廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第10回

公開日 2016.12.06
探索日 2014.12.27
所在地 千葉県君津市

ここはどこ? 新しい谷での探索スタート!


2014/12/27 10:58 【現在地→GPS測位中……】

最後は瓦礫の山を掻き分けるようにして這い出した、ここは地上!地上!地上である!! 這いつくばった姿勢のまま、しばらく歓喜に震えていた。

私は、くだんの隧道を発見しただけでなく、通過することにも成功したのだ。
そして、そのこと自体もたまらなく嬉しいが、何よりも興奮するのは、私がいま軌道跡としての未知の領域に入り込んだことに対してだった。
この先に何が待ち受けているのかという事前情報が、これまで以上に薄い世界に入ったのである。
逆に言えば、どんなものがあっても不思議ではないといえる。

…さて、立ち上がろう。

立ち上がって、まずは……




まずは前を見る!

ここはどこだ?!


…まあ、当然のことながら、全く見覚えのない場所だった。
これで「知ってる場所」だったりしたら、異次元に迷い込んだとしか思えない(笑)。

足下は坑口付近を埋めている土砂や倒木のために、その先の地面より2mくらい高い。
見下ろした地面は20mくらい先まで平坦に見ており、この全体が人工的な掘り割りのように見えるが、おそらくは自然の谷に少し手を加えたのであろう。
完全に人工の掘り割りだと考えるには、いささか規模が大きすぎるのである。



振り返ると、そこに私の通り抜けてきた隧道は、なかった。

……そんな風に書きたくなる光景が、あった。

これはひどい。

上から落ちてきた土砂の堆積もさることながら、最も状況を悪くしているのは、とてつもなく巨大な倒木だった。
これがちょうど坑口を押しつぶすように倒れていて、圧倒的に開口部を狭めている。
後はその狭まった開口部に様々な障害物が詰まっている状況だ。

この坑口は大袈裟でなく、もしこちら側に初めて来たならば、この位置から見ても存在に気づけなかった可能性がある。
よかった。これが"出口"で、本当によかった。

それはそうと、私が地上へ脱出してから既に1分以上は経過している。
ということは、もうそろそろ、良いはずだ――



――私は、坑口を離れて歩き出す前に、ウエストバッグからGPSを取り出した。そして、画面を凝視。 →→→→→

この瞬間が、たまらないんだ!
右の地図は、正真正銘、当日この時点でのGPSログデータ(軌跡)である。

隧道という遮蔽物により一旦はロストした「現在地」が、今は隣の沢の中へ忽然と出現していた。
これこそ、隧道のワープ感を視覚的に示した好例だ。
私は地上から見れば、隣の谷にワープしたに等しい存在だ。隧道の効用はここに極まる!!

なお、このGPSログより改めて算出した隧道の長さは、約300mであった。
第一の古老の証言は少しだけオーバーだったことになるが、房総の隧道として、あるいは林鉄用の隧道としても、特筆に値する長さを持っていることが確認された。
また、第三の証言と共にもたらされた地図の描く“隧道の位置”が、正しかったことも確かめられた。



11:00  現在地

いよいよ坑口前から出発すると、ほんのわずかな距離で、大きな谷に突き当たった。

GPSで現在地を確かめた時点で分かっていたことだが、隧道を抜けた先は、トロッコ谷の“隣の谷”の本流のすぐそばであり、先ほどトロッコ谷から隧道に達するまでに、延々200m前後も狭隘で急勾配の支谷を遡らされたのとは、大いに対照的だった。
この状況を別の表現で表せば、トロッコ谷よりもこの“隣の谷”は数十メートルも高い位置を流れていて、両谷を連絡する隧道が一方的な上り勾配であったのも、そのせいだったということだ。
もしも隧道の断面が殊更に小さかったり、待避坑が残っていなかったりしたら、水力発電用の導水隧道を疑われるような立地である。

なお、この“隣の谷”を右へ向かえば上流方向で、左へ向かえば下流方向である。
二択だが、既に進むべき方向は、第三の証言の地図により、上流方向と決めていた。




これが、“隣の谷”の本流風景である。下流方向の眺めだ。

見たところ、歩けないような状況ではなさそうだが、私はこちらへは向かわない。
路盤らしいものが見えていないことは当然だが、第三の証言の地図は上流方向へのみ軌道を描いているし、何より片勾配を基本とする森林鉄道ならば、ここでわざわざ下流方向へ向かう逆勾配線を作るとは思えないからである。

それに、この“隣の谷”自体は、今回初めて立ち入る訳ではなかったりする。
2年前の探索でも、私はこの谷の下流のうち、トロッコ谷出合より1kmほどを往復しているのだ。
だが、その時には特に軌道跡らしいものは見つかっておらず、それゆえに引き返してトロッコ谷へと進路を向けた経緯があった。(レポート第1回の内容だ)



続いてこの写真は、同じ地点から眺めた、隧道のある支谷の様子だ。

谷はわずか30m前後で突き当たり、その先はきわめて急な崖となって一気に尾根筋を突いている。
房総の奥山を象徴するような峻烈な光景に、ほっと息が出た。
本来ならば、この位置からも隧道の坑口ははっきり目視できるはずだが、今その位置には巨大な倒木が横たわり、巻き添えに朽ち果てようとしていた。
もうどうにも出来ないのだが、完全に朽ちた後にも穴が残ってくれることを願うだけである。

重ねて言うが、こちら側からだと隧道の発見はより困難であったと思う。
第三の地図があればまだしも、それ無しでは、この谷の奥を調べようという気にはならなかったと思うのだ。




同じ地点からの眺めの最後の1枚は、これから進む上流方向だ。

ここから見る谷はトロッコ谷の本流と同じくらいに狭く、谷水も河床の土砂を伏流しているものか、地上に見えていない。
路盤らしいものも見当たらないが、今更そんなことで怪しむはずもなかった。

なにせこの路盤は、今から思ってもトンデモナイ、そんな支谷を遡ってきた先なのだ。
もう驚くことは、何もないと思うのだった。

さあ、おそらくこれが谷奥探索の最終ステージだ。

「ゴール」を探しに出発しよう!!




“隣の谷”での奥地探索、そこで見たのは古い…


“隣の谷”を、上流へ向けて歩き出した。
一度は終点を極めたと思った林鉄で、おそらくもう一つ存在した別の終点を目指している。
いよいよ最後のステージという印象が、私の心を常よりも昂ぶらせた。
なお、第三の証言の地図を見る限り、その終点とされる地点までは、わずかな距離である。
図上で測ったところ、だいたい250mくらいで線は途切れていた。

歩き出してすぐに、私は河床の砂利に混ざっていたビール瓶の破片らしいものと、茶碗の欠片らしきものを相次いで発見した。
そういえば2年前の下流探索でも、茶碗の欠片を見つけていたことを思い出す。
どこか上流にある共通の地点から流れてきたものなのだろうか。前に見つけた場所は、ここから谷沿いに2kmは離れているが…。




ところでこのビール瓶の破片らしいものだが、帰宅後に調べたところ、確かにその通りのものであった。
しかも、想像以上に珍しい年代物だったらしい。

瓶の底の面に特徴的な五芒星が刻まれたこのビール瓶は、大日本麦酒(だいにっぽんびーる)という現存しないビールメーカーが製造したものであった。
同社は明治39(1906)年に創業し、我が国のビール業界に7割という圧倒的シェアを誇ったのであったが、戦後間もない昭和24(1949)年に財閥解体の流れから現在のアサヒやサッポロに連なる会社に分割されて消滅した経緯がある。
つまり、この瓶は昭和24年以前に製造され持ち込まれたものである可能性が極めて高く、これは、軌道は戦前に廃止されたという第三の証言者の情報とも合致する。

…それほど古いものとは思わなかったが、思わぬお宝発見であった!




順調なペースで進んでいく。
相変わらず両岸は険しいが、河床が歩きやすいので、何も問題はない。

また、この険しい岩壁の目線より低い位置にはときおり、既に見慣れた“孔”が穿たれているのを見つけた。
もはや疑ってなどいなかったが、軌道は確かに隧道を抜け、この谷の上流へ入り込んできたのだ。

戦前の廃止でかつこんな水際の立地となれば、岩に穿たれた小さな橋脚孔と、山に穿たれた大きな隧道坑以外の遺構を期待するのは、難しいことなのだろう。
しかし、そんな遺構の希薄状況も、今の私には逆に興奮を高めるものであるような気がしていた。
だって、こんな路線はなかなか普通じゃないんだから!




11:07 現在地

滝だ!


唐突に、難所が、来やがった……。



“隣の谷”の本流を歩き出して150mくらいで、この滝が現れた。

中央の水流部分の落差は3m程度で、決して大きな滝ではないのだが、
鋭く切り立っているうえに、苔むしたスベスベの岩盤で、手がかりに乏しい。
特に沢登りの装備など持っていない私にとっては、この落差でも直登は困難だ。

迂回を考えるが、たった3mの滝の周囲を取り囲む両岸の岸壁は、
その何倍もの高さがあり、これも手近に上れるような場所は見当たらない。


むぅ、どうしよう。




少し悩んだ末、左図のようなルートを見いだし、先へ進むことに成功した。

右の写真はその途中、左図の“★印”の地点まで上って下を撮影したものだ。

こんな現場が現れる度、軌道はいかに乗り越えたのだろうかと不思議に思うが、間違いなく乗り越えはしたらしい。
この場所にも、左図の“○印”の位置に、そんな痕跡があった。
右図のチェンジ後の画像が、それ、である。

滝の落ち口近くの岩盤に穿たれた、きわめて鮮明な孔。
横向きに柱を挿して、その上に桟橋状の路盤を構築していた可能性が高い。

ここは林鉄界のアスレチックステージかと思えるほどだ。
あらゆる小手先を駆使して、とにかく1メートルでも奥まで先にレールを延ばしたかった。
そんな印象があった。
代替の輸送手段を全く想定できない、そんな必死さを想像した。
そしてそれは、現代においてもそうなのだった。この谷へ入る道は、未だ存在しないのだから。



滝を乗り越えても、両岸の切り立ち様は全く衰えなかった。

100人の観光客がここを目にすれば、おそらく80人は感動すると思える、美しい彫刻のような峡谷が続く。
所々は頭上の岸壁がオーバーハングしていて、天然の片洞門のような場所さえあった。

ここはまさに自然の造形美を実感できる一大景観なのであるが、よくよく近づいて見てみれば、その随所にかつて軌道跡を通じた痕跡があるという、このギャップが面白かった。


そして、この狭き谷を汗顔鮮やかにくぐり抜けた先は、いよいよ――

第三の証言者の地図の

終点擬定地!




軌道跡としての最奥の痕跡を発見!!?


11:16 《現在地》

GPSの指し示す「現在地」が、“その場所”に近付くと、

急に谷の景色が広がった!!

イメージは、2年前に見たトロッコ谷の終点らしい場所と、よく似ていると思う。
そういえば、あそこもちょっとした滝の先に開けた場所だったのだが。

滝の突破に手こずったため、隧道前からわずか300mほどを前進するのに15分以上もかかったが、
これはいよいよ、この林鉄跡の最奥を極めるときが来たのではないだろうか!!
先ほども書いたとおり、第三の証言者の地図は、この辺りで肉筆の軌道跡を途絶えさせている。

私は、辺りの地面をこれまで以上に念入りに調べはじめた。
何か終点であったことの証しのようなものは、残っていないだろうか。




こっ、これは何だ!

それは、薄い金属製の小さな平べったい箱だった。
同じ形の箱を二つ組み合わせた姿は、懐かしの弁当箱を思わせる。
むしろそれ以外は思い当たらない。
きっとこれは、ここで山仕事をした人たちの弁当箱だと思う。
どのくらい古いものかは分からないが、木製でなく金属製というところからして、戦後のものではあるだろうか。

弁当箱……、そこからイメージされるのは、飯場か休憩施設のようなものの存在である。
林鉄の終点にも相応しいものではあるが、これを一つ見つけただけでは流石に判断は厳しいか。
周辺に建造物や敷地の跡は発見できなかったが、建てようと思えば建てられそうなスペースはあった。



広がった谷は、その先まもなく二手に分かれていた。
地形図で水線が描かれているのはこの場所までだが、実際の谷はまだ奥へと続いているのである。
地形的には左の谷が本流で、正面は支流のようだった。

どちらも入り口を覗いてみたが、これといってピンと来るものはない。

はて……、どうしよう。
これは少し難しいぞと思った。というか、悩ましいのである。
何が悩ましいかと言えば、軌道の終点を手っ取り早く確かめる手がないことだ。

第三の地図的にも、私の経験的にも、谷が集まっていて少し開けた現在地付近に、軌道の終点はあったのだろうと思う。
だが、具体的に「ここが終点」と断定出来る、或いはそれを強く示唆するような遺構は、どうも見当たらない。
トロッコ谷の終点には多数あった炭焼き竈の窯跡も、ここでは発見されていない。
ただ、一帯の河床は堆積した砂利で高くなっている気配があったので、水際のあらゆる遺構が既に埋没している可能性もある。



こういう比較的に穏やかな地形の場所で、かつ河床でも何でも通行していたなどとなると、林鉄の終点探しは難しいものだと思った。

万全を期すなら、ここから上流にあるすべての谷をつぶさに遡って「ない」ことを確かめなければいけない。
興味はあるが、それは少々“悪魔の証明”じみていて、実際に片っ端から確認するのはとても大変なことである。

しかもこの手の決断が難しく悩ましいのは、後日の安全な場所から、「なぜあのときもっと突き詰めなかったのか」と、後悔にも近いような自問自答をする心境が、しばしば起こりがちなことである。
だがこれは言い訳でも何でもなく、探索中は現場の判断が一番に優先されるべきだった。
そして私は、そろそろ決断の時を迎えているのだと、この現場で考えた。

この状況、体力的にはまだまだ余力は十分あったが、時間的には多分猶予はない。
今日はこの後、第三の証言者の地図で知った隧道擬定地を、もう2カ所ほど確かめに行きたかったのだから。
この場所はきっと、きりのよい切り上げ場所でもあった。逆にここを過ぎてしまえば、何を目処に切り上げれば良いのかを見失うかもしれない。



終点擬定地で特段それと分かるような発見が出来ず、切り上げを悩んだ私だったが、結局は、片道15分を上限に本流を遡ってみるという折衷案に落ち着いた。

もし、この片道15分の間に一切軌道跡らしきものを見つけられなければ、既に終点を過ぎたと判断して引き返そうと思う。

そしてそんな“15分限定延長戦”の最初の5分では、何も見つけなかった。
地形的には特に進むのが難しい場所もないが、逆にそのことが、この谷の軌道跡のほぼ唯一の痕跡となっている“橋脚孔”の出現を否定してしまっていた。
谷の勾配はこの写真のように少しきついところもあったが、これまでのことを思えば、これが乗り越えられない理由にはならないだろう。

そして次の5分のうち3分くらい経過したときに、私の足は止まった。





!!!




11:28 《現在地》

レール、あったんですけど!

これは、紛れもないレールですッッ!!!

発見されたレールの本数は、1本だけ。
しかも錆び付いている。
太さは明らかな6kg/mレールで、いわゆる手押し軌道用だ。(ただし戦前は、これでも機関車を走らせたケースがある)

また発見の状況としては、小さな谷の中で更に小さく蛇行する河道の岸の低い土崖の縁から、一方の端を河道上に浮かせる形で突き出していた。
露出している部分の長さは2m程で、残りががっちりと地面に刺さっており、手足の力では引き抜くことは出来なかった。おそらくは長さ5mのレールだろう

レールが1本であることや、枕木が一切見あたらない事などから、敷設された場所でそのまま埋没しているわけではなさそうである。
上流や上部から流出したものが埋没していた可能性が高いと思われる。
そもそも、レールが必ずしも林鉄用とは限らず、廃レールを谷止めなどに使っていた可能性もゼロとは言えないが、敢えてそこまで消極的な想像をする必然性もないだろう。

ともかく、一連の軌道跡でレールを見つけるのはこれが二度目である。
一度目は2年前の探索の序盤、トロッコ谷の入口付近での発見だった。忘れもしない。
以来、距離にして2km以上も一切見なかったのに、ここで再び現れたのだ。

事情は分からないが、まったくもって因縁めいていた。

まるで――

ここまで軌道は確かに伸びていた。それだけは伝えたい。

――そんな何者かの意図が、現実に働きかけたかのようだった。



11:43 《現在地》

そして私がこの場所でのレールの発見を、ことさら数奇なもののように感じている理由は、結局この錆びたレールが、現時点における最奥の発見になったからである。

予想外のレールを発見した私は、大いに色めきだち、そこから新たにもう15分をリミットに上流を目指しはじめた。
しかし、それから15分の前進では、新たなレールも橋脚孔も陶管片も炭焼き窯も茶碗もビール瓶も弁当箱も見つけられなかった。
人が出入りしたという痕跡を、見つけられなかった。

そして、後ろ髪をひかれる想いも少しはあったが、11:43のタイムリミットに写真の地点で撤収を決断し、実行した。



私が仮称“トロッコ谷”の奥地で行った探索の報告は、以上である。

最後に明確な終点を確認できなかったのは残念だが、第三の証言の地図で示されていた終点地点の100mほど上流で1本の廃レールを見つけたことで、さらなる奥地への軌道敷設に可能性を繋いだ感がある。
今回の撤収地点から谷沿いに7〜800m遡れば、そこは元清澄山の山頂がある市境(かつての上総国と安房国の国境)の稜線であり、現地でも最後に谷を上り詰め稜線の林道経由で帰ることも考えたくらいだが、林道はかなりの迂回で距離が大きいことと、往路の隧道をもう一度通ってみたかったので、それをしなかったのである。
だが例によって後日(というか現在)、谷の最奥部を確認したいという気分が高まってきて…………おそらく、今後に探索をすると思うのである(苦笑)。

房総最大級の全長300mクラスの大隧道を貫いたにしては、その先の軌道の延長が妙に短いことが気になる。
もちろん、そういうことも珍しいことではないのだが…(さらなる延伸計画が円満に進まなかった場合など)。
果たしてこの神の彫刻的峡谷のいずこかに、私のまだ知らない終点が、眠っているのかどうか。

なお、今回の“隣の谷”の廃レール発見地点を終点と仮定した場合、そこは笹川湖のバックウォーターで“トロッコ谷”と“隣の谷”の出合である地点から、おおよそ2kmの距離だった。
加えて、2年前の探索で確認した“トロッコ谷”の終点へ至る路線もあったとすれば、トロッコ谷近辺では合計2.3km前後の軌道跡が想定されることになる。
さらに、田代川と笹川湖を繋ぐ水没した隧道跡や、第三の証言者が教えてくれた湖底に水没した部分の全体を合わせると、最低でも5kmを超える路線網が想定されることになるから、全く侮れない。




一人の古老の証言より始まった、5年越しの“トロッコ谷”の隧道探しは、これにて解決となった。
しかし、その隧道をもたらした根源である軌道の全貌を探る闘いは、まだ終わっていない。
次はもう少し人界に寄った笹川湖及びその下流に眠る遺構を、第三の証言者の情報を元に確認していこう。
皆さまも肩の力を抜いて、お茶でも呑みながら、お付き合いください。