるためだけに入洞したような隧道であった。

たった30mの往復に(逡巡することおびただしく)7分を要して、いま、脱出へ。




12:33

地上へ戻ってホッとしていると、

ゆるいウサギをヘッドマーク代わりに付けた“主役”が、風と共に現れた。

このゆるさの背後に思いを馳せるとき、交通とはつくづく侮れない。






【追記】 隧道撤去工事の写真が発見された!
2014.05.09 追記

先日、『上信電鉄三十年史』(上信電気鉄道・昭和30年発行)(以下『三十年史』とする)と、『上信電鉄百年史』(上信電鉄(株)総務部・平成7年発行)を図書館で借りてきたところ、隧道が撤去される当時の写真が掲載されているのを発見し、思わず小躍りした。
ついでに、隧道の正式名称や、撤去の詳細も判明し、大収穫であった。

早速、問題の写真をご覧いただこう。



『上信電鉄三十年史』(上信電気鉄道・昭和30年発行)より転載。

← キター!

※画像にカーソルオンすると、現在の同地点の画像を表示する。

この風景、紛れもなく高崎方坑口の過去の場面である。
そして、出典元の画像キャプションは、以下の通り。

(第一号隧道 これは廃棄された)

以上により、隧道の正式名までが判明したのであった。
何とも味気ない、しかし鉄道には相応しくもある、「第一号隧道」。それだけが、この短命なる隧道の名だった。

さて、写真をよく見てみよう。
見覚えがある1号隧道の坑門には、既にかなりの経年が感じられ、アーチ上部は煤煙による黒い汚れがこびり付いている。また、路盤にはレールが敷設されているが、明らかにナローゲージと分かる華奢さだ。

そして隧道を尻目に、その隣では現在線が通っている掘り割りが開削の真っ最中である。
そこにもレールが敷設され、人を乗せた数台の箱トロッコが、二人一組の作業員らしい男たちに後押しされている場面だ。
工事現場へお偉方が視察している風景を連想するが、正確にどのような場面なのかは記録が無く分からない。


『三十年史』の本文によれば、この写真が撮影されたのは、大正13年に行われた上信電気鉄道の改軌&電化の大改修工事(本文でも既述の通り、明治30年に開業した上野鉄道は、輸送力増強と収支改善を目的に、上信電気鉄道に社名変更後の大正12〜13年にかけ、全線33.7kmの電化と軌間762mmから1067mmへの改軌を同時に行った)の最中である。

なお、この工事は全線を4工区に分けて行われ、「2呎6吋の蒸気鉄道として営業しつつあるものを、運転休止することなく施工せねばならないので相当の苦心を重ねた」とあることから、活線工事であった事が新たに判明した。(そのため、一時的に路盤はこんな凄まじい事にもなっていた。←ミリンダ細田氏の大好物だ!
また、「線路の変更された部分は、極めて少く概略既設線路に基き曲線緩和、勾配の緩和、迂遠なる踏切道を付換へた程度に止めたのである。」ともあって、大規模な路線変更は行われなかったようだが、本項で述べる「第一号隧道」の撤去と、その近くにあった「鬼ヶ沢橋梁」の架け替え(「鬼ヶ沢編」を執筆予定)は、主要な工事であった。

さて、話しを第一号隧道に戻すが、現地の探索では不明のままに終わった隧道撤去の理由も、次の本文により判明した。(本文でも述べたが、この隧道は27年間しか使われずに廃止されている)

第一號隧道 (千平―下仁田間)
 これは営業運転中の隧道であったが、隧道内でカーブしてゐる上、急勾配をもつ悪条件を持ってゐた。従って、これを捲替(まきかえ)して改良することは、地質軟弱で、作業中崩壊し、運行中の列車に危害を及ぼす心配も考えられたから、写真の様に(←前掲の写真を指す)迂廻新線を作った。

廃止後90年を経た現在において、洞内は滅茶苦茶に崩壊している第一号隧道の地質の悪さは、現役当時から既に心配されていた事が分かる。
それに、隧道内のカーブや急勾配という悪条件もあるので、いっそのこと明かり区間に置き換えてしまおうという事になったようだ。
上野鉄道の黒歴史…といったら、さすがに気の毒であろうが…。


最後にここまでは敢えて無視してきたが、上野鉄道時代には「第一号隧道」と対をなす存在として、同じ区間のさらに下仁田寄り(地図)に「第二号隧道」が存在していた事に触れておきたい。
そしてこの隧道は、現在も上信電鉄線“唯一の隧道”、「白山隧道」として健在である。

締めくくりとして、『三十年史』から第二号隧道(白山隧道)の改良中の写真も転載し、現在の姿と見較べてみよう。



『上信電鉄三十年史』(上信電気鉄道・昭和30年発行)より転載。

第二號隧道 (千平―下仁田間)
 これも営業中の隧道であったが、地質が岩盤である為、工事にあたって第一号隧道の様な心配がなかった。捲換作業を施工、従来の煉瓦巻「コンクリート」巻立を取替えた。

後半の文章が分かりづらいが、当時の写真をよく見ると、内壁の向かって左側には撤去途中の煉瓦の巻き立てが見えるので、従来の煉瓦巻き立てを撤去してから、拡幅し、現在のコンクリートへと巻き替えたようだ。
これを全て活線工事(しかも当時としては手作業であったろう)で行ったのは、なかなか大変であったろうと思う。
写真はまさにこの活線での拡幅の場面であり、右上方向に新たな断面が掘進されつつある。

対して、現在の写真に写っているのは平凡なコンクリートの坑口で、どれほど古いものであるかの想像が難しい姿だが、これが記述通りに大正13年の竣功であるならば、(コンクリートブロック施工ではない)場所打ちコンクリート隧道としては、かなりの黎明期に建設された記念すべき構造物といえる。
上信電鉄、改めて侮り難しといったところか。