2007/9/26 13:56
175段あったという階段、どうやら全て上りきったようだ。
途中から暑さと、暗さとで、数える事を諦めてしまったが、たしかに長い階段であった。
今は早く風の吹いている、明るい場所に出たいので、
何よりも、まだ見ぬ旧駅のホームがどうなっているのかを知りたいので!
出ます!!
…キィ
うおっ!
扉をくぐると同時(正確には扉をくぐって正面と左は壁なので、自然と右を見た瞬間)
に、目の前に飛び込んできた風景は…ま、ま、ま
まさに駅のホームそのまんまだっ!!
このコンクリートタイル貼りが、いいよねぇ。
これはっ
すごい!
(感激ッ!)
こんなにそっくりそのまま残っているなんて思っていなかったから、マジでビックリ&カンドーすた。
本当に駅があったんだなぁと、実感出来た。
正直、階段を上っている最中は、まだその感覚が不十分だった。
なにやら怪しい通路という感じが強く、良くも悪くも「駅っぽく」は無かったから。
でも、これは、
誰がどう見ても駅だ!
駅跡だ!!
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確かにいろいろ変わっているだろう。
ホームの幅は明らかに半分くらいも削られていて、原型を留めているのは、もはや使われなくなった山側の線路に面した部分だけである。
そして、このホーム上にある唯一の建造物である地下通路への入口も、明らかに駅が現役であった当時のものではない。
地下通路が途中で狭まっていた所からこちら側は、ホームの幅を縮小する時に作り直したのだろう。
とはいえ、それでもこの場所が駅だった名残は、十分過ぎるほどに残っていた。
国鉄時代の廃駅といえば、これより遙かに古い橋場線橋場駅がなんと言ってもマイ・ベストだったが、この旧湯檜曽駅もシチュエーションの妙では決して負けてはいない。
こんな不便な場所に、こんな美しい駅跡が…。
もう一度、この駅の廃止になった経緯を簡単に復習しよう。
この駅が生まれたのは昭和6年9月1日、上越線全通の記念すべき日であった。
そして、駅の廃止はそれから36年後の昭和42年9月28日であり、この日を以て旧湯檜曽駅は北湯檜曽信号場という、一般人からは縁遠い場所になった。
さらにその信号場も、理由は調べていないが、昭和59年11月8日付けで廃止され、現在この場所はJR上越線の単なる一通過地点に過ぎない。
既に、駅でなくなってから30年(探索時点)が経過し、生きた1本の線路の邪魔になりかねない(雪が積もると厄介なんだろうな)ホームの隅は、ご覧のように乱暴に削り取られてしまった。
大して栄養など無いに決まっているホーム下より現れ出た砕石に、痩せた苔と雑草が、辛抱強く育っていた。
まずは、ホームの南端へと歩いてみた。
地下通路の出口はホームの全長の中央にはなく、やや南寄りの位置にある。
そのため、より手近に見える終端を先に極めようと思ったのである。
この駅のホームは、いま私が立っている「1面2線の島式ホームだけ」であったようだ。
そしてそのホームは全体的に緩やかなカーブを描いており、かつ末端の部分が細くなっていた…ものと思われる。
終端部は特にホームの人為的破壊が大規模に行われているために、本来の形状については少し想像も入ってくるが。
ホーム南端からさらに南の線路上を遠望しても、残念ながらカーブと山側の法面に視界を阻まれ、地図上では300m先にあることになっている「第二湯檜曽隧道」の坑門を見る事は出来なかった。
それにつけても、山側法面の何と高きことか。
島式ホームと複線の線路を合わせても、せいぜいこの駅の横幅は20mくらいしかないと思うが、たったそれだけの幅を急峻な山腹に用意する事の大変さを、コンクリートの法面の高さが教えていた。
そして、本来ならば駅全体を(或いは前後の線路も含めて)スノーシェッドの下に隠してしまいたい立地だと思うが、たくさんのレールを幾何的に組み立てた雪崩防止柵たち(おそらく、ここからはとても見えない高い山上にまで、幾重にも設置されているのだろう)が、駅と線路の安全を守り続けていた。
ホームから、上り線の線路越しに見る風景。
上越国境清水峠直下より流れ出す湯檜曽川が刻んだ谷が、大きな口を開けていた。
この谷底には冒頭の湯檜曽温泉があるけれど、ここからだとアングル的にギリギリ見る事が出来ない。
線路の向こう側の縁に立てば、きっと湯檜曽や現在の湯檜曽駅を一望する事も出来そうだが、このときの私はなぜかそれをしてみようと思わなかった。
線路に立ち入る事を自重したのか、単にその風景を意識しなかったのかは、忘れてしまった。
おそらく、想像以上に素晴らしかった駅跡そのもの風景に、満足してしまったんだと思う。
さて、今度はホームの北端を目指してみよう。
このアングルだと、湯檜曽温泉街の外れにある大きなホテルが見えた。
その先に人家はもう無く、遙かな清水峠へ連なる蒼い谷だけがある。
ここから、群馬側最後の駅である土合までは、約3.5kmとさほど離れていないが、
途中の線路は半分以上もトンネルの中で、既に清水峠の懐中といえる行程である。
地下通路の入口を無視してホームの北端を目指して行くと、途中に撤去された信号柱の基礎らしきもの(←)や、使われていない山側の線路へ下りるホーム階段(→)が残っていた。
専門外なのでまるでピンと来ないが、昭和42年から59年までかなり長い期間運用されていた「北湯檜曽信号場」とは、どのような役割を担うものだったのだろう。
昭和42年の下り線の別線開通(新清水トンネル)により上越線のこの区間は複線化しているので、かつて単線時代に湯檜曽駅で行われていたような行き違いは発生しないはずである。
しかし、それにもかかわらず信号場が運用されていたというのは、優等列車の追い越しとか、別の役割があったのだろう。
さて、ホーム階段の行き先に目を遣ると…。
もそもそした夏草の中へと続く、一筋の踏み跡があった。
そして、その先に見える、白い小さな建物。
あれは… なに??
白い建物に見えたのは、細長いスノーシェルターのようなものだった。
すぐ背後には山の斜面が迫っており、もしや“第2の地下通路”への入口なのか?
思わぬ遭遇に色めき立つ私に対し、これまた2度目となる物々しい鉄扉は…
今度も開いた!
が、ダメッ!
シェルターの中には入れたが、その次の両開きの扉には今度こそ南京錠が掛けられており、立ち入る事が出来なかった。
しかし、この半分地下に築かれた建物は、何だろうか。
開かない扉の傍らに、駅などで普通に見かける「建物財産標」が取り付けられていたから、これが国鉄の施設であったことは明白だ。
さらに詳しく見ると、「昭和41年」や「昭和42年3月」といった記述もある。
このことから、この一連の施設は旧駅と言うより、北湯檜曽信号場に関わるものであったと判断したい。
シェルターから地上へ戻る。
この風景だけだと、そこにあるのは現役の駅に見えなくもない。
ホームへ戻り、もうまもなくの北端を目指そう。
14:00
ホームの北の端までやってきた。
この先の線路のカーブの具合を見る限り、あそこに見える「第三湯檜曽隧道」坑口の手前まで
ホームが続いていたのかもしれないが、現在はここまでしか残っていない。
一面のススキの原野となった山側の線路敷きが、何とも言えぬ廃駅の風情を醸し出していた。
さて、これまでだ。
列車が現われてしまう前に、引き返そう。
もう十分、駅の痕跡は堪能した。
14:05
暗黒と、灼熱の階段通路を通り、
再び駅前(下)広場へ戻ってきた。
探索はここまでで終わりだが、
最後に現役当時の映像と現状を比較しながら、
その変化を楽しんでみようと思う。
いきなりだが、これが現役当時(年代は不明)の旧湯檜曽駅の風景である。→
なんだか、私が想像していた姿よりも遙かに屈強である。
現状(画像にカーソルオン!)と比較して見ると、その変化は一目瞭然!
現在では“まるで古城跡”だが、かつては“西洋RPGに出てくる山賊の砦”のような姿をしていたことが分かる。
その主だった変化を、手前から順に挙げてみたい(全て画像から判断)。
@階段通路は金属製スノーシェルターではなく、段々屋根の木造建屋の中に収められていた。
その起点も階段の途中からではなく、階段の少し手前からだった。(階段自体は当時のままなのだろうか?)
A線路と広場を隔てる急斜面は、自然の地形ではなく、ロックフィルダムのように砕石を積み上げたものであった。(おそらくは、周辺の隧道工事で出たズリを利用したのだろう)
B階段通路の途中にあるテラス部分(赤矢印)のすぐ先が「駅本屋」だった。(このことは出典元の本文にも言及あり) 改札もそこにあったのだろう。現在はスノーシェルターに覆われていてその痕跡は定かではない。
Cホームへのアクセスは地下通路ではなく、跨線通路によっていた! しかも、前編冒頭で引用した『町誌みなかみ』に 一時エレベーターによる昇降を開始したが程なく廃止した
という記述があることから、この駅本屋の裏手にある塔状の建物にはエレベーターが収められていたと考えられる。(まさか木造のエレベーターか?ハイテクなんだかローテクなんだか…すごい)
これまた撮影時期は定かでないものの、湯檜曽集落と旧湯檜曽駅の遠景写真。
駅が集落からどれだけ高い位置に孤立していたかが、よく分かる写真だ。
駅の本屋に対するエレベーター塔の存在感にも注目して欲しい。
果して、エレベーター塔はいつ頃まで残っていたのだろうか。
エレベーターの使用を中止し、代わりに地下通路でアクセスするようになったのは、いつからなのか。
どなたか情報をお持ちであれば、教えていただきたい。
あと、現地では痕跡にも気付かなかったが、現役当時はホームの一部に屋根が取り付けられていたようだ。
もう一枚だけ。
これは駅前広場の往時の風景である。
かつてここには、2軒の店が軒を並べていたそうだ。
ひとつは「長沢医院」という病院で、もうひとつは「見晴寿司」という小料理屋。
後者の名物は川魚料理であったという。
写真にも、確かにそれぞれの看板(「長沢医院」と「寿司、川魚料理、ビール」が読み取れる)が写っている。
駅の移転は、これらの店にとって致命的であったのだろう。
現在では跡形も無くなって…
…はいなかった。
どうやら、これがその成れの果て。
探索時点ではこれら商店の話は知らなかったが、広場の片隅にある廃屋を目ざとく見つけて、撮影していたのだった。
この建物の背後は湯檜曽集落裏手の急斜面であり、今にも転げ落ちてしまいそうに見えた。
なお、広場の入口の所にも一軒の(まだしっかりした)建物があったが、それは旧駅時代のものではないのだろうか。
――と言ったところで、日本鉄道史上最大級のスペクタクルに寄りそう、“幻の駅跡”からの報告を終ります。