廃線レポート 真室川森林鉄道 高坂ダム周辺区間 第1回

公開日 2015.12.12
探索日 2013.06.09
所在地 山形県真室川町



「山形県公式サイト>近代化産業遺産>真室川森林鉄道」より転載。

右の写真は、山形県公式サイトにある近代化産業遺産を紹介するコーナーのうち、「真室川森林鉄道」のページに掲載されているものである。
掲載されている本文によると、この写真は「真室川町立歴史民族資料館に保管されているもので、写真は「鉄道友の会秋田支部」からの提供」だという。

私は、このサイトではじめて写真を目にしたのだが…

あの真室川森林鉄道に、これほどショッキングでアグレッシブなシーンがあったのかと驚いた!

当サイトの古い読者さんであれば、私が以前にも真室川森林鉄道を何度か探索しているのをご存知かもしれない。
これまでに掲載したレポートとしては、以下の4本がある。

公開順初回公開日探索日レポートタイトル&初回リンク
レポ@2003/12/312003/11/30廃線レポ 真室川森林軌道
レポA2004/2/152003/11/30隧道レポ 真室川林鉄安楽城線 二号隧道
レポB2004/4/192003/11/30隧道レポ 真室川林鉄安楽城線 一号隧道
レポC2006/9/22006/5/21隧道レポ 真室川林鉄安楽城線 二号隧道 再訪編

このほか、レポート化していない探索も多少あるが、基本的に真室川林鉄に対する私の印象は、東北の他の多くの森林鉄道と同じく、比較的穏やかな地形を舞台に活躍した路線である。
だが、この写真のシーンを知っていたならば、印象は少し変わっていたはずだ。
こんな場面が真室川林鉄にあったのか。
これはどこなのか。果たして今も遺構はあるだろうか。この規模である。道路になったり、ダムに沈んだりしていなければ、十分に残っているはずだが…。
ならば、こんな凄まじい絶壁の風景と共に、まだ見ぬ隧道が2本も存在することになるのである!

私が最後に真室川林鉄の探索をしたのは2006年であり、だいぶ時間は空いてしまったが、再訪する必要があると考えたのは、写真に気付いた2013年春のことだった。



【周辺図(マピオン)】

同じ写真を見て興奮していた人物は、もちろん私だけでは無かった。
そして、私よりも素早く行動を起こした人物がいた。
この時のメールのやり取りをきっかけに、以後何度も貴重な情報を提供してくださることになる尾花沢市在住の酒井氏もその一人である。
以下に同氏から2013年5月に戴いたメールの一部を転載する。

早速情報ですが、山形県ホームページ近代化産業遺産真室川森林鉄道の6番目の写真(隧道と隧道の間を運材車とDLが走行)が気になり、地形図から高坂ダム付近に在るのではないかと思い、雪解け直後に現地にて隧道があるのを確認しました。 雪解け直後は遠目での確認だったので、間近で写真を撮りたいと思い、本日ダム見学ということで高坂ダム管理事務所の許可を得て職員の方と同行し、ダムすぐ下流の橋の上から撮ることができました。内、1枚写真を添付いたします。

添付されていた画像は携帯で撮影されたものか、サイズが小さく鮮明では無かったが、確かに白黒写真と同じ地形の場所は現存していて、さらに隧道が口を開けていることが見て取れた。
加えて、「現場は高坂ダムすぐ下流」という、極めて有力な情報!! これで探索の決行が決まった。

…というような流れで探索へ向かったのであるが、その本編を開始する前に、舞台の説明をしておこう。
幸い、最近になって「近代化遺産 国有林森林鉄道全データ(東北編)」のような優れた資料が入手出来るようになったので、過去のレポートよりも正確に概要を説明することが出来る。

右図は真室川森林鉄道と称される路線網の全貌を示したものである。
幹となる本線は、奥羽本線の釜淵駅に隣接していた貯木場を起点に、最上川水系鮭川の源流である大川入に至る全長約30kmで、他にいくつかの支線があった。
山形県内では最長規模の路線で、管轄は秋田営林局に属した真室川営林署である。全路線が現在の山形県真室川町の区域内にあった。
本線の大きな特徴は、起点から中間地点の高池にかけて、3回も峠を越えていたことで、それぞれの頂上が隧道になっていた(以前の探索で解明したのも、これらの3本の隧道が中心)。
林鉄の多くは、順勾配といって終点から起点に向かっての一方的に下り勾配になっているが、峠越えは逆勾配になるため運材列車を走らせる上での大きな障害になる。そのため可能な限り避けられるのだが、本線にはそうした峠越えが3箇所も存在していた。

ただし、右図で示したような全ての本線と支線が同時に存在していたわけではない。
また、逆勾配の峠越えも徐々に敬遠され、途中で廃止されたりもしている。
次の図は、本路線網の消長を時系列順に7枚の地図で示したものである。上部のタブをクリック(orタップ)すると画像が切り替わる。


1935年 1939年 1943年 1950年 1956年 1958年 1965年


真室川森林鉄道と呼ばれる事が多い本路線であるが、秋田営林局の林道台帳に記載された正式な路線名とは違っている。
この森林鉄道の始まりは、昭和6(1931)年度に釜淵貯木場〜高池付近までの安楽城(あらき)林道と、本線から三滝で分岐する小又川支線が相次いで着工し、同9年度に開通したのが始まりである(当時この一帯と安良城(あらき)村といった)。
同12年度から14年度にかけて、本線は高池から高坂を通って大川入まで伸び、全長30081mとなった。
だが、路線が秋田県境の丁(ひのと)山地の奥地に達し、膨大な森林資源に手が届くようになると、峠越えの多い本線では輸送力が不足したため、昭和18(1943)年度に小又〜高池間を廃止(牛馬道に格下げ)して、鮭川流域の伐木は、新たに設けた滝ノ上の貯木場に集めることとした。こうして安楽城林道は東西に分断され、鮭川流域に残された本線は大沢川林道へと改称された。

以後、大沢川林道とその支線は固定化されて黙々と仕事を続けるのだが、鮭川流域にて多発していた春先の融雪洪水を解決するべく、昭和20年代から高坂地区に大規模なダムを建設する計画が進められた。そして昭和33(1958)年、山形県は大沢川総合開発事業を決定し、現在地に高坂ダムが建設されることになったのである。

このダムに建設に伴って大沢川林道や支線は8.9kmにもわたって水没することから、同年内に高坂以奥が廃止され、付替林道(車道)へ切り替えた(ダムは昭和38年着工、42年竣工)。
最後まで残った6390mの大沢川林道も昭和40(1965)年に廃止され、前年廃止された小又林道(安楽城林道の分断された釜淵側区間の末裔)と合わせ、30年余りの歴史を刻んだ真室川営林署の森林鉄道は全廃となった。

だが、この地の人々にとって林鉄の思い出はかけがえのない重さを持っていたようだ。
真室川町歴史民俗資料館では昭和60年頃に、秋田営林局管内で以前使用されていた機関車の動態保存がスタートした。この活動がその後発展し、平成の現在では梅里苑という町営温泉施設の一角に約1kmの線路が敷かれ、乗客を乗せた定期保存運転が続けられている。東北地方では恐らく唯一、“走る林鉄”に乗れる場所である。



2013年6月9日、今回の探索の一環で試乗した、梅里苑の保存車輌。

ナロー好きには非常に楽しい体験なのでオススメだが、乗り心地は覚悟して欲しい(笑)。


それでは本編スタート。


古写真の中の隧道を目指し、ダム下の峡谷へ…


2013/6/9 6:12 《現在地》

酒井氏から情報を貰って1ヶ月ほど経ったこの日、私は約8年ぶりに真室川林鉄の跡地を訪れた。
傍らには一緒に探索するHAMAMI氏“現場監督の中村”氏の姿もある。2人とも私とは森吉林鉄その他いくつもの探索を共にしてきた頼れる仲間だ。

私がこれまで探索した真室川林鉄の区間は、全て「高池」よりも東側の山越え区間だけである。以西の鮭川沿い区間(すなわち昭和18年に大沢川林道となった区間)に足を踏み入れるのは、今回が初めてだった。
私が知る限り、この鮭川沿い区間の林鉄は、歴代地形図に描かれた事が一度も無い。
従って、それが鮭川の右岸と左岸のどちらを通っていたかさえ、事前情報としては不明であった。
ただ言えるのは、高坂ダムのすぐ下の左岸に遺構があるという酒井氏の情報だけである。

そこでまず問題になったのは、どうやって目的のダム下にある遺構へアプローチするかということであった。
酒井氏はダム管理者に許可を得てダム敷地内より見学したようだが、その方法では“見学”しか出来ないおそれがあるし、出来ることなら、ピンポイントに遺構だけを見るのでは無く、そのある程度手前の区間から路盤跡を辿って行って、クライマックスとして遺構に辿り着くような探索をしてみたかった。
それで考えたのが、ダム下1.7km地点《現在地》からのアプローチであった。



ダムの1kmくらい下流からは、右岸を国道344号が通っている。
おそらくこの辺りの軌道跡は、対岸である左岸にあると予測されたので、国道から川を渡って軌道跡へアプローチするという作戦である。

もし藪の浅い時期に探索していたならば、もう少しスタート地点として“キリ”が良い、ダム下3km付近の高坂集落からスタートしても良かったが、生憎6月の山は既に爆草繚乱の様相を呈しており、気力が捻出出来なかった。そこで、探索がピンポイントになってしまわない程度には長く、かつ冗長にならなそうな、1.7km地点でのアプローチを決定したのである。

上の写真は、スノーシェッドが連続する国道から川べりに降りる小径の風景で、左の写真は、そこから撮影した鮭川の風景である。
少し先に水面が砂防ダムに落ちているのが見える。この砂防ダムは地形図に描かれている。
我々の予想では、軌道跡は左岸(対岸)であるが、緑が濃すぎて、ここからでは全く存在が感じられない。
これは直接に近付いてみるしかなさそうだ。

小径にクルマを停めて探索の準備を整え、いざ 探索開始!




が、まずここには橋が無いので、いきなりの渡渉!

これは探索開始から「濡れる!」までの歴代最短記録であろう。

6月とはいえ、未だ丁山地の方々に大量の残雪が隠されている時期であり、
膝より下を浸した水は尋常で無く冷たかった。早速顔をしかめている。
水量も豊富だったが、砂防ダムの直上で川幅が広いため水勢が弱く、渡渉自体は難しくなかった。



左岸は山の陰にあたり、未だ朝日の射さぬ薄暗い氾濫原から陸地が始まった。
カッパになった気分で、ザンブと勢いよく上陸し、先を見回す。

ここに至ってもなお、路盤らしきものは見て取れない。
氾濫原の向こうには急傾斜の山肌が迫っているが、全体に鼠返しを思わせるような膨らみ方で緑が生長しており、ただならぬ圧迫感だ。

これは、予想以上だな…。
苦しくなったので、変化を求めて、氾濫原を上流方向へ少し移動してみる。





石垣キター!!

たかが石垣で少し大袈裟かもしれないが、本日一発目の明瞭な遺構との遭遇であったことや、いきなり空振りに終わるという不安が解消されたこと、渡渉という冒険的手段で手にした成果で会ったこと、そして思いのほかに石垣の規模が大きかったことなど、色々な要素が相乗して、この発見は一堂に大きな快哉を叫ばしめた。

よし! 幸先上々のスタートといえそうだ!




6:19 《現在地》

近場の適当な所から、石垣の上へとよじ登った。
するとそこには案の定、路盤跡と推定される狭い平場が川に沿って南北に続いていた。

もっとも、直前の石垣発見時の鮮烈な「歓び」は、この時点で早くもネガティブな感情に害されて、色褪せることになった。
石垣は非常に明瞭であったが、路盤は藪の深いこともそうであるが、全体的に山側の斜面から崩れてきた土砂に埋もれていて、“平場”というより“斜め場”とでも呼びたくなる様相を呈していた。
こんな有り様では当然のよう枕木やレールといった、林鉄の遺産が見て取れるはずもなく、ここから推定1.7kmの道のりの困難さを予感させる現実に、再び顔を堅くする一同だった。

南の高坂集落方向にも路盤は続いているようだったが、今回は北へ、高坂ダム方向へ、路盤跡の探索を開始する。




歩行開始の直後、怖れていた場面が早速に展開した。

崩れやすい火山灰系の地盤をまざまざと見せつける、中規模の崩壊斜面。
完全に路盤は呑み込まれ、あるいは削り落とされ、表土や植生ごと消え失せていたが、一行はやや高巻き気味に横断を試みた。

この横断は無事に成功したものの、ますます先行きに不安を感じた。
大沢川林道の高坂ダムより下流の区間は、昭和40年という林鉄の中では比較的に遅い廃止の路線であったが、この辺りでは廃止後の道路転用も行われた形跡も無く、それだけ荒廃の度合いが強いようだ。




難所をひとつ越えると、再び周囲は滴るような濃い緑の世界になった。
そして腰の丈までの緑を掻き分けるように進んでいくと、スタートから常に耳元に存在していた川の音が少しだけ遠退き始めた。

GPSで現在地を確認すると、どうやら我々は鮭川の流れから東に迂回する“明瞭に旧河道と見分けられる谷”へ導かれているらしい。
旧河道ルートは迂回だが、あくまでも軌道跡探索が主目的であるから、それに従って進むことを重視した。




6:28 《現在地》

川の音のかわりに、カエルの大合唱に周囲の空間が埋め尽くされる頃、路盤は突如に旧河道の“岸辺”と決別した。

相変わらず藪が深く、私が加筆した補助線が無ければ地形を判別しづらいと思うが、現在の鮭川に匹敵する幅50mくらいある旧河道の谷を、路盤はややカーブした高さ3mほどの大築堤で横断していた。
わざわざ林鉄を通すために川の流れを切り替えたわけではなく、この河流の変化は大昔に生じた自然現象と思われるが、築堤の存在は旧河道の水捌けを著しく阻害していて、そこにカエルの大産地となった河跡湖たる大きな沼地が出現していたのである。



(←)
築堤は完全に旧河道を閉塞していたわけではなく、幅2mほどの切れ目があった。
切れ目の底には深い澱みが湛えられていたが、ここを横断する杉丸太を渡しただけの簡易な人道橋が残っていた。
周囲の藪は非常に深く、刈払いも全くされていなかったが、杉丸太橋の状況から見て、10年以内には人の出入りがあったようだ。
周辺には杉の植林地も見受けられるので、おそらくは林業関係者であろうか。
ありがたくこの橋を使わせて貰ったが、周りの藪が尋常でないので、踏み外しそうで怖かった。

なお、林鉄当時の橋は橋台さえ見あたらなかった。
もしかしたら、当時は暗渠であったものが、決潰して切れ目になったのかも知れない。

(→)
築堤上から眺める河跡湖の水面。
カーブした旧河谷に従って三日月形をしている。
国道からは鮭川を挟んだだけの至近距離であるが、地図には池の名前も記されておらず、ひっそりと静まりかえった水面に、何か子供じみた興奮を覚えた。



(←)
旧河道を渡りきると、新旧の河道に囲まれた小山が左手に現れた。
路盤は旧河道右岸の氾濫原に低い築堤を設けている。
杉の植林などで日陰になっている場所では、地面はシダ植物が優勢で、比較的に見通しも良く歩きやすいのだが…

(→)
日陰から出ると忽ちに夏草の激藪が行く手を阻んだ。
私は切り込み隊長となって、奇声を発しながら先頭を開削した。
それでも一行のは余丈の藪に覆い隠されることがしばしばであった。

そんな苦闘に予期せぬ出会いが…。



うほっ! 良い尻だ。 nice hip.


あ−、なんか癒やされるわー。



次回へ続く!