とまれ、最終的には下りることが出来た。
どうやって下りたかは、この写真に微妙なラインが見えると思う。
逆にいえば、それが見える人ならば問題無く下りることが出来る。
本橋観賞の一等席は、このへんかな?
橋長の割に深い谷や、対岸の謎の穴、その穴の上を走る現在線が、綺麗にフレームに収まってくれた。
特に、このアングルからだと興醒めな鉄橋上の歩廊が目立たないので、眺めていてとても嬉しくなった。
また逆に、橋上からだとあまり目立たない凝った煉瓦の橋台が、ここからだとその存在感を誇示してくれる。
解説板に特筆があった、煉瓦と椚石の橋台である。
両岸にあるが、特に左岸(富岡市側)のそれは高さがあり、立派である。
煉瓦の隅を象っている重厚な風合いの石材が、件の椚石であろう。
なお、現場は岬状に突出した形状をしていることと、この高さももあって、決して安定した立地条件とは見えない。
臨むのがこのような小渓流でなければとうに流失していたかもしれないが、そこは建造の精緻さによるものと信じたい。
下流側からの眺めも、かように捨てがたい。
橋長僅か10mに対し、橋高が負けずと10mあることが、この橋の存在感を増さしめている。
そして、いよいよ問題の穴の前にやって来ている。
さっき前を通ったときにチラッと中を見たが、そこに光は見えなかった。
つうか、坑口に人工的な石材による巻き立ての跡があるよな…!
遠目には自然の造形との判断が付きづらくて、敢えて触れていなかったが……。
こいつは、いったい………?
なお、谷は謎の穴のすぐ下流で直角に折れて、現在線と旧線に挟まれるように少し流れた後、現在線の鉄橋を潜って鏑川の本流に落ちている。
写真右に見えるコンクリートの巨大な壁は現在線の護岸擁壁である。
向かって左側に旧線の路盤があるが、こちらに擁壁は構築されていない。
こうした地形から、謎の穴が現在線の下を潜った場合、鏑川の川縁へ抜けることが想像された。
だが、実際にどうであったかは…… この後の洞内探索をご覧頂こう。
13:41 《現在地》
謎の穴は、明らかに人工物である。
坑口部に、整形された石材による巻き立てが存在している。
ただし、そのアーチは整ったものではなくやや歪であるうえ、後年の崩壊によるものと思われるが、端部が失われたように不揃いであった。
また、向かって左側の側面にだけ煉瓦によって巻き立てられているが、その巻厚はわずか1枚と、通常の煉瓦巻き立てでは見られないほど脆弱である。
こうしたことから、この隧道は恒久的に利用されるべきものとして作られていない事が感じられた。
やはり、大谷川の疎水隧道であろうか。
ただ、それにしては断面の規模が大きい気がするのと、現在の河床より1mほど高い場所に洞床があることが不自然である。
後者は単に河床が時期を追うごとに掘り込まれた結果かもしれないし、前者にしても疎通させる水量が多ければ、大断面とすることは十分考えられるが。
洞内へ入るのに、身を屈める必要は無かった。
そして、石や煉瓦の巻き立ては、入口付近の2〜3mだけだった。
なお、ここで注目していただきたいのは、アーチの見慣れない処理である。
通常、アーチの石材は一定のサイズのものを組み合わせて用いられるが、この隧道では天端部に楔(くさび)のような三角形の石材を差し込むことで、無理やりアーチとしての形状を保たせている。
道路や鉄道隧道では見られない(水路で一般的に見られるかは分からないが)簡易的な建造と考えられる。
また、向かって左側の煉瓦も、あまり丁寧に積まれている感じはしない。
この煉瓦の外に見えている面に、何か製造地のヒントになるような刻印が無いかを探したが、見あたらなかった。
ただ、煉瓦を用いている事から、もしこれが鉄道工事と関係する遺構であるとしても、現在線が建設された大正時代ではなく、旧線の明治時代だろうか。
驚いた!
なんですかこれは。
素掘エリアに入って、何気なく坑口を振り返った私が目にしたものは、かように異常な光景であった。
高さ1.8m程度の巻き立てられた坑道の上に、その2倍に近い目測3mはあろうかという垂直の煉瓦の壁が、まるで重しのように乗せられていた。
地表の坑口には、これほど縦に細長い坑口であった気配はないが、故意にこのような形状にしたのかどうかも分からない。
ただ、この部分の煉瓦の壁はそれなりに丁寧に積まれている感じがするのが、ますます意味が分からない。
私が入ってきたのとは反対側の坑口から隧道を掘り進めたが、測量のまずさなどから、計画より高い位置に貫通しそうになり、慌てて洞床を掘り下げたのだろうか。
また、別の可能性として、この穴はそもそも疎水用でも道路用でもなく、何らかの鉱石を採掘するための坑道だったのだろうか。
それであれば、鉱石を求めてこのような不定型な断面に掘り進める事も考えられる。
素掘となった洞内には、落盤の痕跡が多数残っており、洞床の大半が瓦礫の底に沈んでいた。
ただ、それでも天井の巨大な空洞に見合う崩土は見られず、立って進めないほど通りにくい場所は無い。
また、洞内は全体的に乾き気味だが、所々で地下水が漏出しており、小さな鍾乳石が発達している場所があった。
コンクリートではないので、人工的な洞穴に誕生した、天然物の鍾乳石だろうか。
もしそうだとしたら、この洞穴が存在する期間を推し量るヒントになるかも知れない。
洞穴は、坑口から30mほどほぼ直線的に進んだ後で、おそらく落盤によるものと思われる土砂の山により、完全に閉塞していた。
途中、左右に横穴などは無く、最初は天井が異様に高かった断面も、入口から15mくらいで唐突に普通サイズになっていた。
閉塞部の土砂は多く水気を含んでいるほか、地表の樹木のものと思われる根が見えていた。
このことから、落盤閉塞地点は、鏑川側に存在すると考えられる出口ではないかと思われた。
ただ、現時点では当該の出口(やその痕跡を)を地表側から発見するには至っていない。
スパッとした解決を期待されていた方には申し訳ないが、この穴の正体は不明である。
一応私の中で一番有力な説は、煉瓦を多量に使用していることや、人や猫車が通行するのに適した断面のサイズであることなどから、明治の上野鉄道建設当初に何らかの目的で建設された工事用通路ではないかというものである。
この件について、近日中に富岡市教育委員会宛の質問を行うつもりなので、何か進展があれば追記したいと思っている。
図らずも本題の鉄橋ではなく、偶然見つけた謎の穴に多くの文字を費やしてしまったが、地表へと戻った私を迎えた明治鉄橋の秀麗なる姿をもう一度ご覧頂きながら、この現地報告を終えよう。