大間線〈未成線〉   赤川〜下風呂間

公開日 2006.07.04
周辺地図

 旧大畑町(むつ市)の北端である赤川を過ぎると、いよいよ未成線跡は大間町の隣に位置する風間浦村へと入る。
風間浦村は大間線工事の当時から変わらぬ行政区域を持っており、津軽海峡に面した細長い海岸線に、下風呂(しもふろ)、桑畑、易国間(いこくま)、蛇浦の各集落が並んでいる。
大間線にも、上記4駅が設置される予定だった。

周辺地図

 赤川〜下風呂間の距離は実測上約2.5km。
建設当時の地形図に記載されている予定線を見る限り、ここには甲隧道を始め3つの隧道が建設されたようである。
この区間の探索は、主にこれら隧道の調査となる。




 甲隧道跡

 殆ど痕跡のない大赤川橋梁跡の先の路盤には、それを挟むようにいくらか民家が連なっているが、間もなく並行する国道に上りが訪れると、路盤跡は不明瞭となる。
この国道の上りは“コの字”型に海へ突き出した甲(かぶと)崎の基部を乗り越える小さな峠で、大間線はここを延長416mの隧道で越えていたという。

 【午後5時00分 赤川地区より探索続行】



 現在、その坑口は国道の脇にあるが、残念ながらご覧の通り、コンクリートで頑丈に塞がれており、一見したところまるで橋台のような遺構となっている。
この坑口部の外側にコンクリの壁をあてがう塞ぎ方は、この先の大間線跡各隧道の標準的な閉塞方法となっていて、私たちはほぼ隧道の坑口の数だけ落胆を味わうこととなった。
大間線の隧道跡は、住宅地に口を開けていたものが少なくなく、比較的早い時期に閉塞工事が行われているようだ。



 そして峠の先となる弁天地区の民家裏に、甲隧道の北側の坑口の痕跡はあった。
塞がれた坑口は、足元を50cmほど埋め戻されてはいるが、坑口前には鉄道敷きを彷彿とさせる僅かな平場が残る。



 しかし、この場所へたどり着くには思いっきり民家の軒先を侵犯せねばならず、この状況には、この先の大間線各隧道跡で遭遇した。
具体的には、道路上からは鉄道跡の平場とその上に建つ民家しか確認できず、坑口跡を確かめるには民家の敷地を通って裏に回らねばならないのだ。
従来のメディアによるレポートが、坑口の状況を紹介できなかった事情が分かった気もした。

 昭和50年に大間線跡のまだ道路敷きに払い下げられていなかった部分の大半が、大畑町と風間浦村に払い下げられている。
その後、民間の手に渡っている。




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 弁天隧道(仮)    地図表示


 弁天地区には駅がなかったが、路盤跡は国道から一段高い道路として現在も健在である。
すれ違いの出来ない狭さに路盤跡を感じさせる道が、300mほど続いている。
写真右奥に見える出っ張った山並みは弁天崎で、この基部にも隧道があった。
仮に弁天隧道と呼ぶことにする。



 狭い道を進んでいくと砂利道となり、やがて高いコンクリートの落石防止壁に突き当って行き止まる。
だが、よく見ると壁の裏に更なるコンクリートの壁が見えている。
探索眼を鋭くしていないと見逃すだろう弁天隧道の南口である。



 壁を強引によじ登って裏手に回ると、やはり坑口跡があった。
前に立つ細田氏と比較すると、その大きさが分かるだろう。
 大間線の建設工事と並行するように、終点近い大間には青森県によって港が整備された。
それは竣功し、現在も細々と東日本フェリーによる函館航路が運用されているが、本来の大間線は戦後、青函連絡ルートとして利用される公算だった。
天候に左右されやすい海路距離が従来の青函ルートの三分の一以下となり、有用なルートだったろうと思われるが、周辺市町村や県の強力な陳情も実らず、遂に工事は再開されなかった。
その虚しさを物語るような、一度も使われずに埋められた隧道口である。



 坑口前の壁から民有地化した路盤跡を振り返る。
向かって左側の一段下に国道が通っている。



 我々は海沿いの国道を通って、弁天隧道の反対側の坑口がある畑尻地区へ進んだ。
弁天崎を越えると、行く手には大きな弓なりの海岸線が現れ、その最も奥まった辺りが本州最北の温泉郷とされる下風呂(しもふろ)温泉である。
大間線跡を最も積極的に観光利用している地域だ。
当時の地形図から想定して、弁天隧道の延長は200m程度である。



 うろつきながらそれらしい場所を探していると、この小路の奥が怪しい。

 またしても、民家の裏です……。



 素晴らしい残り方。
周辺一帯の山肌はみな大規模な急傾斜地対策工事が行われているのに、隧道坑門は取り残された形になっている。
この工事は銘板によれば平成のごく最近の物であるから、隧道坑口は敢えて手を付けず放置されたのだろう。
とにかく異様な姿だ。



 水が湧き出しており、僅かに開口部分が有ることが認められるが、内部を窺い知る術はない。
大間線跡では隧道内部の有効活用策は余り考えなかったようである。
地域によっては倉庫や貯蔵庫、キノコ栽培工場などとして使われた廃隧道も少なくない。
構造物自体の耐久性はまだまだ余裕があったはずで、勿体ない気がしないでもない。



 畑尻隧道(仮)     地図表示


 弁天隧道北口からは、集落裏に見渡す限り近代的な斜面が続いているのが見える。
その足元の路盤跡には、民家や小屋が斑に並んでいる。
やがて再び山肌が海岸線に近付いてきて、一つの短い隧道を設けさせていた。
それを抜けると、そのまま下風呂駅構内に入るようになっていた。
この隧道も名称が不明のため、畑尻隧道と呼称することにする。
 まずはその南口だが……。



 国道の下風呂地内に入る前の最後のこのカーブ。
その山側が怪しいと踏んだまでは間違いなかったが、この南口の捜索は難航した。
民家が道路脇に密集しており、その軒下をくぐって崖下に進まねば、斜面を目視捜索することさえ出来なかった。



 さらに、民家群の裏手はご覧の急傾斜面になっており、登る道さえない。
住人が設置したらしい木梯子でコンクリの斜面を登り、さらに草むらを掻き分けて、怪しい上部の平場へと接近することとなった。
集落側を振り返ると、それぞれの家の二階の窓が近く、他意はなくても、明らかに不審な行動となってしまうので、読者の皆さんはこのレポートを見て満足してください。(出来るだけ行かないように…)



 斜面をよじ登り、金網を乗り越え、ようやくコンクリート敷きの平場に到達。
このコンクリが路盤跡そのものなのか、或いは路盤跡に急傾斜地対策工事の際に敷かれた物なのかは不明。
だが、ようやく坑口を発見するに至った。
平場の延長線上、正面の緑の壁の一角に目を凝らすと……。



 確かに1m四方程度のコンクリの壁が辛うじて緑とツタの間だから見えていた。
写真ではちょっとわかりずらいが、ここに坑口跡が埋められていることは疑いがない。
この隧道は、約100mほどの短い物だったと想像される。

 戻りの最中、案の定住人の方に声を掛けられた。
幸いにして叱責を受けなかったが、かなり目立ってしまう場所だということをお断りしておきたい。



 さて、今度は下風呂側の坑口である。
下風呂集落内では、大間線は大きな半弧を描くような築堤と大アーチ橋でもって通過していた。
駅も築堤上に設けられていたのだが、詳細は次回紹介する。
まずはその築堤の南端にある、畑尻隧道の坑口跡である。
ご覧の景色は、築堤の南端の民家群で、例によってこの合間を縫って裏に回らねばならない。



 プライベートエリア全開の坑口前の路盤上民家群。
数軒分歩くと……。



 ようやく坑口の閉塞壁が現れる。
坑口跡を分断するように落石防護壁が築かれており、それが邪魔で坑口の全容を一枚の写真に納めることは出来ない。
だがともかく、隧道が存在した確証は得た。
もはやそこに隧道があったことなど、限りなく住民の関心事から遠ざかっていることを感じさせる景色である。



 振り返って歩くと、大間線跡では唯一の駅遺構とされる下風呂駅跡の敷地が大きく広がっている。
足元の跨道橋もまた、大間線の遺構の一つである。

 次回は、いよいよ着工された最終区間といわれる下風呂〜桑畑間を紹介する。
そこは、歓びと落胆が同居する、密度の濃い区間であった。







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