道路レポート 横須賀十三峠 第1回

公開日 2009. 9. 8
探索日 2009. 1. 3

「明治工業史(土木編)」は、昭和4年に工学会(現在の日本工学会)が刊行した、明治期の土木全般を俯瞰した大著である。
この本の特に良いところは、全体的に平易な表現がされていて専門家でなくても読み進めやすいところと、“最古”や“最大”などといった、一般人の興味を意識した記述がふんだんに取り入れられているところにあると思う。
まさにオブローダーにとってはお宝ものの書物だが、現在は「土木学会附属土木図書館」のサイトでPDF化されたものが公開されている。

そしてその34p(右図)に、明治期の国道の道路勾配について次のような記述がある。



国道の勾配は三十分1の既定なれども、是亦(これまた)実際の道路は急勾配のもの多数にして、殆んど既定に合するもの無しと称するも過言に非ざるなり。此の処に最も急勾配を有するものを記すれば、横浜より横須賀鎮守府に至る路線には二分一、又横浜より箱根に至る路線、小田原町より長尾峠に至る路線、松山より八幡浜に至る路線には共に三分一(略)処あり。


ここで語られている「国道」というのは、明治18年以降に内務省が「国道表」として指定していった全60路線の主要道路網のことである。一般には「明治国道」などと呼ばれているものだ。
そして、そのうち横浜と横須賀鎮守府を結ぶ国道に、全国道中で最も急な勾配があったというのである。
これに驚かない人は少ないだろう。
「全国」といえば険しい山岳地帯が色々と有ったわけで、そのなかで横須賀が最急だったとは、俄には信じがたい。


この“旧国道”を紹介する前に、まず「2分(の)1」を、理解してみよう。



耳慣れた道路勾配で表現し直せば、
 2分1勾配=50% となる。

ちなみに角度なら、26.6°だ。


50%などという道路勾配、ちょっとイメージ出来ない。
私がいままで体験した中で急な車道だと思ったのは、どこだったろう?
まず廃道を除いて、しかも出来るだけイメージが共有できる所となると…、

例えば“酷道”として有名な「暗(くらがり)峠」だろうか?


大阪府と奈良県を結ぶ暗峠(国道308号)の大阪側は平均勾配が20%近くあり、最急勾配は37%などといわれている。
そしておそらくはこのあたりが、一般の自動車が走行できる限界に近く、(脚力ではなく重心的に)自転車の限界でもある。

しかし、横須賀にあった坂道の勾配は50%。
暗峠よりさらに4割近く険しいということになる。

そこから導き出される結論的推論としては…

 2分の1勾配路は、車道ではないだろう。






横須賀の古い地形図を見てみよう。




図中に赤く示したのが、「東京ヨリ横須賀鎮守府ニ達スル路線」として、明治20年に国道へ編入された「明治国道45号線」の一部である。東京〜横浜(桜木町付近)を明治国道1号と重複し、そこから横須賀鎮守府(現在の横須賀市稲岡町付近)までを単独の区間としていた。
これを現在の道路に対照すると国道16号に近いのだが、部分的には異なるところが多く、中でも田浦と逸見の間に「十三峠」と呼ばれる山越えの道があったのは大きな違いだ。

しかもよく見ると、この十三峠の区間の道の描かれ方は「片側破線」、すなわち車両交通不可能な道であったことが分かるのだ。

この明治国道45号は、大正8年の(旧)道路法制定に伴う路線の再指定によって、新たに(大正)国道31号(横浜〜横須賀鎮守府)へと切り替えられた。したがって、この旧地形図に描かれているのは大正国道31号ということになるが、この図の範囲においては明治国道からの大正国道へと切り替わる際に、大きな路線変更はなかったようだ。


比較のため、次に現在の道路地図帳を見てみよう。



オレンジ色に描かれているのは、もちろん現在の国道16号。
首都圏でも屈指の通行量を誇る幹線道路である。

そして、田浦〜逸見の間の道は2本に分かれて多数のトンネルを連ねており、内陸へと十三峠に登る道は、とうに国道の座から陥落していることが分かる。
そればかりか、もはや十三峠のあったあたりには何ら幹線道路が有りそうには見えない。(横浜横須賀道路がかすめていそうだが…)


しかし、諦めず地図の縮尺を上げて見ていくと、「明治国道」の線に合致する道は、いまも街路として現存しているらしいことが見えてきた。

次にその「擬定明治ルート」を、上の地図に赤い破線で重ねてみる。


これが、今回紹介するルートである。

このなかに、50%勾配が眠る……のか。



なお、この十三峠越えの国道が、現在のように海岸沿いの“トンネル連続ルート”へと切り替えられたのは、一連のなかの最後のトンネルが開通した昭和3年である。(トンネルの複線化はその後、戦中から)

また、田浦〜逸見〜横須賀のルート変遷については、以前のレポート「吉倉隧道」の冒頭(前書き)にも詳細な記述があるので、先にお読み頂くと、より本編が理解しやすいかと思う。




それではそろそろ、東側(逸見)の“旧国道”分岐地点へ参ろうか。




由緒ある明治国道の末裔


2009/1/3 12:04 《現在地》

ここは、横須賀市西逸見(へみ)一丁目の汀(なぎさ)橋交差点。

まっすぐ行くのが昭和3年に開通した現在の国道16号(当時の路線名は「(大正)国道31号」)で、直角に左折する「大型車進入禁止」の道が、それまでの国道ということになる。

そして、この角には一本の石造の道標が残っていた。




大勢の手や臀部で撫でられ続けた証しか、上面を中心に角の取れてコンニャクみたいになった道標石だ。

正面には「安針塚山へ約十一丁」(11丁≒1.2km)と記されている。
また、裏面には大正10年の年号がある。

この道標石については後ほど詳しく説明するが、碑面の通り大正10年に設置されたものだ。
当時既に、現在の国道の前身となるルートは、海軍水道トンネルを利用した道路として開通していたようだが(大正10年地形図より推測)、その全てが道路用トンネルとして拡幅され、国道が正式に換線されたのは、前述の通り昭和3年である。

しかしまた、既に主要な交通の流れは国道になかったということも、この道標は教えている。
行き先表示が、近場の観光名所「安針塚(あんじんづか)」のみなのは、幹線道路としては不自然なのである。




この逸見は古くから横須賀の玄関口として栄えた地区で、山手へ放射状に広がった道が集まる、扇の要の位置にある。

現在の国道から左折した明治国道は、即座に三本の同じくらいの幅の道に分かれるが、正解は真ん中の道である。




この探索日は1月3日ということで、多くの個人商店はシャッターを閉めていた。
普段はもっと活気のある商店街なのだと思う。
かなり密集した家屋連担区間が、谷戸の奥まで続いている。




平坦な道を200mほど進むと、小さな十字路を通過する。
この一角を占めるのが鹿島神社で、冬枯れの明るい境内には、微かに煙の匂いが漂っていた。
なんとなく赤白の巫女の衣装を探すも、それは叶わず、赤ら顔のおじさんの視線を背に先へ進む。

なおこの鹿島神社は、明治28年に横須賀軍港拡張のため移転してきたとのことである。

直進して、京急のガード下へと近づくと……。







ギョ!

マジかこの登り?!




ふぅー。 違った。

ガードをくぐってみると、目を見張る急坂の手前に鋭角な分岐が現れ、地図を見ると急坂へは向かわない方が「明治国道」だと分かった。

あのいかにも無茶な道は、昭和の過剰な宅地開発の匂いがする。
おそらく20%は有りそうな急坂だったが、君子危うきに近寄らずの例によって、ここは回避した。

もっとも、問題を先送りにしただけという感が、なきにしもあらずだが…。




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再び細い路地。

ガードのあたりから、登り坂が目に見えてきた。
また、前方には日光を満面に浴びて輝く山壁が突出し始めている。
遠からず、この谷戸(やと、谷底)も山に呑み込まれるのだろう。

小さな「西逸見公園」の角に、白い標石が立っていた。
側面にある「東京湾要塞第一区地帯」「第七号」の文字は、いかにも定規を押し当てて書いたような威圧的な字体。

これは昭和16年に海軍省で建てた要塞地帯の境界標で、中でも「第一区地帯」は守るべき施設(この場合は横須賀鎮守府か)に最近の範囲を示しており、立入や写真撮影などに種々の制限があったのだという。
明治国道とは直接関係ないので深入りはしないが、横須賀にはそこかしこに軍の痕跡が残っている。




むっ!
隧道出現?!


いや、それよりも…!




キター!


明治…階段国道?

明治階段国道だ!!

ミシマーミシマー、わっしょいしょい。
横須賀にも階段国道があったぞ。
なんか嬉しいぞ。
しかも、ちゃんと通学路の標識があったりして、現役の「市道」になっている。




この魅力的な景色の前では、前座にもならない似非煉瓦トンネルだが、目立って仕方がないので紹介しておこう。

これは横須賀市が防災を主眼に近年建設を進めている、谷戸集落の奥地同士を結ぶトンネルのひとつである。
名前は「西逸見吉倉隧道」といって、全長は250mくらいである。





12:14 《現在地》

目の前の階段が、ウワサの2分の1勾配なのだろうか?
それとも、もっと先に険しいところがあるのだろうか?

どちらにせよ、ここから始まる十三峠の山越え区間。

仕事やレジャーで横須賀を訪れたことのある人は多いと思うが、余り知られていないと思う、横須賀の、古い、裏山と、住宅のある風景。
車道にはなれなかった明治国道の風景を、次回はご覧いただこう。