道路レポート/廃線レポート 草木湖水没交通遺構群 最終回

公開日 2012.10.28
探索日 2012.09.15
所在地 群馬県みどり市

湖底逍遥 旧国道編 その2 


2012/9/15 7:09 《現在地》

個人的に、大きな心情的起伏をもたらされた、湖底没神社の痕跡。

もちろん、この地区では中心的な存在であった集落が沈んでいるのだから、
神社が道を供にしていても何ら不思議はなかったのだが…。

ただ、この神社跡の発見をきっかけにして、
私の主題である旧道の位置についても、ひとつの疑念が生じた。

それはなにか?



それは、この神社の“本体”があるべき場所を旧国道に占拠されているように見えたと言う事。
石畳は旧国道の所でぷつりと終っていたから、それよりも山手に続いていたようには思われない。

この問題については、3つの可能性が考えられる。

1.旧国道の建設により社殿は失われた。

2.実は社殿は谷側にあった(旧道路よりも低い位置にあった)。

3.痕跡が失われているだけで、やはり社殿は旧国道の山手にあった。

4.旧国道が御神体だった。

信心深い里人のことである。
2.の可能性が高いと見るべきだろうが、道路から石段を“下った”所にある神社というのは、現実にはあまり見ない光景である。



アングルを変えて撮影してみた。

石鳥居、石段、並木の痕跡を留める参道は、この場所に忽然と現れており、前後に本殿の痕跡を留めていないことが分かるだろう。
おそらく、現地調査だけではこれ以上の事は分からなかったと思うが、前回を公開後に賢明な読者さまから救いの手が差し伸べられた。

ご母堂とご祖母さまがこの地にお住まいであったという旧線太郎氏より、聞き取り証言が寄せられたのだ。

神社の参道の跡がありましたが、神社の本体は現国道122号の崖下にあったそうです。
ダムの工事で崖を発破した際に痕跡諸ともなくなってしまいました。

神社は富広美術館裏の山中に移転しました。
高常寺というお寺が同美術館裏山にありますが、その裏手の山のなかにひっそりとあります。

答えは、3.だったのである。
ダム工事による地形の変化が如何ほどのものであるか、改めて実感させられた。

これで神社の位置問題は解決を見たが、現地ではそんなことを知る由もない私による本殿痕跡地探しが、旧国道の下で繰り広げられた結果、以下の副産物的な発見を得たのであった。



ここは、参道の石段が泥没した地点から、その延長線上に30mほど湖畔へ下った地点である。
参道の20mばかり下流側の頭上には巨大な草木橋が平行して架かっているが(参考画像)、その2本しかない橋脚のうちの1本が、普段は湖底である地盤に深く穿たれていた。

道幅の倍はありそうな幅広の橋脚の迫力に気圧されつつも、私の目は橋脚が穿たれた窪地を取り囲むような石垣が存在することに釘付けとなった。
その作りは古色蒼然たるものが有って、崩壊の状は著しかったが、この石垣の上にはひと続きの道が存在したように思われた。

そのまま視線を左側へ持っていくと…。




やはり、道跡の可能性を感じさせる平場が、うねりながら通じていたのである。

旧旧道など、地形が平坦に近ければ泥没のため全く気付けず終ったろうが、渡良瀬川の河岸段丘崖の縁に近い急斜面ゆえに痕跡を留めたのか。
或いはこれらは単なるまやかしで、集落跡に由来する石垣などを、一連の道路跡と邪推したのみだろうか。

だが、神社の参道を旧国道が横断しているという不自然さは、集落の最下位に旧旧道が存在したと仮定することで解決が出来る。
やはり私は神社参道との関係性において、この位置に旧旧道が存在したと推定する。
その成立の時期は不明だが(明治期の銅山街道改修時か)、廃止されたのは旧国道の成立時であって、それは「内手橋」の竣工年である昭和32年である可能性が高い。



なお、昭和27年と同40年の地形図の比較したところ、やはりこの期間に道路の位置が山手へ遷移したように見て取れた。

(変化していないはずの)鉄道の線形も変化しているなど、直ちに道路の移動を断じることは出来ないが、北側の地点では道路上の水準点標高が4mも変化(低下であることに注意を要する)しているなど、同一の道ではないのではないか。
その他、昭和27年当時の地形図には村はずれに小学校の記号が存在しているなど、集落内の建物の配置も変化している。

当然だが、住み人はやがて水没する定めを予期できるはずもなく、この山間地に精一杯の暮らしを展開していたのである。
“石の鳥居”は、そのような山里の小さな誇りであったろう。



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当然、その石垣や桟橋のような場所へ近付いてみた。

だが、いざ間近に見ると崩壊の進み方ばかりが目立ち、散漫な印象になってしまう。
この眺めだけから、黄色い矢印のような旧旧道を想定するのは難しい感じがする。

初め桟橋と思っていたものも実はそうではなく、石垣の裏側で路盤の基礎として埋設されていたものかもしれない。
まだまだ当時の路盤築造技術には分からないことが多いが、他の場所でも築堤内部に木材が使われていた例を見た(←このリンク先の最後の画像)ことがある。

ここまで来たついでといった感じで、何となく心惹かれるものがあった奥の大岩(赤矢印)へ近付いてみると…。



この湖底エリアに立ち入ってから初めて、先行者の痕跡を見つけた。

遠目に大岩と見たものは、それほど大きくはなかったけれど、石碑が転倒したような形状に特徴があった。
そして、その表面にはなぜか、100円玉1枚と1円玉1枚が重ねて置かれていた。
今回の渇水に乗じて訪れた廃村の事情を知ったる何者かが、思うところあって101円を賽したように思われた。

どうやら私が心惹かれた理由は、この岩のオーラにあったようである(マジか?)。
この岩は石仏かなにかなのではないか。

こうなると俄然気になるのが、足元のコンクリート舗装である。
明らかにお手製の舗装であり、その幅を含め、明らかに車道のものではない。これは集落道の痕跡と思われた。



コンクリート舗装の集落道らしき痕跡は、旧旧道と旧国道を結んでいるようだった。
木製電柱の痕跡と思われるものが、周囲には多数見られた。
しかし、建物の基礎を見つける事は出来なかった。
打出沢のべりにあたるこの場所は、集落の中にあってどのような景色だったのか。
もはや部外者には想像する事も難しかった。




反対に旧旧道があったと思われる渡良瀬川の方へ近付いてみると、コンクリート舗装が途絶えると同時にキツい崖となって、一気に濁った湖面へ落ち込んでいた。
もはや旧旧道がどこにあったのか全く見当もつかないのであるが、ともかくこの斜面には往時竹林が茂っていたことは分かる。
集落と竹林の関係は浅からぬものがあった。
そういえば、白浜集落の山手にも竹林があった。

ここでふたたび旧線太郎氏の貴重な証言を引用しよう。

私の母親が草木ダム水没地区に昔住んでいました。
横川地区、今の草木橋直下、国道122号側(草木ダム堤体からみて左岸)に住んでいたそうです。(著者注:地形図では横川集落は国道122号側ではなく、対岸に描かれている)
そこから草木駅に行くには国道から小道を下ってかなり降りたところから吊り橋であった旧草木橋をわたり、そこからまた更に降りていって草木駅にたどり着いたので、草木駅は相当低い所にあったそうです。
それなので泥に埋まって見えないし、渇水も1ケタ台まで進んでも痕跡は確認できないかもしれないだろうとのことです。
そこまで渇水が進めば旧草木橋のコンクリ土台も出てくるかもしれないそうです。
レポートを読んで、幼き頃の思い出を思い出せてとても懐かしい気持ちになれたと言ってました。

私が目にした地形的特徴とぴたり合致する証言と言える。
ただ、この辺りに先代の草木橋というべき「吊り橋」が存在した事は全くの初耳であった。
「国道から小道を下ってかなり降りたところから吊り橋」の「小道」というのは、私がいるこの場所であったのだろうか。

サイト『蒸気機関車懐想』さんに、この草木吊橋の画像が掲載されているとの情報をいただきました。
当該記事へのリンクはこちらです。
読者さま情報提供による




湖底逍遥 旧国道編 その3 


7:15 《現在地》

内手橋および集落跡で思いのほか時間を使ってしまったので、ここからはペースアップして旧国道の探索を仕上げよう。

これまでの探索により、この先も旧国道には2本の橋があることを確認済みである。
その実情を確かめて、この探索を完結させたい。

行くぜ!




来たぜ!!

上の写真とほとんど写っているものは変化していないように思うかも知れないが、50m以上も移動している。
そして、今度の写真にはちゃんと2本目の橋が写っている。

お気づきになられただろうか。




この通りである。

本橋は規模が小さく、欄干さえ持たなかったようである。
親柱はごく小さいものが存在するが、そこに文字は刻まれていない。
結局、この2本目の橋については、名前を知ることが出来なかった。


で、この橋を渡って少し進んだ所で振り返ると…



至高の廃道風景!

最後まで未舗装であった路面は、まるで上出来な芝生のようだった。

マジ感激。幸せすぎるぞ!

放牧したい!!(うちの猫を)



2本目の橋を渡った先も300mばかり旧国道には平穏な風景が続いた。
湖底でなければ、きっとなんの問題もなく今日も交通路になっていたであろう場所。
人も暮らしていたであろう。

そんな場所に杭の1本、畝の1筋もないというのは、まこと浮き世離れした景観であった。




この界隈で唯一人跡と認めたものは、錆びた鉄の部品を露出させた、コンクリートの残骸であった。

路傍に乱雑に置かれていたが、ダム工事の過程で置き去りにされた廃材であろうか。

草木橋からこのくらい離れた地点が、“平穏な風景”の終点であり、眼前にはいよいよ3本目の橋が近付いていた。
対岸からは、このように見えていた橋である。
この見え方には、大いに不審なところがあった。



長らく続いていた湖底を見下ろす段丘平野は、河川の蛇行した痕跡に削り取られるようにして、急速に痩せ細っていった。
そしてその終端部分を画しているのが、現国道の橋の名前にもなっている「寒沢」という一支流である。

ほとんど滝状になって落ち込む寒沢河口部に、第3番目の橋は架せられている。

…そう、思われたのだが、実態は異なっていた。




いよいよ見えてきた、3番目の橋。

2本目の橋辺りで下り坂は底を打ち、以来緩やかに上ってきていたが、この橋も緩やかな上り坂の途中にある。
そして、橋の少し先で旧国道は湖の満水位よりも上位に浮上するようで、深い藪を介して森の中へ消えて行くが、その先はすぐに現国道と接近しているはずである。

ただし、今回はそこまで探索していない。



7:18 《現在地》

橋は沢に架せられていると思いきや、実は単なる桟橋であり、水流を跨いではいなかった。

だが、眼下の斜面はとても深く険しい。
この比高が湖にすっかり没することを想像すると、それも怖い。

この道が山手への迂回を選ばず直線的な橋を架したのは、やはり内手橋同様、昭和30年代の改築によったと想像する。
旧旧道時代の橋とするにはいささか豪奢であろう。

先ほど古地図の比較の所で書いたとおり、この辺りの水準点標高が4mほど低下している。
旧旧道はより山手に高巻きしていたのではないだろうか。




だが、あなたはまだ、
この橋の 真の恐怖 を知らない。



なんか、おかしいよ?




やべぇ!
狭い!

つか、山側の1車線はどうした?


それに気付かず突入すれば……。



ボッシュート!

自転車だと普通にある得るから怖い。



果してこの橋の幅員の半分は何処へ消え去りしか。

そもそも、このように綺麗半分なくなっている事自体、大いに不自然である。

普通の橋ではない、と言うことが分かる。



橋の山手側面に回り込んでみたことで、やっとこの不可解な崩壊の原因を推測することが出来た。

この橋が桟橋であったことは既に述べた通りだが、加えてこの橋は、当初から1車線分しかなかったのだった。
2径間の橋の中央にある橋脚の幅が、その証拠である。

元もとこの橋は下り線は地上にあり、上り線だけが桟橋であった。
そして下り線を支えていたのは橋の下に設けられていた石垣と、斜面と石垣の間に充填された土砂だったが、石垣が途中で“裏切って”居なくなったので、充填されていた土砂と供に路面も湖へ流出してしまったのであろう。

「路肩注意」というのはよく見るが、よもや桟橋の山側の路盤だけ抜け落ちているとは…。
初体験の“道路壊景”である。



放置され、異形になり果ててもなお架かりし橋、

ここにも一橋を発見!


自転車で、心ゆくまで独り占めした。



橋の先には、本当の寒沢が流れ込んでいた。
だが、そこには橋の痕跡が見あたらなかった。
暗渠で越えていたようである。

そして、さらに先は満水位よりも高い区間。

ダム水位の減少を根拠としていた今回の探索は、これで終了である。