塩那道路 (県道中塩原板室那須線) 最終回 

公開日 2005.12.18
探索日 2005.10.09



路の終わりに 見たもの

9−1  未だ造られ続ける塩那道路

14:43

 42.9km地点の「川見曽根」は、あの天空街道から下り続けてきた塩那道路が、「本部跡」の開いたゲートを境に久方ぶりに上りに転じた、その登りの頂点にある。
この約700mの上り坂は、興奮醒めやらぬままに下り初めて以来、気づく場面の無かった己自信の疲労を、しっかりと実感させる、重みのあるものだった。
だが、その上りも、これまでに塩那道路で体験した25kmを越える上り坂を思えば、もはや残り僅かになりつつある本道の最後の足掻きのように思えて、寂しささえ感じるのである。
事実、この上りを終えると、残り7.9kmは、ひたすらに下り続けて終点に至る。



 川見曽根の標高は、海抜1100m。
実は、実際ここにいる時には、自分たちはもっと低い位置まで下りているものと、想像していた。
すでに、ピークの海抜1800m地点からは14kmほども殆ど下りに費やしていたし、残りは僅か8km足らず(8kmを“僅か”と言うのは、チャリ乗りとしては些か塩那に毒された感はあるが…)。
終点である板室は海抜500mより少しくだった場所である。
故に、残りの距離で、高低差600mを詰めていくことになる。
これは、塩原側が開始から8kmで550mほどを、あの7連続九十九折りでクリアしたの以上の大坂が、あって然るべきなのだ。

 では、見て参ろう。
長かった塩那、最後のシーンだ。



 幅5mほどの踏み固められたダートを勢いよく下り始めると、間もなく、路傍の予想外の場所にいままでも繰り返し見てきた距離ポストが、ポツンと立っているのを見た。

なぜ、あんな道路外の場所に立っているのだろう?

わざわざスピードの乗っているのを制動するのも面倒に思えたが、見たことのない奇妙な光景に意を決し、急ブレーキをかけた。
そして、戻って撮影してみると…。

   …やはり、変な場所に、ちゃんと立っている。

 


 ミソは、「ちゃんと立っている」と言うことだ。

決して、路盤から滑り落ちてあそこにあるわけではない。
間違いなく、最初からあそこにあったのだ。
そう思える理由は、幾つもある。
例えば、しっかりと根を張った立ち姿もそうだし、立っている場所のすぐ崖よりに、フトン籠の人工的な路肩があることも、その理由だ。

つまり、私はこう考える。

塩那道路の、この写真の場所などの一部区間は、すでに廃道化の為の工事を受けているのだと。

具体的には、元々の幅広い路盤をフトン籠を土台にした土砂で埋め、道幅を作業用の最小限度に狭める。
それだけ自然更新による緑化スペースが広くなることにもなるこの施工方法は、おそらく、ここまで確信を得られる場面に出会わなかっただけで、各所にあったと思う。
実際、昭和30年代から地表に顔を出し続けている路面とは思えぬ、新しげな盛り土で小刻みにアップダウンしている場所などは道中に何度もあった。

特に、この板室側の下りには。

我々の知らないところで、ちゃんと塩那道路は“対策”され始めているようだ。




 そしてさらに下ると、久々に長い六角ブロック壁が現れた。
そして、そこはいまも工事の途中であるかのように、沢山の工事標識が、立ち並んでいた。

決して、一般車両の立ち入れぬ領域に、殆ど工事関係者だけをターゲットにした、十分すぎる数の標識整備。

おそらくこれが規則通りであり、悪いことであるはずがないが、なんとなく間の抜けたように見えてしまうのもまた、事実だ。




 この工事名の標識を前に見たのは、土平のゲートだった。
それからもう、30数キロも来た。
工事期間はほぼ同じ、あちらには「その1」の文字、こっちには「その2」の文字が見える。
また、こちらには区間や工事内容も細かく記されていた。

工事延長は、長いL=15km。
「路面整正工 1.00式」とは何だろう?
工事期間はいわゆる、冬期閉鎖外の殆ど通年だ。
施工業者は、塩原側とは異なっているようだ。


 来るべくして、来た。

鋪装の再開。

塩那道路の、板室側の絶え絶えな息づかいが、ここで聞こえ始める。

前回「その8」のラストで長々と語ったように、この鋪装&整備工事は、現在も進行形なものである。
川見曽根付近まであと1.7kmほどの整備が予定されているのだ。
しかし、付近にはダート路面を均すためと思われる重機が一台止まっているだけで、舗装工事の延長は今のところ止まっているようだ。

塩那道路の連続長大ダート32kmが、いま静かに終焉を迎えた。


 私とゆーじ氏は、無事に塩那道路を攻略できる見通しを完全に得た。
現在時刻は午後2時52分。
夕刻にはまだ些かの余裕がある。
計画を全うしつつ、時間的にも予定内の内容だった。
山行がレポとしては、いつも以上に予定通り進んだの感はあるかも知れないが、これはひとえに、我々が丸一年以上も、数名の読者さんの情報提供と供に支えられつつ、計画を温め続けてきた、その甲斐あってのことと信じる。
この計画だけは、失敗したくないと本気で丸一年間願ったのだから。

 綿密に計画を立て、十分な協力者がいれば、こうして、何の綻びもなく計画を達せられる可能性は高くなる。当たり前だ。
塩那道路は、「無計画が許されうる道ではない」ということだけは、読者の皆様にも感じていただけたのではないかと思う。

 長い道中だった。
そして、もうちょっとだけ、お付き合い願いたい。
塩那の最後のシーンは、ぜひ、見て貰いたいのだ。


9−2  塩那道路に散った魂 

14:52

 先ほど述べたとおり、この区間の勾配は、かなり厳しい。
九十九折りが少ない分、直線的な高速下りが連続し、あっという間にダート区間では絶対にあり得なかった速度になる。
この調子なら、あとはもう、ものの数分で下界に達するだろう。




 申し訳ないが、金は掛かっている。
センターラインさえ引けば2車線化も出来る道幅には、1車線分のタイヤ痕しかない。
そして、道の両側からは路肩を覆い隠すように雑草が繁茂している。
一箇所、写真の構造物が鎮座している。
遠くから見えたときには、一瞬洞門かと思ったが、これまで見たことのない、巨大な落石・雪崩防ぎだった。
そこまでして守るべき塩那道路には、終点がこれだけ近づいているにもかかわらず、我々以外の人影は無い。
 



 山肌に沿って、大きなうねりのようにカーブしながら、みるみる高度を下げていく。
未だ山々が白いのは、霧などではなく、雲である。
海抜はやっと3桁になったところだ。

 そんな46.3km地点、終点からは4.5kmの地点の路肩は、待避所以上に大きく広げられている。
その路傍には、塩那道路パイロット道路建設の慰霊碑が、ひっそりと立っている。
 


 塩那標識にもしっかりと記載されている、慰霊碑。

己が命を落としたその道を、下流にも上流にも大きく見渡せる尾根の高台に、一基の慰霊碑がしっかりと地に足を降ろしている。
後ろは木の俣川の200mを越える急谷となっており、その向かいには大佐飛山・黒滝山と続いてきた稜線の先端にある百村山があり、その稜線を遠く広がる樹海に降ろしている。
そして、樹海の中には、人間の住む村々が見える。


 いまも関係者によってビールやお酒の差し入れの絶えない、慰霊碑。
その裏面の碑文を、全文拾ってみよう。

陸上自衛隊宇都宮駐とん地第104
建設大隊故三等陸曹高久修二君群馬
県出身は昭和45年8月7日午後4
時40分塩那道路の建設作業中この
地において殉職された行年22歳痛
恨哀悼の意措くにあたわずこの道路の
開通を期しここに160万県民とと
もに永遠に銘記する


   昭和46年10月 建之




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9−3  閉塞突破  

15:04

 ここまでの塩那道路での我々の無事を感謝し、しばし黙祷を捧げたのち、慰霊碑を後にする。

県境の男鹿岳から木の俣川の左岸にずうっと続いて来た稜線の中腹を、塩那道路は辿ってきた。
いま、稜線が急速に高度を落とし、平野に沈みつつある。
塩那道路の道筋は、いつの間にか、稜線にあった。
塩那道路の象徴的な稜線の景色を、ほんの少しだけ思い出させる、最後の稜線区間は、本当に僅か、カーブ一つ分だけである。




 慰霊碑を振り返って撮影。

麓からは遙かに見上げる位置に、たった一人だけの魂が弔われている。
いまはまだ、遺族さえ勝手には近づけぬ場所だ。
数年後には、その縛りは解けるだろうか。
そうなるなら、無駄に思える塩那道路部分整備の、ただ一つの救いに思えてならない。
“160万県民”の悲願の道だったかは大いに怪しい塩那道路、日の目を見ずに消えゆく塩那道路、しかし命を懸けてその建設にあたった大勢の人々がいた。
それだけは、動かせぬ事実なのだから。



 ついに、山だけしか見えなかった路傍の景色に変化が訪れた。
長らく見なかった高圧鉄塔が路上を高く跨いでいる。
木の俣川の対岸には百村山のどこか荘厳な姿。
その雲にけぶる姿は、塩那道路のあの天空街道の雰囲気を我々に思い出させた。
殆ど下り一方の道だったというのに、記念碑からはかれこれもう2時間も経っていた。




 そして、百村山を境に落ち込む稜線は、どこまで続いているのか際限の見えぬ広大な平野に呑まれている。
それは、いま我々がいる稜線もまた、全く同じである。
永遠に思えるほどの深い山々も、こうして終わりの地を迎える。
この広大な平野は、いずれ関東平野にさえ続いていくものだ。
米所の秋田なら、この平野は皆水田となっていそうだが、まるっきり景色は異なる。
首都機能移転計画の候補地にも、この広大な緑の…まるで樹海のような平野は、選ばれたことがある。



15:15
←地図を表示する。


 そして、最後の扉が現れる。

47.7km地点、最後の塩那標識の立つ、その名も「ゲート」。
残りは、3.1kmだ。
海抜700mの、塩那道路黒磯側で唯一閉じられている、ゲートである。
黒石側で唯一なだけあって、常時閉まっているゲートが二つ、時間帯ゲートが一つあった塩原側に比べると、より厳重である。




 コンクリートの法面と、ガードレールの置かれた路肩斜面に挟まれたアスファルトを、完璧なゲートが封鎖している。
これは、山行がの知りうる無人ゲートとしては、最もセキュリティレベルが高いものの一つだ。
ポイントは、脇を有刺鉄線を絡み付かせた鉄パイプの格子で覆ったことと、ゲート本体の高さがあるだけでなく、下部に横棒を二本通し、足回りを強化したことにある。
この足回りの強化は、かつてバイクを倒して進入しようとした痕跡を発見した当局が設置したものとも伝えられる。
有刺鉄線についても、昨年は存在しなかったらしい。

 まあ、どう抜けたかは、ご想像にお任せするが、何も奇抜なことはしていない。




 ゲートを越えて、現行犯逮捕の恐れは消える。
我々はここでやっと、大声で互いを祝福しあった。
序盤には、私に異常な動悸さえさせた緊張も、やっと解れた。

 ゲート正面の様子。
あまりゴテゴテとごたくは述べられて居らず、シンプルだ。
しかし、南京錠は二つ取り付けられていたり、本気度は高い。




 ゲートを抜けて最初のカーブ、ゲートからは目と鼻の先にある、最後の塩那標識。

これで、塩那道路も終わりだと。
そう思った我々だったが、最後の最後まで、お楽しみは …あった。
いよいよ、ラストスパートだ。





9−4  おわり  

15:17

 ゲート前で暫く佇んだのち、のこり3.1kmの下りに入る。

 もう、誰に気兼ねすることなく大手を振って走れる公道。
県道266号線の一般区間である。
ただしそれは、出会い頭の交通事故の危険性を孕んでおり、今まで以上に慎重に走る必要は、あると思った。

 しかし実際には、誰もいなかったが、最後まで。




 一般者の目にとまる区間は、わずか3.1kmだけ。
そして、その区間にはご覧の通り、何度も何度も、しつこいくらいに、通行止めの予告が出されていた。
これでは、一般のドライバーならゲートまで行く気にもならないに違いない。
写真では、ゲートから200m、500m、そして1.5km地点の3枚を撮っているが、路傍には他に、1kmと2kmの地点にも立っていた。

なにも、そこまでしなくてもねぇ?
あれだけのゲートを造っておきながら、なお自信がないのだろうか(笑)



 勾配は、むしろ下るほどに厳しさを増している感がある。
最後の3kmで200mと少しの高さを一気に下るので、それは感覚的な物ではなく事実だろう。
また、ここには黒磯側には数少ない九十九折りのカーブも2.3ある。
ゲートの中に引き続き、2車線の道幅の半分近くが、草むらに覆われている。
観光バスが列を成してここを上っていく光景など一度も実現しないまま、道路としての命脈も尽きつつある様に見える。



 残り1.5km地点。
直線路の途中で、道が不自然に両側に広がっている箇所がある。

もしかしたら、ここに料金所を設置するつもりだったのかも知れない。

塩那道路ならぬ、日塩道路として塩那道路の前に構想され建設された、現在の「日塩もみじライン」(鬼怒川・塩原間)は、全長28kmで普通車600円と比較的安めの料金設定である。(2005年現在)

「塩那スカイライン」(全長51km)が実現していたとしたら、果たしてどんな料金で通れたのだろうか。
想像してみるのも面白い。




 片側通行の工事標識が立っているので何だろうと思えば、その先にあったのは、単に路肩の水溜まりだった。
見たところ、アスファルトが3cmほどの深さで楕円形に幅広く凹んでおり、地盤の強度の問題があるとして、路肩側の通行を防いでいるのだろう。
とはいえ、その水溜まりには落ち葉が沢山浮き、そこを囲むコーンが一部倒れたままに放置されているなど、もはや「どうでもイイ感」が溢れだしている。一応、ここは現役の県道なのだが…。

 同じ命運にある塩那道路の部分整備区間でありながら、いち早く整備された塩原側(7.0km)と比べると、いまだ未完成の黒磯側(8.9km)は、どうにも惨めな感じがする。
景色的にも、塩原市街を一望し高原山を俯瞰する塩原側の圧倒的なそれには、劣る気はするが、それにしても、この差は酷い。
黒磯市と塩原町の塩那道路整備に対する積極性の違いだろうか。



 周囲のどの山よりも自分のいる場所が低くなり、本当に終わりが近いことを実感する。

次のカーブで最後の景色が現れるか、はたまたその次か。

高速で駆け下りながら、その瞬間を待った。


 分岐地点が見えてきた。

塩那道路51km目に現れた、信号もない小さな分岐地点。

これが、終点だ。

塩那道路、終点。
無人で車通りの全くない、終点。

 時刻は午後3時30分。
入山から、ちょうど9時間での通過だった。

余りにも寂しすぎる。
我々の攻略完了を祝福する者がいないのまでは当然としても、花形観光道路を嘱望された道の一方の果てが、これとは…。

 塩那道路の51kmは、余りにもしょうもない景色の中で、最後を迎えたのである。
3.1km先の通行止めを告知する、汚れ果て、だらしなく道を半分だけ塞ぐバリケードだけが、この道がただの道ではないことを、語っている
…か?

語ってないよなー。
これじゃ、ただのダメ道路にしか見えない。
 

 とりあえず、この場所は県道同士の合流地点であり分岐地点である。

直進は塩那道路こと、一般県道266号(中塩原板室那須)線。
右は、一般県道369号(黒磯田島)線である。
この369号線というのも県下有数の曲者県道であるらしく、数キロ先のダム湖の先は何年も前から通行止め、行き着く果ては、塩那道路さえ越えようとしなかったあの男鹿岳であるという。
男鹿峠が奥羽山脈を東西に横断し、福島県会津の田島町に通じている、現在廃道(今後の探索予定あり)。


 手前は二つの県道の重複区間となるが、あと100m下るとまた二手に分かれ、369号線は黒磯市街へ下り、266号線の方は那須高原へと再び進路を北に切り替えている、そしてその先は、主要道路らしい姿となっている。
ここに立っているだけで、背後からは車の通る音が響いてくるときがあった。

 左の写真は、塩那道路終点から100mほど下った先の、266号線(←)と、369号線(→)の分岐地点(T字路)。
ここは、車通りが多い、那須高原観光の主要道路である。
我々は、ここで起点から走り続けた266号線と別れを告げ、右折した。
そして、道の駅塩原へと、戻ったのである。



16:17

 道の駅塩原までの帰路。
最短距離で県道を走ったわけだが、その途中、ちょうど板室と塩原の中間地点のあたりに、蛇尾川を渡る塩那橋がある。

蛇尾川は、塩那道路を走った者には忘れられない名前である。
なにせ、小蛇尾沢を10km以上も取り巻いて走り、大蛇尾沢を深く見下ろしながら、大佐飛山に小佐飛山を遠望しながら辿る道だったのだから。
大蛇尾小蛇尾を合流させたその川が、那珂川になるまでの区間が、蛇尾川である。

 そこに掛かる橋の名は、塩那橋。
かたや、51kmの山岳道路で塩那を結び、かたや、僅か15kmと一本の橋だけで、結んでいる。
 

 塩那橋から見る、大佐飛・小佐飛の山々。
あの奥の奥、一番奥の稜線を、塩那道路は通っている。
ここからでは、稜線までは見えなかった。


 この後、最後の力で我々は道の駅へとたどり着くと、祝勝会もそこそこに温泉で汗を流し、その晩のうちに別れた。
たった24時間の同行ではあったが、計画成功と言うだけではない実りある邂逅を果たせたように思う。

私の夢の一つ、塩那道路完全制覇の立役者、ゆーじ氏には、心から感謝する。
(参考>ゆーじ氏の塩那レポが読める「銀の森牧場」はこちら
 



15:33

 
ちょっと待て!

今回、私が終点で見つけた物を紹介するのを忘れていた。

塩那道路の、最後の最後の贈り物。

私の涙腺がかなり緩んだその発見とは、ご覧の、





 道路情報表示板である!!

 きたーーーー!
やっぱ、これでしょーーー。
やっぱりこれがないとね、峠道の前にはこれだよね。
小綺麗に整備されてしまった塩原側には存在しない、塩那道路ただ一箇所現存する、道路情報表示板。
終点の藪の中に、すっかり埋もれておりました。




 かなり昔のタイプで、バスの行き先表示の方向幕のような構造になっている。
つまり、扉の中の樹脂製のシートが必要に応じて機械内部でスクロールして、表示内容を切り替える仕組み。
そのシートの裏には蛍光灯が取り付けられていて、夜間でも表示が見える仕組みになっている。

 すでに電源からは切り離されてしまっており、現役県道でありながら代替の表示板もないわけだが、この機械には鍵が掛かっていなかった。

 ちょっと、イタズラしちゃおうかなー。







 お わ り

 って(笑)!


巻物状のシートを全て手動で巻き取ってみると、最後に出てきた文字は、「おわり」の3文字であった。

こんな表示、みたことないよね?!


では、レポの締め、行きますよ。