網張側の残りは、あとこれだけである(約400m)。
ゴールは見えたも同然だが、実はこの区間の再撮影が今回の再訪の最大の目的だった。
というのも、11年前の私はデジカメ操作の不慣れから、あろう事か“宙のカーブ”以降に撮影したデータを全て消去してしまい、手許に一切データが残らなかったのである。
だから、この日これ以降の探索は、もう記憶の中にしかない。(本音をいえば、記憶も薄れてしまって覚えてない)
…そんな極めて個人的な動機で、終点を目指す。
特に代わり映えのしない終点だった…という印象だけはうっすらあるが、実際の風景は不思議なほど記憶にないのである。
少しだけ酸素が薄いこの山上で、私はいったい何を見ていたのか、再検証したい。
8:14
“これがエコロードだ!”と言ったかは知らないが、コンクリートよりも天然の岩石を表面にあつらえた、かなり高い法面工。
今までの第1〜第3の切り返しに較べても、この第4の切り返しは圧倒的に地形の改変度合が大きい。
本来は急峻な尾根沿いの地形に、無理矢理小学校の(小さめの)グラウンドくらいの面積を均してしまっている。
自然との共生、自然への負担が少ない最小限度の工事内容を是とするはずのエコロード計画のはずだが、観光道路として最低限求められるものさえ作らない、厳然たる通過交通路にしてしまうという選択肢は無かったようである。
カーブの内側にある、今までのカーブには見られなかった広い余地。
これが何の為に作られたものであったかは、容易に想像出来る。
ここは“宙のカーブ”の眺めを通行人にサービスする為の駐車場となるはずだったのだろう。
走行中に脇見することや、路駐して風景を眺めることは安全上問題があるので、景色の良い道には(安全面からも)駐車スペースが必要なのである。
そういう見方をすれば、観光道路だから駐車場を用意したというわけではなく、誰もが目を奪われてしまうほどに風景が良いから、(やむを得ず)駐車場を用意したという風に考えられないこともない。
しかし、いずれにせよ車の滞留する時間が増える駐車場の存在は、エコに反する。
なお、この場所が網張側では最大にして最後のビュースポットである。
この先はまもなく地形が変わるので、遠見に適さなくなる。
青空へのVロード。
急な山腹に挑む4連の切り返しを無事修め、後はもう峠を目指すだけ。
この風景には、峠道が見せる、そんな安堵の表情が含まれている。
反転し西向となる。
もはやここには、ゲート以来私の足をいたぶり続けた急勾配はなく、
探索者自身も峠越えに対する「我が方の勝利」を確信する場面である。
繰りかえすが、青空のVロード。
未舗装の路面には、くっきりとした轍形が二条刻まれているが、そこに“タイヤ痕”は残っていない。
砂利道でありながら舗装路並によく締まった路面は、舗装を待つ段階の転圧された下地だったのだろう。
本来の(普通の)砂利道とは様子が異なっている。
ここでは植生の進入も限定的であり、ようやく苔が入り込んで気長に“土”を生産している初期の段階だった。
思えば、先の登山道分岐地点より先の区間には、これまでどのくらいの数の自動車が行き来したのだろう?
平成8年に工事が中止されるまでは、連日工事車両がけたたましく走り回った事もあったろうが、その後はどうだろう。
工事中止の経緯を踏まえれば、工事関係者の他にも県警関係者、林野関係者、県の行政官らもここを通って、この先の“事件現場”を訪れたに違いないが、彼らは車でここを通ったかは分からない。
仮に通ったとしても、彼らの行き来は工事が正式に中止となり、事件の処理が終った後は、途絶えて久しいことだろう。
11年前の時点でも、この区間への車両の進入は、重いゲートに阻まれていた。
今回もそれは変わっていない。
これまで、一般の通行人がこの区間に車を乗り入れたことは、おそらく一度も無いだろう。
一般の通行の為に作られながら、ただ開通しなかったばかりに一般の通行から隔離されている。
「未成道だから」といえばそれまでだが、虚しい光景であることは間違いない。
僅かながら前段より視座が上がったため、葛根田の川谷にある、
“いかにも悪そう”な、地熱発電所の建物が見えるようになった。
彼我の高低差は軽く600mを越えているが、山腹が急である為か、よく見える。
(どうでも良いが、「東京スカイツリー」の高さ(634m)は人工物として尋常でない。
こうして山を上って600m台の高低差を実感するにつけ、そう思う。)
8:16 《現在地》
第4の切り返しから200mを直線的に進むと、緩やかな右カーブが始まる。
このカーブは約100mをかけて、ゆったりと右へ90度、進路を転じさせた。
道はここを境にして、三ツ石湿原をその中心に抱く、
南北1km、東西500mという、広大な鞍部帯へと進入していく。
だが、地形図に描かれた終点は、このカーブの終わりから、
わずか100m先にある。
記憶にはないが…
曲がり次第それが見えても、何ら不思議でない。
なお、カーブの途中から、さっきまでは不思議と見えなかった山が、突然すぐ近くに現れて驚いた。
もちろん、こんなに近くにある大きな山が、今まで姿を見せなかったのは不自然である。
つまり、ほんの少し前まで、私は“この山”の斜面をよじ登っていたということだ。
それが今、“この山”と別の山を隔てる“鞍部”に進入したことによって、初めて“この山”の頂が見えるようになり、“この山”の存在を意識することになったのだ。
“この山”の名前は、三ツ石山(1466m)であった。
既にこの辺りには、立ち枯れの風障木が数多く見られるのだが、三ツ石山の山体はほとんど立ち木の見えない、いわゆる毛無山であった。
飄然たる山容を隠さない三ツ石山を左前方に仰ぎつつ、いよいよ我らが県道は“最終ストレート”へ。
最終―
―ストレート。
昭和40年の奥産道計画決定以来、平成8年まで31年の長期にわたって、山の両面から進められた道路建設。
46億円の巨費(半分は国庫負担、つまり国民の税金)を投じて辿りついた“最終到達地点”(その一方)は、11年前の私が特段の印象を残さなかったことを肯かせる、本当になんでもない終り方だった。
しかし、それは明快に打ち切りと分かる風景でもあった。
車両を転回させる為の後付けの拡幅などは些かも見られず、本当にスッパリと終っていた。
これでは車両開放など出来るはずもない。
ここが地形的に“何か”ということも無く、例えば沢が行く手を遮るでも、尾根が差し迫っているでもない。
確かに尾根越えのトンネル(約1km)は計画されていたであろうが、坑口とするには、地山の盛り上がりはまだ少し足りない。
8:17 《現在地》
行くあて無き堀割への“ぶっ込み”で終っている道は 全て、
今以上の延伸の計画を有しているか、
或いは、そうした計画が頓挫した残景であると思っていい。
この未成なる終点は、典型的な“ぶっ込み”の終点である。
末端における堀割の深さは、道路の中心線上で4m程度。
この延長線上に(自然な形で)トンネルを設けるには、地表との比高が10mくらいは必要だろうと思う。
現在地の標高は1250mあり、これは鞍部の最低標高に30m足りないだけである。
地形的にはもう完全に峠をとらえており、このまま地形にそって道を伸ばしていくだけで、それは確定的に果された。
したがって、昭和40年の一番最初の奥産道計画では、このまま三ツ石湿原の内部を“明かり”で通過する予定であった。
だが、湿原一帯は十和田八幡平国立公園の第1種特別地域であったために、このルートは社会の容れないところとなり、長い工事中断を経た昭和59年決定の新ルートでは、第1種特別地域内をトンネルで貫通するようなルートになった。
このトンネルの詳細な位置についての記録は未見であるが、延長が1kmだったということや、当時の岩手県議会議事録などから、右図に示したような位置であったと考えられる。(探索の帰りに出会った登山者のグループも、その通りだと仰っていた)
(なお、計画最末期の平成8年には、環境保全の為にトンネルを2kmまで延長する計画も検討されたが、その場合も既設道路を最大限利用する条件だったようなので、おそらく網張側坑口の位置はほとんど(全く?)変わらなかったと思われる)
トンネル工事が着手がされなかったのは確定事項であり、しかも足元にこれほど明瞭な終点がある以上、これ以上先へ進むことは無意味と思われるかも知れない。
現に11年前の私は、なんの迷いもなく即座に引き返している。
だが、11年の間に道路への興味を格段に深めていた私にとって、今回はあともう少しだけ進んでみたいと思う理由があった。
それは、この先の道路予定地こそ、本道路が建設中止へと追い込まれるきっかけとなった事件の舞台だということだ。
その現状を知りたかった。
平成8年8月に発覚した事件の内容を、今一度簡単におさらいする。
同年7月、岩手県の委託によってある業者が行った調査(その内容はトンネルのボーリング調査であった)の過程で、本来必要とされる許可を得ずに、資材の運搬路となる作業路(一部は道路計画線の外で、ボーリング地点への通路)を約470m(最大幅15m)も切り開いてしまった。
この運搬路の開鑿にはバックホーが用いられ、植生と土壌に以下のような損傷を与えた。
植生の損傷状況は、バックホーの通行によるチシマザサの踏圧、バックホーによるチシマザサの掘り返し、アオモリトドマツの引き抜き、放置、枝の破損、広葉樹の引き抜き、放置、倒木移動の際の下層植生の撹乱ということである。具体的には、アオモリトドマツが約58本、最も多く、広葉樹は35本、その中はダケカンバ、コシアブラ、ミネカエデといったようなものである。 地形、地質の損傷状況は、バックホーの通行によるキャタピラのわだち、バックホーのバケットによる掘削の跡、盛り土、土壤の削剥、赤土の露出、谷部、やぶの水みちでの土壤の流出、それから4メートル四方で深さ3メートルといった取水用の穴の掘削といったようなものである。 (平成8年12月岩手県議会定例会における吉永副知事の発言から引用)
事件発覚後の同年11月には、自然公園法及び森林法違反容疑によって県職員(盛岡土木事務所職員)2名が書類送検され、両名はさらに収賄の容疑によって逮捕された。
知事はこの事件の直後、工事の無期限の凍結と、破壊された現状の復元を最優先に進める事を指示した。
これが事件の概要である。
だが、率直に個人的嗜好性から言って、この事件にはさほど興味が湧かない。
収賄の容疑が結局どうだったかとか、業者との癒着がどうとか言う話は、調べれば当然ケリがつくだろうが、そんなことはどうでもいいのである。
ただひたすらに残念で仕方がないのは、必要性・経済性・開発と環境保全のバランスといった道路の本質からは遠い部分の問題が、道路の明暗を分かつ決定打になってしまったように見える事である。
なんとなく、公共事業批判や山岳道路建設批判といったことの道具に、道路が使われてしまったような気持ち悪さがある。
「国民の大切な財産である国立公園の第1種特別地域内で、こんな杜撰なことをする県にこれ以上工事をさせたら、岩手県の自然は全部滅茶苦茶にされてしまう!」というような危機感を煽る感情論が、トンネル建設のために行われようとしていたボーリング調査の不手際から爆発し、事態の経緯上弱腰にならざるを得なかった県を圧倒すると、そのまま工事を諦めさせてしまったのである。
事件が無ければ、今ごろは開通していたことだろう。
その後に出た賛否両論であったら、私はもっと素直に耳を傾けたいと思ったろう。
敵も味方もいる公共事業において、実行者はくれぐれも慎重に進めなければ、どこで足元をすくわれるか分からないという見本である。
それも、問題を起こした当事者なら、まだ自業自得と諦めがつくだろう。
しかし、工事に携わった善意の第三者は、完成した道路を通う喜びの声に労われたいはず。
おかしな原因で中止になる道路は、ネタ的には美味しいだろうが、この道は経緯を考えれば完成しているのが“自然”だったと思うし、やはり残念さが勝るのである。
道路末端よりも先には、明確な敷石の歩道路面が100m程度続いていた。
平成8年の工事中止から、正規の登山道と県道が接続される平成19年までは、ここを通って三ツ石湿原を目指す登山者が後を断たなかったという。
なぜこの敷石の歩道が存在するのかは謎だが、既設道路の進路上(=道路計画線上)にあるので、先に述べた無許可伐採による資材運搬路を復元するための作業路として作られて、比較的最近までその目的(と非公式的には登山道として)利用されていたのだろうか。
少なくとも、これがバックホーによって乱暴に作られた資材運搬路であるようには見えなかった。
そして、そんな程度の良い敷石の道が見えなくなると…。
笹藪に視界は覆われてしまったが、それでも地表にはなお明確な“道”が続いていたのである。
とはいえ、いま私が居る場所は、草1本折ることが許されない場所。
よって、藪を破壊しないと進めなくなったら終了と考えていたが、まだ猫のように身を低くして進めば大丈夫だった。
うっすら続く踏み跡の周りには背丈に勝る笹藪が密生しており、微地形の有り様はよく分からないが、全体としては極めて分かり易い。
左奥に見えるのは三ツ石山であり、本来の鞍部はそのすぐ下にある。
道は鞍部を目指しておらず、その東側の緩く立ち上がる尾根を目指していた。
道は真っ直ぐ突き当たって、そこにトンネルを設ける計画であったに違いない。
私の足元には5〜10mくらいの深さの堀割が延々と作られ、両側には毎春、壮大な雪の壁が出現したことだろう。
ただしそこは北国の峠らしく、スノーシェルターに覆われたかも知れない。
8:21 《現在地》
蛇のように執念深く続けていた私の探索も、ここで終了せざるを得ない。
遂に道らしい道が無くなり、本当に原野となってしまったのである。
だが、持論に従うのであれば、この辺が坑口の予定地ということになる。
つまり、網張工区の(“明かり”区間の)本当の終点である。
現在地まで、車道の終点から約200m進んでおり、さらにもう270mくらい先までは、
過去に(違法な)資材運搬路が開設された事もあったはずだが、その痕跡は特に見えなかった。
これは、県によるお詫びの植生復元作業が、順調に進んだ証と取るべきであろう。
このあと私は、速やかに来た道を引き返した。
遂に11年越しの課題であった終点の再撮影を完了したが、
“最高の眺め”を記録するという意味では、再々訪の理由を作ることにもなった。
しかし、この道に来ることは、私にとって苦痛ではない。
…ほんの少し、心が痛むだけである。
また帰り道、“宙のカーブ”のすぐ下では、
自転車を漕ぎ出してすぐに追い越した“一人目の登山者”と再会した。
彼は私と同時にスタートし、一人徒歩でここまでやってきたらしい。
(待っててって言ったのに、気持ちよくてフラフラ来たらしい)
この後は景色を堪能した後で一緒に下山したが、私が自転車であるのに対し、
この登山者はナマ足である。随分と、高所ランニングを頑張っていただいた。