上信電鉄旧線 (上野鉄道) 鬼ヶ沢編 (後)

公開日 2014.5.16
探索日 2014.4.02
所在地 群馬県下仁田町


残されていた“明治の鉄橋”の真価。



2014/4/2 13:35 《現在地》

さて、今度はこっち側へ行ってみよう。




これは…。

進路を塞ぐように大きな倒木…より正確にいえば、大きな折れた枝が横たわっていた。

ここへ来る途中にあった「見学不適」という警告は、この状況によるものだろうか。
大人が数人掛かりであたれば、このくらいの倒木は撤去できそうだが…。
復旧が急がれていないんだろうなという事が感じられた。

倒木の枝と枝の間を掻き分けて進む。




がさ、ガサガサ…

おおっ! なにやら立派な案内板やら標柱やらがあるぞ。

ということは、ここには真面目に明治鉄橋が残ってるってこと?
スゲーじゃねーか。おい。

『鉄道廃線跡を歩く』シリーズに無い廃線跡は殆ど予習がないので、
廃線業界では有名物件だったのかも知れないが、私は驚いた。



ババぁーーン!

…ちょっとしょぼいと思った人、怒りませんよ。
案内板の大きさから予感されるほどに大きなものではないな、とは私も思った。

でもこれ、歴史の背景を考えたら、なかなか凄い逸品だと思う。
明治30年架設の鉄橋の現存も当然レアだが、ナローゲージ用というのは一層貴重であるに違いない。

少し深読みすれば、ナローゆえに廃線後の転用が難しかったり、上信電鉄がこれまで一度も路線の延伸や。他社線の買収を経験していない(買収されたこともない)ことも、この橋がここに残り続けた遠因にはなっているかもしれない。
その辺りを含めて、架設以来110年もの間ここにポツンと小さな鉄橋があり続けているのは、意外で面白みがある事だと思う。

なお、手摺りや踏み板など興醒めな添加物があるが、これも鉄橋の古さを思えば、見るだけじゃなく渡らせてくれるというのは立派なサービス精神だと考えたい。




以下、案内板の解説文を全文転載する。

富岡市指定重要文化財・下仁田町指定重要文化財
旧上野鉄道鬼ヶ沢鉄橋 平成18年11月29日指定(下仁田町) 平成19年9月29日指定(富岡市)

 富岡市と下仁田町の境界である大谷川(通称鬼ヶ沢)に架けられた鉄橋です。
 明治30年(1897年)、「上信電鉄株式会社」の前身である「上野鉄道株式会社」はレール間の幅が狭く、車輌も小型の軽便鉄道として建設されました。その後、大正13年(1924年)、電化・広軌化されて当時の上野鉄道時代の施設の多くは姿を消しましたが、この鉄橋と前後の軌道敷の痕跡は、今なお当初の姿で残されています。
 橋桁部分の全長は10m、幅は1mのプレートガーダ橋という形式で、橋台は煉瓦と椚石を用い、川底から10.7mの高さで構築されています。鉄材は外国からの輸入品ですが、制作は東京築地の月嶋鉄工所と考えられ、一般的に鉄桁の国産化は明治30年頃からとされていることから、本鉄橋は国産の最初期のものとみられます。
 上野鉄道は、明治26年(1893年)に富岡製糸場が三井家に払い下げになった2年後の設立であり、三井家はこの鉄道の筆頭株主でもあったことから、富岡製糸場の歴史とも関わりの深い鉄道であったことがうかがえます。
 この鉄橋は、上野鉄道株式会社時代の当初の姿を残す数少ない近代的構造物で、産業や交通の歴史上価値の高い近代化遺産です。
                   富岡市教育委員会

痒いところに手が届きまくる素晴らしい解説文に大納得。こうした理解があってこそ、本橋の価値は正しく評価されうるに違いない。
国産鉄橋黎明期の一橋という下りには、恐れ入りました。

なお、上記解説文中、橋台の材質を解説した部分で、「煉瓦と椚石」と書かれている。
この「椚石」というのが初見だったので少し調べたところ、椚(くぬぎ)石は、下仁田町のお隣の南牧村の古くからの特産物だということが分かった。
全国特産品ポータルサイト「日本逸品館」ご案内 南牧村の椚石【群馬県】の記事によれば、南牧村磐戸から採掘される銘石。大蔵省(現 財務省)、日本銀行や富岡製糸場など歴史的建造物につかわれていることで知られているとのことで、こういう部分でも本橋の、地域的特色を持った遺産としての価値の高さが窺えるのであった。



解説板のおかげで、鉄橋を観賞する下地が出来上がった私であったが、

いざ鉄橋を渡ろうと歩み出した私の目を真っ先に奪ったのは、大谷川の谷底に穿たれた、

ひとつの横穴だった。

橋を見に来たここにおいても、なぜか謎の穴を見つけてしまう私。
つくづく、穴に愛されているのかもしれないな。
解説板に穴の事は何も書かれていないが、何の穴か?



ともかく、鉄橋を渡ってみる。

最初はただ鉄橋を一往復して終わるつもりだったが、今は鉄橋の下へ降りてみる気持ちになっていた。
その動機の半分以上は、直前に見つけてしまった穴が気になったからである。

谷底にあるということは、単なる農業用水路のようなものである可能性が高いが、それにしては少し坑口が大きすぎる気がする。
新旧の鉄道と関係があるものだったら、無視してはおけないのである。

そして、谷底へ下りるためには、此岸にいても埒があかなかった。
思いのほか大谷川の谷は険しく深くそそり立っていて、此岸は下りようがなかった。
対岸についても、今のところ下降ルートは思い付かないが、まずは行動範囲を広げてみる必要があった。


橋上における感想を述べてみる。

まず、幅が狭い。
これほど幅が狭いガーダー橋は、同じナローでも林鉄用ではあまり見られないので、新鮮な印象を持った。
(林鉄の場合、この程度の径間ならば木橋やコンクリート橋を用いるので、この規模のプレートガーダーは少ない。一方、かなりの重量物を運搬する鉱山用軌道においては、こうしたPG(プレートガーダー)も散見されるようである)
軌間762mmのナロー用の鉄橋で、橋の全幅は1mちょうどということだが、妙に狭く感じられた。

建造されて110年も経ている超古橋であるが、人が渡っても揺れるような気配は皆無で、十分頑丈に感じられた。
結構高いうえに手摺りも簡易的だが、高所恐怖症の人でもなければ楽しく渡れるだろと思う。




渡り終わってから、PGの側面を観察している。

桁の側面に橋梁銘板と呼ばれる建造者や建造年を刻んだプレートが無いかを探してみたが、見あたらない。
解説板は、東京築地の月嶋鉄工所の建造であると推測していたが、なぜそう判断されたのかは、私の浅い知識では分からなかった。

さらに浅知恵による話しを続ければ、一般的にPGの製作年を知る手掛かりとして橋梁銘板の次に重視されるのが、側面に取り付けられている補剛材と呼ばれるパーツの形状であったりする。
補剛材は、側面に等間隔に取り付けられている梯子状の鋼材のことで、その名の通り桁の強度アップのためにあるのだが、その形から橋の設計の時期や地域を推測出来る場合がある。

ただ、本橋については、やはり私の知識では手に負えない。
というのも、国鉄の橋については設計者が絞られているので類型も判明しているが、私鉄となるとそうも行かない。
具体的には、明治34年以前の国鉄の標準設計の場合、補剛桁はイギリス系の「ポーナル型」と呼ばれる特定の形をしているのだが、本橋の補剛桁は国鉄では明治35年以降に採用されたアメリカ系の形状であり、現実に明治30年の開業当初に架かっていた橋であることと合致しない。

つまり、国鉄により設計された橋ではない(可能性が極めて高い)ということになるわけだ。
私鉄なので当然といえば当然だが、国鉄からの転用桁でないことは間違いがなさそうだ。



橋の先へと進むと、渡る前から見えていた小屋のそばへ。

屋根が大破した廃屋で、立地的には保線小屋の残骸のようであるが、微妙に10mほど現在線から離れているので、断定は出来ない。
もしこれが普通の民家の廃屋だとすると、先ほどの廃鉄橋が生活道路として長らく使われ続けていたことになるが、果たしてどうなのだろうか。




廃屋の脇を通りぬけると、すぐに現在線の緩やかな曲線が旧線の行く手を奪ってしまった。

こちら側もこれで旧線は終了なので、黙って引き返す。
そして再び、橋の袂へ。




さあて、どうやって下りようか。

流長や水量的にはごく小さな谷ではあるが、古くからの市町境だけあって、
その険しさは案外本格的である。 結構、思案に暮れるところがあった。




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ベストアングルから、謎の穴へ。



とまれ、最終的には下りることが出来た。

どうやって下りたかは、この写真に微妙なラインが見えると思う。
逆にいえば、それが見える人ならば問題無く下りることが出来る。



本橋観賞の一等席は、このへんかな?

橋長の割に深い谷や、対岸の謎の穴、その穴の上を走る現在線が、綺麗にフレームに収まってくれた。
特に、このアングルからだと興醒めな鉄橋上の歩廊が目立たないので、眺めていてとても嬉しくなった。
また逆に、橋上からだとあまり目立たない凝った煉瓦の橋台が、ここからだとその存在感を誇示してくれる。




解説板に特筆があった、煉瓦と椚石の橋台である。

両岸にあるが、特に左岸(富岡市側)のそれは高さがあり、立派である。
煉瓦の隅を象っている重厚な風合いの石材が、件の椚石であろう。

なお、現場は岬状に突出した形状をしていることと、この高さももあって、決して安定した立地条件とは見えない。
臨むのがこのような小渓流でなければとうに流失していたかもしれないが、そこは建造の精緻さによるものと信じたい。




下流側からの眺めも、かように捨てがたい。
橋長僅か10mに対し、橋高が負けずと10mあることが、この橋の存在感を増さしめている。

そして、いよいよ問題の穴の前にやって来ている。
さっき前を通ったときにチラッと中を見たが、そこに光は見えなかった。

つうか、坑口に人工的な石材による巻き立ての跡があるよな…!
遠目には自然の造形との判断が付きづらくて、敢えて触れていなかったが……。
こいつは、いったい………?




なお、谷は謎の穴のすぐ下流で直角に折れて、現在線と旧線に挟まれるように少し流れた後、現在線の鉄橋を潜って鏑川の本流に落ちている。
写真右に見えるコンクリートの巨大な壁は現在線の護岸擁壁である。
向かって左側に旧線の路盤があるが、こちらに擁壁は構築されていない。

こうした地形から、謎の穴が現在線の下を潜った場合、鏑川の川縁へ抜けることが想像された。
だが、実際にどうであったかは……  この後の洞内探索をご覧頂こう。




13:41 《現在地》

謎の穴は、明らかに人工物である。

坑口部に、整形された石材による巻き立てが存在している。
ただし、そのアーチは整ったものではなくやや歪であるうえ、後年の崩壊によるものと思われるが、端部が失われたように不揃いであった。
また、向かって左側の側面にだけ煉瓦によって巻き立てられているが、その巻厚はわずか1枚と、通常の煉瓦巻き立てでは見られないほど脆弱である。

こうしたことから、この隧道は恒久的に利用されるべきものとして作られていない事が感じられた。
やはり、大谷川の疎水隧道であろうか。

ただ、それにしては断面の規模が大きい気がするのと、現在の河床より1mほど高い場所に洞床があることが不自然である。
後者は単に河床が時期を追うごとに掘り込まれた結果かもしれないし、前者にしても疎通させる水量が多ければ、大断面とすることは十分考えられるが。




洞内へ入るのに、身を屈める必要は無かった。
そして、石や煉瓦の巻き立ては、入口付近の2〜3mだけだった。

なお、ここで注目していただきたいのは、アーチの見慣れない処理である。
通常、アーチの石材は一定のサイズのものを組み合わせて用いられるが、この隧道では天端部に楔(くさび)のような三角形の石材を差し込むことで、無理やりアーチとしての形状を保たせている。
道路や鉄道隧道では見られない(水路で一般的に見られるかは分からないが)簡易的な建造と考えられる。

また、向かって左側の煉瓦も、あまり丁寧に積まれている感じはしない。
この煉瓦の外に見えている面に、何か製造地のヒントになるような刻印が無いかを探したが、見あたらなかった。
ただ、煉瓦を用いている事から、もしこれが鉄道工事と関係する遺構であるとしても、現在線が建設された大正時代ではなく、旧線の明治時代だろうか。




 驚いた!

なんですかこれは。


素掘エリアに入って、何気なく坑口を振り返った私が目にしたものは、かように異常な光景であった。

高さ1.8m程度の巻き立てられた坑道の上に、その2倍に近い目測3mはあろうかという垂直の煉瓦の壁が、まるで重しのように乗せられていた。

地表の坑口には、これほど縦に細長い坑口であった気配はないが、故意にこのような形状にしたのかどうかも分からない。
ただ、この部分の煉瓦の壁はそれなりに丁寧に積まれている感じがするのが、ますます意味が分からない。

私が入ってきたのとは反対側の坑口から隧道を掘り進めたが、測量のまずさなどから、計画より高い位置に貫通しそうになり、慌てて洞床を掘り下げたのだろうか。

また、別の可能性として、この穴はそもそも疎水用でも道路用でもなく、何らかの鉱石を採掘するための坑道だったのだろうか。
それであれば、鉱石を求めてこのような不定型な断面に掘り進める事も考えられる。




素掘となった洞内には、落盤の痕跡が多数残っており、洞床の大半が瓦礫の底に沈んでいた。
ただ、それでも天井の巨大な空洞に見合う崩土は見られず、立って進めないほど通りにくい場所は無い。

また、洞内は全体的に乾き気味だが、所々で地下水が漏出しており、小さな鍾乳石が発達している場所があった。
コンクリートではないので、人工的な洞穴に誕生した、天然物の鍾乳石だろうか。
もしそうだとしたら、この洞穴が存在する期間を推し量るヒントになるかも知れない。




洞穴は、坑口から30mほどほぼ直線的に進んだ後で、おそらく落盤によるものと思われる土砂の山により、完全に閉塞していた。

途中、左右に横穴などは無く、最初は天井が異様に高かった断面も、入口から15mくらいで唐突に普通サイズになっていた。

閉塞部の土砂は多く水気を含んでいるほか、地表の樹木のものと思われる根が見えていた。
このことから、落盤閉塞地点は、鏑川側に存在すると考えられる出口ではないかと思われた。
ただ、現時点では当該の出口(やその痕跡を)を地表側から発見するには至っていない。




スパッとした解決を期待されていた方には申し訳ないが、この穴の正体は不明である。

一応私の中で一番有力な説は、煉瓦を多量に使用していることや、人や猫車が通行するのに適した断面のサイズであることなどから、明治の上野鉄道建設当初に何らかの目的で建設された工事用通路ではないかというものである。

この件について、近日中に富岡市教育委員会宛の質問を行うつもりなので、何か進展があれば追記したいと思っている。
図らずも本題の鉄橋ではなく、偶然見つけた謎の穴に多くの文字を費やしてしまったが、地表へと戻った私を迎えた明治鉄橋の秀麗なる姿をもう一度ご覧頂きながら、この現地報告を終えよう。








『上信電鉄三十年史』(上信電気鉄道・昭和30年発行)より転載。

例によってオマケをちょっと。

『上信電鉄三十年史』には、大正12〜13年に行われた電化&改軌工事中の現場写真が多く収録されているが(同『百年史』にも同じ写真が掲載されている)、そこにこの「鬼ヶ沢鉄橋」の建設中と完成直後の写真も含まれている。

ご注意いただきたいのは、ここに写っているのは明治の鉄橋ではなく、電化&改軌工事により誕生した、現在使われている鉄橋の方である。
ただ、これらの写真の隅には今回探索した旧線の路盤が見えているし、当時と今の風景を比較する上で十分参考になると考えて転載した。

工事中の写真を見ると、相当大規模に工事が行われている雰囲気で、一時的に大谷川が堰き止められていた可能性も疑われる。
となると、件の謎の穴は、この時に使われた疎水隧道なのだろうかと、私の疑問はますます深くなってしまう。きりがないので、この件はちょっと忘れよう。




そしてこれが、上の2枚の古写真と比較的近いアングルで撮影した、現在の鬼ヶ沢橋梁である。

明治や大正期の集落に近い山野の風景と、現代のそれを見較べたとき、ほぼ例外なく見出される感想 「現代の山河は緑が豊かで、かつての山河は禿げ山同然だった」が、ここでも当てはまる。
なんとなく現代は環境破壊が進行し緑の少ない世界であるかのように錯覚しがちであるが、少なくとも木炭を得るために無計画に近い状態で片っ端から伐採されていた戦前の農山村近接林に較べて、現代は遙かに緑が豊かである。そして、無利用である。

ちょっと鉄道からずれてしまったが、我が国の近代産業史上に小さく光り輝く上信電鉄を巡る風景の変化として、私のこんな感想を述べて終了〜。