牛岳車道 (延長部) 第7回

公開日 2010.3.26
探索日 2009.4.29

[ いま辿っている道は、牛岳車道ではない件について ]


「牛岳車道」を当レポートのタイトルに据えたが、実はもう「牛岳車道」として建設された区間は終わっている。

書き始めた当初は、牛岳車道の終点を漠然とした“石灰山”と考え、それは高沼にあると見ていたのであるが、その後の調べで石灰山の位置がほぼ判明したため、自動的に牛岳車道の区間も右図のようになった。

牛岳車道は、庄川(青島ないし金屋)から利賀村の栗当にあった“石灰山”を連絡する約10km(地図上から測定)の有料馬車道(明治23年開通)であり、それより先の脇谷(大崩落地)から高沼、草嶺を経て利賀村中心部までは、別の由来を持つ道である。

もっとも由来といっても、それは至って素直な「道路欲しさ」によるもので、牛岳車道が明治政府によって定められた15年間の賃取り期間を終えて無料開放された明治38年以降、利賀村の住民たちが自ら便利なところまで馬車道を延長したものである。

その全通は大正8年で(上利賀まで馬車道開通)、同じ年に旧道路法下の郡道に指定されている。
次に郡道は大正11年に全て廃止され、代わりに県道へ昇格している(県道利賀青島線といった)。
その後は、昭和30年に現行道路法下の一般県道となり、後に主要地方道を経て、平成5年に国道471号となっている。
この途中の昭和45年に自衛隊の手で新道が開通し、牛岳車道やその延長線で重複する箇所は旧道化して村道へ降格している。
すなわち、今紹介している道である。

牛岳車道云々以前に、「利賀村をこの目で見たい!」という単純な欲求から始まった探索である。
引き続き利賀までのレポートを続行する。

今回はいよいよ、旧道区間の最終回である



利賀村への最終尾根越え


2009/4/29 10:43 《現在地》再び旧道へ

旧利賀村で最初の現存集落との遭遇と、元村人(現南砺市民)からの情報収集を終え、再び旧道へと復帰した。

旧道の残りの距離は、地図読みで2.5km。

もう「脇谷」のような大決壊は無いと思われるが、油断は出来ない。

なんといってもこの利賀村には、「通行止め」の予告などという甘っちょろいものは存在しないらしい。
今日はまだ一度も「通行止め」を侵していないのに、もう何度大小の決壊を乗り越えてきたことか。

例によって、この分岐地点にも通行の邪魔をするものは一切なかった。




きっかり1車線幅の道が、集落林とでも言うべき杉林と雑木林を画するように続いている。
舗装は分岐から100mも行かないうちに途切れたが、これはまあ予想通りというか、望むところというか、問題はない。

そして、ちょうどそこに、ともすれば見落とされそうな石段があった。
心惹かれるものを感じて見上げてみると…




案の定、それは神社へと至る参道だった。

ここからは老松のような石段と、その上に立つ白亜の石鳥居くらいしか見えないが、これだけでも木漏れ陽の射す淑やかな神域を確定させることができた。
これで満足してしまい、敢えて鳥居をくぐってみようという気持ちにはならなかった。

『利賀村誌』によるとこの神社は「高沼八幡宮」であり、集落の栄えし頃は獅子舞が神事として奉納されていたのだという。
栗当(くりとう)にも、これから行く草嶺(そうれい)にも、やはり八幡宮があった。
この一帯は特に八幡様に対する信仰が深いようである。




なんじゃこれは?

こんな道、はじめてだよ。

この場所で激しくすっころんだら、体がトコロテン状に寸断されてしまうかも知れない。

というのはもちろん冗談だが、自転車のタイヤは問題ないとしても、足で踏み越えると足裏が凄く痛いよ。
なんか、青竹踏みみたいな健康効果がありそうな気もするが…。


ちなみにこの鉄路盤が敷かれていたのは、旧道から左に分かれる造林作業道路の入口で、旧道自体ではない。
これはいったいどういう目的で敷いているのだろう。





10:53 

“現場”を過ぎると、再び理想的な旧道風景が戻ってきた。

地形図を見た時点で分かっていたことだが、旧道と新道は本当に付かず離れずで並行している。

その高低差は、ほぼ全線で50m〜100mの範囲に収まっている。
そして、ずっと前にも書いたとおり、両者の距離の差はさほど無い。

これなら旧道のうち険しい場所をトンネルにしたり、急坂の部分を掘り下げたりするだけでも、十分に新道の役割を果たすのではないかなどと思ってしまう。
6kmにも渡って完全な別線を建設したのはなぜなんだろうと、私はずっと不思議に思っていた。

でも、意味のないことは、しないんだよな。

古い道路って言うのは、まず意味のないことはしない…。


これは、鉄則……。





ルートラボで新旧道のレベルグラフを作ってみた。

そうすると、両者の違いは一目瞭然となった!

旧道は、海抜400mちょっとの栗当から、おおよそ600mの草嶺に至るまでの間に、峠を二つ越えていたのである。
それぞれの峠の勾配は緩やかで、別に難しいと感じられるものではないが、ここでの最大の問題は標高であろう。
標高が高いほど雪が多く積もり、そして雪解けも遅い。

新道は、この複雑な地形の中をほぼ一定の勾配で上り続け、レベル上での無駄がほとんど無い!
これは距離の短縮や走行性の高さということよりも、克雪に重点を置いた、極めて合理的なルート設計であることに気付く。
これぞ、可能な限り雪を避けるという理念の発現。1mでも雪の少ないところを通そうとしたのだ。

グラフを作っていて、感動してしまった。




なお、標高が低いという意味では、「西岸林道」こそ究極の一手である。

ほぼ最初から最後まで新道よりさらに200mも低いところを通過しているし、全体的に南東向きの斜面にある。
『利賀村誌』によると、この林道は昭和13年に軽車道として開通し同21年に自動車道へと改修されたものであるが、昭和46年に新道の冬期間通行が可能になるまで、秋の最も遅い時期まで通行出来る道として大勢の村人が利用したということである。

だったら西岸林道をベースに新道を作ればよいのではないかとも考えるが、そうすると旧道上に発達した幾つもの集落を無視することになるし、利賀川の渓谷は雪崩と崩落の危険地帯で、標高が低いにもかかわらず春は最も遅くまで通行できなかったということである。

つまり利賀村には、山腹にある春夏秋道、谷底の晩秋道、尾根上の冬道という、3パターンのルートが存在したことになるのである。
…それは村誌も道路だけで100ページ以上語っちゃうよな…。




とにかくこの道は景色が良くて、常に遠くを見ているみたいに錯覚するが、路上の状況も全く素晴らしい。

この「素晴らしい」というのは、廃道として楽しいという意味だ。

とにかく、こんなにしっかりと路盤はあるのに、車の轍もバイクの轍も見えない。
まさに今自分が踏み進んでいっているという、処女征服の醍醐味をほしいままに出来る。
まして風景がこの混じりっけ無しの美しさだ。
やはり、製品工場みたいな植林地を行く道と較べ、自然林を行くのは10倍も楽しい。

トンネルは橋といった“花形スター”こそ居ないが、この道の廃道としてのミリキは自身屈指と言っていいレベルだ!






これと同じような景色を何百年も昔から見ながら、

利賀の人々は麓との間を行き来していたのだろう。

文明が書き加えた道は大地に比してあまりに細いが、その安堵は計り知れない。





本日4月29日、標高600mにほど近い旧道上で、はじめて残雪を確認した!

こんな感じで旧道は新道に較べて雪解けが遅かったのだろう。

気付けばこの辺りの草の大半は、まだ芽吹いてさえいない。
この半日前で、1ヶ月は季節を遡った気がする。




なぜ急にへばっているのか。

今日はまだ一度も疲れたとか辛いとか言ってなかったじゃないか。

そうなんだが、道が気持ちよすぎるせいで休憩を忘れがちだったり、最近の路面が枯れススキのモフモフ状態だったりして、急速に疲労が蓄積。
小さなガレ場を抜けたところで、突然“ヘタッ”と来た(笑)。




11:15 《現在地》

おふぅ!

高沼集落から1.3km地点。
探索当時は“石灰山”跡と勘違いしていた、小さな尾根に着いた。

ここは小さなピークだが、海抜は630mとこれまでで最も高い。高沼集落から見れば、100mほどのUPである。

そしてここには、“冬”から抜け出してきたばかりの褐色の堀割が待っていた。
これまで堀割はほとんど無かったので、新鮮に見える。
ただし、これといった記念物のようなものは見られず、大きさの割に自己主張は大きくない。

この堀割を抜けると、いよいよ旧道の残りは1.1kmである。





堀割を抜けると…


なんか、…予感!





これは!



これは…すごい……








今思えば、私はこの辺りから、ちょっとおかしくなり始めていたんだと思う。


道路(廃道だけじゃなくて)というものへの愛着が、だんだんと私の心の中をいっぱいにしていった。


なんでこんなに道路は美しく気高く、それでいて優しく…  あ あ・・・。




新道と旧道が、数十メートルを隔てて上下二段の並行展開となっている。

そして、この山腹の優雅なデュエットを見ることが出来るのは、空に開けた旧道だけという特等感。

こんなにも明るく美しいのに、ここは廃道なのだ。

通る者はほとんどいないはずなのに、どういう訳か藪にもならず、自転車を自由に駆けめぐらせることが出来る廃道。

独 り 占 め !


オブの神さま、ありがとう。




新道が久々に長大なシェッドに身を隠していることからも分かるとおり、ここは中盤最大の難所。

何もない路肩に身を寄せれば、400m下方(水平距離は600m)に細い西岸林道が見下ろされる。

探索中はただの林道と思っていたが、いまこうして文章化を進めていく段階では、向こうもまた愛おしくてたまらない!
あれもこれも、全部が利賀の暮らしの中に足跡を留めた道なのだ…。


またよく見ると、この下の西岸林道には川原に下りる支線があって、その終点にブルドーザーが停まっていた。
この辺りの西岸林道は、地形図では破線の道として描かれているのだが、実際には生きているようだ。




周りに見える全ての山の一番底から始まったこの旅も、気付けばこんな高みに着いていた。
1000mは優に越えているような景色だが、これでも600mとちょっとである。

もう完全に利賀川と庄川を隔てる冬道の尾根は目線より下である。
こんな状態になっても、まだ見えてこない利賀村というのは、いったいどんな場所なのか。

…なんかいつものパターンだと、ここが峠でこれから村に入る前に登った分の大半を全部精算してしまいそうなのだが、今回はほとんど高度を維持したまま行く。

これはまだ見ぬ風景のパターンに期待大!




11:31 《現在地》 最高所

今日一番のテンションのまま、非常に緩やかな上りを詰めると、三本の大木(松×1、杉×2)が目立つピークに到達した。

ここが利賀への道の最高地点(海抜630m)。

その名も芳(かぐわ)しき…
犬の糞尾根である。

利賀村誌にはっきりそう書いてあるのだが、由来は書かれてなかった。
こんなに美しいのに、なんでそんな名前…。

ちなみに読みは「いんのくそおね」だそうである。




最後の展開は、思いのほか早かった。

とにかくダレる場面が一切無いからかも知れないが、犬の糞尾根を越えると思い出したみたいに急に下り、あっという間に新道(国道)に合流してしまった。


栗当から6kmにわたって続いた(一箇所だけ途切れていたが)旧道は、これでおしまいである。

地図で見ただけでは計り知れない素晴らしさに満ちた旧道だった。



 …まだ終わらないよ。



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利賀村 出現!


高沼でほんの少しこの空気を吸っているが、基本的には2時間半ずっと無人の旧道や廃道の住人だった。
それだけに、アスファルトのありがたさが身に染みた。

とりあえずこの辺りに集落はないようだが、いろいろと目的地の案内が出て来ていた。

「合掌文化村」というのが利賀村のキャッチコピーなんだろうか?
その下には「そばの郷13km」「瞑想の郷11km」「飛翔の郷8km」と三つの行き先が並んでいるが、ぶっちゃけ…どれも村人が住んでいそうな感じじゃないな(笑)。

「そば」はまだ親しみを感じるが…そこへ辿り着くために、まず「飛翔」して、次に「瞑想」とか…。なんか新手の宗教のようである。




新道に合わさってから600mを前進。
途中には「草嶺2」という短いスノーシェッドが一本あったほかは、アップダウン皆無の完全トラバースルートである。

そして、高沼の次の大字である草嶺の中心部にたどり着いた。

これまで同様、この草嶺も集落名を元にしているが、残念ながらここは既に廃村である。




高沼はよくてここは駄目だった理由は分からないが、美しい畦も丁寧な石垣も、みな山野の風景の一部となってしまっていた。

『村誌』曰く、ここは往古「草嶺倉村」といい、明治22年には家数17軒を数えたが、その後は徐々に減少し近年の過疎化の加速によって比較的最近に無人となったとのことである。

なお、利賀中心部(大字利賀村)までの大字はのこり3つ。
押場、北豆谷、大豆谷である。いずれも集落名による。




草嶺の集落跡は狭く、すぐにまた山峡へ舞い戻る。

そして、「草嶺3」「草嶺4」と、やや古びたいシェッドが2本続いた。

依然としてアップダウンはほとんど無く、ペースは快調である。




シェッドを出ると、こんな大きな建物が道ばたにでんと建っていた。

第三期山村振興特別対策事業
地 力 維 持 増 進 施 設
利 賀 堆 肥 舎




堆肥舎ということで、あえて住居のある場所から離して建てているものと思うが、それにしてもなかなかアグレッシブな立地である。

スノーシェッドが完備されているから良いものの、そうでなければ堆肥を取りに行くのも命がけとなりかねない。

しかしともかく、徐々に徐々に人界へ近付いている気配は感じる。




そして、「草嶺5」「草嶺6」を、何事もなく抜ける。

もうこのまま利賀村へ入っていくのだろうかと、漠然とした物足りなさを感じ始めた矢先…

尾根の先端を広く削って、平坦な小公園のように仕立てた場所に出会った。
そこには、“利賀村のシンボルタワー”も建っている。

ここからはどんな景色が見れるのだろうか。
私の期待は否が応にも高まった。







【大きな画像はこちら】

利賀村 発見!



「利賀村役場」改め、南砺市利賀行政センターのある利賀村中心地が一望された。

利賀村全体の人口が合併直前で900人足らずだったので、この眺めに含まれる人口はその1/3くらいだろうか?


なんか村というか、森というか、スイスというか…。



ここで、第二波がじわーーっと来た。




でも、まだこらえた。




しかし、振り返ってみた景色には遂にこらえきれず…





こうなった。



振り返ったら何が見えたのかって?



こういう景色が見えました。





これまで辿ってきた山峡なんだけど…


よく見るとこの中に…。





この慎ましさに、猛烈な感涙の情が湧き上がってきて、こらえきれんくなった。



説明が必要でせうか?



もうこんなに小さくなってしまった「犬の糞尾根」だけど、その旧道端にあった三本の大木を覚えてますか。

周りに全然自生していない松が混じっていた時点で「もしや」と思っていたんだけど、この眺めで確信できた。


あの三本の木は、昔の利賀の人々が庄川へ向かって歩くときの目印として植えたものだと。


こういう目印の木は、東北を含めて雪国では珍しくない風習である。

だが、そうではないかと思ったものが、まさにその通りの“目立ち方”で、ポツンと佇む姿を見たとき、

私の心も旧い旅人とだぶった気がして、…絶句したのだ。





この眺めの中に、季節に応じた3ルートの道があった。

それをさらに時代で分けたら、いったい幾筋の道があるのだろう。

そして、そのうちの幾筋が残っているのだろう…。





西岸林道もまた、か細い引っ掻き傷のような道である。


だがむしろこの道は、一度廃道になりかけたものが、いま復職の機会を得ているようであった。


何ゆえかといえば…。




感動だけで終わらないのが、利賀流のスペクタクル。





11:45 《現在地》

ここは風がけっこう強く、目に入ったらしい。

少々はれぼったい目と鼻をティッシュで擦り、いざ探索眼を再起動する。

そうするってーと、まずこんなものが目に留まった。

展望台といってもよろしい空き地(実は半弧状の旧道敷きだが)の片隅に設置された、作業用モノレールのプラットホームだ。

そこには、台車専用車両1台と、座席を3つずつ取り付けた客車2台が待機していた。




その軌条の行く末はというと…、

まったく脇目もふらず、利賀川の谷底へ下降していたのである。
10mほど先までしか見通せず、その辺りはどう見てもジェットコースターのような傾斜であった。

一時分よりは幾分谷底が近付いているとはいえ、なお280mの比高がある。
興味本位でこんなレールを手繰っていけば、まず戻っては来れまい。

それに、このレールの行き先をすぐ近くの案内板で理解してしまった私は、もうそれ以上興味が持てなかった。




ダム工事…。

【地形図を見る】と、確かにこの1kmほど上流の利賀川に「豆谷ダム」という小さなダムがあるようだ。

だが、このパネルも、作業用モノレールも、それとは無関係だった。

私全く与り知らないところで、事態は大いなる変容を遂げていた。

はっきりいって、下調べするのはあまり好きじゃないし、まして道路に関すること以外はわざと目をつむって出発するのが常である。

こんなものが出来つつあるなんて…、全く想定外だった。





ギョッとして、村を再び眺むれば、

一面緑と思った谷底には、今まさに灰色の“橋脚塔”がそそり立とうとしていた。

それだけじゃない。 橋と道路とトンネルと、コンクリートてんこ盛り作業中だった…。


なんかあの橋脚の眺めは、最近テレビにくり返し映し出されていたものとソックリだが、ここは“大丈夫”なんだろうか…。




これは傍にあった「完成予想図」をもとに私が作成した、水没風景の想像図だ。

この「利賀ダム」は、国土交通省が事業中の多目的ダムであり、目的は洪水調節、水量の安定化、工業用水の確保の三点。

ダム堤は高さは110m長さ290mの予定で、まだ本体工事には着手しておらず、今は専ら工事用道路の建設が進められている状態である。

完成後は、豆谷ダムを完全に水没させる一回り大きな人造湖が出現することとなり、その湛水域は利賀村中心部よりも上流に達するが、もともと谷底に集落がなかったのか、大がかりな集落移転はないようだ。

しかし、右図を見てもらえば明らかなとおり、完成後は全く利賀村の風景は一変することになろう。
それは必ずしも“景観悪化”ではなく、もっと美しい風景を生み出すかも知れないとは思う。
もとが良いだけに…。

まあ、風景が変わってしまうのは基本的に残念だが、村が「是」とするなら外野がどうこう言うべきではないだろう。

なにせ、あの『利賀村誌』にはこんな風に書かれている。

村は建設省(現、国土交通省)に陳情し、草嶺地内での利賀ダム建設誘致に成功した。

なんと、このダムは村が欲しいと国にお願いした事が、建設の発端となったらしい。
話に良く聞くのとは、まったく逆だ。

それでは、なぜ村はダムを欲したのだろうか?
その答えと取れる内容が、すぐ次に書かれていた。

同ダムの計画では、国道156号の栃原地内から分岐し、役場前で国道471号に接続する工事用道路が新設されることになっている。
この道路はトンネル3ヶ所と橋梁2ヶ所を含み、総延長は9.3km、幅員は7.5mである。
積雪や凍結のないトンネル区間は5.5kmで6割を占め、残る区間も万全の雪崩・落石対策が施される。
ダム工事完了後、この路線は一般に開放され、国道471号に代わって村の幹線道路となる予定である。


これじゃまるで、道路欲しさが動機みたいだ。
でも、このダムに関してはこれしか書いてなかった(笑)。

右図は、「利賀ダム工事事務所サイト内の工事情報ページ」などをベースに作成した、上記の工事用道路(将来の国道471号バイパス)計画図である。

地図を見ると、本当にもの凄いハイスペック道路…。

つうか、今まで私が辿ってきた旧道は当然としても、新道(現国道)でさえもゴミのように思えてくる道。
…ほとんど全部トンネルじゃないか!
しかも、1号トンネル(2.2km)と2号トンネル(2.8km)なんか、洞内分岐で外に繋がっているだけで、実質的には一本(5km)のトンネルである。
3号トンネル(1.1km)だって決して短いものじゃない。
これまで、“三本のルート”ということに意識を照らしてやってきたが、実際にはこんな次世代の道がすぐ足元に迫っていたのである。
今思えば、西岸林道が再整備されて廃道から復していたのも、この工事が原因だった。

確かにこれが出来れば、利賀と庄川は文字通りの隣町感覚で交際できるようになるだろう。


その時も利賀は秘境と呼ばれるだろうか。
或いはそんなものは、とうの昔に願い下げということなのか。

普通はそうだよな……。


なお、これを書いている時点では、押谷トンネル(0.9km)が完成しているらしい。
また、国道156号側の工事も始まっているのを確認している。
本当に完成するんだろうかという疑いを、私はまだぬぐい去れないが…。





次回、いよいよ利賀村中心部が出現。


「偏執狂」を自ら名乗ったのは、いったいダレだ??