最後に、今回の探索で残った謎を整理し、机上調査からの解明を試みたい。
謎というのは、途中にあったトンネルに尽きる。
名前さえ現地では分からず、とりあえず「須田貝隧道」と呼んでいたのだが、せめて開通したときの名前でもう一度呼んでやりたい。
それに、現道に切り替えられた(つまり現道開通)の年次も不明であって、実は意外に分からないことだらけの現地探索であった。
まず隧道の名称についてだが、次のような有力な情報が「前編」をお読みになった読者さんからもたらされた。
また同図ではバスはこの時期トンネルを通っており、県道水上片品線との分岐の少し先に大芦。
須田貝ダムとの分岐点のT字路に須田貝発電所入口。
そして洞元トンネルを抜けて急カーブを曲がった先に洞元水神前とバス停の名称が記載されています。
ちなみに洞元水神前の次は県道に合流後かなり離れた洞元温泉前になります。
実態がどうであったかは判りませんが参考までにお送りいたします。
私もかつて秋田県版をこよなく愛用していた「人文社」の道路地図の情報である。
それによると、トンネル名は「洞元トンネル」というらしい。
洞元というのは奈良俣ダムのすぐ下流の辺りの現在同名の滝がある辺りの地名であるから、隧道からも遠くはない。
というか、須田貝ダムのダム湖の名前自体が「洞元湖」だったのを忘れていた。
なるほど、トンネルの名称はこれでほぼ決まりだろう。
次に現道の開通の時期と、その理由についてだが。
…もそもそ。
実はこれ、意外にややこしい事になっていて、少し説明に困る。

私が頼ったのは昭和39年に出た「町誌みなかみ」なのだが、これを読んで分かったことは、次のようなことである。
まず、今回踏査した「洞元トンネル」(この名称については町誌で確認できず)を含む道(地図中に赤く示したライン)の由来は、昭和29年の前後に須田貝ダム建設のため東京電力が敷設した、久保〜湯の小屋間の工事用道路だった。
そしてダムの完成後は速やかに水上町道になったということである(路線名は町道「湯ノ小屋本線」)。
なるほど。
これで「洞元トンネル」が極端に飾り気のない姿をしていた理由が見えた気がする。
当時の東電というか日本の電力需要は、尾瀬をダムに沈めることを真剣に検討するほど逼迫していたので、とにかく工事を急いだはずだ。
トンネルの作りも必要最小限になったとしても不思議はない。
そして町誌が発行された当時の県道は、現在の主要地方道「水上片品線」ではなかく、一般県道「大穴湯ノ小屋線」といって、ルートも大きく異なっていた。
町誌の図によると、右図に青で示したようなものだったという。
これは完全に予想外だった。
かつての県道は、現在「水上高原スキー場」がある「上の原」という地区を通っていたが、今の地図には破線の道さえ描かれていないし、当時の地形図でさえはっきりした線ではない。
湯の小屋側の入口を捜索したが、道らしいものは見あたらなかったので、純粋な山道だったようである。
しかし腑に落ちないのは、この県道の路線認定が昭和34年だということだ。
昭和29年頃に車の通る工事用道路が出来、昭和30年(ダム完成年)には町道として開放されていたにもかかわらず、その後で車が通れない山道を県道に認定したことになる。
不可思議だが、利根川沿いではないもう一本の車道が欲しいと思う町民の気持ちが、こういう路線認定を生んだのだろうか。
なお、町誌よりも後の昭和43年に発行されている「道路トンネル大鑑」の巻末にあるトンネルリストには、「県道大穴湯ノ小屋線」のトンネルが2本記載されているが、そこにも洞元トンネルはない。
ということだから、「洞元隧道が旧県道だ」という資料的な根拠は無くなってしまったことになる。

湯ノ小屋側の“旧県道”の入口地点
(湯の小屋一本松バス停前)。写真中央に旧県道は
続いていたとされるが、道らしきものは見えない。
でも、なんか土嚢が積んであるのが気になる…。
しかし、だからといって洞元隧道が旧県道ではないと断定することも出来ない。
町誌や大鑑の時代と現在の間の40年余りの空白については、今回埋めきれなかったからだ。
県道大穴湯ノ小屋線がやがて現在の県道水上片品線になるが、その課程のどこかで車の通れない「上の原」ルートを止め、町道だった大芦経由のルートに変わったはずである。
洞元隧道の県道昇格が先だったのか、それとも付け替えの峠越えルートの開通が先だったのか。
これを解くには、昭和40年代以降の地形図を虱潰しに確認するか、直接現地で聞き取りをする必要があるだろう。
小さな謎と、長大な“幻の県道”が残った。