牛岳車道 (延長部) 第6回

公開日 2010.3.23
探索日 2009.4.29

大展望道路



2009/4/29 10:13 《現在地》高沼手前

国道471号が国道になる前、まだ県道庄川河合線と呼ばれていた時代の旧道は、栗当から高沼を経て草嶺(そうれい)まで約6kmが(途中一箇所途切れつつ)現存するが、現在地はその半ばの高沼である。

高沼には、手元の地形図に11戸の建物が描かれており、恐らく現住のある集落と思われた。
いよいよ長かった無住の山地を乗り越えて、利賀人との遭遇が期待されたのである。

もっとも、いまはまだ集落の「し」の字も感じられぬ山の一翼に、細い轍を頼り張り付いているだけの状態だ。
この景色が、これからどのように集落へと収束するのか。そこに興味をひかれた。




とりあえず、現在の立ち位置はこんな感じだ。

裸の路肩のおおよそ70m下に昭和45年以来の新道(現:国道471号)があり、さらにその300m下方に利賀川の水面がある。
そして対岸へ50m上がったところに、細い「西岸林道」があるという状況だ。

この3本の道は、いずれも利賀と庄川地方を結ぶ重要な路線であったわけだが、すべて“夏の道”だったという。

では、“冬の道”というのはどこにあったのか?




 利賀の人は全員登山家かよ!!

思わず突っ込みたくなるが、『利賀村誌』によるとそういうことらしい。

とにかく、自分より上に“雪”がない所でないと、雪崩がおっかなくて歩けない。
それが冬の利賀の掟だった。

…冬期も車で出入りできるようになる昭和46年頃まで、その掟が生きていた。
彼らは冬にどこかへ行く用事があると、まずは各々の集落からまず真っ直ぐ尾根まで登り、それからずっと尾根伝いに目的地の近くまで歩いたという。
もちろん、利賀川対岸だけではなく、いま私がいる斜面の頂上にも“冬道”は存在したそうだ。




ん> これはなんだ?

路傍の低い切り取りにあった、石垣を門のように組み立てた一角。

人がしゃがんでようやく入れるくらいのサイズだから、塞がれた坑道ではないと思う。
炭焼き窯にしては奥行きがないし、煤けもない。
埋もれてしまった水場(牛岳車道は牛馬の通行が多かったという)か、地蔵でも安置していたものか。
おそらくは、前者だろう。

上辺の石は当たり前のように「桁橋」の構造になっているが、平安の昔から日本人の築いてきた橋の形は、ひとえにこれだった。
アーチみたいな工夫は、すべて外来のものだという。

そんなことを思い出した。




い〜だろー!

なんて、思わず大人げない言葉を発してしまいそうだ。

え、誰に対してだって?

それはもちろん、この景色をモニタ越しに見ている皆様にデスよ。

そのくらい、いい感じの景色の所を、完全に独り占めでございます。
額に汗する廃道ももちろん楽しいけれど、だいぶ前からほとんど水平の道で、とても爽快な廃道サイクリングになっている。
路面は少しばかりへたっていても、世紀を越えて踏まれ続けた“安心の堅さ”が消えてはいない。


【石灰山はここだった!】


↑↑↑

ちなみに、牛岳車道の終点とされる通称「石灰山」なる場所がどこなのかについては、探索時特定できなかったが、机上調査の結果、図中に示した辺りだと分かった。
その名の通り、山全体が石灰の岩盤であったのか、或いは部分的であったのかは分からない。

いずれ、近世から長らく続いた採掘も戦後まもなく打ち切られたというから、既に自然の山と区別が付かなくなっているのも納得できる。
いちおう人工的なラインが国道と旧道の間の山肌に見えているが、それとて石灰の採掘によるものかは分からない。

なお最初の集落「高沼」は、手前と奥の山ひだの途中、道が見えなくなっている約1.5kmの間に隠れていた。


上記の記述(利賀“石灰山”の跡地について)は私の勘違いだった。


昭和29年にまとめられた「富山県利賀村地方石灰岩調査報告」によると、当地域の石灰岩の埋蔵範囲は右図のようなもの(黄色く着色した範囲が既知の石灰岩層)であり、上記レポートで私が指摘した範囲(ピンク)の箇所は含まれていない。

なお、図中の「@」については、当レポート「第5回」に追記した。(追記部分を読む)。図中の「A」についても、当回の下段に追記した。(追記部分を読む


当初私が想定していた“石灰山”の位置が違っていたことで、きわめて重要な点についても指摘しなければならない。

それは、「牛岳車道の終点が違っていた」ということだ。

今回、「庄川町誌」「利賀町誌」など牛岳車道について記述のある資料をいろいろと読んだが、全長を記載しているものがなかったことも、勘違いを深くした。

明治23年、15ヶ年の賃取償却道路として許可を受け、9月13日に金屋から石灰山まで開通させ… (「庄川町誌」より)

青島〜栗当間には明治23年から石灰業者によって牛岳車道とよばれる賃銭道路が開通し… (「利賀村誌」より)

「利賀村誌」に「栗当」と書かれているのに気付いたのは、当レポートをここまで書き進めてからだった。

となると、今回紹介している区間はもはや「牛岳車道」ではないことになる。
「利賀村誌」には、大正8年に牛岳車道の終点から利賀村中心部に近い上利賀まで馬車道が延長されたことも書かれている。

このレポートのタイトルは「牛岳車道」であるが、今いきなり「もう牛岳車道じゃなくなってました!」と書き終えるのは“残念”である。
よって、「牛岳車道が利賀を最初に目指した車道である」という象徴性を重視し、レポートのタイトルはこのまま、当初の高沼までの予定を延長して、利賀中心部まで紹介することにした。どうせ“探索”としては途中で区切ったものではなかったので、むしろ好都合である。

なおこの件に関し、前回および当回は、当初公開時より多数の修正を行っている。
もしお時間が許すならば、再度読み直して欲しい。

参考: 地質調査所月報(第七巻第一号)所収「富山県利賀村地方石灰岩調査報告」(昭和29年-大塚寅雄)




まさに特等席。

旧道は、国道471号の様々を眺めるための、最高の展望台であった。

これまで幾つものスノーシェッドを眼下に見てきたが、ここに初めて「廃」を発見!

どのような線形変更があって一個の小さなシェッドが役目を終えたのかが、どんな流ちょうな説明よりも容易に見て取れる。




もっと近ければ行ったと思うが、さすがに自重しなければならなかった。

近いように見えて、その落差は50mを下らない。
しかも、斜面はほとんど崖である。




おほほほほー。

ここを、…バスも通ったのか。


もちろん、路面はこんなに波打ってなかったろうが…
路肩、法面、一切防護無し!


ひゅー。 熱いぜ…。

しかも、路肩は比較的新しそうなコンクリートブロック作りであり、それだけ何度も崩れたのだろうということを想像させた。




上記の難所を過ぎると、道は久方ぶりに穏やかな顔を取り戻した。

…集落も近いかも知れない。

そんな感じを受けながら、ゆるゆる上りになった道を進んでいくと…。


 …




確かに人工的であることは間違いない穴であるが、奥行きはこれだけ。

せいぜい3mくらいであった。

フラスコのような形で奥が少し広がっていたが、それ以上のなんでもない。

近くに畑でもあれば貯蔵庫と思うところだが、なんだろう。
前回紹介の脇谷では、かなりはっきりした廃鉱を見つけているだけに、これも試掘坑の跡だろうか。

この穴は、石灰の試掘鉱である可能性が高い。
ちょうどこの付近には石灰の薄い層が埋蔵していることが、地質調査により判明している。



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高沼集落 


10:30 《現在地》

旧道に入って初めて舗装路になったと思えば、それから数十メートルで分岐地点となった。

地形図を確かめる。

現在地は旧道入口から3.5kmの地点(海抜560m)で、左が旧道利賀方面、右が高沼集落への支線のようだ。

これは少々意外であったが、旧道は集落内を通行していなかったことになる。

別に高沼に積極的な用事はないのだが、せっかく利賀村で最初に出会った集落だし、挨拶をしていくことにした。




右の道に入るとたちまち下り坂になり、あっという間に杉の植林地を抜け、前方に明るい丁字路が見えてきた。
(杉林の中に何段も平場が切られ、それが引き払われた屋敷の跡だと気付くのは、この道を上って高沼とさよならする時だった)

地形図を見たばかりのため、それが国道だとすぐに分かる。
高沼という集落は、旧道ではなく昭和45年に開通した新道(現国道)を中心に立地している。

もっともこれは、旧道が集落の上端を、新道が下端を通っていた状況から、徐々に旧道沿いの家屋が離村したことによるようだ。
その証拠に、旧道のすぐ下の辺りから廃屋が存在している。

   利賀村に初上陸ぅううう!




国道471号に出た。

この丁字路を中心に、両手で数えられるくらいの住居が緩斜面に点在している。

これまでの栗当や脇谷といった廃集落も、利賀川に面する斜面にある点では同じだが、ここはそれらに較べて遙かに穏やかな地勢である。
前方、利賀の中心方向には“石灰山”が立ちはだかり見通せないが、それとて険しい感じではない。
空の広さ、特に右側の際限のない“空間感”が仮に雑木林にでも置き換えられたら、その辺の郊外にある山里と変わらない、そんな感じの険しさである。

一般に、役場との連絡が容易でない端村ほど廃止が早いが、この集落が生き続けているのにはちゃんと理由があると思った。




丁字路の角にはバス停があったが、客待ちのスペースに大量の道具を並べ、水洗いしているおじさんがいた。
私にとっての利賀村第一号遭遇者は、第一号情報聴取者だった。

道のこと、途中で見た廃坑山らしき穴のこと、利賀村のこと、気になることを全部質問してみた。
雪焼けした笑顔が、私の顔と自転車とを交互に見ながら、ひとつひとつ答えてくれた。
(正直、もっと訛りが強いかと思っていたが、秋田に較べて全然聞き取りやすかった…笑)

おじさんが小学1年生の時に、上の道(旧道のこと)を通る自動車を初めて見たこと。それが昭和11年であったこと。
バスが通るようになったのは、昭和30年代と比較的遅かったということ。
下の道(新道)は、昭和45年に自衛隊が開通させたこと。
高沼地区には、石灰石の他に黒鉛の鉱山があり、戦後しばらくは小規模に採掘をしていたこと(途中で見た廃坑は、黒鉛鉱山の跡だったようだ)。などなど。



ここで伺った内容は、『利賀村誌』に書かれている高沼集落の沿革ともほぼ符合する。

だが、あえて村誌から補充するなら、ここに縄文中期の遺跡があり、昭和36年に発掘調査が行われたこと。(縄文人はなぜこの山奥まで来て住んだんだろう、冬はどうしていたんだろう)
近世には利賀の他の村々と同じように、塩硝(草木灰などから作る火薬の原料)や簑などの御用品を製造して加賀藩に収めていたこと。
そして、昭和28年に村会で高沼〜青島間の石灰搬出用軌道敷設事業が決議されるも、資金の面で中止されたことなどがある。

特に最後の石灰搬出軌道は気になるが、もしかしたら旧道の勾配を大幅に緩和した新道の計画は、この辺に源流があるのかもしれない。時期的には悪くない。




10:35 《現在地》

せっかく国道まで下りたので、ちょっと(約500m)逆走して、さっき後ろ髪を引かれた廃スノーシェッドに行ってみた。

国道から見ると、こんな感じである。
いままで誰もオブローダーが採り上げなかったとしたら(分からないが)、あまりに取るに足らないという感想を持たれたのかもしれない。
それくらい国道の往来から明け透けな、小さな小さな廃物件である。

ちなみに、背景を横切るラインが、さっき通った旧道だ。




シェッドの番号はいつの間にだいぶ進んでいるようで、最後にくぐったのは「栗当10」とかそんな名前だったと思うが、ここにあるのは「高沼1」だった。

脇谷あたりでも眼下に幾つものシェッドを見ているが、それらの名前は未チェックである。
ともかく、「高沼」シリーズのファーストナンバーは、こうして除雪車の車庫という第二の人生を歩んでいた。

ただ不思議なのは、隣接するスノーシェッドの名が「高沼4」であることだ。
番号がだいぶ飛んでいるし、庄川側からカウントして4→1というのは、それこそ逆走である。

これに有意な説明をするには、現在使われている高沼シリーズは、この「高沼1」が廃止された後に再命名(ペイント)されたということだろうか。
元は高沼シリーズではない、別の名前だったのかも知れない。
(さすがに、どうでもいい気がしてきた…笑)







次回ものんびりと利賀を目指す。


個人的に旧道で一番好きな眺めも、登場するぜ!