道路レポート 岡山県道417号和気吉井線 稲蒔不通区 最終回

公開日 2022.03.23
探索日 2022.02.20
所在地 岡山県赤磐市〜和気町

 起点側から、先ほどの「撤退地」を目指す 佐伯〜津瀬


2022/2/20 10:54 《現在地》

県道417号の終点側から不通区間を“ほぼ”攻略したが、自転車を持ち越すことができなかったので、一旦撤退した。
今度は県道の起点側から、先ほどの撤退地点まで行ってみよう。辿り着けたら、探索完了である。

いまは終点側から起点側へ自動車で移動中。
不通県道の対岸にある国道374号の景色である。
右側を吉井川が流れており、対岸のどっしりとした山の下を県道が通っている。




これも国道からの眺めで、県道の車道が終わり古い徒歩道の廃道にバトンタッチしていた市町境の辺りを撮影している。
こうして対岸から見ても、車道がある部分には微かにそのラインが見えるが、徒歩道は見えなかった。

あと500mばかり車道が整備されれば県道は車で通り抜けられるようになろうが、それにも数千万円の工事費は要するだろうし、このように車で簡単に国道を迂回できる状況からして、新たに県道を整備するメリットがあるかといわれれば悩ましいところ。しかし景色は良いので、自然歩道とかなら少しは利用されそうだ。




11:03 《現在地》

自動車での移動は流れるように終了。
今は再び自転車に跨がって、県道417号のちょうど中間地点にあたる和気(わけ)町佐伯(さえき)の吉井川に架かる佐伯大橋にいる。

橋の右岸側の堤防上を県道417号が通っており、この写真にある無名の交差点で県道53号と平面交差している。
交差点には信号も青看もないが、卒塔婆標識だけは立っていた。(奥に青看が見えるが、表示内容はこの県道と無関係)
県道としては終点から8kmの地点であり、先ほど引き返したのが約3.6km地点だったから、もし【あそこ】で引き返さずあと4.4km前進していたら、ここへ辿り着いたはずだ。

それではやり残しを排除するべく、起点側からの探索をスタート。 まず右折!



これが右折直後の風景。
完備された県道のように見える。
だが、4kmほど先がどうなっているのかを既に知ってしまっている。
とはいえ、3km先に津瀬(つぜ)という集落があるようなので、そこまでは廃道になる心配はないだろう。ストビューもそこまでは入っている。




11:05 《現在地》

300mほど堤防道路を進むと、地味な丁字路があった。
ほとんどの車は黙って直進すると思うが、地理院地図だと県道は左折になっている。
またスーパーマップルデジタルは、直進と左折の両方を県道としている。
どちらが正解なのか分からないが、どちらを選んでもまた150m先で同じ道になる。



この写真が、「150m先」の交差点を振り返って撮影したもの。

ここで並行する堤防道路と集落内を旧道が合流する。
おそらく最初は集落内道路が県道だったのだろうが、堤防道路が段階的に整備されたことで、県道の認定が中途半端に堤防道路へ移動したような感じだ。
残念ながらどちらの道にも県道の証しはないので、気にせず先へ進もう。




前記地点を過ぎると、県道は直ちに1車線となった。地名も佐伯から米沢に変わる。
堤防道路としてのゲタを履かされなければ、やはりこんな道になるのだろう。交通量的に。
いまのところ、冒頭の卒塔婆標識以外には、県道であることが分かるような標識類は全くなく、県道としての行き止りに向かっていることを知らせるものも見当らなかった。どこで現われるかな?



米沢集落を外れると、道はまた2車線幅となったのだが、中央線はかすれて消えてしまっており、両側の白線も消えかけていた。
そして谷尻橋という小さな橋があり、銘板を見ると昭和51(1976)年竣工だという。

こういう小さな情報にも県道整備の歴史を推し量るヒントがあるのかもしれず、わざわざ車で簡単に辿れる区間まで自転車を走らせているのだから、目を凝らしておいて損はない。
たとえば、昭和50年代には不通区間の解消を念頭とした拡幅整備が行われていたのかもしれない……という想像ができたりするでしょう。

ところで、いくら調べても情報がなく分からなかったが、この場所の路傍に写真で拡大したような看板が立っていた。 「天保四年 備前国磐梨郡米沢村 日本医療看護婦 訪問看護 発祥地」 県道とは関係ないだろうが、ちょっと気になる。



11:08 《現在地》

出た出た! 見覚えのある看板。

佐伯大橋から1.2kmの地点にて、こちら側では初めて登場した、この先が通行不能であることを案内する看板が。
先ほど終点側で何度か見たものと同じ文言で、ただ数字の部分だけが違っていた。

なんでも、現在地から1.8kmの地点が、こちら側の“限界”であるようだ。
現在地から先ほどの撤退地点までの距離は3.1kmくらいなので、“限界”の向こう側に「一般車両通行不能」の道路が1.3kmくらいあることになる。
どんな道なのか楽しみである。楽しみ。だからこうして自転車を漕いでいる。




白線の消えかけた2車線道路をさらに数百メートル進むと、川に開けた明るい南向きの傾斜地に一塊の集落があった。
保木(ほき)という集落で、大字津瀬に属している。県道的には不通区間突入の2こ前の集落だ。
そしてやっぱり集落に入ると道が狭くなるのだった。

保木という地名は各地に存在する。「ホキ」という言葉は古い日本語で崖を意味しており、多くは川の近くの流水が衝突する崖地に名付けられる地名とされる。
古い地名があるということは、古い時代から人と深い関わりを持つ土地で会ったことを意味している。それが集落であれ、交通の要地であれ、地名と道の存在は切り離せないだろう。もっとも、道が陸路とは限らないが。




保木の集落を外れると、また川岸の少し高い所を通って行くが、再び道路は2車線に。
そして、相変わらず白線はほぼ消えている。

残る集落はあと一つだけだ。
集落があるうちは道を整備する大義名分が立ち易いが、2車線はやはりオーバースペックな印象があり、ある時期までは不通区間を貫通させる県道の整備(=将来の交通量大幅増)が予定されていたのではないかと思う。




そして、現われるぬこ体。

集落と集落の間の小さな坂道の頂上の路上で、座りのような立ちのような微妙な姿勢で静止していた。
私が自転車で隣をすり抜けるときにも足を動かさず、ただ上半身の向きだけを変えて最後まで私を見送った。

・・・・・・めっちゃ、集落のおじいちゃんっぽい…。



11:16 《現在地》

佐伯大橋から2.5km進むと、不通区間前最後の集落である津瀬に到達。
ぬこを見なければ辿り着けない集落である。
集落は谷底に近い小さな沖積地にあり、川幅が広く南北が開いているため、道のどん詰まりの立地ながら景色は明るい。
しかし、町営バスの終点であるバス停を見ると、平日午前中に2便があるだけという辺地の現実があった。

そして、道のパターンはこれまで通り。
集落に入ると、道は狭くなる。
今回もその通りだった。

なお、この津瀬という地名は吉井川に川舟が往来していた時代(昭和6年の片上鉄道全通で衰退したそうだ)に川湊があったことからの命名といわれている。
先ほどの佐伯も川湊として大きく栄えた土地らしく、吉井川に存在した舟運の存在が、この川の両岸に道と集落を集めた原動力であったのかも知れない。

動力船ではない時代の川舟が川を遡上することは、大変な重労働であった。場合によっては、岸に付けられた道から人や家畜が綱で曳航するというような、現代から見れば想像を絶する重労働を強いることもあった。漕ぐにせよ、曳くにせよ、舟運という大人数による重労働を支えるためには、川岸に休憩所や宿泊所となる多くの集落が必要であった。それらを結ぶ道も整備されねばならなかったはずである。



ところでこの左の建物はバスの終点であり、郵便ポストが設置されている津瀬集会所だ。
小中学校を持たない小集落にあってはおそらく唯一の公共施設と思われるが、施設の敷地が未舗装で、隣に狭い県道があるだけという状況が、私の目を引いた。

この部分だけでも拡幅するとか舗装するとか、そういうことが行われていないことに、加飾を避けて必要なものだけを整備してきたような面白みがある。私はこの景色に安らぎを感じた。行政サービスの貧弱さを言いたいのではなく、純粋に好ましく思った。

そしてここにはもう一つ、簡素な公共施設(?)があった。
県道の右側の空き地に設置された、ブルーシート製の超ミニサイズヘリポートである。
これって、なんだろう? 宅配ドローンの実証実験中って感じでもないし、農業用無人ヘリかドローンの離着陸場かな?




津瀬集落は地形に沿って、そして道に沿って、南北に細長く続いていた。
そして、集落内で車が通るような道は、この県道しかなかった。
しかも道はこれまで以上に狭く、集落に車道が通じた当初からこの風景はほとんど変わっていないのではないかと思った。

しかし、この袋小路集落の民家の壁にも取り付けられている「マフルク」って、マジで凄いネットワーク力だったんだなぁ……。
ここに看板を設置してあっても、集落の住人以外が目にする可能性は、本当に皆無に近かっただろうに…。

間もなく集落を外れたら、いよいよ車道の終点まで無人地帯が始まるはず。
これまでのパターンからすると、また徒に道が広くなって、未成道臭を醸しそうだよね…。




あれれ?

集落出ても、道は狭いまま…?



めっちゃ狭い!

思わず私が笑顔になっちゃうほどの
ストレートな狭さを感じる!

平らで見通しの良い簡単に拡幅できる地形なのに、軽トラギリギリの幅しかないのが、
この道の利用実態を素直に現わしているようで、かわいいと思った。

こちら側は、最後の集落を外れるとこの有様か。未成道にすらなれなかったか?
この県道の貫通を熱心に欲したのは、川上に位置する赤磐側だけだったということなのか?
境界に不通区間を持つ二つの自治体に温度差があるというのは、よくあることだが…。


次回、行き止りまで行く。




 津瀬集落の奥……、とても狭い道が……


2022/2/20 11:18 《現在地》

佐伯大橋から2.9km、ほとんど川沿いの一本道であった県道417号を北上してきた。
おおよそ1.8km手前で一度だけ【予告された】「一般車両通行不能」の区間の入口に、いま到達した。
一度赤磐側でも見た看板が目立つように設置されているが、やはり封鎖はされていない。
「行くかどうかは自分で判断しろ。ただ、俺はちゃんと伝えたからな。」

ところで、「自動車交通不能」とか「通行止」といった用語には法的な意味付があるが、この「一般車両通行不能」にはそういうものがない。読んで字の如しの意味だと解釈されるべきものだろうが、ゲートなどで封鎖されていないのは、通行止を行う根拠がないということなのかも知れない。もっとも、道路の未整備は、通行の危険を理由とする通行止の法的根拠になることが明確なので、敢えてその理由から封鎖していないのは、利用者の判断を尊重したのだと感じる。だって、この先の道を知れば、「危険がない」とは誰も思わないはずだから…。




看板の地点はちゃんと舗装された広場になっていて、Uターンすることができるようになっている。これは道路管理者の優しさだ。
津瀬集落に入るところから道がずっと道が狭いままで分岐もないので、もしこの広場がなければ、運転手は進みたくないのに進しかなかっただろう。

なお、広場の傍らに瓦屋根土壁の小さな神社がある。
石段も鳥居がなく、境内の境目がはっきりしない造りだし、扁額もないので社名が分からないが、地図には荒神社と書かれていた。火や竈の神を祀るものだそうである。




看板地点を過ぎると、道は十分に狭かった集落内よりもさらに狭くなり、現代に存在する車道ならこれ以上は狭くしえない、軽トラを念頭に置いた“いわゆる畦道”と同等の幅になってしまった。
でもこんな道でも舗装だけはされているし、もっといえば、うっすらとであるが路肩には白線が敷かれていた形跡があった。
その白線は完全に消えてしまっていたが、もし見える形で残っていたら、サイクリングロードにしか見えなかっただろう。

また、以前はこの辺りも集落の勢力範囲だったようで、川側の広い草原には耕作の痕跡があり、山側には建設会社の資材倉庫のようなものがあった。
この幅の道路でも、立派に活躍していたのだろう。



さらに少し進んだところから振り返って。

この景色、開放感と寂寥感が良い感じに同居している。
広い土地に狭い道が一筋延びているのがまず美しいが、背景がそれを引き立ててなお素晴らしい。
大河が傍にあるおかげで一線を引いて配列された周囲の山が、こんな細道が地平まで続いているんじゃないかというようなノスタルジックな空想を刺激する。
本当にここから見る道は見渡す限りに直線で、地形がそれを許しているのに、この道幅を少し広げるだけの需要もないのかと思う。




舗装されているだけの畦道……は、ますますその風景の長閑さに磨きをかけて、緩やかなカーブで路ばたの老木を潜る。
このシチュエーション、物語の舞台だったら、木の根にお地蔵さまが座っているものだ。

本当に、おられた。

進歩の少ないこの道だが、息づいた古い往来の気配を感じる。
ここにあるということは、ほぼほぼ、次の集落までの道を通った人々の名残であろう。
つまりは、現在の不通区間を通り越して、稲蒔へ通じた人々の…。



道の周りに野原がなくなり、狭さを保ったままで、再び川と山の擦れ合う隙間へ入っていく。
同時に緩やかに下りはじめる。山へは逃げ込めず、川へ押し出されるような雰囲気だ。
その直後から――

白線が復活!

なぜか、片側だけ!

山側の路上には落葉が散らばっているが、退かしても白線は隠れていなかった。
なぜか、川側にだけ白線がある。
意図するところは、川側の路肩には寄りすぎないように特に注意しろということだと思うが、軽トラであっても、白線を踏まずに走ることはできないだろう。
それどころか、山側の落葉が溜まっている部分も踏まないと、四輪の車は通れまい。




でそんなギリギリの幅のまま、片側白線の奇妙な県道は、川べりに押し出されていく!

狭さに加えて、一度も定規を当てたことがなさそうなオリジナルなカーブの連なりも、ドライバーには大きなプレッシャーになるだろう。
元の地形にできるだけ手を加えずに、幅2mほどの道路が確保した印象がある。
だから、地形の凹凸に忠実なカーブがある。
見通しもクソ(カーブミラーなんてものもない)なので、対向車が来たりしたら絶望しかないが、さすがにそれを想定する必要はないかと思う。




下りきった辺りには、小さな石垣を土台にした木の祠が佇んでいた。
先ほどのお地蔵さまが、レベル1だとしたら、今度のは信仰レベル2くらいの成長度だろうか。
レベル3になるとさきほどの荒神社くらいかな。
そんなしょうもないことを考えた。

ここに来て、沿道に信仰の気配をよく感じる。
それはそのまま、古道の気配と置き換えて良いものだろう。
と同時に、こうした小規模な信仰物の散発的頻出は、それらの毀損、移転、集約を強いるような現代的道路開発が及ばなかったことをも示唆していた。

この祠の前なんて、その気になれば舗装を拡幅して待避所が作れそうなのに、そういうこともされていない。対向車は来ないと断定されていそうな道だ(笑)。



そして、遂に吉井川へ突き出されて…



11:22 《現在地》

狭めえ!

舗装幅は狭いけど土地には余裕があるパターンから、

純粋に、舗装幅の外には道路敷がゼロのパターンに変化した。



片側白線の存在感!

ここに来てついに白線の本領発揮というか、路肩に最大の注意を払うべき道路状況になったが、

踏まなければ、どんな四輪車も通れないと思う。

そして、とても頑丈には見えない路肩は凶悪だが、山側も侮れない。
ゴツゴツした素掘りの法面が露出しており、路肩を警戒しすぎれば容易く車体を擦るだろう。
まあ、うっかり脱輪でもさせたら、大抵の救援車は入ってこられないだろうから、
まだ壁で擦り傷を作る方がマシなのだとは思う。



白線の存在感、マジウケルンデスケド。

道が狭いのだから、もう少し遠慮して、舗装の端ギリギリに敷けば、
少なくとも外見上の狭さの印象はマシになったと思うのだが、
普通の道路と同じような位置に敷いたもんだから、
四輪車は白線を踏まないと絶対に走れないようになってしまった。
まあ、この弱そうな路肩に車輪を置くことを肯定できなかった気持ちも分かるが…。

物理的には普通車も通れると思うし、実際に交通規制というものは全くないが、
運転(特に車体感覚)に自信がない人はうっかり立ち入らない方が良いと思われる。

次に動画も掲載しておく。帰路に逆方向で進んだときのものだ。



狭い中でもその幅は微妙に一定しておらず、冒頭6秒目あたりが一番狭いかも。

しかし全体に狭く、圧迫感的な意味から、片側しかない白線が邪魔に思えるほどだ。

サイクリングロードだと言われたら、たぶん全員信じるよ。

あの【ユルい看板】だけで、これをお出ししてくるとは、岡山県め…。



今のが狭さのピークだったらしく、この先はマシになるようだ。

ちなみに、かつて最大幅1.0m規制の県道を走破しているグーグルカーは、ここも当然のように突破していた。
まあ、コンプライアンス的にも、封鎖はされていない県道だから堂々と立ち入ったんだろうね……さすがだ…。




 道の終わり 〜和気町側の車道終点へ〜 


2022/2/20 11:18 《現在地》

津瀬集落外れの【看板地点】からおおよそ800m、完全な一本道である激狭道路を進むと、それまでの狭さから一転して広い路面に出迎えられた。
しかしここも道が広いというよりは、道の山側の広場を道路と一緒に舗装したような印象で、相変わらず白線は川側にしかない。川側はすぐそこまで水面が迫っており、どことなく空母の甲板を連想させる風景だった。

この日の岡山地方は西風が強く、晴れ渡る空を目まぐるしい勢いで雲が奔っていた。
先ほどからトンビと思われる猛禽が、叫び声を上げながら盛んに私の上を旋回している。行き止りであるはず道に出現した大型獣に動揺しているのか。




そして拡幅部の終わりに行くと、舗装が途絶えた。
特に立入禁止の表示はなく、轍もまだ続いているが、グーグルカーはここで撮影を切り上げている。赤磐側からの探索で引き返した地点まで、あと450mほどである。

なお、路面や白線の状況から、津瀬からここまでの道の舗装は一度に行われたわけではなく、段階的なものだったと思う。
最後の辺りが一番最近に舗装されたらしく、だから白線も鮮明だったし、路面の状態も新道同然だった。だからこの県道は最近まで放置されていたわけではなく、狭いながらも手をかけられていたのだろう。
この点は、先に見た赤磐側の車道終点付近に、比較的最近と思われる工事の気配があったことと共通している。



未舗装になったが、道幅は意外に広く取られている。
路面は土っぽく、やや泥濘んでいるが、走行に支障はない。
川側には頑丈な護岸が続いていて、先ほどから前方の川岸に見えている人工物(もう少しで近づくので正体が分かる)へ到達するための唯一の道として維持されている感じだ。

“矢印”を付した尾根は、前半の探索で【「岡山県」の石標】を2本発見した尾根だ。
この探索の終わりは、間もなくである。




未舗装路の山側に立ち並ぶ4基の墓石を見つけた。
墓石を繋ぐ線の奥は猛烈な女竹の藪であり、継続されている刈り払いのおかげで、これらの墓石は人の領域にいるのだと思った。
もっとも、見えない藪の奥にはさらに多くの墓石が眠っている可能性もあるが。

墓石はどれも現代的な御影石製であったが、刻まれた没年月日は昭和10年代、30年代、50年代と様々であって、家名も一つではなかった。
没年が大きく異なるのに、同じ書体を刻まれ、形状も同様である墓石たちは、再建によるのかもしれない。
しかしいずれにしても、複数の家族が眠る墓地の存在は、この川べりの狭隘な土地に“集落”が存在したことを意味していよう。津瀬の墓地にしては離れすぎている。



廃村の存在を認識したので、そこにあった住居の痕跡、せめて礎石の一つでも見つけて証しを立てたいと思ったが、あいにく路外は凄まじい藪に覆われていて、踏み込むきっかけを全く得られなかった。

そして続いては、先ほどから見えていた“人工物”に辿り着く。
特徴的な形状のために正体を予期していたが、これは吉井川の水位を観測記録するための無人観測所で、国土交通省中国地方整備局の津瀬水位局であった。

対岸とは送電線が結ばれているが、人の往来はいま通ってきた県道に頼るしかなく、県道の津瀬以奥の区間が狭いなりにも維持されている最大の理由は、国民の生命と関わりの深いこの施設の維持管理にあるかと思う。




11:30 《現在地》

未舗装になって約300mの位置に水位局の無人施設があった。
ここまで来れば、前半の断念地点まで、残150mだ。

水位局という分かり易い目的地を過ぎることで、いよいよ維持管理の名目が失せ、前半戦で歩いたような廃道化も懸念されたところだが、幸いにして、刈り払いされた道はまだ続くようだ。

それでも少しだけ変化があって、護岸の頑丈なコンクリート擁壁はなくなったし、道幅も狭くなっている。とはいえ片側白線区間のような強烈な狭さではない。
県道としての形に拘らなくなった後の方が、むしろ平凡な道路風景になっているの、あるあるだと思う(笑)。



あ! これはっ!

今回のレポ、我ながら地味な内容に終始してきた自覚はあるが、最後の最後まで、私の宝物を見つけたような地味な興奮で締め括った。

私には、水位局を越えたところから道の状況が変化したことが、すぐに分かった。
特徴は、妙に直線的な切面を持った法面であった。
これは現代の重機の仕事だろう。
そして、私はこれとよく似た状況を赤磐側の車道末端でも見ている。
この符号に、私は胸中に地味な興奮を燃えたぎらせたのである。

つまりこれは、赤磐側と和気側が相呼応し、両側より車道の貫通を目指した工事が、そう古くない時期に行われたということではないか。

――そう考えた。
ある時期には遠くない将来の全通が期待されていて、それで稲蒔集落の案内板には、「【至 佐伯(予定線)】」なんて書かれたのではなかったか。
やっぱりこの県道には、未成道としての挫折の歴史が潜んでいるようだ。 私の大好物!!




これはいまから1時間半ほど前に見た、赤磐側の車道末端の景色。


そして…



これが、和気側の車道末端の景色である。

酷似している!

これらは別の市町の景色だが、たった500mしか離れていない同じ川べりである。

そして、もし同じ時代に、同じ規格の道路を作ろうとしていた片割れ同士なら、酷似は当然と思う。



11:31 《現在地》

そして、終わる。

赤磐側では最後の100mが「新しそう」だったが、その100mという数字まで同じだった。

水位局からおおよそ100mの地点、もはや前半戦での撤退地点は目と鼻の先というところで、

幅4mほどの車道は唐突に終わり、その先には歩道同然の狭い道が上りながら続いていた。



11:33 《現在地》

到達!
狭くなった土道を30mほど進むと、【先の撤退地点】である無名の沢の右岸へ着いた。
約1時間15分ぶりに一つの沢を挟んだ両岸を征服し、今回の県道探索に決着を付けた形となる。

地理院地図だと、この沢に出会ったところで県道の着色はなくなるが、道自体は「徒歩道」となって沢の奥へ延びていく。
沢を渡る道は描かれていないが、実際には沢の対岸に、前半探索した「岡山県」の標柱付きの廃道がある。ここから見てもその道は見えないし、両岸を結ぶ橋の痕跡もない。こんな状況だから、有史以来、一度も車道は開通していない区間だろう。

赤磐側の車道の末端まで500mもないので、現代のトンネル1本で容易く攻略できる距離であり、過去には克服へ向けた動きもあったように想像するが、今となってはもう実現は難しいのだろうな。そんな気がする。



沢の上流へ向かう道形が明確にあった。
地理院地図だと山を越えて米沢地区へ抜けているようだが、本題からは外れそうなので探らなかった。

また、この無名の沢のまわりには土地を均された形跡があり、金属製の農機具の残骸や、琺瑯板が散乱していた。
集落があったかは分からないが、耕地や小屋が置かれた時期はあったのだろう。

周囲を簡単に確認後、私は再び沢に背を向け、今度こそ長い別れを告げたのだった。
現地探索、終了。

なお帰り道、津瀬集落の小さな峠で再び“古老”と出会った。→動画
が、残念ながら彼から私の知りたい情報を引き出すことは叶わなかった。




 ミニ机上調査編 


今回の県道の不通区間にはいくつか特徴があったが、その最たるものは、不通の距離が短いことだと思う。
現在、赤磐市と和気町の境界付近は自動車では通り抜けできないが、その距離はわずか500mほどでしかなく、かつ両市町側から車道の終点までは自由に通行可能である。(狭かったり、やや荒れていたりはするが、封鎖がない。)
そのうえ、車道の両端には、それぞれの市と町の側から不通の解消へ向けた車道の作設がいくらか進められた痕跡まであった。

道路の不通区間というのは、短ければ短いほど、「あともう一歩で開通だから」という後押しが働いて、開通に至るケースが多いだろうことは容易く想像できる。
したがって、水域への未架橋を理由とする不通区間を除けば、極端に短い不通区間というのは、国道や県道のような格式を持った道路では、あまり見かけることがないのである。
統計を取ったわけではないが、感覚的に、不通区間の長さが1kmを下回ることはかなり少ないはずだ。

今回、この短い不通区間を実際に歩いて踏破したが、廃道化した古い歩道が存在しており、それなりに険しいものの、現代の感覚ではトンネル1本分の長さでしかなく、不通区間を挟んで対峙する稲蒔と津瀬という集落間がおおよそ4km離れていることと比べれば、あと500mというのは、「あと一歩のところ」まで来ていると感じられる距離だと思う。

こんな、「あと一歩」の県道が、いまの状況に至るまでにはどんな歴史を辿ってきたのか。
机上調査を試みたが、マイナーな県道であり、得られた情報は多くはなかった。


@
地理院地図(現在)
A
昭和47(1972)年
B
昭和7(1932)年

まずは常套手段から。歴代地形図を比較してみた。

昭和47(1972)年版だと、案の定、不通区間が現在よりだいぶ長かったのではないかと思われる表記になっていた。
北側は稲蒔集落の外れまで、南側は津瀬集落の外れまでが「軽車道」の表記で、そこから先の約4kmの内訳は、3kmほどが「徒歩道」で、1kmほどは全く表記がなかった。

ウィキペディアによると、県道和気吉井線の県道認定は昭和48(1973)年12月14日であるとのことで、県道昇格後に不通区間を解消するための車道整備が本格化したというのは、想像しやすいストーリーといえる。

そこからさらに大きく遡って昭和7(1932)年版になると、今回の現地探索で目にした不通区間内を結ぶ廃道(歩道)らしき道が、「小径」という最も低規格の道路を示す記号で現われる。
しかし、「小径」として描かれているのは、現在でも車道がない500mほどの区間だけであり、その前後はいずれも「里道」として表現されていた。

稲蒔側は、里道の中では最も低規格である「間路」、津瀬側は里道としては中規格の「聯(連)路」として表現されているが、これらの表記の分け方は当時の道路法と無関係に行なわれたものらしく、この時期の書き分けの基準ははっきりしていない。
しかし、この時代から既に津瀬と稲蒔を結ぶ全区間に道は存在していたことが分かると共に、特に現在も車道が開通していない市町境付近の500mは、前後より規格の低い道だったことも窺える。

ちなみに、現在の赤磐市と和気町という自治体の名前も時代ごとに変遷しており、現在の市町境が町境や村境、そして郡境であった時期もある。
地形が人々の生活圏を区画する最も基本的な要素であり、自治体の境界がそれを倣うものである以上、たった500mの不通区間になっている境界付近は、古くから大きな障害として人々には認識されたのだろう。




『改修赤磐郡誌』より

次に私は、国会図書館で見つけた『改修赤磐郡誌』という文献を読んだ。
これは昭和15(1940)年に赤磐郡教育会が刊行した郡誌を、昭和55年に再版復刻したもので、内容は昭和15年のものである。

各地の郡誌の慣例に漏れず、同書には「交通」の章があり、そこには平成19年に全所属町村が消滅した赤磐郡の交通網の概要が解説されていた。
郡内に存在した国道および県道の一覧も掲載されていたが、そこに今回探索した県道と重なるものはなかった。
つまり、昭和15年当時、県道和気吉井線はもちろん、その前身と言える別名称の県道も存在しなかった。

だが、巻末に掲載されていた昭和15年12月現在と注記のある「最新赤磐郡地図」に、ようやく稲蒔と津瀬を結ぶ道路の表記を見つけることができた(右図)。

凡例によると、道路は「国道」「県道」「主要道路」の3種類に区分されており、当該路線は「主要道路」として表現されていた。
この「主要道路」が当時の旧道路法におけるどのような道路を示しているかは明示されていないが、県道と市町村道の間にかつて存在していた「郡道」相当の幹線道路を、郡制廃止後、便宜的に表現したものではないだろうか。

当時は、吉井川を境に西側が赤磐郡、東側が和気郡と綺麗に分かれていた。
現在は市町村合併によって和気郡が川の西側まで入り込んでいるが、長い間、川で分かれており、郡内交通路の完成を他郡の道路網に委ねたくないという自然な考えから、吉井川の西岸にも道路が必要だと考えたことはあったと思う。(東岸には古くから津山街道と呼ばれた幹線道路があり、昭和15年当時は県道だった。現在の国道374号である)

おそらくこの西岸の道路は、大正時代に旧道路法が制定された時期に、赤磐郡の東縁を走る郡道として指定されるも、郡制廃止後はさほど重視されず、郡道から県道への昇格を果たせず、佐伯北村と佐伯本村を結ぶ村道へ降格したのだと思う。

しかし、地図をよく見ると、先ほどの昭和7年の地形図がそうであったように、村境の前後だけが点線で描かれている。
この点線は凡例に説明がなく、また図中の他の場所にもみられない特別な記号である。
だから、意味は想像するよりないが、「未整備」「未開通」あるいは「建設中」、これらのどれかの意味であろうとは想像できる。

また、津瀬集落の北の道路沿いに「バッテン」の印がある。
この印も凡例に説明がないが、いわゆる鉱山の記号であろう。
現地では気付かなかったが、今回後半戦で探索した沿道に、何かの鉱山があったらしい。
その位置はおそらく……、川べりの路傍に【墓石】が立ち並んでいた辺りだ(左写真)。

この位置に鉱山があったとすれば、西岸に道路を整備する原動力となった可能性がある。
どのような鉱山であったかを調べようとしたが、郡誌には記述がなかった。

しかし、昭和27(1952)年2月の『日本鉱業会誌 764号』に、含銅硫化鉄鉱床として「津瀬鉱山」の名前が出ており、「吉井川の右岸の峭立したるところ」に鉱床があることが出ていた。
また、地質調査所が昭和40(1965)年にまとめた『地質図幅説明書「周匝」(すさい)』には「佐伯鉱山」の名前があり、「佐伯町津瀬北方約2kmの地点にあり」「明治初期からベニガラの原料として開発され、昭和17〜19年に270t、昭和29年に17t出鉱したが、現在は休山している」とあった。
さらに、『角川地名大辞典岡山県』の津瀬の項にも、「明治20年頃から津瀬鉱山が開かれ、鉱夫30人で銅鉱を現地製錬し、粗銅を小串や大阪へ送った。大正期まで継続されたが、第一次大戦後閉山」とあった。

おそらくこれらは同一箇所で稼行された鉱山であり、初期には銅、後期には酸化鉄の一種で赤色顔料として広く利用されたベンガラ(ベニガラ・紅殻)を採取していたようだ。
ただ、あまり規模は大きくなかったようで、西岸に車道を貫通させるには至らなかったのであろう。
それでも、津瀬集落と現地を結ぶ“片側白線”の激狭道路(右写真)は、鉱山経営の生命線であったはずで、鉱山経営の初期に開発されたのではなかったか。

鉱山関係で道路整備が行われた部分があったと想像はできるが、明確な資料はなし。
ほかに、吉井川で昭和初期まで盛んに行われていた高瀬舟を用いた舟運との関係も探ってみたが、道路整備との関わりは明確ではない。
吉井川沿いに片上鉄道が全通した昭和6(1931)年まで、沿川の物流の大半はこの舟運が担っていたようだ。だが鉄道の開業によって舟運が廃れ、さらに並行する国道の整備や、鉄道建設の原動力だった柵原(やなはら)鉱山の衰退によって、鉄道も廃れた。最後に残ったのは国道で、県道は全通せずにいまに至っている。

「これだ」という決め手がないのでもどかしいが、一つの道路がいまある姿になった過程をつぶさに説明できることなんて、本当は稀なのだ。
誰が、どういう目的で、いつ整備したか、そういう記録が残っている道路ばかりではないし、仮にそういう情報がどこかにあったとしても、私がそれを手にする手段は少ない。


次に、西岸の道路が県道和気吉井線に認定された後の整備についても調べてみた。
まず県道認定の時期だが、ウィキペディアは昭和48(1973)年12月14日、和気町の公式サイトにある年表では、昭和49年の欄に「町道和気吉井線県道に昇格」と、「県道津山備前線国道374号に昇格」が2つ並んで書かれていた。
吉井川の両岸の道路がそれぞれ町道から県道に、県道から国道に昇格したのが同じ年だとすれば、これはおそらく偶然ではなく、競願か併願か分からないが、両者の請願活動に関わりがあったことを感じる。

そしてその後についてだが、「県道和気吉井線整備促進期成会」が存在していたことが判明した!

現代における地方の道路整備は、基本的に行政への陳情によって実現している。
この陳情は、個人個人が行うよりは、関連する自治体が整備促進期成会のような任意団体をつくり、その代表が行うことが普通である。
世の中には不通区間を抱えている道路が沢山あるが、その全てに整備促進期成会のようなものが存在するわけではなく、これが存在するということは、自治体としての一定の本気度を示すものといえるだろう。
我らが県道和気吉井線についてこうした団体があったということは、現地でいろいろな部分から感じた“仄かな未成臭”が全くの偽臭ではなかった可能性が高いことを意味している。
全通へ向けた具体的な活動が、あったはずだ。

県道和気吉井線整備促進期成会は、赤磐市議会議員・知徳義明氏のブログの記事によると、「県道和気・吉井線を早急に改良整備し、地域経済文化の発展と住民福祉の向上に資することを目的として、平成元年に発足」しており、2015年当時の構成員は和気町と赤磐市の町長および市長、議長、産業建設委員長などであったそうだ。
活動内容として、メインの陳情活動の他、毎年1回程度の総会や、現地の視察なども行っていたことも分かった。


文書『今後の道路行政についての意見・提案の提出について(回答)』より

また、平成20(2008)年といえばまだ最近だが、この年に和気町長が国土交通省道路局長に提出した「今後の道路行政についての意見・提案の提出について(回答)」という文書がある。
これは各地方自治体が道路整備について国に直接陳情を行う絶好の機会であって、和気町でも国道374号の整備促進、老朽化している和気橋の架け替え、主要地方道岡山赤穂線のバイパス整備などを要望しているが、そこに「県道和気・吉井線の整備促進について」という項目があった。

曰く、「本路線は国道374号線の対岸を走る県道で、和気町と赤磐市を結ぶ地域間連絡道路として、また、国道374号線の迂回路として必要不可欠であり、地域間の連携を深め、広域的な生活圏を形成する上で、その整備が地域の活性化に果たす役割は非常に大きいものがあります」と、その意義を強調した上で、「しかしながら、和気町津瀬地区で未供用区間があり、また、幅員狭小箇所が多数存在しており、通行に支障をきたしているのが現状であります」として、「和気町津瀬地内の未供用区間の早期完成」を要望しているのである。

まあ、こういう陳情を国交省の担当者は果てしなく読まされているだろうから、「これは真に重要そうだから採択しよう」とはならなそうな平凡な陳情だ。対岸に国道374号があるので、その迂回路になるというくらいのメリットじゃなぁ…。
まあ、この時期まで、整備促進期成会の構成員でもある地元自治体が、不通区間の開通を諦めていなかったことの証明にはなった。


だが、さらに調べを進めていくと、この県道にとっては最後の希望とも思えた整備促進期成会が、平成28年9月30日をもって解散していることが判明…。
平成28年の和気町議会定例会会議録によると、この年の8月8日に最後の総会が開催され、「当初の目的を達成した会は本年度を以て解散すること」が承認されたそうな。

えっ、当初の目的を達成した?!
開通してなくない?
素人の私ならそう思うが、そこは海千山千の政治世界の話なのだ。
どうやら、いつの間にか(本当にいつの間にか)、整備促進期成会の目的は、全線開通ではなくなっていたようなのだ。

赤磐市議会の平成28年9月定例会の会議録に、県道和気吉井線の整備に関するやり取りがあった。
なんでも、平成10(1998)年の激甚災害で大きな被害を受けた稲蒔地区の堤防を、県道和気吉井線と一緒に県で整備することになっていた。
しかし、それから18年もの間、地権者との問題などがあって進展せず、それがようやくこの年に解決して、整備完了の目途が立った。

期成会の初期からの会員だという議員が、こう発言している。
私もこの中で県道和気吉井線の期成会へ最初から入っております。今回初めてこういうことができるということで、期成会も来年の3月には解散ということになりましたが、それもいたし方がない、事業進捗できて、これで所期の目的はほぼ90%ほど解決できたんではないかということなっとります。本当にありがとうございました。」と。

……90%も解決できてるかなぁ…。

ピンと来た人がいるか分からないが、レポートの序盤、稲蒔地区で私が目にした奇妙な県道の風景(右写真)は、この話に繋がっていた。
この部分の堤防と県道を一挙に整備しようとしたが、地権者との交渉が長引いて、おそらく計画を何度かいじってようやく現在の(見た目にやや不自然さがある)道路ができた。
これが、期成会が「90%ほど解決できた」と自負する18年の成果であったのだ。
果たされなかった不通区間の解消は、残りの10%に押し込まれた。
期成会は平成28年度末に解散した。

いよいよもう、この県道の整備を声高に訴える政治家はなくなっただろう。
終わりだ。
負けだ。

……なんて書くと、弱小道路を愛してしまう私の判官贔屓も度が過ぎている。
ぶっちゃけ私だって分かっているさ。こんな道路まで全て整備していたら、国が破綻してしまうとね。
少し地図を見れば、もう充分だと分かるよ。
確かにこの県道は繋がらなかったが、少し広域に目を向ければ、本県道の4kmほど西側の山中に、高速道路と見紛うばかりの自専道である「美作岡山道路」の整備が進んでいて、遠からず全線開通の予定なのだ。
これが国道374号の迂回路としては格好の存在だ。さすがに、いまから中途半端にしょぼい県道の不通区間を何百億円もかけて解消する必要はない。

しかし、いまの決着に至るまでには、いろいろな曲折があったことは、現地の風景から透けて見えたりする。
右の写真の所もそうだし、不通区間の両端にあった短い工事跡なんかも、たいへん想像を掻き立てる。
こういうところが、道路探索のたまらなく面白いところだと思っている。


@
昭和22(1947)年
A
昭和39(1964)年
B
昭和50(1975)年
C
昭和55(1980)年
D
平成2(1990)年
E
平成6(1994)年
F
平成17(2005)年
G
平成23年(2011)年

最後に、これをどう使うか少し持て余し気味な、やり過ぎた感のある歴代航空写真の比較を紹介しよう。

昭和22(1947)年から平成23(2011)年まで、全部で8枚の航空写真を重ねてみた。
やったことのある人は分かると思うが、縮尺も角度も異なる航空写真を重ねるのはなかなか根気のいる作業で、8枚ともなると2時間くらい作業した。
机上調査では分からないことも多かったので、航空写真の暴力で解決しようとしたわけだ。

こうしてずらずらと眺めると、見えてくることがいくつかある。
たとえば、津瀬鉱山(佐伯鉱山)の位置だ。
@とAの地図にはそれらしい地肌が写っていて、確かに墓石があった辺りの山だと分かる。

また、DとEの間で、赤磐側の車道末端付近の道路が明らかに鮮明に見えるようになったのは、この時期に「重機を使った」末端部の工事が行われたからかも知れない。
そこへ通じる道全体も、重機を通すために刈り払いなどを行って、それで鮮明に見えるようになったのかも。
ちょうど期成会ができたすぐ後くらいで、一番熱意を持って活動できた時期でもあろうしな。

それにしても、不通区間で見た【「岡山縣」の標柱】は、いつ整備されたものなんだろう。
「縣」の字を使っているから、古いもののように思ったけど、県道に認定されたのが昭和48年だとすると、それより前ではないだろう。
まあ、字体だけで古いものだと判断するのも、乱暴な話かも知れないがな。
もしかしたら、今回まだ見えていないストーリーがあって、県道に認定されたことが2回目だった可能性も、ゼロではない。

地元の方からの情報提供も、お待ちしております。
やはり遠くに住んでいると、市町村史なども入手の難しいものがあり、マイナーな路線だとなおさら机上調査が難しいです。でも、少ない手数で調べるのもまた楽しかった。