牛岳車道 第4回

公開日 2010.3.12
探索日 2009.4.29

秘境と言われる利賀で廃道を探そうという目論見を持って、今朝方麓の庄川を出発した私は、ちらちら寄り道しながら約2時間半かかって、距離の上での中間地点である栗当(くりとう)地区、脇谷付近へ到達した。

しかし、この旅の最序盤に予想外の展開があった。
覚えているだろうか。
あの、いままで見たこともないほど巨大な開通記念碑を。
漢文で開通の栄誉が讃えられた道の名は、「牛岳車道」。

急遽、旅の目的に「牛岳車道の解明」が加わったわけだが、実際にはここまで、具体的に牛岳車道を歩いたと思えるのは、起点に近い小牧峠の旧々道わずか数百メートルに過ぎない。
それ以外の部分ではどこを通じていたのかと言えば、どうやら現在の国道471号と重なっていたらしいのだ。

結局の所、ここまでは「牛岳車道」というタイトルに反し、克雪の歴史を生身に刻んだ「国道471号」の凄み、面白みを紹介することに終始してきたと言える。
ならばということで、ここから先は牛岳車道の話をしようじゃないか。

――今ようやく、その機会が巡ってきたところなのだ。




それはどういう事か。


※この画像は縦にスクロール出来ます。

※この画像は縦にスクロール出来ます。

右の地図を見て貰いたい。
図の右上が牛岳(海抜987m)だ。

現在地点で、道は2本に分かれている。
一本はこれまで通りの国道471号だが、もう一本はなんだろうか。

いや、これだけだったら不思議とも何とも思わなくて普通。
ただの林道でしょ? で片付けちゃっても全然普通。
私だってそうするだろう。

では、右の画像を縦にスクロールしてみて下さい。

ズズズイッと!



★でたでたー!★

こいつはなんだと思う?!

上下2本の道が、かなりの距離(5〜6kmはある)にわたって不自然に並行している。

こういうのを地図で見つければ、オブローダーなら「新旧道」の関係を連想するはず。
私ももちろんそう考えたが、いささか不自然である。

なんか地図で見る限りは、新道であるはずの国道が、旧道らしい道に較べて、どこがどう優れているのか、よく見えてこないのだ。
途中にトンネルの一本でもあれば「なるほど」と思っただろうが、距離の上では、2本の道にほとんど違いはない。

もっとも、上の道は途中で一箇所切れていて、本当にこれが一本の道であるという確信はなかったのだが、どちらにせよこの不自然な道を調べてみたいと思った。


前に紹介した「栃折隧道」と、この不自然な“上下二段ルート”
この2つが、そもそもの今回の利賀行きを決意させた、大きな目的だったのだ。
そこに今、ちょうど降って湧いたように「牛岳車道」という名前が冠されようとしていた。




分岐と開通記念碑


2009/4/29 8:52 

前回ラストのシーン。

国道から左に分かれていく砂利道がある。

そして、「道の駅2km」の道路標識の右側、ぎりぎりフレーム外に、次の写真の開通記念碑がある。




見た目で言えば、あまり好きなタイプではない。
なんか大味すぎるし、碑としての美しさに欠ける。ただの大石って感じ。

でも、内容が肝心だ。

利賀村道脇谷線
開通記念之碑
昭和45年9月
陸上自衛隊101建設大隊長 岩元明書

分岐地点に碑がある以上、どちらかの道に関係するものだというのは分かるが、「利賀村道脇谷線」というネーミングからは砂利道の方を連想した。
が、すぐに考え直す。
わざわざ自衛隊を頼って昭和45年に開削した道が、林道のような小道であるはずはない。
これこそ後に国道となる道を、当初は村道として建設した証しなのだ。

そう考えれば、これはむしろ左の砂利道が旧道である事の大きな支持材料となる。

つまり…


←こういうことだ。


昭和45年当時、上の道が「県道庄川河合線」で、その下に自衛隊の協力をもって新しい「村道脇谷線」を建設した。
当然これは県道をリプレースする目的で造ったのだろうが、国の補助などの都合で、敢えて当初は村道建設事業として施工したと考えられる。
こういう事は稀にあることだ。

そして、開通後は予定通り村道脇谷線が県道となり、県道は旧道になった。
平成5年には、県道が国道に昇格して現状のようになったに違いない。

(この仮説は後で見た『利賀村誌』で正しかったと確認できた)




碑は裏面もチェックしないとねー。

工事経過

第一期工事 昭和43年8月20日〜同年11月7日
第二期工事 昭和44年7月4日〜同年9月25日
第三期工事 昭和45年7月18日〜同年9月4日
施  工  陸上自衛隊101建設大隊

ちょっと脱線するが、この「101建設大隊」という部隊については、以前「ある本」を読んでいたのでピンと来た。
陸上自衛隊唯一の鉄道部隊だった「101建設隊」は昭和41年に廃隊されて、以後日本に鉄道部隊はない訳だが、この碑面にある「101建設大隊」と関係があるのだろうか? 関係をご存じの方がおられればご教授いただきたい。
ちなみに「101建設大隊」も昭和48年に「第6施設群」に改編されて現存しない模様。

脱線終わり。




「旧道」へ入る。

特に「通行止め」などと言うこともなく、また標識などがあるわけでもない、見た感じは全く平凡な林道である。

そして地形図が描く通り、すぐに現国道と高低差を付けはじめた。
急な登り坂の路面は砂利敷きだが、なんかフカフカしていて、通行量は少ないようだ。




うむ。

イイ感じの道だ。

周りの新緑の良さもあるだろうが、こういう側溝も路肩も曖昧で、ただ山肌に道形を撫で付けたような車道が大好きである。
ビシッと決まった国道と、こういう明治道っぽい車道は両極端なのだがどちらも好きで、その中間的な…舗装路から舗装だけ取り外したような道は、それほど好きではない。

何を言っているのかよく分からないかも知れないが、下の国道も、この旧道も、どっちも好きだよと言いたいのだ。

そんな具合で、上る割に気持ちよく進んでいくと…




9:01 《現在地》

道に直接滝が落ちているように見えるカーブに行き当たる。

よく見ると滝の水は暗渠に集められて道の下を抜けているが、それでも大雨になると路上に水があふれ出すらしく、いろいろな物が流れた跡がある。
それ以前に、橋は当然としても、その手前の数十メートルもコンクリートで舗装されていることが、難所であることの証しである。
そういえばこの場面、“洗い越し”(沢や渓流に対して橋を架けず、路上を通過させるようにした構造物)っぽい雰囲気がある。

年代的に旧国道ではないものの、旧“主要地方道”(県道)の構造物としてみても、なかなか味わい深いではないか。地味だが、良いムードだ。

それと後日気がついたのだが、この滝。
私が愛用している「スーパーマップル10」ではちゃんと名前が付いていて、見どころのような表現をしている。単純に「脇谷の滝」と表記してあるのだが、現地には一切それらしい案内板も何も無かった。道ばたにあるお手軽な滝と言うことで、独自に記載したのだろうか。
地形図にない滝が市販のロードマップに載っていること自体珍しく、道路とは直接関係ないが、気になってしまった。
大騒ぎするような滝ではないが、流し素麺のようで涼しげ、確かに綺麗だ。




気付けばもう600mも進んできていた。

この間、並行する国道はプラスマイナスゼロだが、我らが旧道はしっかり40mも貯金をしている。
その証拠に、国道はもうあんなに小さく見える。

こういう並行する新旧道の“高さ比べ”を見ると、いつも「アリとキリギリス」の寓話を思い出す。

もっとも、地形図によって予め結末(或いは期待する展開)が決まっているだけに、アリもキリギリスも最後は自然と同位に落ち着く…つまり何の寓話性もないのだが…、それでも先に頑張って登って待とうという旧道(キリギリス)と、泰然自若に構えている新道(アリ)の関係になぞらえてしまう。
皆さんも経験がお有りではないだろうか。



ところで、私のアリとキリギリスの喩えは、まるで逆だったことが読者さんのご指摘で判明しました!(笑)
おかしいなぁ。働き者のキリギリスと、怠け者のアリ…。
確かにそれってアリのイメージじゃねぇ!  …オモシロイので敢えてそのままにしておきますが、小さい子供さんは間違えないで覚えてね。

来ちゃった!

廃道、来ちゃった!


という具合に、少しばかり浮かれましたです。

なんといっても、「もしや」と思ってきた道が期待通りの旧道で、それで終わらずさらに廃道らしい感じになってきたのだから、嬉しいじゃないか。

廃道を嬉しいという気持ちは複雑で、いつも嬉しい訳じゃない。
むしろ、意外に思われるかも知れないが、嬉しくないことの方が多い感じがする。

でも、今の私は心も身体も準備万端八方宜し!!

こいつは、楽しめそうだぜぇ。(なんて言って、1時間後にへばってぶっ倒れてなきゃいいけどな)




絶妙な廃れっぷりの道が始まった。

直前の崩壊現場は、流石にジムニークラスでも入り込むのを躊躇いそうなガレ&路肩欠損だったが、そこさえ抜ければあとは静かな土道が始まった。
藪がボウボウしてるのと違ってペースはそう落ちないし、かといって先行者の轍を辿るような退屈さもない。
オブサイクリストにとっては最高のシチュエーションといえる。
(オブサイクリスト≒山チャリスト)

頭の中にもう「牛岳車道の歴史を解明しよう」云々といった堅物は消え、ただ足元の薄れた轍を追いかけることに没頭していった。
凄く幸せな時間だ。




滝から300mほど進んできたが、相変わらず手を抜かずに登っている。
いったい国道はどのくらい付いてきているものか、もう音も聞こえなくなった。

そんななか、浅い堀割と思った一角が、実は石積みの四角い台だった。
左側は山肌で、道の右側だけにこの台がある。
5m四方くらいの四角形で、上に若い杉が幾つも生えている。
民家を置くには狭すぎるが、間違いなく人工物だ。
『利賀村誌』もこれには触れていないが、この辺から廃村の脇谷集落跡が断続的に始まっていたことは確かだ。

これは推測に過ぎないが、牛岳車道は前述の通り賃取道路(有料道路)であった(明治23年開通〜明治38年無料化まで)から、どこかに見張り所が無ければおかしい。
普通そういう物は起点と終点に置くか、或いは一本道となる中間部に置くのではないか。

脇谷は、後者の要件をうまく備えた位置である。




大字あるところに、一つくらいは集落有り。

絶対ではもちろん無いが、かなり基本的な法則である。

それに則れば、大字栗当にも集落があっていい。

栗当集落跡は全然気がつかなかったが(前回の「トンネル谷」付近にあったらしい)、この脇谷に関しては、道が古いまま残っていてくれたお陰で、集落跡の痕跡を自然に見つけることが出来た。




右図は、昭和26年版「八尾」に見る現在地付近であるが、当然新道はまだ無い(破線で表示)。

描かれているのは当時の県道であるが、周りを取り囲む絶望的な等高線の渦の中に、三つの集落が描かれている。
いずれも数軒程度の小集落の姿だが、こうした集落の存在が徒歩による旅の安全を見守っていたものと思う。
(このうち仙野原や栗当は大字として残ったが、脇谷は栗当の中の字に落ちている。)

…失礼だが、この地形図を見せられて昭和26年とはちょっと思わない。
明治末の版かと思うよ。
あまりに暮らしが細そうで…。




ひとかたまりという感じではなく、大きな家が点在するような感じの集落だったのか、人家跡らしき平坦地が分散していた。

集落跡というだけで、そこはやはり周りに較べて明るく温かな感じを受ける。
気持ちの問題ではなく、そういう環境だから集落たりえたはずなのだ。
もう少し今みたいな立派な国道の開通が早ければ、栗当も脇谷も無人にならなかったかも知れない。




集落跡は過ぎたらしい。

急にまた、山河の矢面に立たされた感じがする。
右はもうまるっきり“お空の世界”だし、庄川筋との間を隔てる山脈との背比べも、だんだん良い勝負になってきた。

ここは岩場というわけではないが、かなり急峻な斜面を横切っている。
路肩の角は雪崩のせいかすっかりこそげ、道全体が谷に向かって傾斜している有様だ。

冒頭の一箇所意外、物理的に通れないような崩れはないが、この“斜め”を車みたいな重い物で通るのは絶対嫌だ。




はにゃ?

あんなところに、軽トラ君が…。

まさか、今の道を乗り越して辿り着いたのか?


それとも、反対から来たのか?


意外な展開が待ち受けていた。



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地図にない分岐と、見えない道…


9:28 《現在地》

旧道へ入って1.4km地点。
海抜450mで始まったこの道も、今や100mを加えて550m。
いよいよ利賀村中心部の目標高度(600m)とほぼ変わらない高さに辿り着いた。
したがって、これから先まだ8km近くある道のり(旧道に関してはあと4km)は、アップダウンはあっても登りっぱなしではないと思われる状況だ。

それはさておき、ここで地図にない分岐が現れて私を惑わした。

また、久々に見た国道の随分と低いこと! そして、見違えるように近代的な橋の架かっていることに驚き!

そんな分岐地点であった。




まるでこの分岐を見守るように、直前のカーブの外側に一基の石塔が安置されていた。
わざわざ台座を設けているくらいだから、相当大切にされたものではないだろうか。

そして、この道の共に年輪を重ねたらしい姿は、本来無機的な四角柱であるにもかかわらず、お地蔵のようなたおやかさを醸すに至っている。
道標ではないかという下心以前に、惹き付けられた。




台座部分も献花をする部分(ここ、なんていうの?)も、実はかなり凝った作りになっている。
それぞれ細かい彫刻が施されており、コンクリートではなく石材なのに、本当に手が込んでいる。
道のこともそっちのけで(とはいえ廃道に無ければこんなに惹かれなかったが)、この碑にかぶりついてしまった。

かなりマニアックだが、ぜひこの質感を見てもらいたいので、原寸大画像を用意した。 →【碑のどでか画像】


ちなみに、碑面に書かれている文字は単純明瞭。
「南無阿弥陀仏」であったのだが、その裏側を見てまたカンゲキした。




なんと、この碑の建立されたのは牛岳車道よりももっと古かった。

いや、ただの江戸時代の年号だったら、別にそれほど感動しなかっただろう。

明治元年辰九月建立

 って、何か興奮しない?


だってあの、憧れの明治のファースト年だよ!(憧れている意味がよく分からないが、自分でも…)

しかも、もうちょっと掘り下げると、明治元年9月というのは慶応4年9月であって、この月の8日に「明治改元の詔」というのが出されたんだよね。
それで「今年の元日にさかのぼって明治元年にします」っていうことに決まった。

だから、「明治元年九月銘」のこの碑は、相当高い確率で改元を記念してしつらえた物だと思う。
(だって、明治元年1〜8月に彫っちゃってれば、「慶応四年銘」になったに違いないのだから)

失礼だけど、こんな山深いところで、これほど高度な匠の技が発揮されたということ。
そして、“改元”という政治的なニュースを、即座に一大慶事と捉えて祝った、知識階級がいたということ。

これは、利賀村一帯のレベルの高さを示す記念物ではないのだろうか。



この碑は単なる墓石であろうというご指摘が多数寄せられました。なるほど、確かに富山県の古いお墓はどこも立派で、しかも集合墓地じゃないところに孤立しているのをよく見ました。「南無阿弥陀仏」としか書かれてないところをみても、やはりこれはお墓らしいですね。紛らわしい記年にすっかり勘違いして一人踊りをしてしまったようです。 くやしいのう…。

道が2本に分かれている。

地図にはない分岐。


地図にはないが、「富山県の管内図」および「道路台帳」などの行政資料によって、
ここに県道が存在する
ことが明らかとなった。

県道を知りたくば、
ここにカーソルオン!


富山県の県道59号、主要地方道でもある。
路線名は「富山庄川線」。
結構えらそうな路線名だが、実態はこの状態…。
この分岐を右に下って、国道471号とぶつかったところで終わっている。(以後は国道と重複して庄川へ)




え? 牛岳車道よりこの県道が気になる?


仕方がないにゃ〜。 今はまだこれだけだぜ、ハニー。

<先走り>

これは、国道471号と県道59号の分岐地点(脇谷大橋 たもと)。

左に超狭い舗装路が分岐しているが、そこには確かに…


ヘキサがある!



今はまず、牛を一緒にやっつけようぜ!



“牛退治”の続きだが、とりあえず分岐は左が正解である。

問題は左へ行った道が、次にどこへ行くのかと言うことだ。


この先… 例の地形図上で道の途切れているエリアである。
厳密には、もう数百メートル先から、途切れている。

本来なら、今見えている範囲に道が通じているはずである。
あの近代的なアーチ橋は国道471号の「脇谷大橋 」で、それよりだいぶ高い位置を横切っているはずなのである。
旧版地形図にも、そういう道が描かれている。






いったい何があった?!


道が見えん!






次回、 困難さを加える旧道に刮目せよ!