道路レポート 国道229号雷電海岸旧道群 雷電岬旧道編 最終回

所在地 北海道岩内町
探索日 2018.04.26
公開日 2020.02.07

雷電国道旧道群における“到達最難関区間”


2018/4/26 7:30 《現在地》

これは、約1時間半前、カスペノ岬の突端から【眺めた】雷電岬の一画に、
ぽつんと孤立して【見えた】覆道で、岬よりも手前に存在する“最後の旧道区間”だ。


そこにあったのは、コンクリートの巨大な覆道。


そして、 それだけ だ。


この写真の端から端まである覆道が、ここにある道の、全てだった。



ここは、雷電海岸の数ある旧道の中でも、昨日の樺杣内旧道核心部分と並んで、最も到達しがたい最奥の目的地である。
それだけに、ここに立った私の気持ちの昂ぶりは、最高潮に達していた。おそらく何を見ても賛美しうる心境であった。

にも拘わらず、この覆道に外観に対する第一印象は、味気ないというものだった。
こんな特別に孤立した場所には、何か特別で、ここにしかないようなものがあるはずだと期待した人には、ごめんなさいだ。

眼前の覆道は、ほぼ完璧に現役時代の形態を保っていた。
もし予備知識なく訪れる人がいれば、すぐに車が来ると錯覚したはずである。
15年前の地図では、ここに赤い国道の線が太くはっきり描かれていた。現在の地図には点線さえ残らず抹消されているが、それは廃道になったことを示しただけで、道のカタチをしたものがなくなったわけではなかったし、頑丈な覆道がこの程度の時間で機能を喪失することもなかった。おそらく、この手の現代的な覆道は50年先を見据えて作られている。

どこにでもありそうな“国道風景”の一画が、これほどまで到達しがたい。
そのギャップの大きさが、凡な外見を補って余りある魅力だった。

そしてもう一つ、絶対に見逃せない大きな魅力があった。

それは……




大なる景に際立つ、小なる道の尊さ!

苛烈な自然環境と地形に包囲され、身を小さく縮こまらせるより生きる術を有さなかった、

雄大な大地を前に、コンクリートの支配力なお及ばぬ、人類の空間掌握力の限界。力及ばず感。

環境を作り替える力において地球上最も獰猛なる人類も、ここは平身低頭でやり過ごそうとした。

しかし、大きな顔をせず密かに地下へ通じ、通行という名の実を取っていた人の力も侮れない。


私にとっては、これもまた強烈な人間賛美の旨味を感じる景色だった。




眼前の覆道に足を踏み入れれば、すぐに進路のないことを思い知らされるだろうという確信的予感があったからか、それとも単にいつもの勿体ぶりの癖が出たか、念入りに振り返ることを繰り返して、なかなか覆道へは進まなかった。

私が越えてきた海岸線の頭上には、天狗がこしらえた切り通しかと思えるような巨岩のスリットが口を開けていて、刀掛岩の奇景を間近に見る思いがした。
実際、岬の突端にある刀掛岩とこのスリットは、何か同じような自然現象によって誕生したのだと思う。




ここに覆道が登場したのは開通後しばらくしてからのはずで【古い絵葉書】に覆道は描かれていない)、開通直後にはここに車を駐めて、こういう景色を見ることが出来ただろう。
もっとも、ここから見る海の眺めは、反対に海から見るこの陸地に較べて、さほど面白みがあるとは思えなかったが。

そしてまたここは、現在使われているどんな道や展望台よりも刀掛岩に近いが、地形の関係上、ここから見ることは出来ない。
岬の突端方向には、ただ荒涼とした黒い崖の背中が見えるだけだった。
巨人の足元から、その表情を確かめる術がないのと同じことだった。




覆道には、大きな窓が9か10ほどあって、どこからでも自由に立ち入ることが出来た。

ただし、窓のほとんどには写真のような鋼鉄製の支柱が取り付けられていた。
最初からあったものか、後補のものかは分からないが(おそらく前者)、補強用であろうか。
そして、この柱の構造には見慣れない部分があった。




補強用らしき柱の地面に接する部分が、写真のような細い構造になっていた。
おそらく油圧ダンパーのような機構が組み込まれているのだろうが、覆道のような不動の構造物に、なぜこの構造を採用したのか、私には分からなかった。

構造上、比較的高頻度でメンテナンスをする必要がありそうだが、海風どころか波飛沫さえ上がってくるだろう立地に放置された鋼柱は、この覆道の中で最初に崩壊しつつあった。

複数の読者様からのコメントにより、この構造の正体が判明しました。
補強用の柱の一番下の細い部分のパーツは「キリンジャッキ」といいます。ネジ構造になっていて四方に生えている角状のところに単管パイプなどを差し込んで回すことで長さを変えられ、柱の張り具合を調節できます。




…壁、そして、壁。


この瞬間、私は全てを見た。

私が背にしている坑口と、短い覆道の先にある坑口が、

いずれも完全に密閉されていることを見た。

ここに侵入者が訪れる可能性の低さを理由に、坑門の閉塞を省略するという選択を、北海道開発局は採らなかった。

昨日の探索でもそうだったから、期待はしていなかったが、確認できるまでは心のどこかに夢を持っていた。

これで後と前の2本の隧道、雷電隧道と刀掛隧道が、永遠の闇であることが確定した。

見に来なければ、ずっと夢を見続けられたが、今日で終わり。



入った場所から左を向くと、すぐそこにこの壁があった。

これは、雷電隧道の南口だ。
おおよそ40分前に大変な緊張感の中でタッチした【南口】から、わずか130mに過ぎない短い隧道だった。
しかし現状では、どちらの坑口も極めて到達に手こずる(天候や波の高さに拠っては全く不可能となる)という意味で、この区間のいわゆる“主トンネル”だった次の刀掛隧道よりも秘境度の高い存在になっていると思う。

この坑口は、覆道が邪魔をして扁額部分をはじめとする大部分が目視不可能である。残念ながら、建設当時の姿は窺い知れない。

また、閉塞壁の一部に型枠(最後に閉塞された部分の型枠)が残っている理由については、シリーズの過去の回で推測しているが、これはこの坑口を閉塞した時点で、こちら側には一人の作業者も残らなかったことを意味している……と考えている。

この景色は、人の世界から取り残された者だけが見るものだった。



取り残された。

これは多くの廃道で感じる印象の一つだが、今回は特にその気分が濃厚だった。
この廃道は、頑丈な覆道によって荒廃を免れ、よく形を温存されていた。
しかし、そこは完全に閉鎖された孤立空間で、人の気配が皆無という状況が、世界に取り残されたものを強く印象づけたのだった。

隧道に挟まれたこの覆道の長さは、おおよそ100mほど。
残念ながら、名称や竣功時期を知る手掛かりは、見当たらなかった。

覆道の中央付近に一箇所だけ、車両が出入り大きなサイズの窓があった。
しかし、外へ出ても何か施設があった様子はなく、夏場は背の高い草に囲まれて海も見えなったと思う。
前後が狭い隧道や絶壁の橋に取り囲まれている当区間における、事故や災害時の非常口および避難所的な空間だったかもしれない。




逃れることが出来ない、北の旧隧道の厳しい宿命が、目前に。

ここまで隧道閉塞工事が徹底されているのは、おそらく北海道だけだ。
ヒグマという、人間の脅威となる野生動物が多数生息しているこの地において、放置された頑丈な地下空間が、彼らの冬眠や繁殖に都合が良すぎるという考えがあるようだが(他にも不審船対策とかもあるようだ)、化学的なエビデンスがどのくらいあるものなのか、機会があればぜひ知りたいものだ。
私は本州で季節を問わず死ぬほど廃隧道に潜っているが、そこにツキノワグマの気配を感じたことは一度もない。ヒグマとは違うのだろうか。

いずれ、この徹底のために北海道の海岸に無数にある風光に恵まれた旧国道の大半が、全く活用の道を断たれている。
まあ、オブローダーの立場としては、解放されてちやほやされているのを見るよりは楽しいのだけど、本当にガチで到達が難しいものがいくつもあるのは悩ましい。
ここも難しかったが、こうして好条件が揃えば徒手空拳で辿り着けるということで、まだ中の上レベルだろうし、私には陸路到達不能としか思えない廃道がいくつかある。
どことは敢えて書きたくないが……。




7:37 《現在地》

最後の壁。

「さいごのかぎ」をもってしても開けることの出来ない、開く可能性を放棄した、壁である。

ここは雷電岬を貫く刀掛隧道の北口跡で、壁の向こうにはかつて483mの長い闇があった。
雷電海岸の旧道に存在した隧道の中では、昨日のビンノ岬隧道(435m)を越え、旧磯谷隧道(556m)に次ぐ
第2位の長さであった。竣功年は先の弁慶隧道と雷電隧道より1年遅い昭和37(1962)年で、本隧道の開通が
雷電海岸を南北に貫く国道の全通をもたらしたという、道内交通史上の記念碑的隧道でもあった。



だが、その威光は遺構へと成り果てた。

輝かしい名前を刻んだ扁額は、冷たい覆道の壁に覆い隠され、
誇らしい長さを刻んだ銘板もまた、覆道との接続の犠牲となった。
それでも、坑口があれば、光が通じるならば、何も言うことはなかったはず。




閉塞壁は、再びこちらに“背”を向けていた。
“背”とは、取り外せなかった型枠が残されている側のことを言っている。
それは、最後の閉塞の工事の果てに、誰も残ることが出来なかった側。

このわずか100mの覆道を挟む両側坑口が、どちらも“背”を向けていた。
つまり、雷電岬を貫く一連の旧道区間にある隧道群は、この両側から埋められていったのだ。
道として、世界から最初に切り離されたのが、ここだったということだ。
このことは、区間内で道がなければここが一番辿り着きづらいことを暗示している。




刀掛隧道内部探索の可能性は、閉塞壁の自然崩壊を待つ以外になさそうだが、もしこの側溝が隧道内へ通じていれば……。
おそらく空間としては繋がっていると思うが、蓋を外すなどしたとしても閉塞壁の下に人がくぐれる余地を生み出せるかは分からない。おそらく無理だろうとも思う。
そこまでして立ち入ったところで何があるわけでもないが、夢だけはある。

そして、この壁も隧道も突き抜けた裏側に、旧道は続いている。
そこは今後仕切り直して反対側に拠点を移してアタックするつもりだが、成功はほぼ約束されている。当該区間の踏破が比較的容易いことは事前情報として判明しており、私の中のハイライトはここにあった。




7:38 刀掛隧道北口閉塞壁タッチ成功! 撤収開始!



最寄りの窓から外へ出ると、昨日の苦闘の場、雷電岬と険悪の双璧をなして聳えるビンノの頂きに、白雲の棚引くを見た。

往路を思えば復路も容易くはないが、こんな晴れ晴れとした気持ちの私に失敗はないはずだ。安心して帰ろう。




たぶん、もう二度と来ることはないだろうな。
ここはとても魅力的だが、距離のうえでも、アプローチの難しさからも、気軽に訪れることが出来ない以上、たぶん一度きりだ。
だから、カメラのレンズだけでなく、目にも焼き付けて帰ろう。

そんな気持ちで、外壁の隅々まで見ていたら……


大窓脇の柱に、この注意書きが……。

廃道化が決定した後で、わざわざ取り付けたのだろう。
同じ看板を廃止された旧道沿いの各所で目にしており、旧道の入口のような人目に付きやすいところにもあるが、こんな奥地にもわざわざ設置してあるとは。
この看板を読んだのって、私でいったい何人目なんだろう(笑)。

ほんのり笑顔を貰って、それを合図に道を出た。
旧道を離脱した瞬間から、道ならざる危険まみれの野生空間だった。笑顔も一旦封印だ。





さらば! 雷電最難の覆道よ。

この岬を回ればサヨウナラ。その最後に振り返った数瞬、雲間の光が覆道の周囲にだけ射し込んでいた。

雷電の嶺は最後まで冷厳とした沈黙に聳えていたが、道は私との束の間の出会いを惜しんでいると思った。



帰路は省略するが、おおよそ35分で逆方向から突破し、

写真奥に見える現道の待つ雷電温泉へ、生還を遂げた。

雷電海岸の探索はもう少し続くが、すぐにでも伝えたいと思った探索は、ここまでだ。