道路レポート 国道360号 飛越トンネル旧道  第2回

公開日 2014.7.17
探索日 2014.5.31
所在地 岐阜県飛騨市〜富山県富山市

想定外の荒廃に、 ビビる。


2014/5/31 7:02 《現在地》

飛越トンネル完成以前の国道360号は、私の想像よりも遙かに荒れ果てていた。
小豆沢集落から旧道に入り、初めのうちはどこにでもありそうな旧国道だったが、県境を跨いで岐阜県に入った辺りから、明らかに廃道の状況になった。
そして、探索開始から15分ほどで、私は大きな崩壊現場に遭遇したのだった。

私は全く個人的な都合(あと1時間後に別の場所で待ち合わせの約束アリ)のために焦っていた。
こういう状況で探索を続行するのは一番良くないのだと思うけれども、だからといって一度探索を始めてしまった以上、「じゃあ、やめ」と引き返すのには決断が要った。

私は厳しい崩壊が一度きりである可能性に期待し、自転車を担いで写真の崩壊現場を越えた。より正確に言えば、切れ落ちた部分を山際に沿って迂回した。
そこには辛うじて踏み跡らしきものがあったが、アップダウンが案外に大きく、自転車のために余計な苦労を強いられた。



崩壊を突破した私の前に現れたのは、それまでと何も変わらない… 相変わらず轍の見あたらない… 緑一色の路面であった。

この時点で、いよいよヤバイものを感じた。
どうやら気軽な暇潰しの対象としては、とても手に負えないものを引き当ててしまったようだ。オブローダーとしての運があるのか無いのか…。

ともかく、どうしよう? ドツボに嵌らぬうちに引き返すべきか。もう少し様子を見るために先へ進むか。

…でも、悩んでいる内にも私は進んでいて、そしてご覧の場所に出た。
橋だ。支流を渡る小さな橋が現れた。
少しだけテンションが上がったが、それがガードレールを欄干の代わりにした、親柱さえ持たない小橋であることを知ると、上がったテンションはすぐ元に戻ってしまった。

橋を越えて、更に進む。



気が急いているせいで、先の事がいつも以上に気になった。
GPSを携帯していたので、現在地の確認は出来る。いま私がいる場所から見ることができる、この道の進路上にある一番遠い場所は、あの赤白の大きな鉄塔だ。
鉄塔のすぐ下に道があることを、電信柱の列が暗示していた。

電柱は、先ほどの崩壊地で見たとおり、倒れたまま修理されず放置されているが、あの大きな鉄塔は、さすがに管理されているだろう。
となれば、鉄塔まで辿り着ければ、道の状況が改善するのではないかという予測も成立する。
これが、私の次なる“希望”となった。

それはそうと、私は依然として県境の傍にいた。 私がいる宮川左岸は既に富山県だが、対岸は引き続き岐阜県のままで、川が県境という状況は宮川の終わり(高原川と合流して神通川になる地点)までずっと続く。だからなんだというわけではないが、宮川はこうした県境のイメージにも相応しい巨大な谷として、この後も…私を苦しめることになった。



久々に鋪装された路面が広く見えるようになった。
ここまでもずっと鋪装はあったのだが、土と緑に覆い隠された場面が多かった。
これで少しはペースアップ出来るだろうか。
相変わらず、轍のようなものは見あたらないが…。

また、この場所は谷を見渡すことが出来る、これまででは一番の展望地でもあった。
ガードロープが設置された路肩の向こうには、幾段にも積み上げられた巨大なコンクリートの擁壁が、30mはあろうかという落差をもって川へ落ちていた。
この擁壁こそは、途中で木々の隙間に見た“灰色の壁”の正体である。

この道には、地域のメインルートに相応しい真剣な投資の積み重ねが感じられた。
明治10年代後半から平成10年代の初めの頃まで、おおよそ110年もこの道は生き続けたのである。
連綿たる利用と改良の歴史が、この巨大な擁壁に刻まれていると思った。

飛越トンネルの完成は、先人達の並々ならぬ苦闘の歴史を我々の視界の外へ追いやってしまったが、その事に頓着し続けるほど現代人の多くは暇ではないというのが、この光景から読み取れる現実であった。



そして再び現れた…

壊れた電柱。


しかも中途で折れているとか…何事…

前に増して強く怖ろしい暴力の作用というものを、疑わざる得なかった。



私の勘の鋭さ、特に悪い予感の的中率を、どうにかしてくれ! 

大袈裟でもヤラセでもなく、顔を引きつらせながらそう思った。

壊れた電柱 → 路盤崩壊のコンボが再び炸裂したのである!


…しかもこれは、前のヤツの比じゃないダロ……。




7:08 《現在地》

今の私には絶望的。

負け惜しみみたいだが、この斜面は決して越えられないものではないと思う。
一旦河原まで降りて、そこから中央のガレ場を上りなおすというルートを選べば、かなりの確率で越すことが出来るだろうと思った。

ただ、そのためには短く見積もっても10分はかかるだろうし、突破した先が分からない状況で自転車同伴を試みるなどは、ほとんど自殺行為に等しい選択だと思った。

ここまでスタートから20分かかっていた。
見た道を戻るのも同じだけかかるから、合計40分となる。
私に与えられた自由時間は1時間だから、ここで引き返さないと、遅刻する可能性が高くなる…。




路盤の突端に立って、切れ落ちた道の下を覗き込んでみると、河原にかつて路肩であったモノの残骸が、大小の塊となって散乱しているのを見た。

これはまず間違いなく、災害の結末であろう。
川沿いの広い範囲の地形に相当大規模な打撃を与える、そんな災害があったに違いない。(もっと早い段階で気づいても良かったことだが、土地勘の弱さが響いた)

しかも復旧された様子がまるでないということは、ここが旧道になった後に発生した災害だと思われる。
前回見たように、旧道は村道(加賀沢小豆沢線)に認定されていたようだが、さすがに村道レベルでは、これだけの災害を復旧しようという気にならなかったと思われる。
まったく、手を付けられた様子がなかった…。


――良かろう。




ここまではっきりと挑戦状を叩き付けられたら、

私も万全の体制で受けて立つ必要がある。

オブローディングの王道というべき旧国道からの挑戦に、この血肉の湧き上がりを感じる。

レガシイ」撮影終了後の「リベンジ」を決し、一時撤収!!


40分あるから、のんびり帰ろうね〜。






7:15 《現在地》

引き返す事を決したことで、帰り道はいくらか時間に余裕があったので、当然心にも余裕が生まれていた。
そして探索のあり方さえ問うような、象徴的な発見があった。

ここは、往路ではほとんど作業的に「親柱無し・銘板無し」という点を確認しただけで素通りしてしまった“無名の橋”。

復路では敢えて道から離れ、橋を横から見てみたところ、はじめて本橋がアーチ橋だったことを知ったのである。

むろん、アーチ橋がそれほど珍しいわけではないが、この規模ならば当然のように桁橋だろうと思っていた(だから往路ではこういうチェックを省略していた)だけに、この発見には「報われた」と思う以上に、探索を急ぐことの愚かさを痛感したのであった。
道はこんなモノを見せてくれようとしていたのに、私が無視しかけていたのだから…。




こいつは廃道にしておくには惜しい、重厚なコンクリート扁平アーチ橋である。
扁平アーチとは、その名の通り扁平な形をしたアーチで、専門的にはアーチ幅(スパン長)をアーチ高で割った数字(ライズ比)が大きいほど扁平な形になる。一般的なアーチ橋はほとんどが扁平アーチである。

橋の長さはおおよそ10m、高さは5m程度で、桁橋や暗渠としても良さそうな規模であるが、側壁に石材を用いるなど相当に年季が入っている。

残念なことに、本橋の場合は、橋名も、架かっている小川の名前も、竣工年も、全て不明である。そのために机上調査を進めるのも難しい。
かつてこの道の道路管理者が作成した「道路台帳」を見る事が出来れば、少なくとも橋名は明らかになるだろうが、これも気軽なアプローチとはいえない。

現状で私が言えることは、この橋が「美しい」ということと、橋の部材として石材が用いられるほどの昔時でありながら、この規模の谷に木橋ではなくて頑丈なコンクリートアーチを架けた設計者は、この道に輝かしい未来が来ることを確信していたのだろう… ということくらいだ。

やや話しが妄想的になるが、この道の歴史には、並行する国道41号よりも道路の格付けが勝っていた時期が短期間だけ存在する。前回冒頭の年表を見て頂きたいが、旧道路法が公布された大正9年に岐阜と富山を結ぶ県道1号として指定されたのは、現在の国道41号が通る東街道ルートではなく、こちらの西街道ルートだった(詳しい経緯は不明だが…)。もしかしたらこの立派な橋も、大正〜昭和初期の県道1号時代に建設されたものかも知れない。




不自由な足場に悪戦苦闘しながらも、しばしこの無名のアーチ橋を観賞した。

それからまた来た道を戻り、さらに車を飛ばして集合場所へと急いだが、結局は12分ほど遅刻してしまった。

オブローダーとしての実利を取って、社会的信用を失いかねない愚行であった。 関係者一同へ謝罪。



こうして、良い具合に脂が乗った私は「廃道レガシイ」 へ登場し、


――道との約束を果たすため、ひとり戻って来るのであった。