千頭森林鉄道 [総扉ページ]

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探索日 2010.4.19 他

 千頭森林鉄道の導入

その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。

昭和46年版「千頭営林署管内概要」より

昭和44年当時の千頭(せんず)営林署は、全国350の営林署のなかで最大の予算規模を誇っていた。
このことは同署発行の「管内概要」自らが「特異」だとしているが、確かに誰もが知っている青森や秋田、それに木曽などの“林業国”を差し置いて、静岡県の一部を所管する千頭営林署がそのような地位にあった事は意外である。
ということは当然のことながら、千頭営林署を所管する東京営林局の中でも同署が最大の営林署であった。

膨大な予算は、首都の名を冠する東京営林局が半ば宿命的に持たされていた、わが国の林業の模範となりまた先進的でなければならないという性格を反映させたものでもあった。
それに、ちょうどこの昭和44年というのは、東京営林局管内最後の森林鉄道「千頭森林鉄道」が廃止された年であり、当時は代替となる林道が年10km以上という、現在としては考えられないくらいのハイペースで建設されていたのである。

だが、千頭営林署が全国最大の予算で事業を行っていたのはこの年だけではなく、それほど珍しい事ではなかった。
大規模予算の本当の理由は、「千頭の山」で林業を円滑に行うためには、それが必要なコストだったからに他ならなかった。
そしてもちろん、それに見合った収穫が見込まれたからであった。



「千頭森林鉄道 30年のあゆみをふりかえって」
(千頭営林署s44発行)より転載 

地形は早壮年期〜満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°〜40°、山頂近くは10°〜30°となる。標高は、300m〜2591mとその差が著しい。

同上 より

左の写真を見ていただければ、どれほど険しい地形から木が伐り出され、そして運ばれていたのかがお分かりいただけるのではないだろうか。
千頭森林鉄道が昭和初期の開通以来、廃止となる昭和44年までのあいだ、ほとんど毎日欠かすことなく運転されていたのは、目も眩むような絶壁にしつらえられた幅762mmの線路であった。

本稿が取り上げるのは、この「日本一の事業規模」を誇っていた千頭営林署のあらゆる事業に欠くことの出来なかった生命線、千頭森林鉄道である。

などという風に仰々しくレポートを始めてみたものの、千頭森林鉄道は全国に数多あった森林鉄道のひとつであり、その制度も、基本的な意義も、他と変わるところはない。
最後の日までただ粛々と運材に従事し、時には地元民の足となり、また酔狂な岳人を未知の山奥へと誘ったりしたのである。

ただ、その路盤の置かれていた場所が「南アルプス」ゆえに他に勝って険しかった。

林鉄の敷設なくしては、計画的な開発がほとんど不可能だったのである。

そのような事情は、次の古い文書の冒頭に最も端的に現れている。


軌道ノ敷設ニヨッテ開発上有利ナル条件トナレリ、茲ニ於テ之等ノ運搬施設ニヨリ未開発ノ老齢過熟針潤混淆林利用又ハ焼畑跡地ノ若キ雑木林ノ林相整備ヲナサントシ、第三次検訂ヲ行ヘリ

帝室林野局千頭事業区 第三次検訂施業案説明書(s12発行) より


このように、林鉄によってはじめて「開かれた」千頭の奥地だけに、その“道”が失われて久しい現在、その現状を知る人は多くない。
ずっと行ってみたいと思っていたが、踏み出す一歩は予想以上に重かった。「千頭」という名前自体から、容易に踏み込めないオーラが滲み出ている気さえした。
この障害の最大のものは圧倒的山岳の物量であり、奥地を探索するためには、どうやっても無人境での山中泊が必要だった。

そして、関東移住4年目にして、ようやく心と道具の準備も整い、初の本格的な林鉄遠征が実現した。

はじめて体験した「千頭の山」は、期待通りオブローダーにとっての“幸福の沃野”であった。
だが、これまた案の定というべきか、命の担保を日常的に要求される魔境でもあった。
しかも、二ヶ月連続して命を差し出してしまえるほどの、病み付きの魔境。




 歴史解説編

<1> 林鉄前史・前  近世から始まった「川狩」による千頭山の伐出 

昭和以前の小又川源流部はは、現在の最奥集落である大間より上流にいくつかの集落があった。これらは近世に移住した木樵達に由来する林業専業の集落であるが、「湯山」には明治期に温泉が発見され湯治場が作られていたという。また地図には描いていないが、さらに上流部にもいくつかの「小屋」があり、木樵達が季節的に暮らしていた。

明治41年測図44年仮製版「井川」より、後に千頭堰堤が建設される上日向周辺の様子。数本の道が描かれているが、いずれも車馬は通行不可能で、寸又川の「川狩」だけが伐出の道だった。


明治から昭和の始めまで、千頭山御料林の木材の伐出は、水量豊かな寸又川の流水を利用した「川狩」と呼ばれる流送に頼っていた。御料地の地形は急峻で、寸又川の両岸とも断崖絶壁であったので、当時としては、「川狩」による方法以外には、運材の手段がなかったからである。

東京営林局百年史 p.554 より

後に千頭営林署が管轄することになる地域の大半は、近世においてぞくに「千頭山」と呼ばれてきた大井川支流寸又川流域の広大な山林(左図の範囲はそのほとんどが「千頭山」である)のうち、幕府の所有林であった「御立山」がその母体となっている。
千頭山は元禄15年(1702)の境界係争解決以降、下6分が「百姓山」、上4分が「御立山」と定められ、この御立山全部と百姓山の一部を、中泉代官が支配していた。

この地域からの伐出で記録が残る最古のものは、慶長19年(1614)に駿府城本丸用材としてヒノキ、ツガ、ケヤキなどが伐り出されたことで、これ以降、東京上野の東叡山寛永寺、江戸城本丸、京都御所用材などとして、紀伊国屋文佐衛門等の御用木請負人が多数入山し、江戸時代を通して伐出が行われた。

当時は伐出から運材に至るまで、すべて河川を利用しており、これが「川狩(かわがり)」である。
他の地域では「管流」といって筏に組んだ所もあるが、大井川流域では丸太をそのまま川に放流する方法が用いられ、伝説では「木材が大井川下流海に至るまで充満した」というだけに、これが森林鉄道に置き換えられるまで他の河川利用者との間で度々紛争が起きている。(江戸時代の大井川で一切舟運が認められなかったのもこれと関係すると思われる)

このように千頭一帯では近世から本格的な伐出が営まれており、川沿いの良木は大抵この時期に伐られたという。
そのため昭和以降の事業地は他地域にも増して奥地化することを免れず、これが事業規模の拡大(森林鉄道の旺盛な延伸)へと結びついていったのであった。

本川根町史より「川狩り(バラ狩り)の光景」。
水面がまったく見えないほどの木材が、川幅一杯に流されている。




<2> 林鉄前史・後  電源開発を契機とした「寸又川軌道」の敷設 

この豊かな水資源は、当然電力開発の面からも着眼された。昭和3年寸又川の水利権を得た第二富士電力株式会社(昭和11年富士電力株式会社に合併)は、御料地内に高堰堤を設けて、一大貯水池を構築し、寸又川の流水量を調節し、水力発電用に供する計画を立て…

東京営林局百年史 p.554 より

明治4年の廃藩置県によって、上4分の御立山は国有となり、明治12年内務省、14年農商務省山林局、19年静岡大林区署の所管となった。さらに明治22年には御料林制度に組み入れられ帝室(皇室)財産となった。その当初は御料局木曽支庁の管理に属したが、同年8月からは静岡支庁静岡出張所の所管となり、24年森出張所、31年再び静岡出張所の所管となった。
また下6分の百姓山は、明治22年に住民困窮を理由に売却が相次ぎ、やがて富士製紙(現在の王子製紙)の所有となったが、明治39年にはこれも大半が御料林に買い入れられた。
明治42年1月に、後の千頭営林署の前身となる「千頭出張所」が新設されて移管された。
ぞくに言う「千頭御料林」とは、この明治22年以降、昭和22年の「林政統一」まで慣わされた名であり、この地に林鉄が産声を上げたのもこの時代のことだった。

昭和5年から11年頃にかけて第二富士電力株式会社の発電計画(図中水色の各施設)に則って、資材運搬を目的とした「寸又川専用軌道」および「大間川支線」が敷設された。これらは予め工事終了後には森林鉄道となることが定められていた。また、この時期には民鉄の「大井川鉄道」が金谷〜千頭間を全通させ、後にその「井川線」となる「大井川専用軌道」が敷設されるなど、上川根地方は一気に鉄道色が濃くなった。


昭和27年応急修正版「井川」より、千頭堰堤付近。
特に名称の注記はないものの、千頭堰堤による小さなダム湖が現れ、その下流右岸に軌道の記号がある。
昭和27年といえば実際にはもっと奥地まで軌道が延びていたが、それが反映されるのは、改測と大規模な図式改訂が行われる昭和40年代の版からである。このようなところからも、一帯がどれほど世人に知られざる秘境であったかが感じられる。


…水力発電用に供する計画を立て、その許可を静岡県に申請し、同県はその支障の有無を帝室林野局に照会してきた。
帝室林野局は、木材搬出の水路がダムで閉ざされれば、当然木材の流送が不可能となるので、その水利権の代償として、同会社が寸又川使用区間に森林鉄道を敷設し、無償で当局に譲渡するならば、工事を許可することも支障ない旨を回答した。
電力会社は、堰堤構築や、水路開削工事に必要な建設資材を運搬するためにも、森林鉄道によるほかはないものと判断し、帝室林野局の承認を得た設計に基づき、昭和5年10月寸又川上流の湯山・大間発電所の建設許可を待って、森林鉄道敷設工事に着手した。

東京営林局百年史 p.554 より

大井川とその支流における電源開発の歴史は、明治後期の日英水電や富士製紙を揺籃期とし、第二富士電力や大井川電力が活躍した昭和初期に繁栄期を迎える。
このうち第二富士電力による寸又川の開発は、左の図に水色で示した各種施設を山間部に建設する必要があり、従来の交通手段でそれは不可能に近かった。
またダムの建設を伴うこれらの開発は、寸又川に水利権をもつ帝室林野局の木材流送を補償する必要があった。
この2つの要因により、電力会社によって軌間762mmの工事用軌道「寸又川専用軌道」が敷設されることとなった。

昭和5年10月に着工された寸又川専用軌道の起点は、千頭の北方約3kmの地点、大井川と寸又川の合流地点からほど近い沢間(さわま)集落で、そこから寸又川右岸の険しい地形を多数の橋やトンネルで切り抜けながら大間発電所予定地を経て、第一期工事の終点である大間集落まで(10.5km)が昭和6年9月に部分開通した。
軌道は寸又峡の奥地へさらに伸ばされ、大間堰堤予定地、湯山発電所予定地を経て、終点の千頭堰堤予定地までの全線(9.8km)が開通したのは昭和8年12月である。
またこの途中の尾崎坂から分岐して、大間川堰堤予定地までの支線(5.9km)が昭和9年5月に、千頭堰堤から上流への延長線(2.6km)が昭和10年8月に完成し、ここに新しい時代の千頭山の大動脈が完成したのであった。

この時期には東海道線の金谷駅から北進を続けていた大井川鉄道(軌間1067mm)が千頭まで全通(昭和6年)し、さらに残る沢間と千頭の間の3kmについては、大井川本流に奥泉堰堤(現在の大井川ダム…アプトいちしろ駅のあるダム)の建設を進めていた大井川電力株式会社によって、軌間762mmの「大井川専用軌道」が昭和8年12月(昭和9年や10年という説もある)に完成し、寸又川専用軌道はこれに乗り入れて千頭駅で大井川鉄道との積み替えを行った。
ただし、大井川専用軌道は当初こそ軌間762mmであったが、昭和11年に軌間1067mmに改軌されたため、沢間〜千頭間のみ軌条を三線式(片側のレールを共有)とした。そしてこの三線式は、大井川専用軌道が中部電力専用鉄道を経て大井川鉄道井川線となった後も、千頭森林鉄道が廃止されるまで続けられた。


「寸又森林軌道沿線名所図絵」所収、
「寸又川軌道をゆくプリムスFL-1牽引の工事列車」。


崩壊の激しい中央構造線フォッサ・マグナの貫通した複雑な地質構造をもつこの地帯への敷設は困難をきわめ、多数の労働者が動員され、昼夜とおした作業が続けられた。

千頭森林鉄道 30年のあゆみをふりかえって より

というような難工事の末、寸又川専用軌道は沢間〜千頭堰堤約20kmおよび支線を昭和5年から10年までの短期間で完成させた。
これで東海道線の金谷より、千頭での積み替えを経て、寸又川上流の各工事現場へあらゆる人や物を輸送する体制が整えられたのであった。

実際の工事は間組が請負い、富士電力所有の7トンや4.5トンの米国製ガソリン機関車に混じって、間組所有の機関車も運行された。
初期のレールは米国製の20ポンド(9kg軌条)であったという。
また、本線は基本的に工事輸送専用であったが、昭和7年に地元住民により軌道利用の陳情がなされ、地元民と生活必需品に限り便乗が許可されるようになった。

そして湯山発電所は昭和10年に、大間発電所も昭和13年に無事完成し、寸又川専用軌道は当初の目的を完徹した。
そのため同年12月には当初契約の通り、これらの軌道とその支線一式は全て帝室林野局へと無償で譲渡され、ここに「千頭森林鉄道」の誕生をみたのであった。



<3> 林鉄全盛期  戦時中の大増産と奥地開発の開始 

執筆予定。



 レポート編 <本編選択>

番号 区 間 
(↓カーソルオンで右図が変化します)
距離規格本編リンク
<0>千頭駅〜
 沢間駅
3.0中部電力社線現役の鉄道のため
執筆予定無し
<1>沢間駅〜
 大間駅
10.5一級森林鉄道//////7完
<2>大間駅〜
 千頭堰堤
9.8一級森林鉄道探索済み
<3>千頭堰堤〜
 大樽沢
4.3二級森林鉄道////////
/10/11完
<4>大樽沢〜
 奥地
8.4
+α
二級森林鉄道/
<11>大間川支線10.5二級森林鉄道廃道探索 山さ行がねが
日本の廃道vol.50/vol.51/vol.52
<12>逆河内支線3.8二級森林鉄道/////////10/11/12完











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