群馬県道63号水上片品線旧道 須田貝地区 後編

公開日 2010.12.24
探索日 2010. 8.24

上流側の旧道区間


2010/8/24 12:43 《現在地》

全面崩壊を予感させる須田貝隧道、南口坑門。

それは、「廃隧道とはかくあるべき」と言いたくなるような
完璧な姿” だった。

完璧。

まるで大自然に取り残された文明の欠片。
武骨でなにも飾らぬ坑門が、孤立無援で立ち尽くす。
私の大好物。

しかし、この暗がりで誰に看取られることなく死ぬのか。
役目を終えた道路の平凡な末路だが、哀れである。




近くで見るとこちら側にも、鉄パイプのバリケードの痕跡があった。
しかし、折り畳むように崩れた後は誰も修理しないらしい。
南口さえ塞いでおけば、立ち入る人もおるまいということか。

これなどはトンネルの両坑門が表裏を分けた典型で、集落に面していた南口が表、山と湖に面した北口が裏なのであろう。




さて、こんなに荒れ果ててしまった南口だが、ここから先にはどんな道が続いているのだろう。

上の2枚の写真では信じられないかも知れないが、実はこれでも道は舗装されていた。
舗装の上に大量の瓦礫と土が流れ込み、緑が育っているのである。

これまた廃道のお手本のような景色だが、色々な意味で…アツそうだ…。




全長330m程度の須田貝隧道を通過したことによる風景の最大の変化は、湖が現れたことである。

青みがかった水面は、思いのほか切り立った緑の斜面の下に細かい波を立てていた。
湖上は風が強い?




ああ…。

暑い。

隧道を10m離れたら、もうそこはジャングル。
熱帯のジャングルである。

こんなのが続くのか…?




激藪に埋もれつつ、もう一歩で見えなくなりそうな坑門を振り返る。

次に逢うときは、どんな姿を見せてくれるだろう。

期待しないでいることにしよう。



それにしても、この坑門前の藪の深さは、いったい何があったのかと訝しがるレベルだ。

踏み込んでみてはじめて分かったのが、地面が平らでないと言うことだ。
1m以上も凹凸があるのだ。
そして、この場所の山手側にはゴーロのような小さな沢が流れ込んでいた。

つまり、沢が大量の土砂を吐いて道を塞いだところに、植物が侵入したというのが真相らしい。
廃道後の土砂災害だろうか。




激藪脱出!

激藪の区間はわずかで、せいぜい20mくらいしかなかったと思う。
ピンポイントな災害だったのである。
正直、この暑さの中でのヤブ漕ぎは意識を失う危険があるので、助かった…。

ちなみに、振り返ってもここからだと、ギリギリ坑門が見えない。
それに、ちょっとこちら側から一歩踏み出すには勇気がいるレベルだ。




2010/8/24 12:48 《現在地》

トンネルから進むこと150mほど。

未だこの旧道にわずかながら通行量がある、その根拠となるものが現れた。
鉄塔である。




そして何気なく鉄塔の下にある湖面を見ると、何かある。

それは湖に突き出た小さな半島だったが、半島は周囲をコンクリートの護岸で覆われているばかりか、その付け根にの小さな赤い橋を従えていた。
水位が上がれば、それは湖上の小島になるに違いない。
そして護岸により固められた半島は、まるで「前方後円墳」のような独特な形をしていた。

いったいあそこには何があるのか?

おおよそ道路とは関係なさそうだが、気になったので寄り道してみた。




鉄塔脇には簡単な階段が設けられ、容易に湖畔まで降りれるようになっていた。
おかげでものの数秒で私は、半島の付け根に架かる可愛らしい橋のたもとへやって来た。

橋は鉄パイプ3本を渡したアーチ橋で、欄干も鉄パイプ製、そして踏み板は鉄網という、“鉄橋”であった。
長さ5m、高さも最大で3mほどで、橋の下にはコンクリートで固められた地面が干上がっていたが、それでも水面は遠くない。

よく分からないが、この須田貝ダムはあまり水位の変動が大きくないのだろうか。
今より少し水位が増えれば呆気なく島も橋も水没しそうだが、そうなった形跡は見られないので。
それともたまたま満水位に近い時に訪れたのだろうか。




特に名前があるのかどうかも分からない橋を渡る。

太鼓橋のようにカーブしていて、なんか楽しい。

そして、島に上陸する前には見下ろす感じになるのだが、意外に木が生い茂っていて見通せないのもまた、たのし。

とりあえず、鳥居があるようだ。


あと、いらないかも知れないが一応… →【渡橋動画】




スポンサーリンク
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
遂に「山さ行がねが」が書籍化します!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。 ヨッキれんやトリさんの廃道探索シーンを一流のスタッフが命がけで撮影した、日活の廃道ドキュメンタリーシリーズ第1弾


祝!上陸。

そこは、鎮守の島だった。

おそらくは、ダムの建設で水没する一帯にあった祠たちが、一箇所に集められているようだった。
大小の石祠が湖面を背に並んでいた。
そしてその中央に鎮座しているのは水神碑で、これだけが新しいように見えたが、裏に「平成3年9月 東京電力株式会社」と彫られていた。
須田貝ダムの完成は昭和30年と古く、後から水神碑が建てられた経緯は不明である。
平成3年になにかあったっけ?

それにしても、この橋と島は本当に気持ちがいい。
周囲を水に囲まれているうえに、湖面を走る風が常に吹いているので、なんともいえない涼しさだ。
そよぐ夏草に石碑たちが撫でられているのも愛らしい。




島は湖面を見渡す特等席でもある。

これは下流の方向。
幾つもの水門を横に並べた須田貝ダムが見える。
低く見えても、向こう側には落差70m以上あるというから、本来は深い渓谷であったことが伺える。
今いる場所も、小さな尾根の頂だったのだろう。

先ほどの隧道は左に見える尾根をくぐっているが、もちろん見えない。



そしてこれが上流側の風景。

こちらにも穏やかな湖面が、下流と同じくらい広々と続いていた。

湖面に緑を落とす山肌に、鋏を入れているのは現在の県道である。
対して旧道の方は緑に埋もれてしまい全く見えない。
しかし両者は遠からず合流しており、だいたいそれは写真中央あたりである。

また、もっと上流へ目をやると、谷を塞ぐ巨大な白い影が見える。
ところならぬ蜃気楼のようでもあるが、これが前に話だけ出て来た「奈良俣ダム」である。
ダムとダムの過剰とも思える連続した光景に、しばし目をうばわれた。




しばらく涼んでいたのだが、世捨て人になりそうな気配だったので、本職に戻ることにした。

自転車に戻り、来たのとは逆へと走り始める。
すぐに緑が屋根のように覆い被さり、舗装されているはずの路面が“ダブルトラック”になっているという状況だった。

とりあえず崩れているような場所はないので、通行するのに問題はない。




どこにでもありそうな旧道風景ながら、消えかけた時速30km制限の道路標示は愛おしい。




やがて現道の橋が見えてくる。
旧道のほうはずっと平坦で、湖畔へ降りてくるのは現道だ。




13:05 《現在地》

隧道から約1kmの道のりで、旧道は現道の洞門に迎え入れられた。
今回の旧道探索の終点地である。
こちら側にも、とくに通行止めを告知するようなものがないのは意外だった。
結局、旧道はトンネルだけが「通行止」ということらしい。




そのまま進行して洞門を抜けると、そこはもう奈良俣ダムの直下といっても良い場所で、見上げる存在感はもの凄いものがある。
あまりに高く見えるので、本来ならばこのダムの向こうにこ尾瀬を中心とする猛烈に深い山々が控えているのに、その存在を忘れさせるほどである。
この風景の向こうに山がある気が本気でしない。

といった感じで、レポ終了。




最後に、今回の探索で残った謎を整理し、机上調査からの解明を試みたい。

謎というのは、途中にあったトンネルに尽きる。
名前さえ現地では分からず、とりあえず「須田貝隧道」と呼んでいたのだが、せめて開通したときの名前でもう一度呼んでやりたい。
それに、現道に切り替えられた(つまり現道開通)の年次も不明であって、実は意外に分からないことだらけの現地探索であった。

まず隧道の名称についてだが、次のような有力な情報が「前編」をお読みになった読者さんからもたらされた。

手元の1990年発行の人文社発行の群馬県広域道路地図第5図によりますと、トンネルの名称は洞元トンネルというそうです。
また同図ではバスはこの時期トンネルを通っており、県道水上片品線との分岐の少し先に大芦。
須田貝ダムとの分岐点のT字路に須田貝発電所入口。
そして洞元トンネルを抜けて急カーブを曲がった先に洞元水神前とバス停の名称が記載されています。
ちなみに洞元水神前の次は県道に合流後かなり離れた洞元温泉前になります。
実態がどうであったかは判りませんが参考までにお送りいたします。

私もかつて秋田県版をこよなく愛用していた「人文社」の道路地図の情報である。
それによると、トンネル名は「洞元トンネル」というらしい。
洞元というのは奈良俣ダムのすぐ下流の辺りの現在同名の滝がある辺りの地名であるから、隧道からも遠くはない。
というか、須田貝ダムのダム湖の名前自体が「洞元湖」だったのを忘れていた。
なるほど、トンネルの名称はこれでほぼ決まりだろう。


次に現道の開通の時期と、その理由についてだが。


…もそもそ。

実はこれ、意外にややこしい事になっていて、少し説明に困る。

私が頼ったのは昭和39年に出た「町誌みなかみ」なのだが、これを読んで分かったことは、次のようなことである。

まず、今回踏査した「洞元トンネル」(この名称については町誌で確認できず)を含む道(地図中に赤く示したライン)の由来は、昭和29年の前後に須田貝ダム建設のため東京電力が敷設した、久保〜湯の小屋間の工事用道路だった。
そしてダムの完成後は速やかに水上町道になったということである(路線名は町道「湯ノ小屋本線」)。

なるほど。
これで「洞元トンネル」が極端に飾り気のない姿をしていた理由が見えた気がする。
当時の東電というか日本の電力需要は、尾瀬をダムに沈めることを真剣に検討するほど逼迫していたので、とにかく工事を急いだはずだ。
トンネルの作りも必要最小限になったとしても不思議はない。

そして町誌が発行された当時の県道は、現在の主要地方道「水上片品線」ではなかく、一般県道「大穴湯ノ小屋線」といって、ルートも大きく異なっていた。
町誌の図によると、右図に青で示したようなものだったという。

これは完全に予想外だった。
かつての県道は、現在「水上高原スキー場」がある「上の原」という地区を通っていたが、今の地図には破線の道さえ描かれていないし、当時の地形図でさえはっきりした線ではない。
湯の小屋側の入口を捜索したが、道らしいものは見あたらなかったので、純粋な山道だったようである。

しかし腑に落ちないのは、この県道の路線認定が昭和34年だということだ。
昭和29年頃に車の通る工事用道路が出来、昭和30年(ダム完成年)には町道として開放されていたにもかかわらず、その後で車が通れない山道を県道に認定したことになる。
不可思議だが、利根川沿いではないもう一本の車道が欲しいと思う町民の気持ちが、こういう路線認定を生んだのだろうか。

なお、町誌よりも後の昭和43年に発行されている「道路トンネル大鑑」の巻末にあるトンネルリストには、「県道大穴湯ノ小屋線」のトンネルが2本記載されているが、そこにも洞元トンネルはない。
ということだから、「洞元隧道が旧県道だ」という資料的な根拠は無くなってしまったことになる。


湯ノ小屋側の“旧県道”の入口地点
(湯の小屋一本松バス停前)。写真中央に旧県道は
続いていたとされるが、道らしきものは見えない。
でも、なんか土嚢が積んであるのが気になる…。

しかし、だからといって洞元隧道が旧県道ではないと断定することも出来ない。
町誌や大鑑の時代と現在の間の40年余りの空白については、今回埋めきれなかったからだ。

県道大穴湯ノ小屋線がやがて現在の県道水上片品線になるが、その課程のどこかで車の通れない「上の原」ルートを止め、町道だった大芦経由のルートに変わったはずである。
洞元隧道の県道昇格が先だったのか、それとも付け替えの峠越えルートの開通が先だったのか。

これを解くには、昭和40年代以降の地形図を虱潰しに確認するか、直接現地で聞き取りをする必要があるだろう。

小さな謎と、長大な“幻の県道”が残った。